まだまだ、まともな生活が送れない日々が続いています。そして、皆さまの励まし、ありがとうございます。先ず、御礼を申し上げて、それから、ご報告も。
このたび「怨讐星域」が、2016年度の星雲賞(日本長編部門)をいただくことができました。うれしいです。星雲賞はSFファンが選ぶ賞。批評家などではなくファンの皆さんに投票していただいた、支持された、ということが何よりうれしい。
ありがとうございました。
星雲賞は短編部門では何度かいただいているのですが、長編は初めて。うれしさひとしおであります。
ふと思い出しました。
実は1991年に熊本を台風19号が襲いました。ボウリングであればまさに、ストライクコース。しかも最大瞬間風速が50メートルを超えました。わが家は半壊。まるで、雨月物語の幽霊が出る廃屋のようになりました。忘れもしません。唖然としていた私のところに、「サラマンダー殲滅」で日本SF大賞が決まった旨の連絡が入ったのでした。
そして、今年。熊本地震で半壊したわが家で受けた、星雲賞長編部門受賞の連絡。
世の中には、不思議なバランスがあるのだろうかと思いました。天災に見舞われるたびに賞をいただくという、奇妙さ。
偶然でしょうか?
そう考えると、阿蘇山がカルデラ噴火して熊本市が溶岩に飲み込まれたら、私はノーベル文学賞をいただけるような気がしてなりません。
ま、それが、ご報告でした。
で、被災後の私にどんなことが起こったのかを記憶の糸を辿りつつ書いておこうと思います。
いろんな義援の品をいただきました。当初、いちばんありがたかったのは、ペットボトルのミネラルウォーターでした。生活水も必要ですが、米を炊くにも、ラーメンを作るにも、とにかくペットボトルの水。何が必要ですかと尋ねられたときには「水を送ってください」とお願いしていましたね。
で、渋滞に捕まらないように温泉に朝早くでかけたとき、体重計に乗ってびっくりしました。
さぞや痩せたかな、と思ったら体重が増えていたのです。なぜ?その頃、やっとコンビニが営業を始めていたのですが、ほしい食料はすぐに売り切れてしまいます。やっと手に入ったもの、送っていただいたものを食べて空腹をしのいでいたのですが、わかりました。パックに入ったご飯。インスタントうどん。インスタントラーメン。炊き出しのお握り。
みんな炭水化物じゃないか。炭水化物ばかり食べていたら、そりゃあ、肥るはずだよなあ、と納得。
半壊のわが家を建て替えるのに、まずとにかく被災して使えなくなった家財を捨てねばなりません。屋根から落ちて割れた瓦、部屋中に散乱した土壁、壊れた家具や電化製品。それらを、とりあえず庭に出してゴミ捨て場へ運ぶ。ほんとうは熊本市には決まったゴミだし日があるのですが、この頃だけは被災ゴミならいつでもゴミ置き場においていいということになりました。
それで、わが家のゴミをゴミ置き場に持ち込みます。で、日を追うごとにゴミ置き場は大変なことに。ゴミはどんどん増殖していきます。しかし、わが家界隈にはまったくゴミ収集車がやって来ない。ゴミ置き場は道路沿いですが、ゴミが溢れかえり、自動車が1台やっと通れるかどうかという道路事情に。そして、わが家の石塀沿いはゴミ置き場ではないのですが、どこかの誰かがそこにゴミを置いた途端に、ゴミで溢れかえってしまいました。つまり、わが家から四方八方がゴミだらけ。ゴミの量が多すぎて、処理場がパンク、処理施設そのものが被災と、踏んだり蹴ったり状態。途中にゴミは出すなという迷彩時期までありました。町内会長さんですかね、ボール紙に赤いフェルトペンで「ゴミ捨て禁止」と書いて掲示。誰も守らず「お願い。ゴミは出さないでください」と懇願の文面。それも効果なく「ゴミは出すな!」と怒りに変わる。悲痛さが伝わってきたのもです。
今、考えれば、まるで嘘のように思えます。しかし、あの時点ではゴミは今年中に消えないのではないか。そんなイメージさえありました。
避難所ぐらしをせずに済んだのが幸いといえば幸いです。その壮絶さは、友人から体験を聞かされてぞっとしたものです。それはそうでしょう。いろんな年齢の、いろんな立場の人がひとつ屋根の下で、最初は仕切りなく過ごしていたのですから。とんでもないストレスだったろうと思いますよ。私だったら耐え切れず、車上生活をしていただろうなあ。
さあ、そんなことを言っても始まらない。役所に行き、罹災証明をとり、それから半壊のわが家の再建に入ります。このエッセイが読まれるのは、解体が始まった時期ですね。
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第140回 ただいま復興中!
早いものです。
震災が4月中旬でしたから、もう2ヶ月以上経過したのですね。
震災から数日のことを思い出そうとすると、あれは夢だったのではないかという想いになるほどです。
わが家の塀は崩れ、土壁は落ち、柱には亀裂が走り、家屋そのものが歪んだままです。そっと廊下にパチンコ玉を置いてもコロコロ転がり去ってしまします。もう、この家に住むのは無理か、と思いました。
一応、念の為に業者の方に元の状態に復元できるかどうか見積もりをお願いしました。
「柱を入れ替えて、家の歪みを修正して、土壁を塗り、畳を替えて、屋根瓦を積み直して、だいたい3,000万円というところでしょうか?」
目玉が飛び出しました。わが家は木造で、とにかく古い民家です。昔から幽霊が現れていたほど。シロアリに何ヶ所も侵食されていますし、台風のたびに、おろおろはらはらの家屋です。今回の地震の修繕を全て終えたところで、秋の台風でダメージを受けるリスクにも脅えなければならない。
3,000万円の被災か。へなへなと膝が崩れ落ちそうになりました。
頭が真っ白になり、とにかく、半壊したわが家の後片付けの日々を過ごしました。家財はほとんど泥まみれ。壁土が落ちたからでしょうねぇ。電気製品も壊れてしまっているなあ。昼は災害ゴミをまとめ、水を求め、夜は娘のところに行き、限られた食料で生活をするという日々でした。娘一家とともに、計6人が狭い場所で長いこと生活しましたよ。しかも、ガスが出ない。水道も出ない。風呂も入れない。サバイバルとは、こういうことなんだなあ、とがっくりきました。しかし、家族全員が無事ということで”どぎゃんかなる!”という妙な高揚感も生まれました。狭い空間で毎日過ごしていると「人間、贅沢しなければ、これで十分生きていけるんだ。これまでなんと便利な生活を享受していたんだろうなあ」と考えるようになります。
後片付けの日々は、自分の人生を振り返る機会になったなあと思います。
さて、私は60年以上をこの家で暮らしています。
だから、片付けていて、掘り出される(!)層で、いろいろな世代の自分自身と再会できるのです。書庫の奥からは小学校に入る頃買ったマンガ本が大量に出てきました。手塚治虫さんのマンガは当然記憶していましたが、三木一楽さん画のH・Gウェルズ「宇宙戦争」が出てきたのは驚きました。いかに、この話が好きだったのか。続いて出てきたのは小学2年生の夏休みに書いていた絵日記。
数十年前に時間旅行ですよ。小学2年生の頃、何をやっていたかと問われても何も思い出せない、浮かばない。ところが、自分の絵日記を読み直したら、書いたときの出来事がさっきあったことのように蘇ってきました。これはタイム・トラベルだな、と。そして、母の部屋の片付けを始めたら、今度は私の小学校の通信簿が出てきた。あわ、あわ、あわ。
こんな風だから、全く片付けが進まない。今は、「とにかく棄てる!迷ったら棄てる!断捨利!断捨利!」が合言葉です。
とにかく、自家用車で出かけたら大渋滞に捕まるので、1日にやれることがほとんどできなくなる。だから、出かけるときは歩くのが一番速い。渋滞している原因は、道路が方々で通行止めになっていることと、救急車輌、災害支援車輌が全国から集まってきていることでした。ほとんど動かなかったものなあ。家が倒壊したり地面に亀裂が入ったり液状化していたり。方々にコーンが立ち黄色いテープが貼られて、「近づくな。落下します。キケン!」と書かれています。仕事場に行くときも、いつものルートでは通行禁止だらけ。直進、通行止め、左折、通行止め、まるで、熊本市内があみだクジになっているようでしたよ。
この頃、一番印象に残っているのが、頭上で飛び交うヘリコプターの爆音です。自衛隊の救援活動とマスコミ。携帯電話で話していても、爆音で聞き取れなかったなあ。
風呂に入れなくて辛かったのですが、熊本市北区植木温泉の数カ所が被災者向けに入浴無償されているというので、朝4時からでかけていました。さすがにこの時間だと、渋滞に巻き込まれません。
そして私は、温泉の帰り、車に追突されましたよ。泣きっ面に蜂だなと思ったのですが、これは私に限ったことではないことを知りました。阪神淡路地震のときのデータからも、震災後は交通事故が1.3倍増えるのだそうですよ。そんな心理状態になるものらしい。
遅々とはしていますが、復興作業は継続中です。まだ、話は尽きません。
さて、わが家の運命は次回で。
第139回 エゴサーチは怖い!
さて、自分で小説を書いてみようと思ったのは、いつ頃からだろうと考えると、相当昔の事になります。
半世紀前。
こう書いてみると自分でも、ちょいビビリました。時の流れというのは速いものです。
読書好きの子どもだったのは病弱だったため。ほとんど外で遊ぶ習慣がなかったので、布団の中で本ばかり読んで過ごしました。
選り好みなしで小説を(もちろん児童書ですが)無差別絨毯爆撃状態で読んでいき、だんだんと自分の読書の傾向が定まった気がします。J・ヴェルヌやH・Gウェルズ、コナン・ドイルの小説の面白さに嵌まりましたね。やはり、傾向はSF寄りだったかなあ。「宇宙戦争」やら「失われた世界」「地底探検」などを狂ったように読みまくりました。このとき、自分が喜ぶジャンルは何か、わかったような気がします。小説以前に映画ゴジラ、手塚マンガが大好きでしたから、そちらの方面からも決まりでしょう。
それから星新一さんの作品やSFマガジンを読むようになりました。
その辺りからでしょうか。自分に妄想癖があることに気づいたのは。
いや、最初は、本の中で描写される奇想に単純に驚いておりました。それまで読んだことがなかった大人向けSF短編小説に接するようになってからのこと。すると、あるとき、自分の内部にアイデアのようなものが。
……これ!小説になるんじゃないのか?というより、こんな話は、まだ誰も書いてないんじゃないか?
そんな思い込みが生じました。
そうすると、次の思考に移ったわけです。
……ひょっとして、この話は私が書かなければ誰も書かずじまいになるんじゃないの?
自惚れもいい加減にしろ、というか、まさしくこれは中二病の典型的な症状だと思います。そんなことで、原稿用紙を買ってきて、次々と小説のようなものを書き始めました。長編にも挑戦しようとしましたが、なにぶん、持続力がなく飽きっぽいのですぐ中断!そんなら、短編で。
短編やらショートショートやらを書きちらしていました。
自分では、大傑作を書いたつもりでしたが数年後に読み返してみたとき、なんと酷いものを書いていたのかと愕然。それでも書き上げたときの私は「ふっ!また、大傑作を書いてしまった」と思っていたものです。アイデアは幼稚。地の文に熊本弁が混ざっていて、支離滅裂。もちろん、この原稿は消えてしまいました。恥のカタマリみたいなものですから。
その後、『宇宙塵』という同人誌に入り、九州SFクラブの『てんたくるす』というSFファン誌に加わったり。結果的に『宇宙塵』に書いた「美亜へ贈る真珠」という短編がSFマガジンに転載されて、商業誌デビューできたわけですが、この作品を書いたときも私は、こう思っていたわけです。
……大傑作を書いてしまった。発表と同時に古典だな!と。
ま、脳天気の極みです。これは、若い頃の私自身の思いあがりの成せる技ですね。
しばらく休筆した後、またしても、傑作の予感がするアイデアを次々に思いつきました。そして毎夜、そして毎朝、数枚づつ書いていったのです。
書きあげるたびに、……またしても、傑作を書いてしまった、と。
そう思いこむのは、創作に携わる人なら誰にでもあることのようですね。その時代は、読者からの反応をすぐに知ることができるわけではなかったからでしょう。
時が流れ、情報の革命が起こります。個人の意見がネットに発信される時代になりました。
モノを書くなら、ネットでエゴサーチしない方がいいですよ。そんな意見を頂きました。
エゴサーチ?なんですか?と問い返してみると、ネットで自分の名前や作品を検索してみることなのだそうな。なーるーほーどー。しかし、どうして、エゴサーチしないほうがいいんだろう?
そう言われると、やってみたくなる。穴があれば、覗きたくなる。紐があれば、引っぱってみたくなる。
ちら、と自分の名前で検索してみました。わ・わ・わ。出てくる。出てくる。なんと作品レビューみたいなものまで、いろんなユーザーが書き込んでいる。見ちゃいけないと言われたのを思い出しましたが、見てしまいます。褒めてある評は胸をなでおろしますが、そこまで書くか!という、けなした評もある。その頃の私には免疫がなかったから、硬直状態になりました。エゴサーチをやるなというアドバイスがよく理解できました。エゴサーチをやるのは、ゴルゴンに戦いを挑む兵士のようなものだな。見たら石になってしまう。
あれほど自分で面白い!傑作だ!と思って書いているものが、人によってはゴミ以下の評価しかない、とは。しばらくはショックで書けなくなったほどです。
どうやって自分の中で折り合いをつけたのやら。最近では、新作の読者の方の感想をリツイートできるほどには図太くなりましたよ。
百人の読者がいれば、百通りの感受性があるよな、と思えるようになれたからかな。
第138回 体験「平成28年熊本地震」!!
もう、改めて書くこともないでしょうが、私は熊本に住んでいるのです。で、4月14日から始まった「平成28年熊本地震」の被災地にいるわけです。皆さんから「大変ですね。いかがでした?」とご心配いただき、恐縮している次第です。このコラムを読まれる方も、そのときカジオはどうしていたんだ?!と思っておられるのではないかと、今回は、地震発生の様子などを。
最初の始まり。4月14日の午後9時過ぎ。
私は朝5時に起床し、花岡山を散歩する習慣があるので、午後10時には眠りにつきます。
それは、読書をしていて目が疲れてきたので、本を置いたときでした。
何が起こっているのだろう?全てが軋み、揺れているような。近くにあった携帯電話が緊張を煽るように「地震です!地震です!」と繰り返し始めて、やっとこの揺れが地震だとわかった次第。地震が起こってから警報がなるなんてこの役立たず!と一瞬思ったものの、あまりの凄まじさに頭は真っ白でした。飛び起きても体が動かない。何か倒れ、割れる音が。地鳴りのようでもあるし、家の軋む音のようでもある。災害マニュアルで地震の際は頑丈なものの下で身の安全を確保せよ!とありますが、とてもそんなこと咄嗟にできないとわかりました。
揺れが終わってもまだ足がふらついていました。家族全員の無事を確認して被害を調べました。台所では食器が割れて散乱し、座敷の壁は崩落していました。書庫の本棚は倒れるときに全ての本を吐き出していました。
テレビをつけると地震速報が。震源は熊本地方の益城。そして「震度7」と。耳を疑いましたよ。あれが震度7の揺れだったのか。
と呆れた瞬間、次の揺れが来ました。
「余震だ!」このときは震度6だったのです。
もう、家の中で安全な場所はないと思いました。「自動車に逃げるぞ」
その夜は暖かかったことが幸いでした。車中で緊張から開放されました。もう上から落ちてくるくるもののことを心配しないでいいんだ。明日は一刻も早く復旧作業だな、と。
翌朝は一日を地震処理にあてました。台所を片付け、割れた食器を袋に詰めます。本棚を起こしました。一日ですべての復旧ができたわけではありません。しかし、何とか寝泊まりするだけのスペースを確保しました。後の作業は明日に、と休みました。滅多にできる体験ではない。いい取材をさせてもらったと考えるべきかな、と思いつつ眠りの中へ。精も根も使い果たした気分でした。
それから数時間後。あの声と揺れに襲われました。午前1時25分。
前の地震よりヤバい。揺れが激しいし、時間も長い。家族全員、揺れがおさまったと同時に家を飛び出ました。
これこそが「平成28年熊本地震」の本震だったのです。
嘘だろう?もう地震は鎮まったんじゃなかったの?そんな筈はないよ。悪い夢かなあ。
外に出ると東の空が、地上から放たれた青くぼーっとした色に光っていたのです。いつもは見ることのない光景でした。今思えば、地震光というものだったのかもしれません。
車の中でエンジンをかけて暖をとりつつラジオをつけると、絶望的な情報が次々と伝えられてきました。
阿蘇大橋が崩壊しそうだ。
宇土庁舎が危険な状態にある。
情報の一つひとつが絶望的なものでした。このときツイッターや携帯電話は通じてました。と同時にSNSではデマも同時に流れました。熊本動物園からライオンが逃げ出した、写真付きで。どんな人たちでしょうね。こんなときデマを流す人たちって。
何度も突き上げてくる揺れに、現実感がなくなっていくのを感じました。これが現実ならば、もう熊本はおしまいかもしれないなあ、と思いました。
翌朝、日が昇り、変わり果てたわが家を見てしまいました。
昨日、あれだけ日がな片付けたのに。座敷の壁と老化は崩れ、石塀は倒れて、屋内は土埃だらけ。今回は屋根瓦までも。
三途の川の辺り、賽の河原で子どもが成仏するために必死で石を積み上げる。やっと、積み上がったと思うと、鬼がやってきて元の黙阿弥に壊してしまう。そんな目に合わされたような。
ぽっきり、心が折れ、それから片付けないままです。
かろうじて、電気は通じるようになりましたが、ガスなし、水なし。風呂もトイレも使えません。娘のところに身を寄せてます。
もう立ち上がれないかもしれない、と思いましたが、私のことを心配してたくさんの方から連絡をいただきました。小学校以来の幼なじみ。何年も会っていなかった友人。定年退職された昔の担当編集の方。遠方の作家の方。
ほんとうに勇気づけられました。
熊本を逃げ出さないの?と言う方もおられますが、ここは、私が生まれ育ち、一緒に泣き笑いした人たちがたくさんいる故郷です。
棄てるわけにはいきません。
「怨讐星域」という話の中で、滅びる地球に残る選択をした人々のことを描きましたが、あれと同じ心境です。熊本が大好きなのです。
励まされて、余震が続く中でも少しずつ勇気が蘇ってくるのを感じます。今は市電が走り始めたことを喜び、蛇口から流れる水に感動しています。熊本は滅びるわけじゃありません。
うちひしがれたのは私だけじゃない。皆と一緒にもう一度ガマだそう。そう思えるようになった自分のしたたかさを褒めたくなっているところです。なあに、カラ元気と作り笑いは、大の得意技ですから!
第137回 エッジのきいた……
ものを書いていると、いろんなタイプの注文を頂きます。長編の小説だと割に自由な場合が多いのですが。
短編の依頼の場合は、反対に、いろんな制約があります。まず、枚数から入るのは当然ですね。指定された枚数で話をまとめあげなくてはなりません。これは、最低限の条件。そして、掲載される書籍に応じた話を組み立てる必要があります。主婦の人たちが読者層であれば、少なくとも秘境で魔物に襲われるような話は遠慮します。主婦の方々だったら、どんな話に感情移入して頂けるかな?と検討を重ね、違和感なく、かつ、びっくりして頂ける話を考えるようにしています。
この間、人工知能を研究される学会の会報に短編を書いたのですが、これは結構難しかった。この雑誌は人工知能を専門に勉強、研究しておられる方々が読者なわけだから、人工知能については全く素人の私が専門的な話を書いても笑われてしまう!だが、人工知能がテーマの短編と条件が付いていると、その制約も果たさなくてはならない。無理なら断るという選択肢もあるのですが、私は出来ませんとは言いたくない。プロだという意識もありまして。で、書き上げましたが、人工知能の専門知識は全く無視したお話にしました。私は正直、科学知識ゼロの文系SF作家だと開き直っています。だから、惑星開発のときに惑星そのものに人工的に知能を与える話……ソラリス化というか……でっちあげました。それで人工知能……。
で、他にも、短編をお受けするときは、条件がついてくる場合が多いようですね。テーマがついてくることとか。時間テーマで、とか、ミステリアスな雰囲気のものとか。
そんな感じ枚数を指定して頂くと、一番ありがたいですね。
それに、編集さんの好みでプラスアルファの要素が付いてくることがあります。
泣ける話にして欲しいんです。
感動できる話希望です。
意外な結末でお願いできれば。
いつも感動させることができているか、よくわかりませんが、できるだけご希望に沿えるように頭を捻っております。
そんな中、最近頂いた注文で、テーマをお受けした後に編集の方が仰言いました。
「あのぉ。編集長からの要望ですが」
「はい。なんでしょうか?」
「エッジのきいた話を頼みますとのことです」
「はぁ?エッジですか?それ、どんなんですかねぇ」
物書きのくせに馬鹿な質問をする奴だとお思いでしょうが、ピンとこなかったのです。
「私もよく掴めないんですが。最近言いますよね、エッジきいてる!って」
電話を切った後に考えました。エッジって刃のことだよねぇ。エッジが効いてる?エッジが利いている?どっちなんだよ。
エッジを調べてみました。サーフボードの先端とか剃刀の刃とか出ますが、どういう意味かうまく掴めません。刃が尖っているから、とんがった話なのかな?それともキレの良い話?わからない……。
で、どうしたかというと、わからないままに短編を仕上げました。これなら尖っていて、キレが良いかなって。自分なりに精一杯。
原稿を送ってしばらくしてゲラを戻して頂いたときに話しました。
「あのー。エッジきいてましたでしょうか?」
「ええ、カジオさんの今までにないタイプの話で、エッジきいてるそうですよ?」
???
そんなわけでエッジがきいてるっていうのは、今でもよくわからずにいるわけですが、でも、注文をこなすことはできたんだ、とほっとしております。
すると、さあ、なんでも来い。どんな注文でも書けてしまう気になってしまいました。すろと、来た、来た、……。
「キャラの立ったものを書いて頂けませんか?SFでも、そうでなくても構いませんから」
そんな注文が入りました。
は?また、わけわかんないことを。
これも聞いたことがなかった。キャラというのはキャラクター、つまり登場人物のことだよなぁ。
イメージを膨らませます。登場人物が魅力的で記憶に残るということを言っているのではなかろうか?あるいは鳥肌が立つような悪役とか、腹が立つような仇役とか。
アニメ好きな知り合いが、確かに「キャラが立ってる」と言っていたのを聞いた気がします。しかし、注文でキャラが立ったものをと言われたのは初めてです。
「キャラが立った……仇役ですか?あまり、悪人は書けないのですよ」
すると「エマノンなんて十分にキャラ立ちすぎですよ」と。
「ああ、なるほど」もちろん、わかったフリで答えました。
エッジがきいた!キャラが立った!さあ、次はどんな理解不能の注文が飛び込んでくるのか?
ええ。どんと来い!ですよ。
第136回 新刊「杏奈は春待岬に」が出るよ
久々の書き下ろし長編を出しますので、気分が高揚しております。
躁状態で嬉しいから、このエッセイでも取り上げることにしました。
この書き下ろし長編は5年前に出す予定になっておりました。
私は1971年に『美亜へ贈る真珠』で商業誌デビューを果たしたのですが、この書き下ろし長編を担当していた編集さんが、「今年出版できたら、〈梶尾真治、作家40年記念〉と帯に入りますよ!」と仰言ったことを記憶しております。アイデアも浮かんでないのに「がんばります。代表作にします」と大言壮語したのを、はっきり覚えていますから。
で、他の締め切りが来るので、それをこなしていたり、う、う、う、アイデアが出てこん、と壁に頭を打ちつけていたら、その年に書き始めることはできませんでした。
私は悪くない。出てきてくれないアイデアが悪い。
やっとアイデアが出てきたのは天草を訪れたときですね。家族旅行で、夏場に海水浴ができるところへ行こうということになり、天草は下島の富岡へ。こちらに宿泊してのんびり。私は早朝一人で近所を散歩しました。
富岡は、苓北町の入り口で東シナ海に突き出た形をした半島です。最先端まで歩くと、そこは公園になっています。駐車場の上に細い道が斜面に沿って続いていました。斜面には鉄砲百合が咲き乱れていて、素直に「いい場所だな」と関心しました。
そして看板。
〈四季咲岬〉
そういう場所だそうです。この岬は四季を通じて花を楽しむことができることを知りました。春には春の花、夏には夏の花……。咲く花々が看板に紹介されていました。そして思ったのが、四季咲岬……いいネーミングだなあ。まるで歌か小説のタイトルみたいじゃないか。他に、どんなネーミングが素敵かな?
突然、「春待岬」という文字が”見えた”気がしました。
「春待岬」と口にすると、不思議にも話がスルスルと浮かび上がってきました。
そのとき、物語の3分の2は出来上がったのです。登場する女性の名もそのとき決まりました。
物語を作るときには、シャープペンを持ち、プロットと登場人物を紙に書き込んで、ああでもない、こうでもないと組み立てていくことが多いのですが、こういう不思議な経緯もあるのですよ。プロットが頭の中で出来上がると、書き始めるまでに発酵現象が起こります。頭の中のプロットは無意識下で、ああでもない、こうでもないと、勝手に変更が加えられていく。これを私は発酵と呼んでいるのです。
そして、書き始めるまでに編集さんにプロットを伝え、それからまたしてもほったらかし。
また、時間が経過しました。編集さんからGO!の返事を頂いているのに。書き下ろしって、こうなんですよ。
なかなか書かないから、編集さん怒っているかな?と恐る恐る尋ねます。
「怒ってませんか?」すると。
「お待ちしております」ひえええぇ。
書き始めました。あれからかなりの時間お話を頭の中に寝かせていたから、すごく”発酵”しているかな。”発酵”じゃなくて、ひょっとしたら”腐敗”しているかもしれないけれど。
なんと、腐敗も発酵もしていない。あのときのまま。こんなことは、あまりありません。
書き始めました。
書き上げたのが昨年5月。タイトルは「杏奈は春待岬に」
どんなお話かというと、まず、SFです。そして、時間テーマです。
私が商業誌にデビューすることになった「亜美へ贈る真珠」も時航機なるものが登場する時間テーマです。
今回のタイトルに出てくる杏奈という女性にも、時間の呪いがかかっているのです。
処女作と最新長編が同じ時間テーマだなんて、梶尾って40年経っても、ちっとも進歩しないんだな、と思われるのは覚悟の上です。
だって時間テーマ、好きなんだもん。
それに、時間テーマもいろいろ書き尽くされていますが、この描き方はなかったろう!という新しい視点を入れています。この発想があったから書いたのですよ。
編集さんに言われました。
「このタイトルだったら、出版は春でしょう」と。
なるほど。だから、それから1年近く熟成させて、桜の花の咲く3月に出版というはこびに。
皆さまよろしくお願いします。
「杏奈は春待岬に」新潮社刊、3月下旬発売です。
第135回 ポスト・恵方巻き
一度このコラムでも扱いました恵方巻き。私が不幸のどん底に突き落とされたというお話でしたが、覚えておられますか?
その年の恵方を向き、のり巻きを丸ごと一本食べると縁起がいい、というのが恵方巻きの由来です。そして、いつ食べればいいか、というと、節分に食べる。
その年は、節分が日曜だったので、山へ登りました。360度見渡せる頂上で、コンパスで恵方を確認してから、一言も話さずに(ここ大事らしい)のり巻きを食べたのです。
ところが。
下山して、自動車まで数メートルというところで転倒。小指を骨折してしまったのでした。あれから、恵方巻きイコール小指骨折という忌まわしい記憶が私に刻まれたのでした。
以降、一度たりとも呪われた恵方行事はやっていません!昔であれば、節分といえば豆まきくらいでしたが、今は正月明けとともに恵方巻きの予約を方々でやってますものねぇ。十年前までは、恵方巻きの存在さえ知りませんでしたよ。
どこかでバレンタインまでの消費者操作の陰謀が働いているだな。
そう思い当たって考えてみました。
ふと思い出したことがあります。動物行動学者のドーキンスが言いだしたミームという概念です。
動物が肉体的に進化していくように、情報も進化するという考え方といえばいいのかな?音楽や言葉が流行るのは、心の中のミームが拡散していくからだ、というものです。
ミームをどう訳すとしっくりくるのかわかりませんが、模倣子という訳もあったりしますね。強いミームというのは、強い伝染力を備えたものだということです。ある時代を迎えた途端、爆発的な伝染力をしたりするのもあるでしょう。
一番最初に思いつくのは都市伝説ですかね。子どもたちの間で、テケテケや人面犬、そして口裂け女の存在があっという間に日本中に広がりました。しかも、これはテレビやラジオなどのマスメディアではなく、口コミという一番原始的な伝達方法で拡散繁殖したものですね。インターネットなど、まだ存在しない二十世紀のことですからね。いかに、伝達力の強いミームだったかということですね。子どもたちの口コミの力の強さは、昔からですね。幕末のおかげ詣りも、強力ミームのひとつということができるのではありますまいか。
どうも、このミームを人工的に生み出し、利用するシステムが最近開発されているのではないかと思えてなりません。
十数年前までは、日本では縁がない遠い国の風俗であり習慣であったものが、伝染力の強いミームとしてこの数年で拡散したものがあります。
ハロウィンです。
ケルトの祭りで悪霊払いの日。キリスト教徒も距離を置いていたイベントですが、アメリカでは子どもたちに大人気で脈々と続いていました。お祭り好きのアメリカ人の間では、仮装イベントとしていつの間にか大人も巻き込んで発展していたのですが、ある時を境に、ハロウィン・ミームが日本にも入り込んだようですね。カーペンターのホラー映画「ハロウィン」やハロウィンが物語に登場する「ET」が上映されても、日本では、ハロウィン?何それ?という受け取られ方だったのに。
三年前くらいからですよね。ハロウィンのコスプレが若者の間で爆発的に広がったのは。
それまで、全く増殖しなかったハロウィンのミームが拡散したのは、理由があるような気がします。
先にも書きましたが、恵方巻きからバレンタインに至る手法をミーム・ウィルス培養法として確立し、ネット社会で効果的に操作している存在がある。
私たちが、いや消費者が気まぐれで、何事にもすぐに飽きてしまうようになっているということです。昔ならクリスマス、お正月からバレンタインでよかったものが、イベントに集中できる時間がやたら短くなってしまっている。だから、クリスマスの前にハロウィンを入れこみ、お正月の後に恵方巻きイベントを押し込んで、バレンタインというミームを小刻みにばら撒くということでしょう。
さて、私たちがもっと気まぐれで飽きっぽくなれば、もっとイベントが必要になってくるでしょうね。次は何かな、と予想してみたら、ありましたよ。
節分お化けというイベントです。
日本では、節分の夜に老婆が少女の髪型にしたり、少女が大人の姿をしたり、いつもと違うコスプレをして寺社詣りをすることをオバケと呼ぶそうです。昔、花街あたりでは盛んだったということで、これこそ日本のハロウィンではありませんか。次にミームをばらまく業界の方々が目をつけるイベントは、「節分オバケ」と睨みました。当たるか、どうか。
第134回 お正月は花岡山へ
あけましておめでとうございます。一年が巡るのは、早いですねぇ。
お正月と言えば、まず私が連想するのは、まさに極私的なのですが、花岡山です。
花岡山というのは、私が住んでいる熊本市の里山です。ちょうど熊本駅西に位置する、仏舎利塔が山頂に見える高台といえばいいのかな。
子どもの頃から、何千回登ったことになるのだろう?今も、三月から十一月の間は、朝の五時から山頂まで散歩するという日課を続けています。(冬期の起きぬけ散歩は、早朝血圧だから体に良くないということで家族に禁止されています。十二月から2月までは昼前後ですね。)だから、とても愛着がある山なのです。あまりに愛着がありすぎて、私の小説の中でもたびたび登場させる程です。
『OKAGE』では、巨大津波から逃れるために登場人物が花岡山へ駆け登ります。『つばき時跳び』では、主人公が江戸末期からタイムスリップしてきた女性つばきと、山頂までの散歩を楽しみます。『消失刑』でも、犯罪を起こして消失刑を受けた主人公が彷徨って辿り着くのが、花岡山です。
山頂には、仏舎利塔やお寺があり、さまざまな石碑があります。散歩するときも、いろんな登山ルートの中から、そのときの気分でコースを選ぶのです。途中には官軍墓地がありますが、今は荒れ果てていますね。官軍墓地の横には西南戦争の時に薩軍が砲台を設置した場所があります。そこから熊本城を砲撃したそうですが、砲弾が熊本城まで届かなかった!という笑っていいのか間抜けなのか、びっくりなエピソードを知ることもできます。
昔、加藤清正は熊本城を築城した折に、石垣の石をこの花岡山の山頂から切り出して運んだんだそうです。当時は花岡山とはいわず、祇園山と呼ばれていたそうですが、山頂付近には加藤清正ゆかりの腰掛岩(兜岩)があります。これは清正が岩の切り出しを監督するときに腰掛けていたという岩ですが、加藤清正は直々に指揮を執っていたのかな?鐘掛け松の跡というのもあります。作業合図に清正が使っていた鐘を掛ける松の木があった場所だそうですが。山頂の西側には巨大な鳥居が立っています。これは清藤稲荷の鳥居で、この清藤大明神と緋衣大明神の兄弟伝説は、前にこのコラムで紹介したことがありますので、気になる方は、読んでみてください。
で、毎朝の日課で花岡山に散歩にでかけるのですが、最近、夜明け前に山頂までやってくる若者が増えてきた気がします。数人で日の出を待っている様子ですね。いろんなグループがいて、あまり素行が良さそうではないやんちゃな連中から、ちゃんと挨拶して静かに日の出を待つグループまで、いろいろです。なぜに、最近、若者が増えてきたのかな?日の出がきれいだから?とぼんやり考えていました。すると、あるカップルから挨拶され尋ねられました。「毎日、散歩するんですか?」「花岡山って心霊スポットなんでしょう?何か変わったことって今までありませんか?」
「ええっ!?」
以前にも書いたことがありますが、何か訳の分からない気配を感じたことが一度と、花岡山の散歩から帰ったら変な球体の発光を目撃したくらい。でも、そんなことをいう訳にはいかないな、と。「えっ?そんな噂があるのですか?心霊スポット?」
ネットで見たと仰言る。
帰ってチェックしたら……そうなんだ。映像までバンバン出てきて、花岡山は心霊スポット!行っちゃいけない、不気味な場所になっているではありませんか。
いわく、花岡山山頂へ彼氏とクルマで行こうとしたら、何度行っても吸い寄せられるみたいに巨大な赤い鳥居に着いてしまう、と。おまけに呪われたように頭痛まで始まった、と。
へぇー。そうだったのか?よほどの方向音痴の方だなあ。右折個所がわからず同じ場所で直進してしまったのですね。夜だからなあ。
それから山頂に女性の幽霊が出るという記述もありました。キリシタンの処刑された遺体が埋葬されているから、と。あ、写真を見たらこれは官軍墓地、薩軍砲台跡の横だぞ。私は昔から、夜開け前散歩で彷徨いてますが、一度も、怪異に出会ったことはありませんが。
しかし、花岡山が、私の知らないところでどんどん心霊スポットとして著名になっていったとは複雑な心境です。
今回は書きませんが、花岡山には、もっと面白いこともあるんですがね。
で、お正月になると、初日の出を拝むのは、この花岡山山頂で決まり。
いつもの夜明けであれば顔ぶれが決まった人数ですが、元旦の朝は、初日の出狙いで花岡山山頂は立錐の余地もなくなるのです。
さあ、今年の初日の出はいかがでしょう。(と書いている今は、まだ年の瀬なのです。晴れたらイイなあ)
第133回 本当は怖いイノシシの話。
私は干支が亥なので、イノシシが話題なると、耳が大きくなってしまう傾向があるようです。つい愛着が湧くというか。
だから、西遊記の中でも豚の化物だけど猪八戒が、一番好きなキャラクターだったりします。食いしん坊だし、好きものだし、戒めなければいけないところが沢山あるところも共感持てますし。
なぜ、急にイノシシのこと思い出したかというと、先日、福岡と佐賀の県境の山である背振山で、もう九州には存在しないはずのクマの目撃情報が連続したから。まず頭に浮かんだのは「イノシシをクマと見間違えたのではないか?」ということです。
私は暇があれば山の中を歩いている人間で、イノシシに遭遇したことがあるのです。場所は南阿蘇の外輪山。地獄峠から駒返峠へ移動していたときのこと。稜線伝いをとろとろ歩いたのですが、途中で道の左右が深く木々で覆われたところがあります。そこにさしかかったとき、右手前方の茂みががさがさっ!犬かな?人かな?と思ったら黒い怪物が飛び出してきました。そのときの大きさたるや!クマだ?!その日は曇りで、辺はすべてモノクロームな風景でした。逃げなくては、と思えども足はフリーズしてしまい身動きができない。獣がゆっくりと身体の向きをこちら向きに変えたとき尖った鼻が見え、イノシシだとわかりました。相手もこちらを見たので、突進してきたらどうしよう。噛みついてきたらどうしよう。隠れることなんて思いつかない。するとイノシシは慌てて左の茂みに飛び込みました。
そこで、あらためて恐怖が。まだ、そこの茂みで待ち伏せしてるんじゃないか。突然再び飛び出して突進してきたらどうすればいいのか?噛みつかれたり齧られたりしたらどうすればいいのか。いや、ほんとうにあれはイノシシだったのか?やはりクマだったのではないか?
もちろん、そこで山歩きは中断しました。
山を降りた後、脳内シュミレーションを繰り返しました。
必ず、杖を持って山へ行く。イノシシが私に向かって猪突猛進してきたときは、確かすぐには方向を変えられないはずだから、素早く脇に避け、杖で急所である目の下を攻める。
おかげで、随分と恐怖心は消えましたし、イノシシのことを忘れて山歩きを続けています。
しかし、山の中でイノシシに出会うって本当に怖いのですよ。
そんなことで、背振山のクマはイノシシだったに違いないと思っていたのですが、ほんとうはニホンアナグマだったそうですね。
イノシシ猟をする人に、その話をすると「怖かったでしょうね」と同情されて教えてもらったのが、イノシシ撃ちでヌタ場待ちしちゃなんねぇって話。これは他のところでも書いているから簡単に。
ヌタ場というのは山中の泥水が溜まったところ。イノシシは、ヌタ場を背中のムシを落とす風呂場として使っています。ヌタ場を見つけた猟師が近くの樹の上で銃を持ちイノシシを待っていました。するとそのヌタ場に大ミミズがいました。そこへガマがやってきてミミズをペロリ。そこにヘビがやってきてガマを呑み込んでしまいました。満腹したヘビが横になってガマを消化しているところへ、イノシシがやって来ました。ヘビはイノシシの好物。いっきにヘビを平らげてしまいました。満腹したイノシシに猟師はしめしめと銃の照準を合わせる。引き金を引きニヤリと猟師が笑ったとき、得体の知れない気配を背後で感じて、慌てて振り返ると…。
だからヌタ場待ちしちゃなんねぇ、って。
「いやあ、イノシシにはほんとうにゾッとさせられたことがありました」と仰ったのは趣味で猟をされるIさん。天草の離島の知人から「イノシシが海を渡ってきて畑を荒らして困るから退治してくれんか」と頼まれて、二つ返事で引き受けられたそうな。
畑で待ち伏せをして、二日目にイノシシが現れたので射殺したとのこと。
「よう解体できないから持ち帰ってくれ」と言われ、Iさんは愛車のステーションワゴンの後部にイノシシを乗せてフェリーに乗り込んだそうです。フェリーが海をわたる間は車を離れていて、港に着いたので車を出そうと乗り込んだとき、異常に気がついたのだそうな。
なんと、運転席の床が動いている。
何かわからないが、床が黒くなって、ゾワゾワ、ゾワゾワ。
床に指をつけて確認して悲鳴をあげたそうです。床が動いているように見えたのは無数のダニだったのでした。
死んだイノシシの温度が低下して、寄生していた体を離れ自動車の床全体に広がっていたらしい。
その話を聞いたときは、私の全身も、モゾ痒くなりましたよ。
これが、私の聞いた一番怖い話になるかなぁ。
第132回 台湾に行ってきました。
何を隠そう、私は自分でもかなりのいやしんぼだと思う。グルメといえば聞こえはいいけれど、とにかく珍しいもの、美味しいものに対して人一倍執着がある。
私の趣味の一つに山歩きがあるのだけれど、その動機として、山の頂上でグルメをする!というのがある。あるいは下りてきた登山口近くで、その土地の名物料理を探して食べるとか。久住山にコンロと鍋を持って行き、松阪牛とマツタケのすき焼きを作って食べたり、五家荘の山奥でキノコ鍋をこさえたり。山歩きの愛好者の方からは邪道だ!と罵倒されるだろうと案じつつも、美味しいものは食べたいよ。
だって、人間が一生に胃袋に入れる食べものの量が決まっているなら、可能な限り胃袋は美味しいものだけで満たしたいよね。しかも世の中が変化して、いつ美味しいものを食べることができなくなるかわからないから、食べられる間は食べておきたいな。
そんな考えでいる。
食べものに好き嫌いはない。で、最近、台湾の食は凄いよ、という話をよく耳にするようになった。中華系は特に好き。それで「エマノンの舞台を台湾にしようかな。ならば取材だな」その合間に美味しいものを食べ歩くというのはどうだろう。
そう理由づけて、二泊三日で台北に行ってきた。お昼には現地に着くから、七回は現地で食事ができるということで緻密な計画を立ててでかけた。
到着してすぐに飲茶へと走った。私は点心が入った台車をテーブルまで押してきて選ばせるのをイメージしていたが違っていた。今は写真付きのメニューで選ばせるようだ。豚の皮の照り焼き、ジューシーなチキンをパイ皮で包んであるもの、油條という油揚げパンみたいなものを薄い餅で巻いたもの。表面しっとり、中サクサクで美味しかったなあ。本来ならお茶を飲みながら楽しむのが飲茶だけれど、私の場合は台湾酒(ビール)。飲みやすい。料理に最適。そしてまたしてもミートパイ。八角風味が独特だった。皮蚕(ピータン)もよかったなあ。黄身が緑色でねっとりしている。白身がべっ甲色の半透明。マヨネーズがかかっていた。野菜は豆苗を炒めたもの。見かけは地味だがニンニクが効いていて抜群の美味しさだった。これだけで日本との食文化の違いを堪能できた。そしてお昼の〆はお店のメニューにお薦めとあった炒飯の海鮮五目かけ、かな。本当は違う料理名だけれど、こちらのほうがわかりやすい。
その夜は、もうあまり入らないな、と、夜市にでかけB級グルメを楽しんだ。地下鉄に乗って(乗りやすいし、わかりやすい。安い!日本の地下鉄のノウハウがかなり入ってるな)士林夜市に行ってみる。でも、お昼食べ過ぎてもうあまり入らない。牡蠣のオムレツとビールが精一杯かな。
翌日は、朝から裏通りを歩き、人がたくさん入っているお店に飛び込んでみた。メニュー表にある日本語を頼りに書き込み手渡す。とにかく地元の人が入れ代わり立ち代わり。人気店なんだろうなあ。蛋餅というタマゴ餅を注文。外カリカリ、中ふんわか。初めての味だったなあ。それから豆漿といってホット豆乳ドリンク。隣のテーブルで辛い薬味を入れていたから真似してみたら、結構ピリ辛で好みの味になる。さらに大根餅も。朝からよく食べたなあ。
それから、またしても移動。龍山寺というお寺に行ったけれど、特筆すべきは、そのお寺の近くの横丁で食べた「胡椒餅」なるもの。お寺の近くは人通りが凄いのに、その横丁にはほとんどだれもいない。だが一か所だけ人がたむろしている場所が。それが元祖「胡椒餅」のお店。真っ赤に焼けたでかい壺からお万十を焼いたものが次々に取り出される。それを皆、十個単位で大量に買っていく。もちろん私が買ったのは一個だけ。中にはゴロゴロと豚肉が詰まっていた。豚万十とも違う独特の食感。これは美味かった。「胡椒餅」はどこでも売っているらしいけれど、うまい店とまずい店があって、ここは美味さで評判の店だったとのこと。よかった。
さて、その夜は九に取材にでかけてホテルに帰り着いたのが夜の九時過ぎ。
ホテルの近くで食べるかと飛び込んだお店で、とんでもないものを食べてしまった。旅行中のベストの一品。潮式粥のお店。ええ、粥なんだけれど、見かけも普通で地味なんだけれど。とんでもなく美味しい。肉厚の特殊な種類の椎茸と鶏で作った粥。
ふーん。粥?
そう思って口に入れたら、舌から脳にかけてショックが走り中華匙を持つ手が止まった程の旨味全開。
粥に対する考え方がコペルニクス的転回を遂げたなあ。まさにこの体験は未知との遭遇。
この粥を食べるためだけに台湾に行ってもいいよ!
最終日は台湾料理。イカ団子や蟹のおこわやら切り干し大根のオムレツなどを食べて、いづれも美味しかったなあ。こんな満腹グルメ旅行は久々だった。中華系は贅沢料理もジャンクフードも何でもおいでみたいな気になるよ。
台湾に何か食べに行こうと誘われたら、ホイホイ乗っちゃうかも。
それからもう一つ。台湾を発つ日のこと。小銭が残ったのでホテル近くのコンビニへ行った。そこで、何やら正体不明の瓶詰めのご飯の友みたいなのを、何も期待せずに買ってみた。それを帰宅後に食べたら……なんという旨さ。食べるラー油というのが一時期流行したけれど、もっと辛いし、もっと旨味がある。小エビやら小魚の姿もわかる。ウマーい。知っていたら買いだめたのに。「五星上醤」とあったから、これから台湾に行く方はぜひメモを。ま、こんなとこかな。
観光は?どんな取材したのって?
それは作品の中でゆっくり丁寧に語るつもりなので、その時にということで。