第131回 今年もそろそろ例の季節

 8月の終わりがけ。ふっと明け方に寒さを感じることがあります。そんなときに、真っ先に頭に浮かぶのは、「そろそろキノコの季節が始まりそうだ」ということ。
 山ではハタケシメジが顔を出す準備をしているんじゃんないかな、と。
 昨年までの日記を開いてみます。日記といっても、メモ程度のものですが。何月何日にどの山へ行った、その日の気温や天気はどうだった、何のキノコが採れたか、日記に付けた記録を見るとよくわかる。記録は数年分にわたっているので、あまり大きな狂いもなくキノコをゲットできるのです。これは私の宝物ともいえるかな。ハタケシメジやらムキタケ、クリタケなどは、過去のデータとあまりぶれることはないのですが、キノコの種類によっては、全然あてにならないものもあります。見事としかいいようのない真っ赤なタマゴダケとか、ナメコとかは、記録通りに同じ時期に同じ場所に行っても、一本も見かけないということも珍しくありません。まあ、表年、裏年というのもありますからね。
 今年が表年であることを祈っておりますが。
 キノコが好きという人には、最近よくお会いしている気がします。とにかくキノコを見ているだけで楽しいからと、キノコグッズを作ったりされる方もいますね。私がキノコ好きだと聞き及んで「キノコ採りに連れて行ってください」と頼まれることも増えました。でも、実はあまり開放的な性格ではないので、いつも決まった人々と、こっそり採りにいっているのです。
 いつも一緒にキノコ採りに行っている人々は「食菌の会」と称していて、どんなキノコを採るかの判断基準は一つしかありません。「そのキノコは美味いか?不味いか?」
 私には基本的にキノコとは何ぞや、というペダンチックに研究したりする趣味はございません。
 種類はどうでもいいんです。
 そして、その採れたてのキノコを、山でいかに美味しく食べるか!の一点に神経を集中する、潔い仲間です。
「ああ。キノコ採り。今度お連れしましょう。いいですよ」と、キノコ採りに連れて行ってください氏に安請け合いするのですが、自称「食菌の会」の人々は、「ダメダメ。そんな人はいづれライバルになるんですよ。先回りして採られて、私たちが採るはずのキノコは根絶やしにされてしまうんですよ!」釘を刺すんです。
 ホントは連れて行きたいけれど、ごめんなさいネ。かつてキノコを採るテレビ番組で、山の中を歩きながらキノコを採るようすを紹介したのを見て、「何ということを!あの番組でキノコに興味を持つ人が増えたらライバルになるんですよ!」と激して糾弾されました。
「大丈夫ですよ。どの山かわからないから」といっても、「いや山好きの人が見れば一目瞭然!」と許してくれませんでした。キノコを採りにお連れできないのはそういう理由です。悪いのは私じゃない。この人たちのせい。
 ところで、キノコは健康にいいからということで、ブームになっているとか。
 多いのは「アガリクスってガンに効果があるそうですがどうなのでしょう?」という質問。いや、アガリクスとはハラタケ類の学名でして、いろんなアガリクスがある。南米のアガリクスの或る種が効果があるかもという説を聞いたことがありますが、よくわかりません。サルノコシカケもガンに効果ありと、漢方の世界で評判になったそうです。そういえばあまり聞きなれないメシマコブというのもサルノコシカケの一種ですね。長崎の離島の女島の桑の木に発生するサルノコシカケの一種が効果があったというので、韓国で培養研究が進んだらしい。現在、女島にはないそうですが。今、注目を浴びているのがシイタケ菌株らしいですよ。シイタケそのものじゃなくて、その根っこの木の中にあるのが”シイタケ菌株”
 シイタケなら何でもいいのではなくて、効果があると認められているのは菌株だけらしいのです。それも、特定の培養した菌株だけ。
 で、キノコの薬効というと、抗がん性をうたったものが多いですが、最近、認知症の予防になるキノコのことを聞きました。
 ヤマシブタケ。
「脳の元気をサポートする成分」を含んでいるのだと。へぇー?
 で、そのヤマブシタケを梅焼酎として作った製品を飲んでみました。「茸の恵(きのこのめぐみ)」というお酒。ヤマブシタケが漬け込んであるらしい。
 飲んだけど、全くキノコ臭は感じませんね。本当に認知症に効果があるかどうかは、もっと飲み続けなければわかりませんが、確かなことは一つ。
 おいしい。
 ロックで飲んだのですが、炭酸で割ってもいけるかな。
 いづれにしても私の歳になると脳機能の衰えに不安を抱えているから、ありがたい。
 副作用は、飲み過ぎることかな。
 ヤマブシタケは真っ白で、山伏が着ける胸飾りに似ているところから、そう名付けられたそうです。湯でてポン酢で食べたり、油で炒めれば美味しくいただけるキノコです。しかしまさかアルツハイマーに効果があるとは、想像だにしませんでした。
 みなさんもお試しになってはいかが?
 大事なことなので、もう一回言います。
 高橋酒造さんの「茸の恵」という秘酒です。お間違えなきよう。

第130回 『猫の惑星』が出ます

 実は、わが家には昔から猫が飼われていて、それが当たり前の光景となっています。ペットを飼う人には猫派と犬派とあるようですが、そういうことでわが家は猫派なのですね。母から孫に至るまで猫ラブなのであります。私はどうかというと、昔から猫に囲まれて暮らしていたので猫以外との生活が考えられないというか。しかも、私がベッドで横になっていると体に飛び乗ってきて「なんで私をほっといて休んでるのよ。早いわよ」と言いたげに胸の上から見下ろしたりする。
 私は完全に猫たちに召使だと思われているようです。
 孫にしても生まれたときから周りに猫がいるので、猫が大好き。
 そんな孫と話をする中で小説が出来上がるという不思議な経過がありました。
 その頃、長編小説のお話をいただきました。400枚を超える連載で、何を書いたら読者の皆さんに喜んでいただけるかを考えておりました。で、小学校高学年の孫に相談したわけです。孫が好むコミックやアニメ、ゲームはどれも評判になる前に「面白い」と言っていたので、孫のセンスは信頼できるということで。
 で、どんな話が読みたい?と尋ねると「そりゃあ、面白い話を読みたい」と当たり前のことを。
「どうやって面白い話とわかるんだい?」
「タイトルと表紙かなあ」
 表紙は、もっと後の話だし、作者はどこまで関われるかわかりません。「うーん。こっちで決められるのは、お話のタイトルくらいかなあ」
「読みたくなると思うタイトルをいろいろ言ってみてよ」と孫。
 それからは、思いつく限りタイトルを並べてみました。孫からなぞなぞを出されて次々と答えていくように。私がタイトルを言うたびに「違う!」と応えてきます。そんな状況で、孫の反応がかすかに変化したのは”猫”という単語がタイトルに入っているときでした。「殺しの猫小僧」とか「猫猫ハンター」では、まだ首をひねっていました。試しに「長靴をはいた猫」を入れてみると、「いまいちだよ」という返事。しかし、「猫」を入れると返事が少し遅れるのは確かなのです。
 そういえば、代々飼っている猫ですが、やはり人とは違った超常的な能力を備えているのでは?と考えてしまう出来事があります。
 昔飼っていたシロという猫が、天井の一点を凝視して唸り続けたことがありました。夜遅くから明け方にかけて。そのときのことは『猫視』というエッセイに書きました。人間に感知できないものが空中に存在しているのを感じているからではないか。そう言い出した娘が、邪気を払う!悪霊退散!と塩をまいたり般若心経を唱えたり。深夜の大騒ぎになっていたのですが、翌朝母が話すには、亡き父が夢の中に出てきたのだとのこと。しきりに母に何かを伝えようとしていたのだが、何を伝えたかったのだろう、と言いました。それで娘を始め、皆がびっくり。塩をまいたり悪霊退散で祓ってしまったのは「おじいちゃんだったのかも」と。
 今はわが家には2匹の猫がいます。きな子とあん子というのですが、2匹にも不思議なものが見えているようです。
 6月下旬に入ってすぐのこと。朝、散歩から帰宅すると、家の中にきな子が。寝室の北西の隅の宙を睨んで唸っていました。ひょっとしてヤモリか蛇でもいるのかと探しましたが、それはないようです、娘が「気のせい!気のせい!おじいちゃんなら、申し訳ないよ」と、きな子をほかの部屋に連れ出しました。すると、その後にあん子がやってきて同じ場所に座って天井を見上げているのです。
がかすかに変化したのは”猫”という単語がタイトルに入っているときでした。「殺しの猫小僧」とか「猫猫ハンター」では、まだ首をひねっていました。試しに「長靴をはいた猫」を入れてみると、「いまいちだよ」という返事。しかし、「猫」を入れると返事が少し遅れるのは確かなのです。
 そういえば、代々飼っている猫ですが、やはり人とは違った超常的な能力を備えているのでは?と考えてしまう出来事があります。
 昔飼っていたシロという猫が、天井の一点を凝視して唸り続けたことがありました。夜遅くから明け方にかけて。そのときのことは『猫視』というエッセイに書きました。人間に感知できないものが空中に存在しているのを感じているからではないか。そう言い出した娘が、邪気を払う!悪霊退散!と塩をまいたり般若心経を唱えたり。深夜の大騒ぎになっていたのですが、翌朝母が話すには、亡き父が夢の中に出てきたのだとのこと。しきりに母に何かを伝えようとしていたのだが、何を伝えたかったのだろう、と言いました。それで娘を始め、皆がびっくり。塩をまいたり悪霊退散で祓ってしまったのは「おじいちゃんだったのかも」と。
 今はわが家には2匹の猫がいます。きな子とあん子というのですが、2匹にも不思議なものが見えているようです。
 6月下旬に入ってすぐのこと。朝、散歩から帰宅すると、家の中にきな子が。寝室の北西の隅の宙を睨んで唸っていました。ひょっとしてヤモリか蛇でもいるのかと探しましたが、それはないようです、娘が「気のせい!気のせい!おじいちゃんなら、申し訳ないよ」と、きな子をほかの部屋に連れ出しました。すると、その後にあん子がやってきて同じ場所に座って天井を見上げているのです。
 もちろん、私には何も見えない。
 この日のことを人に話してみました。何かいるんですよ!という反応やら、虫では?という反応。
 面白いことを仰った方がいたので、紹介しておきます。
 実はこの日は夏至にあたったのですが、この方曰く「夏至の日は空間に穴があくんです。人間にはその穴は見えないのですが、猫にはそれが見えるのです。猫はその穴を見ていたと思います」とのこと。
 なるほどー!
 しかし、何が面白くて猫たちは空間にあいた穴を覗いていたんだろう?
 そこがわからない!
 話は戻ります。
 そんなとき、ポロリと孫に言ったタイトルが「猫の惑星」です。これには孫が喰いついてきました。
「おじいちゃん、それいいよ。絶対読みたい」
 で、構想ゼロから組み立てた「猫の惑星」は最初の読者を孫に想定しました。
 さて、9月中旬に1冊にまとまりPHP研究所より発売になります。
「猫の惑星」、どうぞよろしくお願いします。

第129回 文庫版『アラミタマ奇譚』出たよ

 数年前に、熊本は火の山、阿蘇山を舞台にした小説「アラミタマ奇譚」を書きました。その文庫版が出ましたので、声を大にして宣伝します。
 この小説がどんなものか紹介しておきますと、主人公が恋人の故郷である阿蘇にやって来るのですが、阿蘇山上空で飛行機事故に遭ってしまいます。このとき助かったのは主人公だけ。他の乗客、乗員はすべて行方不明。全員消失してしまったかのようでした。恋人の家族は阿蘇に住んでいて、主人公は彼らとともに阿蘇の怪奇現象に次々と巻き込まれていくことになります。果たして、その怪奇現象の真相はなんなのか?というのが、簡単なあらすじなのですが、
 主人公が怪奇現象に遭遇するのは、いづれも現実に阿蘇の外輪山に存在する場所ばかり。架空の場所はひとつもありません。
 登場するのは、最近パワースポットという評価を受けているところばかりです。
 たとえば、南小国町のストーンサークル上の巨石群、押戸石。南阿蘇の上色見にある熊野座神社の社の上にある穿戸の穴。そして阿蘇ロープーウェイ横の西巌殿寺。そんな場所で、この世のものではない存在と主人公は戦うことになります。なぜ、そんな場所が登場するんだよ。観光ガイドのつもりかいと言われそうですが、実は、パワースポットっていったい何なんだよ、ということが物語に大きく関わってくるのです。だから、パワースポットと思われているところが必要だったわけで。その理由は、本を読まれるとおわかりになると思います。
 これらの場所を確認に行きました。描写するためには嘘は書いてはいけない。しかも、足を延ばせばすぐに見られる熊本市から一時間ちょいの場所にありますから。
 連載前にひと通り。それから描写中にも、それぞれの場所を回りました。やはり、現場に立つと、生々しく描写できる実感がありました。
 本作で怪異の起こる場所は、そのまんま描写してますから、リアルなはずですよ!!
 ただ一つ。本書の表紙の写真にも使われている米塚ですが、後半の怪異の舞台は、この米塚の地下にある地下空洞に設定しました。
 米塚に地下空洞があるのは、あまり知られていないので、よし、使っちゃれと思った次第。ところが……取材に行くと、米塚の園地入り口は鉄条網で塞がれていて立ち入りできなくなっていました。しかもご丁寧に「立入禁止」の看板まで。仕方なく、この場面の描写は私の想像だけで描いたのです。
 物語は仕上がったのですが、それからずっと、米塚地下空洞のことが気になっていたのでした。
 ところが、昨年の某日、奇跡が起こりました。なんと、米塚地下空洞へ入れる機会が訪れたのです。しかも、阿蘇火山博物館の池部館長と牧野連合の高藤委員長のご案内で。
 米塚は、阿蘇の風景の中で大好きなもののひとつです。その米塚の未知の地下へ入るなんて、ワクワクではありませんか。そして、自分の想像の描写と現実がどう違うのかも、自分の目で確認できますからね。
 で、米塚園地に入りました。離れて見ると米塚は頂上が窪んだ美しい円錐形をしています。歴史も浅いんですね。三千年くらいだそうですから。
 自動車で園地に乗り入れ、しばらく走ります。米塚を大きく迂回しながら。どうも入り口が幾つもあるようなのです。
「さあ、着きました」え、どこだろう?「注意してください。マムシが、ここいらいっぱいいますから」ぐへぇぇぇ。マムシは苦手で相性が良くないんです。しかも、周りは丈の高い草。「ここです」と教えられてもどこに入口があるのかわからない。草の中に縦穴がありました。「これが溶岩トンネルです」
 地下空洞は、火山の溶岩トンネルなのでした。ヘルメットを被り、下って行きました。ごつごつした岩場で、ライトをつけないと真っ暗闇です。かなり大きなトンネルです。十数メートル進んで何度もヘルメットを岩にぶつけます。その奥の方にライトの光の中を何かが飛ぶ。目を凝らして仰天。天井にびっしりとコウモリが!岩の表面にびっしりと付着しているのは?
 コウモリの糞でした。
 次の穴、その次の穴へと移動すると、それぞれ違う性格の空洞。人が入れない穴の奥深いところに、風が吸い込まれていく……。「この辺り、どんな豪雨があっても、水の被害はないんですよ。雨水をすべてこの溶岩トンネルが呑み込んでしまうから」
 そして、結論。
 私が「アラミタマ奇譚」で描いた米塚地下の描写は大きくは間違っていなかったのです。
 それだけはご報告しておきたいと思います。
 現在は、いづれのトンネルも立ち入ることはできません。皆さんの想像力でそのパワーと神秘性を感じていただければうれしいのですが。
 それでは、文庫「アラミタマ奇譚」(祥伝社)よろしくお願いします。

第128回 電子書籍なるもの

もの書きの仕事をやっていて、尋ねられることに時代の変化を感じることがよくあります。
「筆圧が強いので、手が痛くなって辛いです」と紹介文に書くことがあるのですが、それを読まれて、びっくりされる方が増えました。
「えっ?ひょっとして原稿は手書きなのですか?パソコンじゃないのですか?」
 私パソコンを持ちません。一時期、持っていたこともあるのですが、家族に奪われてしまいました。だから知り合いと連絡をとりあうときのEメールは携帯電話を使うことにしております。それもスマホじゃありません。ガラパゴス携帯、いわゆるガラ携であります。中には、大容量のデータを添付して来られる方もありますが、開けません。そんなときは「すんません。プリントしたものをファックスしていただけませんか?」と、恥ずかしながらお願いすることにしています。
 根っからのアナログ人間なのでしょうか。
 いや、実はパソコンで小説やらエッセイやら書いたことがないわけではありません。確かに最初は慣れないキーボードで執筆速度が遅かったことは認めます。ただ、一定期間を経過すると、キーボードタッチは結構なスピードに上達しました。それでエッセイを書いてみたら…。
 あれれのれ。
 なんと、思考速度よりも指先の動きのほうが速くなってしまったのです。
 いわば指先の暴走状態とでもいいますか。頭の中にこれから書こうという文章が浮かんでいるにもかかわらず、書こうとした文章に関連した文が勝手に指先から打ち出されて増幅する、という怪奇な現象が発生。
 どうも上手くまとまらない。
 それで、キーボードをやめて、再び手書き原稿用紙に戻ってみました。すると、文字を書く速度と思考速度がぴったり!で、今に至る、というわけです。
 私が手書きを続けてることを知り驚かれる方は、続けてこうお聞きになりたいのでしょうね。
「ところでカジオさんは、どんなものを書いておられるんでしたっけ?SFとかが多いんですよねぇ。SFって未来の技術とかを書いたりするんですよねぇ。そのカジオさんが手書きですか?」と想像します。私も「紺屋の白袴ってやつですよ」と心の中で想像の質問に答えているわけですが。
 もう一つ、時代の変化だなぁと思うのは、「電子書籍をどう思います?」という質問が増えたことです。私のまわりでも「読書は最近はKindleです。字が大きくできていいですよ」と言ってる人々が増えてきました。
 ちなみに、私は書物は紙だけ一本槍です。何となく……じゃなく本は自分の手でぺらぺらページをめくらなくては。あと、どのくらい読めるか、自分の目で本の残りの厚みを確認したい。
 だから、全く電子書籍タブレット端末は持っていません。
 東京から来られた編集者の方がKindleを持っておられたので尋ねてみました。
「やはり、Kindleが使いやすいですか?読みやすいですか?」
 すると、編集さんは仰言いました。
「使い分けているんですよ。やはり小説とかの文字情報は紙の本がいいんですよ。ただコミックは本で買うと量がねぇ。やたら溜まるんですよ。だから、コミックはこちらにしてます」
 はあ、なるほどね。
 それから私も、書籍タブレット端末のことをいろいろ検討しているのです。そして、先日、銀行に口座の振込のつけこみに行ったら驚く数字が入金されていました。電子書籍の印税でした。それだけ書籍タブレットで読む人が増えているんだなあと実感した次第。
 電子書籍はいかがですか?という質問には、こう答えることが多いです。
「大好きな人がデータ化されて、専門の装置を使えばいつでも会えるなら、あなたは本人じゃなくデータで満足しますか?」と。そして、「”人”を”本”と置き換えるとわかりやすいかと思います」と付け加えます。
 私は手触りや匂いなど、本のすべてが好きだから、電子書籍はちょっと無理かも。でも、大好きな人をデータ化したら老化しないよなあ。大好きな本もそのままだと酸化したり日焼けぼろぼろになったりするなぁ。
 ちょっと待て。
 しばらくしたら、どちらがいいか違った結論にたどり着いているかも。

第127回 カトマンズの少女

 ネパールには一度だけ行ったことがあります。インドに行ったついでなのですが、なかなか行ける場所ではない気がして。
 四十人乗りくらいの小さな飛行機で行ったのですが、それはそれは凄絶な乗り物でした。窓際に座った私の横で、窓がパタパタと飛行中に鳴り始めました。こりゃ、窓が外れるんじゃないか、と怖くなりましたよ。昔から高所恐怖症に加えて飛行機が大嫌い。もう、窓パタだけで寿命に王手をかけられたような気に。堪らずCAのおばちゃんに、大丈夫かと訴えました。すると私に人差し指を向けて、「心配ない」という風に去って行きます。すぐに戻ってきてガムテープをベタベタと窓に貼り付けました。それから親指を突き出して「ノープロブレム」、と。
 大丈夫かよ?と血の気が引いたまま思ったものです。それから五分も経たずに前方のお手洗いから水が流れ出し、通路を伝って私の横を抜けて後方へ。どうしたんだよ。
 床を指さし不安な顔をすると、CAのおばちゃんが私を特に睨みつけながら、またしても「ノープロブレム」
 近くの人が教えてくれました。「この航空会社は外国の旅客機の耐用年数が終わったものを購入して使っているから仕方ないんですよ」と。「それからCAのカーストの方が乗客のカーストより上だから彼女たちに従わなきゃならんのです。CAが偉いんです」
 何のこっちゃ。通路は人糞の臭いです。
 で、ネパールはカトマンズの安宿で過ごしたのですが、目玉焼きが黄身まで白いのに仰天しました。インドと同じでカレーばっかり食べて過ごしましたよ。標高は1,300メートルと高いけど、結構暖かかったですね。空港に到着する前に見えたヒマラヤの山々の荘厳さは忘れられません。
 日数が取れなかったので、カトマンズの街の中を歩きまわって過ごしました。今度はトレッキングで来たいなぁ、と他の旅行者たちを羨ましく眺めたものです。
 なぜ、そんなことを思い出したかというと、テレビでネパール大地震が現地中継されているのを目にしたからです。
 倒壊した塔を見て絶句しました。何ですって?数千人の死者だって?
 ダラハラの塔って言ったよね。塔の前は繁華街でした。一人で彷徨いたときの記憶。とにかく自転車やら三輪車やら人混みが凄かった。それにクラクションや叫び声、ブレーキ音とうるさかったなぁ。排気ガスもだけれど、人糞の臭いがたまらなかった。下水がちゃんとしていないのかな?と横を見ると、道の隅でお婆さんが人目も気にせず立ち糞していた。ダラハラの塔は確か百年ほど前に地震で倒壊したと聞いた記憶が。今回も倒壊したというのは、再建時にその時の教訓は活かされなかったのかな?
 そして、あの近くにクマリという少女の生き神様が暮らす館があったことを思い出しました。今でも代々のクマリが暮らしていたはず。レンガ造りの建物だったから神様は大丈夫だったのだろうか?画面で見る限り瓦礫しか見えないけれど。
 同時に、画面の中を無意識に探していました。ひょっとして…と。
 実はあのとき大通りから路地に入ってみたのです。細い通りの向こうに小さな広場があって、中央に水呑場兼井戸がありました。
 私は歩き疲れて、そこでひと休みしていると声をかけられました。
「日本の人ですか?」
 もちろん日本語で。見ると十二、三歳の女の子がバケツを持って立っていました。痩せているけど目が大きくて将来美人になるだろうな…という少女です。
 聞くと日本語を習っている、と、近くに日本人の女の人が住んでいて、教えてくれるのだと。だから日本語が流暢なのか。
 日本が大好きだから、日本に行きたい、と。そして日本で医学を勉強して医者になりたいと、言っていました。日本語を教えてくれる日本人も日本の医学は素晴らしいと言ったようです。
 この年齢で、自分がどの道に進むべきかを、しっかり見定めてその目標に向かって勉強していることを知り、素晴らしい子だなと、感激した次第です。
 カトマンズは、もっと上手なお医者さんをたくさん必要としているから。そんなことも言っていました。
 中継を見ながらその少女のことを思い出してしまいました。
 私がネパールを旅行したのは、十数年前のこと。画面の中を無意識に探したのは、ひょっとして救急医療チームのメンバーに、成長したあの少女がいるのではないか?そんな気がしてならなかったからです。いや、そうあって欲しい、と。
 ネパールの被災地の、一日も早い復興を心から祈念します。

第126回 『怨讐星域』が出るよ

 5月下旬なのですが、新刊が出ます。
 延べ9年かけてSFマガジンに連載した「怨讐星域」というシリーズで2千枚ほどになり、とても1冊には収まりきれないので3冊に分冊されることに。ただ今、著者校正の真っ最中なのですが、宣伝を兼ねて今月はこの話題でいってみようかと思った次第です。
 連載のお話を頂いたときに、世代を超えて憎みあう人々のことが、ふと頭をよぎりました。民族や宗教、領土のことで長くいがみ合うという歴史を、いくつも知っています。それらを題材にした文学や映画にいくつも触れてきました。果たして私たちには、民族としての生まれながら埋め込まれた恨みというものを拭い去ることはできないなのか、という疑問が浮かんできたのです。
 さて、現実の世界情勢の中でも、そのような例はたくさん見聞きしています。もし思考実験としてのSFという枠組みの中でこの素材を扱えば、どうなるのだろう。
 どのような形で展開するか、それからいろいろと検討しました。
 祖先が憎しみの原因を作り、その恨みが世代を超えるという年代記のようなものができないだろうか?
 現在の世界で見られる民族・宗教に関わる怨嗟とは全く異なる設定を考えてみることにしました。現実社会と離れることによって、少しでも生々しさを薄めるほうが、思考実験に没頭できるからです。
 基本設定を頭に入れておかれると、読み進める上で便利かと思いますので、簡単にご紹介しておこうかと思います。
 その時代、異常気象が連続するのですが、これは太陽のフレア化の予兆でした。どのようなことかというと、太陽系内のすべての天体は太陽の異常燃焼により数年後に燃え尽きてしまうと予測されたのです。それは地球滅亡、人類滅亡を意味していました。
 しかし、その時代の米国大統領は財閥の協力を得て、秘密裏に選民たちとともに世代宇宙船ノアズ・アーク号で地球から脱出します。
 残された人類は、自分たちを置き去りにしたノアズ・アーク号の人々を悪魔の一族として激しく恨むのですが、ここで奇跡的な出来事が起こります。
 残された人類は、転移装置を発明するのです。転移装置とは、一瞬にして物質をジャンプする装置です。どんな遠距離であろうと関係なく。
 さて、その頃、大多数の人類を見捨てて去った世代宇宙船ノアズ・アーク号の目的地が、170光年先の惑星であることが判明します。その惑星は分析の結果、地球に似た環境の星だったのです。
 地球にとどまっても滅亡を待つばかりの人々は、何の生存の保証もない遥か彼方、170光年先の惑星に転送を試みました。
 その結果、ほんの一掴みの人々が転送に成功。しかし、地球での技術は全てゼロの状態なので、未知の環境下で原始人同様の生活をスタートさせることになるのです。
 地球とその惑星の距離は170光年離れていますから、宇宙船が辿り着くまでに数百年が必要です。その間に転送装置でたどり着いた人々の末裔は、遥か未来にこの惑星に辿り着くことになる地球からの宇宙船の人々への恨みを語り継いでいきます。そして、何世代も後に宇宙船が現れたときに何が起きるか……という連作群というわけです。
 そんな恨みが集中する空間なので、タイトルは「怨讐星域」としました。字面を眺めていると、かなり重いかな、という気分になるのですが、これくらいやらないと深い恨みが伝わってこないと信じて決めました。
 全31話に渡る年代記の本作ですが、以上の基本設定を頭の隅においておかれるとよろしいかと思います。一話ごとにノアズ・アーク号の内部だったり、文明を発展させていく未知惑星の話だったりするので、連作集というよりは短篇集に近いのではないか、という気もしています。
 共通しているのは、各時代のそれぞれのエピソードの語り手となる人物たちが、その時代の状況ならではの心のもやもやを抱えているのだということ。
 だからサイエンスの物語というよりも、人間の物語になっているのかな、とも思います。そして、書き上げて思うのですが、この結末は正しいのだろうか、という反省があります。物語が終焉を迎える以上、何らかの物語としての着地点を示す必要がありました。私なりの結末は記しているのですが、この結末で読まれた方が納得されるかどうか。あり得ねえーなのか、カジオらしい、なのか。
 首を洗いながら校正作業を続けています。
 どうぞよろしくお願いします。(了)
『怨讐星域/ノアズ・アーク』『怨讐星域/ニューエデン』『怨讐星域/約束の地』(ハヤカワ文庫5月下旬発売)

第125回 コロンブスのタマゴご飯

 中華料理は大好きです。昼飯時に食欲がないとき。何を食べようか思いつかないとき。私は上熊本の高台にある竹林横の中華料理店をよく利用します。
 四川料理系のお店が多い熊本ですが、中でもここの麻婆豆腐は、絶品だと思います。山椒の辛さが心地いい。ご飯に自分の好みの量の麻婆豆腐を乗っけて食べると、至福です。
 さて、これからが本題。
 この中華料理店は、私の孫も大好きです。特に五目炒飯がお気に入り。確かに、美味しい。ある日2人でこの店に行き、いつものように私は麻婆豆腐とご飯、孫は五目炒飯をオーダーしました。で、私は白飯に麻婆豆腐を掛けて美味しく頂きました。
 このときまでは、この食べ方が一番美味しいと思っていました。すると孫が私が食べていた麻婆豆腐に手を延ばし、それを自分の五目炒飯に掛けたのです。「辛いよ。大丈夫?」と尋ねると、帰ってきた答えは、「うまーい!最高だよ」
 え・え・え?
 私も、孫の五目炒飯を貰い、麻婆豆腐を掛けてみると、確かにうまい。
 五目炒飯もとても美味しいのですが、麻婆豆腐の辛さと相まっての相乗効果。
 これまでになかった味を発見したのでした。
 それからは、家族でこの中華料理店で注文するのは決まって、五目炒飯と麻婆豆腐。
 東京から叔母が来熊したとき、この中華料理店に連れて行ったら「美味しい!」と感激してくれました。で、五目炒飯に麻婆豆腐を掛けて食べることを奨めると……。なんという食べ方をするのだ、叱声が。えっ?、どうして?
 叔母に言わせると、それは若いもんの食べ方だ!と。 
 なるほど油で炒めて高カロリーになった炒飯に、同じく高カロリーの麻婆豆腐なんて、とんでもない!と。
 じゃあ、と私は叔母に友人から教わった五目炒飯の茶漬けなる食べ方を教えました。これは、炒飯を茶碗につぎ、ウーロン茶を掛けて食べるもの。はじめて友人から聞いたときは眉唾ものだっただったのですが、試してみたら、これが、いけるんです。叔母は乗り気じゃなかったのですが、「騙されたと思って」と作ってあげましたよ。
 ところが一口食べただけで、叔母は大喜び。「こんな食べ方もあったんだねぇ」と。夏に、食欲がないときはいいかも、と褒められました。
 みなさんも、お試しあれ。
 さて、こんな掟破りな食べ方は、他にはないのか?そんな疑問が浮かびました。
 固定観念にとらわれて試していなかった食べ方が他にもたくさんあるのではないか?
 それでこのようなタイトルになったわけです。
 私は友人と世間話をするとき、麻婆豆腐かけ五目チャーハンの話をしてみるようになりました。すると、友人たちも「こんな食べ方もあるよ」と情報を教えてくれます。
 驚愕の食べ方。白飯のおかずに炒飯。
 そんなことを言った奴もいましたね。さすがに試してみようとは思いませんでしたが。どれだけご飯好きなんだ!と呆れました。
 割りと多かったのが、炒飯に付いてくるタマゴスープを炒飯に掛けて食べる、という方。これは、目の前に並べられただけで、自然にそのような発想が生まれたと思われます。
 中華系の話が終わると、「こんな食べ方を知ってる」という話がいろいろと出始めます。ご飯にマヨネーズと醤油掛けたマヨネーズご飯。味付け海苔も一緒によく登場しますね。そんな話題の延長で、バターご飯、マーガリンご飯。もう、聞いているだけで、いたたまれなくなります。温かい牛乳かけご飯の話しあたりでは「外国では米は野菜扱い」というのを、ふと思い出しました。
 話を振った側として、ちゃんと実験して味を確認して、証言を残す必要があるのでしょうが、そこまでの勇気を発揮できていません。ごめんなさい。
 その代わりに、最近聞いて試して美味しかったものを紹介しておきます。
 まず、栗ご飯にカレーを掛けて、というパターン。これは前日残った栗ご飯と、前々日の余って冷凍しておいたカレーの、奇跡の出逢いでした。栗ご飯は、ちと冷たいというのがベストなようです。
 そして、鯛めしにイクラの醤油漬けを掛けて食べるという……これは試す前から、うまいに決まってると確信できました。教えてくれた方は、これを「さくら飯」と名付けたと言っていました。
 粋ですね。でも、さくら飯って、具のない味付きご飯というイメージなのですが。
 ここで、最近教わった究極のタマゴご飯を紹介しておきます。
 新鮮なタマゴが手に入ったら、割って黄身と白身を分けるそうです。で、炊きたてのご飯に白身だけを入れ、ひたすらかき混ぜる。そして、白身がすっかりメレンゲになったら、上に黄身を乗せる。ほんのちょっと醤油を垂らし、黄身を少しづつ崩しながら食べる。
 聞いただけではピンとこなかったけれど、試したらマイルドな美味しさ。予想外な味。
 これぞ、タイトル通りの、「コロンブスのタマゴご飯」でしたよ。

第124回 もうすぐ山菜

 3月の声を聞いて、桜の開花はいつ頃だという話題が出るようになると、私の頭の中では山菜採りのスケジュールが組み立て始められます。花より団子といいますが、山にタラの芽を取りに行く時期は、桜前線の訪れと必ずリンクしています。ソメイヨシノが8分咲きになった陽気が、木の芽どきというか、タラの芽が山に姿を見せる最適のタイミングかと思います。冬場塞ぎこんでいたのに、急に自転車に乗って全速で走り回る知り合いを見かけるのも、この時期です。私を見かけると甲高い声とともに自転車を漕いで近づき話しかけてきます。厭だなあ、と思いますが、心の中では「そういう季節なのか。ということは、山はタラの芽の時期なのか」と同時に思っていたりします。私にとってはこの知り合いも春の風物詩なのかなぁ。まさに、私にとっては”花よりタラの芽”なのです。
 最初に山菜に興味を持ったのも、やはりタラの芽に出会ってからです。山歩きの途中で、藪の中でがさがさ動き回っている方に出会いました。何やら採っておられるようでした。私は好奇心が強い方だと思います。穴があれば覗いてみたくなり、ボタンがあれば押してみたくなる人間です。足を止めて藪の中におられる方に「何採ってるんですか?」と声をかけました。すると、一瞬、音が止み、無言のままこちらを睨むと、その男の人は背を向けて、いずこかへ行ってしまいました。私は、慌てて、藪の中に入ると確認しました。(我ながら、しつこい性格)そしてまっすぐに伸びた細い木の先端の芽がもぎ取られているのを発見したのです、
 何を採っていたのだろう?
 同じ特徴を持つ木がすぐ近くに見つかりました。その先端の芽が……。これに違いないといくつか採集して登山道に戻ると、他の登山者の方から声をかけられました。「ほう?タラの芽ですね?天ぷらに最高ですね。もう出ていましたか」と。
 食えるのか!いや、美味しいのかぁ!
 それが、タラの芽との最初の出会いです。今では、栽培もののタラの芽が居酒屋などに出回り、珍しくなくなりましたが、その頃はまだタラの芽など口にしたことはおろか、聞いたこともなかったのです。我が家に持ち帰り、揚げてもらったら、成る程!アスパラガスとも違う、納得の美味しさ。
 つまり、私が声をかけた山中の籔の方は、この味を教えたくなかったのか!
 山菜採りやキノコ狩りの方々は意地悪で根性がねじ曲がっていると学習したのもこのときです。私は、そうはなりたくないので、できるだけ愛想良くするように心がけています。
「ああ。タラの芽を採りに来られたのですか?残念ながら、ここいらは全て採り尽くしてしまいました」とか、「ここいらは、マムシが多いから気をつけてくださいね。さっきも数匹見かけたばかりですから」と、できるだけフレンドリーに伝えることにしています。真偽の程は二の次として。
 それから、春の楽しみとして、必ずタラの芽採りは欠かせないものとなりました。ただ、以前は荒れていた場所でも開発が進み、タラの芽がたくさんあった山林そのものが消失してしまったり、皆がタラの芽のおいしさに気づいたのか、一瞬出遅れただけで、全く見つからないという事態も珍しくなくなりました。だから、タラの芽の群生するスポットを見つけたら、人には内緒にして一人で採りに行くことに。
 ところで、タラの芽にもオスとメスがあることはご存知でしょうか?ちょっと目には、同じタラの芽にしか見えないのですが、刺が表面に多いのがオスで、刺がないのがメスです。一般的に喜んで食すのはメスの方ですね。オスは天ぷらに揚げても刺がチクチクですし、苦味も強いんです。
 で、ふと春にタラの芽採りに行くと口を滑らせて、相手からぜひ採りに連れて行ってくれと頼まれたときは……。
 できるだけ目的地への道を遠回りに。そして、ぐるぐると迂回しながら方向を誤らせるように連れて行きます。で、山に入ったら「この辺りにありますから、手分けして採りましょう」と言う。しばらくすると、道がわからなくなり途方に暮れるはずなので、笛を吹いて探してあげます。それから、オスのタラの芽をその方がたくさん採っておられることを確認して「今日のタラの芽採りは楽しかったですね」とお別れします。
 そんなタラの芽の時期がもうすぐ巡ってくるんですね。その時期は野藤の花や、ハルシメジ、コシアブラもありますから、一緒に天ぷらにすれば、野趣満点です。
 タラの芽の天ぷらを食しつつ、野山を巡ったその日の想い出に耽ると、私の心が、また一段と清らかになったと感じられるのです。
 楽しみだなあ!

第123回 クロノス・ジョウンター再び

 実は「クロノス・ジョウンター」という時間を超える装置、というより欠陥タイムマシーンについては、7年前のやはり2月に、こちらのカジシン・エッセイで書いております。そのときは「クロノス・ジョウンターの伝説」の新書版が発売されるのを記念してのエッセイでした。本来は中編1本で完結していた「クロノス・ジョウンターの伝説」が、なぜ本が出るたびに増殖し新作が加わっていったかという経緯を記したかと思います。そのときのターミネーターのような編集さんはもう定年を迎えておられますし、新書版も、品切れが続いておりました。
 しかし、演劇集団キャラメルボックスがほとんどの作品を舞台化していただいたおかげで、全国の高校、大学の演劇部、そして地方の劇団と様々な方たちによって上演が続いていることを知りました。その方たちからも問い合わせを頂いていました。
「クロノス・ジョウンターの伝説の原作本を手に入れたいのですが」
 申し訳ありません。私としては、ありがたくて頭が下がります。作者冥利につきると申し上げればいいのか。
 同時に、「クロノス・ジョウンターのような欠陥のあるタイムマシーンをどうして考えられたのですか?」とよく尋ねられます。
 はたと弱ってしまいます。いやぁ、欠陥がある方がタイムマシーンは面白いではありませんかと答えて、ふと思いあたります。
 私は昔から時間をテーマにしたSFが大好きだったのです。最初に接した時間テーマは、やはり代表的な誰でもご存知のH・Gウェルズの「タイムマシン」を映画化したもの。(原作を読んだのは中学生の時ですね。)そのとき、主人公はタイムマシンで80万年後の世界へ冒険に行くのですが、時間を超えることで生ずる矛盾については考えられていません。その後、時間旅行の話が大好きになって、いくつも読んだのですが、特に短編では、目からウロコが落ちるような話をいくつも読むことになりました。有名な「自分が生まれる前の時代に行って自分の父親を殺したらどうなる?」の解答もいくつも読みましたね。自分の父親を殺そうとするが、なぜか邪魔が入ってどうしても殺せないというもの。自分の父親を殺した瞬間に、自分が消滅してしまったり宇宙が消滅してしまうもの。自分の父親を殺して過去から帰ってきても何も変わっていない。自分にも変化が起きない。なぜなら、自分の本当の父親は母親の浮気相手だったから。父親殺しは、まだいろんなパターンがありました。
 短編のタイムマシンものは、過去へ飛んで矛盾を起こすものが多いようです。太陽系そのものが宇宙空間を猛スピードで動いているから、タイムマシンで過去に飛んだら宇宙空間に投げ出される…という話やら。無限増殖する自分や金といったアイデアもよく見ました。机の上にある金貨を持ってタイムマシンで1分前の過去に行くと、自分が持っているものと机の上にあるもので金貨は2倍になる。その2枚を持って、また1分前に飛べば3枚になる。こうやって金貨は無限に増えていく……というものです。それで大金持ちになれるかも、というところで意外な落とし穴が発見されて、主人公は虻蜂取らずになってしまうというパターンが多かったなあ。過去へ飛んだらタイムマシンの欠陥が見つかり、過去の自分と一緒にもっと過去の自分に文句を言いに行くという話は、まるで落語のようでした。そして、過去に行って過去のものに触れただけでバタフライ効果が起こるという話も、いろんなバリエーションがあります。過去の世界で小さな蝶を踏みつけただけで、その蝶が受粉するはずの花が実を結べない。そんな変化が連鎖して異常気象や生態系の崩壊まで招いてしまい、人類や地球の未来まで左右することになるというのが、アイデアの骨子です。このバタフライ効果について、なにか連想されませんでしたか?
 私は、すぐに”風が吹けば桶屋が儲かる”を連想しました。よく似ていると思いませんか?
 タイムマシンものは、奇想の泉でもあるなぁと。時間テーマについて考えていると、もっと変な時間の性質を創造してもいいのではないか、と思いついたのでしょう。クロノス・ジョウンターのお話を組み立てた時は。
 そんなことを懐かしく考えていたら、演劇集団キャラメルボックスさんが今年30周年を迎えられるとの報せが。そして、その記念公演で2月から大阪と東京で「クロノス」を上演されるとのことです。これは「吹原和彦の奇跡」を原作としたものですが、同時に成井豊さんも「クロノス・ジョウンターの伝説」の新作に挑戦されるとのこと。タイトルも「パスファインダー」と。楽しみです。
 また、2月にはこれまで手に入らなかった原作本も「クロノス・ジョウンターの伝説」が完全版として徳間文庫から発売されることになりました。
「手に入らないんです」とご迷惑をかけっぱなしでしたが、お待たせいたしました。
 併せて楽しんでいただきますよう伏してお願い申し上げます。

第122回 お年玉のことなど

 謹んで、新年のお慶びを申し上げます。
 本年も、どうぞよろしくお願いします。
 正月なので、年の初めにふさわしい縁起の良いことを書きたいのですが、アベノミックスの効果も感じられないままに年を越してしまいましたので、景気のいいニタニタできるような話も思いつきません。
 で、遠い昔、お正月というと何が楽しみだったろうか、と考えてみると、具体的にハッピーな思い出もないんですよね。女性だったら「きれいな服を着せてもらった」とか「羽子板をやった」という答えになるのでしょうか。男の子だったら凧揚げをしたとか、独楽回しをやったとかはないのか!と思われるかもしれませんが、病弱だったし、食べ物もすぐ腹を壊すからと制限されていたし。
 そうだなあ、唯一、楽しかったのは、お年玉を貰えたことかなあ。それまでは、欲しいものは買ってもらっていたから”お金”が何のためにあるかがわかりませんでした。お年玉で初めて”お金”の存在理由を学ぶことになったのです。袋の中には紙幣が入っていて、それで自分の欲しいものが買える。しかし、欲しくてもお金が不足していれば買えない。欲しいものを手に入れたければ、たくさんのお年玉が必要である。そんな学習。そして、これは目上から目下に贈る年一回の行事である。きれいな袋に入っていますが、これをポチ袋と呼びます。なぜポチ袋と呼ぶかというと「これっポチしか入っていなくて申し訳ないけれど」というところから来たポチ袋なのだということも知ったなあ。
 と言って、お金を貯めて何を買いたいというところまでは考えが及びません。しかし、お金の合計金額を確認するのは楽しかった。
 それから、中学に入り、お年玉で本を買い込み、コレクション化する日々。友人の中にも、それぞれの道を極めようとする者たちをたくさん見るようになったなあ。そんな連中がコレクターになっていったのだと思います。切手だったり、プラモデルだったり、映画関係資料だったり、コミック類だったり。いずれも、コレクターから進化を続け、あの頃はまだそんな言葉もなかった”おたく”に変貌して行ったのです。
 ふと思ったことがあるのですが、それぞれモノに対して執着するから”おたく”と呼ばれるのだから、私がお年玉を収集する時点で、モノに執着せず、お金に執着していたら。”お金おたく”という存在になっていたのでは?”お金持ち”というのは、”お金コレクター”ではないでしょうか。
 お金を使う楽しみではなく、ひたすら、お金をコレクションする楽しみだけを求めて。
 これこそ、お金おたくの王道ではありますまいか。
 本当のお金持ちは、お金持ちには見えない、ということをよく聞きますが、これは他のモノを収集している人たちにも共通している気がします。お金も収集品で、お金を運用するより、お金をコレクションしていることが、お金おたくは楽しくなっている筈です。そんな方は、収集したコレクションを残高確認で満足感を得ることが生きがいなのでしょうねぇ。
「今、どんな本が売れるのか」と出版関係の方に聞いたことがあるのですが、お金のことを書いた本が売れる傾向にあるということでした。
 どうやったらお金が集まってくるか?とか、お金持ちになる人の心の持ち方、とかいったものが評判ということでした。お金のことを口に出すのは賎しいと考えている人がいますが、そういう方でもお金のノウハウ本は買っているんですよ、と。
 そうか。子供の頃、お年玉でお金コレクターになりかけたのは、まんざら間違いではなかったのか。方向がずれて、本とコミックのコレクターになってしまっただけで。
 あのとき、お年玉を親が取り上げていなければ、立派なお金おたくになっていたかもしれません。それが良いか悪いかは別にして。
 今年、皆さんが、お金をたくさんコレクションできますように。……と書いて閉めようと思いましたが、やはりエゲツない気もします。