第264回 究極のタコ焼き

 大好きな女性に、気に入られようと思い、好きな食べものを尋ねた。その食べものの美味しいところに連れていけば、私のことを「まあステキ」と思ってもらえるのではと浅薄に考えたのだ。すると意外な答が返ってきた。「私の好きな食べものはタコ焼きよ。タコ焼きみたいな食べものがあるのは、日本だけ。世界中探しても、あんな食べものはないわ。丸くって、外はカリッカリッで。とてもおいしいー!!」
「おいしいっ!て普通ですね」
「普通に聞こえる?普通でいいのよ。普通を極めていくと究極のタコ焼きにたどり着く。そんな究極のタコ焼き、一度は私食べてみたいんねん」
 何故か最後は関西弁だったが気にしない。彼女の好みに応えるために、その日から私は究極のタコ焼きを探し始めた。あそこのタコ焼きが美味い、と聞けば私は即攻でそのお店に駆けつけて試食した。好きな女性がよく通っていたというお店に足を運び、塩味、ソース味と試してみたのだ。確かに美味いのだが。
 彼女はこれ以上のものを求めているのだ。これ以上のタコ焼きは、ありそうな気がするが、それがどんなものかはわからない。感動には至らない。なる程、彼女が究極のタコ焼きを求めた理由もわかったような気がしたのだ。どんなタコ焼き屋も今一つ。
 そんなある日、凄ましい破壊力のある知らせが届いた。打ちのめされた気がした。
 私が大好きだった女性が、結婚したというニュースだ。
 これまでに何のために至高のタコ焼きを求め続けてきたというのか。その努力は無になってしまうのか。
 放心した私が思ったこと。そして気がついた意外な欲望。
 タコ焼きが食べたい。
 そう。究極のタコ焼きを探すうちに私自身がタコ焼きの魅力に捕らわれてしまったようだ。
彼女のためではない。私自身のために。究極のタコ焼きにたどり着くためには、材料も究極のものを使わなければならないのではないか。タコは、噛みごたえよく味も素晴らしい、伝説の荒波ダコ。なかなかタコ壺に入ってくれないから希少な材料だ。そして皮を作る小麦粉も伝説の畠を使用したものだ。小麦粉を伸ばすダシも極寒の地の昆布から。それに、あわせたのは天草鯖ぶし。凝縮された旨味が詰まっている。青海苔も天草アオサの手揉みもの。知り合いになったタコ焼き屋に頼み込み、金に糸目をつけず揃えた材料で作ってもらうことになった。焼き師には、もちろん腕利き職人を手配した。丸く焼上がったタコ焼きを鉄板の中でくるくる回す。そこでかかった材料費を計算してみた。これ以上のものはない高価な材料。
 焼きあがった材料代にミシュラン三ツ星レストランの焼き師に依頼した人権費を加えて計算してみる。
 なんと。このタコ焼き一粒あたり百三十万かかっていた。
 そして口に入れてみる。たしかに旨い……。
 しかし、究極のタコ焼きが、こんなものだろうか。これほど材料に糸目をつけなったのに。どうしても納得できない……。期待し過ぎたのか……。
 しばらく後、ある情報が寄せられた。
 「それほど、美味しいタコ焼きをお探しならば。行ってみてはいかがです。店の名ですか?“究極のタコ焼き”と書いてありましたなぁ」
 書いてもらった地図を頼りに見知らぬ土地を歩いた。いくつもの路地を曲がると人通りもだんだん絶えていった。こんなところに店があるのだろうか?
 次の曲り角を過ぎた行き止まりに旗が立っていた。旗にはたしかに“究極のタコ焼き”と書かれていた。本当にあった!
 ここだ。
 他は誰も客はいない。男が一人うつ向いて座っていた。本当にここで究極のタコ焼き?
「タコ焼きください」
「ヘイ。三〇〇円になります」
私は驚く。高くない!!
 後ろの暗がりから男は皿を取出した。皿の上で焼き立てのタコ焼きが。熱でカツオ節がソースの上で旨そうに踊っていた。我慢できずに一口食べた。なんだ、このタコ焼きは。はふっ。はふっ。
 「うまい」
 思わず声が出た。これまでの一生で食べたことのない究極のタコ焼きの味だった。
 私の前で、男が、さもありなんというように頷いた。私は尋ねた。
「これはどこのタコなんですか?」
「何も…」
「え?タコが?他の具は?」
「他の具も何も入ってませんがね。だから“究極のタコ焼き”」
 しかし、確実にタコの味がした。男が一本の紐を引いた。後ろの暗がりに一台の機械が現れた。男は厳かに言った。
「私が発明した“究極のタコ焼き製造機”です。この機械が作るタコ焼きは、食べる人がうまいと思う仕組みを瞬時に解析して提供するものなのです。だから、食べる人がここに必ず食べに来る必要がある。今のタコ焼きは、あなたにとっての究極のタコ焼きというわけです。タコも入らない。具も入らない。それがあなたにとって究極のタコ焼きだと製造機は判断したのですよ」
「そんなタコ焼きが究極のタコ焼きと呼べるんですか?何も入ってないタコ焼きを究極のタコ焼きとして売っているとわかれば、誰も買いに来ませんよ」
 男はニッと笑った。「それが来るんですよね~」
 私の背後の暗闇から、人のものではない声がした。私の背を寒む気が走った。私の後ろにいるのは、いったい誰だ!!
「タコ焼き二百人前くださいな」
 真っ黒い太い手がお札を握ったまま私の横でゆらゆら揺れた。
男が叫ぶ。
「へーい。ただいま」

カジシンエッセイ10月号

第263回 ダジャレイ夫人の恋人

ある村に未亡人がいた。
 名前をダジャレイ夫人という。凄い美人だから、求婚者は後を絶たないのだが、夫人と交際を始めると数ヵ月で不幸にも寿命がつきてしまうのだった。というのも理由がある。
 夫人はダジャレが大好きで、呼吸をするようにダジャレを言ってしまうのだった。しかもそれが聞くに耐えない、オヤジギャグに近いダジャレで、のべつ聞かされていると体調が狂ってしまい、この世とお別れしてしまうものだという。彼女の夫がその犠牲になったのだとも聞く。
 町に行ってもそうだ。パン屋でも「あんパンは餡パンねー?」とダジャレイ夫人は尋ねる。夫人のダジャレが身体に悪いことを知っているパン屋の主人は耳栓をつけて夫人に対応しているそうだ。どこに行っても、その調子。魚屋に行くと「カニを買いたいけれど、こんなに高いなんて、こわいかに!怖いカニ!」と叫ぶ。仕方なく、カニを安く売ってやると夫人は喜んで買っていく。もちろん魚屋も耳栓して唇を読んで対応しているそうだ。電気屋では「私みたいな電気器具を下さい。いやだー!わからないの?私みたいな正直者には電気しよーじさときまっているでしょ」
 電気屋は、うっかり耳栓をするのを忘れていて、まともに夫人のダジャレを聞いてしまった。ダジャレイ夫人のダジャレのあまりのくだらなさに電気屋は目眩に襲われ、その場に脱力してへたりこんだという。
 そんなダジャレイ夫人に恋人ができたと噂が町に流れた。町の話題は、まさにそのことでもちきりだ。いったい、どんな男が彼氏なのだろう。世の中には命知らずがいるのものだ。
 いや、いや。どうやってダジャレイ夫人に取入ったのだろうか?
 ある男が、ダジャレイ夫人の恋人に会ったのだという。なかなかの美男子だったそうだ。その男は、ダジャレイ夫人の恋人に尋ねたそうだ。
 「どんな話をしてダジャレイ夫人に気にいられたのですか?」
 すると、こう言ったという。
「『ダジャレイ夫人は誰(だ)じゃれい?』そう尋ねたらダジャレイ夫人は大笑いして、いっぺんに気にいられたんですよ」
 それ以来、ダジャレイ夫人はいつもその恋人とともに行動するようになった。町の人々は、あることに気付き、驚愕した。ダジャレイ夫人の恋人はなんと!耳栓を付けていない!!
 いつも、ダジャレイ夫人のダジャレを生で聞いている。しかも脱力感満点のダジャレイ夫人が放つダジャレに、にこにこと笑い、ときには大笑いで吹き出しているのだった。それがダジャレイ夫人は嬉しいのだろう。早口でダジャレを恋人にいくつも浴びせかけていたのだった。町の人々は、その恋人に同情すると同時に震えあがって、その様子を覗き見るのだった。
 夫人の恋人はなんというダジャレ耐性を備えているのか!二人であるきながら「猫がネコんでる~!」「猫がネコんでると思ったらキャット叫びました!」「猫、踏んじゃったと思ったら猫の糞じゃった」と言って笑いあうような日々だった。
 町の人々は当然ダジャレイ夫人とその恋人が結婚するものだとばかり思っていた。
 だが、ある日、町のバーにダジャレイ夫人の恋人が突然現れた。
 それも一人で。
 町の皆がダジャレイ夫人の恋人を取囲んだ。
「いったい、どうしたんだい。ダジャレイ夫人と結婚するのではなかったのかい?ダジャレイ夫人のダジャレを聞いて生き残っているのはあんただけだよ」
「いえ、私は恋人ではありません。私は新兵器開発に携わっている国家防衛省の者です。私は実は、耳にすれば脱力して戦闘意欲がゼロになるダジャレ兵器を開発するチームにいるのですが、情報があり、やって来ました。ダジャレイ夫人の発する無数のダジャレの中に敵を無力化させるものがあると。それで私はダジャレイ夫人に近付き、無数のダジャレから効果のあるものを収集していたのです」
「しかし、あんたは耳栓もつけていなかった。なんともなかったのか?」
「かなりひどいダジャレを聞かされ危険を感じた日もあったのですが、ここへ来るまでも私なりに対ダジャレ訓練を受けダジャレ抗体を増やしてきました。おかげで、兵器として使えるほどのダジャレをいくつも手に入れることができました。だが、これ以上、ダジャレイ夫人といることは私に身の危険が及びます。限界でした。しかし、ダジャレイ夫人と常に一緒にいることは、つらくもあったのですが、いつの間にか、私は彼女をひょっとして愛してしまったのかもしれません。このことは、私の肉体が大変な矛盾を抱えこんだともいえます」
 町の人々は同情するように、お互いの顔を見合わせていた。
「それは、ダジャレイ夫人を本当は心底愛してしまっていたということではないのかね。恋人ではないと言っても、それは口先だけのこと。本当は危険な香りのダジャレイ夫人の真の恋人に違いないさ。その本心に背き、彼女から離れてしまったということは……。後悔しないのかね」
 すると、きっぱり言いきった。「すぐ船で逃げ出して航海します」と胸をそらせた。つらそうな表情で。
 そう言った彼の背後から音なく近付く人影。町の人々はああ!と驚いた。
 その人影こそダジャレイ夫人その人。
 彼女は、彼に近付き、彼の耳元に何かを囁いた。驚く彼は、その一言で、瞬間的に表情を歪ませ脱力して倒れこんだ。それはダジャレイ夫人の究極のダジャレであった。
 ダジャレイ夫人は「もっと凄いダジャレを思いついたから聞かせようと思っていたのに。これじゃ洒落にもならないわ」と恋人の遺体の前で呟き、淋しそうに去っていくのだった。

カジシンエッセイ9月号

第262回 盆踊りの創成期

 町の夏祭りで盆踊りを見ていた私は奇妙なことに気がついた。盆踊りの中心はやぐらが立っている。
 上には太鼓があり、スピーカーも据えられていた。
 町内のお爺さんが登り、器用に叩いている。そしてその近く。
 蚊がいない。
 不思議だった。
 翌日、振子を盆踊りの中心に近付けた。
 振子が不思議な運動をする。何故かは、わからない。すると、やぐらの上で太鼓を叩いていたお爺さんがよたよたと近付いてきた。
「あんたは誰ね」
「異常現象を研究する科学者ですが、変なことに気がついて。盆踊りの中心に蚊がいないんです」
 お爺さんは背中を丸めて歯のない顔を歪め「そりゃあ、あそこは踊り場だでなあ」と言った。よく意味がわからない。さらにそこを高感度カメラで撮影すると、空間が微かに歪んでいることがわかった。そこだけ時間の流れがちがうのだろうか?
 さらに調査を続けた。過去の文献を探してみた。
 その場所の江戸時代に遡る。同じ場所で昔からずっと盆踊りが続いていたことを知る。室町時代も同様に、平安時代は念仏踊りと呼ばれている。そんな昔から変わらずにずっと。何故に、ここで。踊り場と呼ばれる由縁なのか。
 私は、特殊な装置を作り、そこに置いた。時を遡る装置で謎を解き明かすため。
 江戸町民が踊る映像が映る。次に戦国武士たちが。古代人。予想通りだった。
 しかし、さらに遡ったとき、私は息を吞んだ。
人間ではなかった。
 装置が映し出したのは、十万年前。
 マンモスたちが巨大な体で輪を作って拍子をとりつつ歩いていた。まるで踊っているかのように見える。もちろん、マンモスの表情はわからない。楽しんでいるのか、あるいは強制されて苦痛に顔を歪めているのか?はっきりわかるのは、拍子をとって一糸乱れることなく輪を作って踊っていることだけだ。

 中心を空けて。
 その時代にはもう、輪の中心にやぐらは存在していないのだ。
 装置の映像は遡った。百万年前。そこに映ったのは、人とも獣とも判別のつかない何か。その人獣の群れが大きな輪を作り、取り憑かれたように踊っていた。
ここまで遡ればわかる。
 盆踊りは人間の発明ということではない、ということが。
 一千万年前に装置は遡り続けて新たな真実を知った。
 そのとき、輪を作って踊っているのは、プロントザウス、トリケラトプス、地上すれすれに滑空するプテラノドン。種類の異なる恐竜たちが争うこともなく。
 表情を読み取ることはできないが、彼等は嬉しいのだろうか?楽しいのだろうか?いや、きっと楽しいに決まっている。
 真実に一歩近付いたことはわかる。だが、これで解明したことにはならない。
 ここで、調査をやめるわけにはいかない。
 まだだ。もう少し遡ってみよう。この装置に時の限界はない。よくぞ、このような無限の可能性を秘めた装置を作ったものだ。
 今や、日本国中が、この装置と装置の解き明かす真実に注目しているのだ。いや、日本国中ではない。世界中の人々が、この装置に視線を向けるようになっている。
 そして、そのとき装置は一億年前の光景をとらえていた。
 何だ。これは。
 盆踊りをやっていた中心空間が光っている。
 これは生物が発する光だろうか?では、その空間のまわりを回っているものは。常識を超えた、動物とも植物ともつかないものたちが回っている。まるで見えない指揮者の聴こえないリズムに導かれるように。
 私は震えるしかなかった。
 盆踊りは人間の発明ではなかったのだ。このような信じられない過去にまで続いているとは。生物が生まれて以来続いている。世界中が驚嘆の声をあげた。
 装置は、まだまだ動き続けている。いったい、どこまで装置は見せようとしているのだろう。

 さらに過去へ。
 三十億年前。
 地上には海しか存在しなかった。装置が映し出す映像には、微生物のようなものが映っている。その微生物たちも偶然とは思えない運動をしているのがわかる。生物たちのすべてが巨大な輪を形造っている。
 中心を空けて。
 四十億年前。
 生命が地球に誕生する以前の世界。そこに巨大な渦があった。
 原子の海の中。分子が生まれ、集まり、離れ、回転する。
 輪を描く。
 中心には何も見えない。
 ただ空間だけがある。
 装置は冷静に解析した。
 中心空間は、宇宙誕生直後から存在する特殊な時空構造だということだけがわかる。近くの生物に同期運動を促す性質を持つのだ。
 ビックバン直後。
 膨張する宇宙の中心に、その空間があった。そして宇宙そのものがその周囲を踊っているのだ。
 装置は、その中心に接近していった。何かを発見したのだろうか。
 何か?何だろう?装置はもっと近付く。すべてが闇だ。しかし、踊りだけが存在する世界。
 いや、誰かだ。誰かがそこでうごめいている。いったい何だ。
いや、人だ!ありえない!まさか。
 その正体を知り愕然とした。
 装置が映し出したのは、やぐらの上で太鼓を叩いていた、あの……町内の……お爺さんだった。腰を曲げ、歯のない口を歪めて楽しそうに踊る。だが、その口はなにやら言っているようにも見える。装置が近付き、お爺さんの唇を読んだ。私には、はっきりわかった。お爺さんは、こう言っていたのだ。
「光と踊りあれ!」と。すると、光と踊りがあった。

カジシンエッセイ8月号

第261回 梅雨の終わりに

 母が家業から引退し、私にショップを引き継げという。ショップは客足の絶えないブティックだ。私にできるかしら、と不安気に言うと、母は笑いながら言った。
「なにも心配いらないわよ。ベテランの彼女がいるから。頼ったらいいよ」
 すると奥で縫製をやっていた女性が立上り微笑んだ。
「もう長いことうちでやって貰っている。なんでもできるし仕事熱心なんだ」
 すらりと背が高く、品のいい顔立ちだった。私に笑顔を向けたのだが、美人といえるのではないだろうか。男性にとっては魅力的に見えると思う。長いこと働いているという割に若く見える。ひょっとしたら私と同い歳くらいじゃないかしら。
 母が彼女を呼んだ。
「紹介しておくわ。これは私の娘。これから私の代わりにこのブティックをやっていくの」
 私は「よろしくお願いします!」と頭を下げた。
「そして、こちらは川上さん。なんでも迷ったら相談しなさい」
 川上さんは、爽やかな笑顔で右手を差し出した。
「どうぞ、よろしく」と握手をした。その瞬間、私は川上さんが本当に頼れる人なのだとわかった。
 やがて、私がショップを引き継いだ。母は、温泉旅行や習いごとと、楽しい日々のようだ。私も何も心配なく店の運営を続けている。お客さまは途切れなく続いており、対応に困ったことがあっても川上さんがてきぱきと業務を裁いてくれた。何故、このブティックは人気があるのか?それは他の店と違い、独自のセンスあるデザインを川上さんが提案し、縫製まで手がけるからだ。その服のセンスがいいといったら、感心してしまう。
 しかも、川上さんは、凄い働きものだった。開店前には必ず川上さんが先に来て仕事をしているのだ。「納期に間に合いませんから」と、彼女はこともなげに笑う。出来上がる服は完璧だった。一度もお客さまからクレームがない。いつも遅くまで働いてくれる川上さんに尋ねた。「いつも遅くまでやってくれるけれど川上さんは恋人とかいないの?」すると、すぐに答えが帰ってきた。
「大丈夫です。恋人はいません」「そうなんだ」
 一息ついて川上さんは答えた。「私には夫がいますから」
 私は、驚いた。彼女が主婦だったとは知らなかったから。まさか、と。「じゃあ、早く帰ってあげないと!」すると川上さんは言った。きっぱりと。
「ご心配ありません。その必要はありません」
 そんな川上さんが、珍しく頼んできた。
「あの。来週の火曜日に、お休みを頂きたいのですが」
 これだけ日々頑張ってくれている彼女の頼みだ。断わるわけにはいかない。
「いいわ。その日一日縫製をやらなくても、迷惑かけるお客さまがいるわけじゃないから」
「すみません。無理を言って」
 しかし、川上さんの顔が嬉しさで輝いているのを私は見逃さなかった。それほど火曜日が楽しみだったのか。
 その火曜日が来た。私一人だが、来店するお客さまに注文の品をお渡ししたり、要望を聞きとったり、いつもと変わらない静かな火曜日だ。しかも、梅雨がまだ明けない。強い雨降りの日は、客足も少ないのだ。これなら、一人でも余裕でこなせるだろう。
 外の雨が激しくなった。
 入口のドアが開いた。「いらっしゃいませ」と言いかけた口が止まる。そこに立っていたのは、川上さんだったからだ。彼女はやつれた顔をして、小さな声で言った。「今日、予定なくなりましたから、これから入ります」
 彼女の目から涙が溢れかけていた。
 他に客はいない。あわてて彼女を座らせた。
「いったい、どうしたの!」
「この雨。この雨で…」とあられもなく泣きじゃくるのだった。「夫に会えない」それだけ言って、しばらく彼女はしゃくりあげ続けた。それから、やっと落ち着きを取戻したようだった。
「私の名は……川上織姫というんです。今日は年に一日だけ、夫に会える日だったのに」
「織姫……と、いうことは……」
 私はカレンダーを見た。そして知った。今日は、七夕だということを織姫が年に一回会うのは夫の……・彦星ということか。
「私たちがあまりに仲良くなりすぎて仕事をしなくなったので、神が私たち夫婦に罰を与えられたんです。私たちは引き裂かれました。でも年に一度、七夕の日だけは逢瀬を許すとおっしゃいました。しかし、これだけの梅雨の豪雨なら。信じられないのももっともです。私の本当の名は、天の川上織姫、というんです」
 なんとも哀れなことだろう。うちのブティックに勤める前、織姫はどうやって過ごしていたのだろう。
 織姫は私が受けた注文票を見て、あわてた様子だ。
「まあ、私がはずした間にこんなに仕事がたまっている。早くやらなくちゃ。お一人で大変だったでしょ。あとは私一人でやりますから、お帰りください」
 私は川上織姫一人を置いてブティックを出た。なんと可哀想なことだろう。言葉に甘えてよかったのか?
 私が大通りに出たときだった。通りの向こうに気になる男性を見かけたのだ。
 打ちひしがれた表情の若者だ。
 そしてなにより他の若者と違うことがあった。
 大きな赤牛を一頭引いていたのだ。もしかして…。私は思わず男に声をかけずにいられなかった。
「ひょっとして、彦星さんですか?」
 若者は私を見て、大きく目を見開いた。

カジシンエッセイ7月号

第260回 悲しき雨音

 彼は、その部屋で今年から暮らし始めた。平凡は部屋だが、静かだ。それに昼間は明るい。彼の趣味は二十一世紀になってほぼ使われなくなったモールス信号の解読だ。すべての通信機が使用不能になったときに使われるくらいだと知っているが、それでもモールス信号に彼はロマンを感じてしまう。そのロマンのために彼はモールス信号を暗記する。
 その彼が、夜、眠ろうとする。灯りを消した。雨音が、かすかに聞こえた。梅雨の季節。
 だが、部屋の中にいて、外の雨音が聞こえてくるというのは少し不思議だ。
 彼はそう考えると、屋根にあたる雨音が気になり始めた。ふと、あることに気がついたのは、モールス信号に対して人一倍、興味を持っているからだろうか。
――トン・トン・トン
――ツー・ツー・ツー
――トン・トン・トン
 彼は頭を振る。自分の耳がおかしいのだろうか?いや、ちがう。偶然でもない。このリズム。聞き覚えある。彼は、かえって目が冴える。本当なら規則的な音で深い睡眠に没入する筈が。
 気になった理由を彼は悟る。これは一番有名なモールス信号。彼でなくても誰でも知っている。
 トン・トン・トンはS
 ツー・ツー・ツーはO
 つまりS・O・S
 何がS・O・Sなのだ。助けを求めているという意味だと、彼は思う。
 いや、いや、と彼は首を振る。これは雨音にすぎない。規則的な雨音が生んだ妄想だ。
 誰も、こんな話、信じてはくれない。
 彼は灯をつけ正座した。すると、SOSの雨音のリズムが変った。何だっけ、このリズム。
 助けを求めているのは、いったい誰だ。耳をすませた。わかった。
 キ・コ・エ・ル・カ?
「聞こえる」
 思わず、彼は返事を口にした。
 ヨカッタ
「えー」と彼は思わず漏らす。
 彼の背筋が冷たくなる。雨との会話が奇妙な形で成立しているからだ。だが驚きは、それだけでは終らない。
 意外な言葉が雨から続く。
 ニゲロ
「え…え…?!」
 ニゲロ
 コノアメカラ ニゲロ
 意味が分からない。外は不規則な雨音が続く。彼は自分の耳を疑う。
「これは、梅雨の長雨にすぎないんだろう」
 不規則な雨音だけの筈なのに、唐突にモールス信号が混じる。彼は、それに雨の必死さを感じる。やはり変だ。
 サイショハ ワタシタチノトキトオナジダ
 ハジメハ フツウノアメダッタ
 彼は嫌な予感がする。雨は何を言いだす。
 ダガ スコシヅツ アメガカワッタ
 ぽたり。
 天井がある筈なのに、ぽたりと、彼の腕に落ちてきた。彼は自分の腕を見る。
 濡れていた。水滴で。窓も閉まっているというのに。
 ソシテ キヅイタトキニハ
 ぽたり。次の一滴が彼の頬にあたる。そしてぽたり。その音が彼の耳にはやけに大きくなっている。
 モドレナク ナッテイル
「何に戻れない。何を言っているんだ」
 彼の声は大きくなっている。
 ダカラハジメ二 SOS ヲダシタ
 アレハ キミガ キズクタメノ SOS
 そこで、彼は気づく。あれは彼が発信すべきSOSだったのだと。それを知らせる…。
 ダレカニ トドクノヲ イノッテ
 ソシテ キミガ コタエタ
 彼の心臓は、激しく鳴り始める。雨は今は静かに、単調に、降り続く。
 コタエタ トキニ ツナガッタ
 繋がった?何が?彼は窓の外を見る。
 コチラ ト ソチラ ガ
 彼は理解する。雨が伝えたかったことを。何を言いたかったのかを。
 ダカラ ニゲロト イッタ
 SOSは救いを求める信号ではなかった。誰もが気づく筈の意味あるリズム。
 それは繋がるための“回線”だったのだ。彼は、伝えようとする誰かが誰なのか、まだ理解できていなかった。そして、これからも理解できないだろう。
 雨音が、少しだけやさしくなったように彼には思えた。すべてを諦めたように。
 マニアワナイ オソスギタ
 ぽたり。
 次の瞬間、私の手の輪郭が崩れた。彼の腕から水が滲み出す。
 キミモ コチラニクル
 ああ…と彼は呟く。視界が閉ざされる。
 ぽたり。
 彼は頭を上げる。雨音が変っていた。新しいリズム。すべてが蒼い視界。このリズムは次の誰かに向けた信号だと気づく。
 彼は必死に意識を保ちながら、最後の力で音を刻もうとする。
 これは、誰かを救おうとする信号だ。
――トン・トン・トン
――ツー・ツー・ツー
――トン・トン・トン
 そうか、どこかの誰か。
 決して答えないでくれ。そう彼は願う。

第259回 理想の相手

 紹介者の前で、初対面の女性に言われたこと。彼女は美人で身のこなしも文句のつけようがない。
「あの。まず最初の確認ですが、あなたはAIではありませんよね」
「はいっ?!」
 私の箸を持った手が止まった。
「え?あのう、人間に見えませんか?」
 一目見ただけで、私が人間かどうかわかると思うのだが。
「では、証明をお願いしたいのですが」
 履歴書でもなく、健康診断書でもなく、私が人間であるという証明が必要?女性は自分のスマホを取り出し、何やらアプリを起動させている。女性は言った。「AI判定アプリです」
 私もそれは見覚えがあった。九つの写真が画面にあった。そして、上に「橋の写真をすべてチェックしてください」とある。簡単だった。五枚が橋の写真だった。普通の橋や陸橋を見上げたもの。パリのポンヌフ橋の写真もあった。チェックし終えて画面を見せると、彼女は頷いた。画面にはこう表示されていた。
――私はロボットではありません
 その画面が――判定中――に変り、ぐるぐると渦巻く。次の表示が現れた。
――あなたは人間です
 やはり、そうだ。ほっと溜息をつこうとして、その息が止まった。続いて表示されていた。(信頼度:18%)思わず呻き声を漏らしてしまった。「低う……!」私の本音だ。
 目の前の女性は腕を組んで私を睨んでいた。
「やはり……」その目は私を疑っている。
 私は焦った。「なにが、“やはり……”ですか。目の前の人間を普通疑わないでしょう」
「それがAIの浅はかな考えです。現実は、あなたが本当の人間であるかの証明にはなっていないと訴えているも同然です」
「じゃあ、どうすれば人間だと信じてくれるんですか!」
「では追加試験を受けてください」
「追加…試験…」もう私としてもやけっぱちだ。「で、今度の問題は、いったい何ですか」
 彼女は頷き、スマホをゆっくりと私に向けた。
「では、私に、どうでもいいことを三つ、話してください。どうぞ」
それが追加試験の問題なのか?だが、何と答えれば合格になるのかはわからない。
「ええっとですね。私は今、パンツを裏返しにはいています。ちゃんとはいたつもりでしたが鏡を見たときに、それに気が付いたのです。ところがはきなおそうとしたときに、すでに見合の時間が差し迫っていることに気付いて、仕方なくそのままズボンをはいて、ここに来てしまいました。今もパンツは裏返し。これって、どうでもいいことですよね。あと……二つ。あと…二つ。どうでもいいこと……。あのう。気になりませんか?大仏さんの頭がパンチパーマみたいだってこと。あれはブッダもパンチパーマだったということですよね。本当にそうだったのかなあ。私のまわりにあんな髪型の人はいませんよね。どうして大仏はあんな髪型なんですかね?でも、これってどうでもいいことですよね。
 これで二つですね。あと一つは……どうして、どうでもいいことが三つ必要なんですか?二つや四つではいけないんですか?あ、これで、三つ。ということではいけませんか?」
 女性はふっと笑った。
「はい合格です」
「え?」
「完璧に人間です。AIは、“状況への素朴な疑問”が一番苦手です。わかりました」
 これでマッチングになるのだろうか。すると、彼女を引き合わせてくれた二人の間にいた紹介者が口を開いた。
「では次は彼女側の証明ですね」
 彼女はすっと背筋を伸ばした。まさかー。
 私も彼女にロボット判定アプリを差出す。
――私はロボットではありません
 すべての画面で自動車が入っているものにチェックされている。私が見るかぎり、間違いはない。――判定中――。ぐるぐるぐる。
――あなたは人間です。そして(信頼度100%)の表示。
 すごい。私のときが18%だったのに、今回は100%だ。
「まさかとは思いましたが、100%満点だなんてね」
 女性は、にっこりと微笑んだ。
「当然ですわ」そう言って少しだけ首を傾げてみせた。その横で彼女を私に紹介してくれた担当者がぱちぱちと手を叩いた。
「いやあ、私も迷うほどの改良ぶりでした。これが今期モデルですよ」
「今期モデルということは、彼女は……!」
 女性は立ち上がり、私に頭を下げた。紹介者と共に。「そう。彼女は人型見合AIです。そして、あなたも人間サンプル枠として、とても優秀でした。これ以上ない成果でした」
 私は、本当の見合相手として必死だったのに。しかもAIとわかっても彼女は完璧だった。立ち振舞い、美貌、言葉遣い!
「そうですね。あなたは本当に彼女を人間と信じて見合に臨まれていた」
 もう私には、普通の人間との見合で理想の相手には巡りあうことはないように思えてきていたというのに。そのことを紹介者に告げた。
「もう、彼女以上の理想の相手には出会えないような気がします。AIでもいい。彼女と私が結ばれる方法はないのでしょうか?」
 すると仲人は頷いて言った。
「気にいりましたか。彼女はより人間の理想に近いAIです。無理もない。そしてあなたは人間そっくりの人間サンプル体。完全な人間ではない。あなたと彼女なら人間もどきに人間もどきだしな。人間界なら、割れ鍋に綴じ蓋とも言うし、ベストな組合わせかもしれんし」
 私と彼女にとって、それが幸福なのか?不幸なのか?

第258回 四月に山姥に襲われた話

四月といえば山菜だ。私の趣味は山菜採りだ。その時季、深山に駆け込み、季節の野性味溢れる珍味を採りつくす。タラの芽、ハリギリ、タカノツメ、コシアブラ。それほど簡単に採れるものではない。切り立った崖の中央部や足許がもろい岩ばかりの斜面。生命の危機が伴うところも多いのだが、山菜を見つけると頭の中が真っ白になり、そんな身の危険のことなど、どうでもよくなる。
 そんな私が四月の山奥で人喰い山姥(やまんば)と出会ったときの話だ。
 その日はうららかな日和で、私は人一人出会わぬ山奥に山菜を求めて分け入っていた。目的の山菜は腰につけた竹籠にまだ半分も採れていなかった。そんなとき、杣道で奇妙な婆さんが近づいてきた。薄気味悪い笑い声をあげながら。
「おやぁ、うまそうな奴がおるわい。ひ・ひ・ひ…」
手には包丁が握られていた。婆さんは歯のない顔で包丁を振りかぶった。
 「ちょうどよいところへ。腹がへっておったんじゃ」
 これは、話に聞く山姥だ。山で会った者をかたっぱなしに喰い殺すそうだ。しかも怪力で掴まったら逃げる術はないらしい。どうすれば、いい。
「これは山姥だ…と心配しとるな。そうだ。わしゃあ山姥だ。ここで会ったがお前の運の尽きだ。わしの昼飯になれ」
 なんとか逃げないと。急いで走れば逃げおおせるか。
「ほお。急いで逃げれば逃げられるか、と考えているな?だがわしの足も速いぞ。百メートルの山道を八秒で走る。それにお前の心は何でもわかる。考えていることはすべてだ」
 とても逃げられない。それに何を考えているかわかるのか!山姥はサトルの化物でもあるのか?山姥は包丁を素早い動きで振り回していた。何か助かる方法は?昔話では、樽を作っていた男がサトルの化物が近づくと、樽のワッカがはずれてサトルを叩いて撃退できたという。囲炉裏にくべていた薪がはぜてサトルの化物の顔にあたって助かる話とかもあったけれど、そんなものは、まわりにはないしなあ。
「ほほお。日本むかし話のサトルの化物から助かった話を思い出そうとしているのか。残念なことに、お前は樽づくりをやっとらんし、囲炉裏もないから助からんなあ。ひ、ひ、ひ。」
 本当に心を読まれている。そうだ。E・F・ラッセルのSFでもあったな。あれは、部屋に入ってきた使用人がサトルの化物みたいな怪物を斧で、即、何か考える前に衝動的に叩き殺すという話だった。そんな仲間も、ここにはいない。するとニタニタ笑いの山姥が言う。
「ほほう。SFを書いたりするのか。三月に新刊『おさご幻奇譚』が河出文庫から出たばかりだな。売れているか心配だそうが、喰われてしまえば、そんな心配もせんでええぞ」
 何か、石を投げればどうだろう。うまく当てれば、逃げるチャンスも出てくる。
「石を投げても無駄だわい。そんな心が読めるから、わしは石から逃げるくらいお茶のこさいさいだからな。まだ心が読めるぞ。
 なに、なに。今月も新刊を出すのか。シリーズものか。エマノンシリーズとな。徳間書店から『もののけエマノン』というタイトルなのか。もののけといったら、わしと同類のようなものではないか。変なことを思いつくやつだな。そんな奴の肉の味はどんなかのう」
 そこまで山姥は私の心が読めるのか。どうすれば足の速い力の強い山姥から逃げることができるというのだ。いや、こんな考えさえ山姥に読まれているのだろうか。何を考えても先まわりして山姥は私を制してしまうのか。
「ふ、ふ、ふ。色々考えても私の前では無駄だとわかってきたようだな。
何々、近々もう一冊、本が発売されるのか、これは小説ではないな。お前はキノコ採りもするのか?タイトルは『キノコが私を呼んでいる』それほどお前はキノコ採りが好きだとはなあ。この本も、発売になる予定らしいな」
 そこまで心を読まれるとは、私は思わず、よろしくお願いします!と言いかけたほどだ。
 なんと恐ろしい。私の心の底まで読む怪物のような山姥。やがて私のすべての思考が読まれ、私の心が真っ白になったとき、私はこの山姥に食べられてしまうのだ。ああ、なんと悲惨な運命。
 山姥は、ニタニタ笑いを浮かべ、包丁を頭上にかまえて私に近づいてくる。
「さあ、覚悟して念仏でもとなえるんだ。おいしく食べてやるからな」
 南無三!と目を閉じかけたときだった。山姥の後方の斜面の枝の先端にでっかいそれを見つけた。
 タラの芽。
 それも、そんじゃそこらでは見かけない立派なもの。芽を出して開きかけたばかり。美味しそう!!
 こんな逸物を採らずにおけるものか!
 私は素早く山姥の脇をすり抜けると数本の木の枝がたわむのも気にせず、タラの木にたどりついた。それから手袋を素早く着けるとタラの木の棘の枝を掴み、たわませた。そして、その先端からタラの芽を採る!タラの太い枝は大きく宙を薙いだ。
 ギエッ!!
 何かの声がした。そのとき、私は自分が置かれていた立場を思いだした。
 山姥に殺されかけていた筈だ。その山姥は。
 姿がない。
 いや、細い枝に掴まって崖っぷちに宙ぶらりとぶら下がっていた。私がタラの芽を発作的に採ったとき、山姥はタラの木の枝で弾かれたのだ。山姥にも私の山菜好きの発作的行動は読めなかったのだ。
 山菜を見つけると私の頭は真っ白になる。
自分でも何をしでかすか、わからないくらいだから。おかげで助かって、このショートショート書けたんだなあ。感無量。

第257回 鈴木クンの頭山

“頭山”という落語がある。ケチな男がサクランボを食べると、頭に桜の木が生える。春になると桜の花が咲き、桜の木の下で花見客集まり大騒ぎ。あまりにうるさいので引っこ抜くと、その穴に降った雨水が溜り、池になる。魚が棲み始めると釣り客が集まるように。そして芸者連れの屋形船まで出て大賑わい。男はあまりのうるささに池に身を投げて死んじまう……という噺。

今朝、出社した鈴木を見て、その噺を思い出した。鈴木の頭に木の皮のようなものが、ちょこんと生えていたからだ。「……桜?」
桜の木の先に、ぽつんとピンク色のつぼみがついていた。「何か、変なもの食ったのか?」「三日前に、果物売場でサクランボを試食したんだ。三粒。もったいないから種子ごと飲みこんだ。昨日の夜から頭ずきずきして、今朝気がついたら、こんなになっていた」
翌日の鈴木の頭はもっとひどいことになっていた。桜の木は、より成長していたのだ。
まさしく鈴木の頭は、頭山になろうとしていた。とにかく桜の木を抜いてやらなくてはならない。桜の花が咲く前に。
ゴム手袋をして枝をつかんで引っこ抜こうとした。鈴木は悲鳴をあげた。「痛たたた。ひぃー。やめてくれ。」
数日後、鈴木の頭では見事な桜が咲いた。鈴木がベンチに座ると人々は彼にスマホを向けた。SNSでは、鈴木の人間桜の写真で溢れかえった。何故かベンチの前には、小銭が置かれていた。鈴木は絶望的な表情で泣きくれた。
なんとか鈴木を助けてやりたい。私はホームセンターから様々な薬剤を買ってきた。除草剤、育毛剤、漢方薬、ビタミン剤、そして毒をもって毒を制す。いろんな種子も。それを鈴木の頭に塗ってやった。
翌朝。鈴木の頭には桃、梅、梨、栗が実っていた。
「よくなってるどころか、これでは鈴木総合果樹園になってるじゃないか」
鈴木は苦しそうだった。よかれと思ってやったことが、裏目に出てしまったようだ。これ以上の苦しみはなさそうだった。頭の上の植物群を引き抜いてやれば、少しは苦痛もなくなるのではないか?頭に穴があいたとしても雨水が溜らなければ、池にはならない。私は鈴木を押さえて無理に桜の木や桃の木、梨の木を引っこ抜いた。凄い悲鳴を鈴木はあげた。
気を失った彼を私は急いで病院に運びこんだ。手当をすればいい結果になると思ったからだ。
医師は鈴木をMRIにかけた。そして言った。「これは、もう脳とは呼べませんね。代わりに頭の中に地形が形成されています」よく意味がわからない。「地形ですか」と問返す。「はい。頭の中に山があり、川があり、果樹園、温泉街、ほぼ観光地化しています」
これは新しい頭山の形なのだろうか?
鈴木の頭の上で観光バスが走り始めているのが見える。信じられない。
どうすればいい?
観光バスがこちらにやってきた。手をあげると、バスは私の目の前で停まった。何も考えないままドアを開く。
ぐにゃりと世界が歪んだ。バスの中にいた。
バスは走り出す。
視界が反転したようだった。バスの窓の外の遠いところで病院の白い壁が見えているような気がした。
それも気のせいだった。すぐに見えなくなる。
そのとき気がついた。これは鈴木の頭の中だということに。落語の頭山を聴いていて、いつも不思議に思っていたことがある。頭に池ができて、そこで魚を釣ったり屋形船を浮かべたり、どうしてできるのだろう、という疑問だ。
なるほど、こういうことなら、可能にちがいない、と納得できてしまった。
持っていたスマートフォンが突然、鳴り出した。出ると、鈴木だった。
「急にいなくなったから、どうしたんだと思って電話したんだ。今、どこにいるんだ?」
「今、鈴木の頭の中にいるんだ。鈴木の頭の中からバスが来て、うっかり乗ってしまった。ここには山があり谷があり、温泉もあっていいところだぞ。鈴木も来たらどうだ」
「いや、やめておくよ。あれから何と、調子が良くなったんだ。これは君のおかげだよなぁ。このまま、しばらく生活してみるつもりでいる」
「それは、よかったなあ。しかし、どうやったら鈴木の頭の中から出てこられるのだろう。と言っても鈴木にもわからないだろうし」
そう深刻に考えなかった。なんか、このバスに乗ったように元の世界に戻る方法がありそうだし。
「ああ、わからない。思いついたら教えるよ」
「じゃあ、鈴木の頭の中で、しばらくゆっくりしてみるよ。いい方法あれば教えてくれ」
私はバスを降りた。
のどかなところだった。出会う人たちは皆、感じがよく人なつこい。
誰もが私に声をかけてくれる。頼みもしないのに住まいを見つけてくれた。採れた食べものも持ってきてくれた。でかい温泉につかっていると、ここが鈴木の頭の中だということも忘れてのんびりと時が過ぎていくのを感じていた。秋には紅葉が見事だった。短い冬が過ぎると、春を迎えた。そして、方々で桜が花を咲かせた。人々は花見で酒に酔いしれた。まるで、天国だ。桜は散り、サクランボが無数になる。その頃だった。ここの人々の頭に異変が起ったのは!
住人たちの頭に例外なく樹が生えている!
あのサクランボ!
私は、この人たちをどうすればいいのだ。

第256回 二月の人

二月は逃げ月と言う人がいる。他の月よりも日が少ないから、あっという間に月が逃げ去ってしまうことから、そう言われるのだろう。今年も二月は二十八日までだ。
 なるほど卓上カレンダーの二月を開いてみると、最後の方はすかすかの空白になっている。他の月より二十九、三十、三十一の部分は白紙の状態なのだ。
 これでは、二月のカレンダーは淋しいだろう。予定の会合日や観劇、検診日を書き込んだ後にそう思った。
 そこは本来なら、二十九日の行事予定を書き込む場所だ。だが、二月の場合、そうなっている。
 そのとき、ボールペンを持っていたから、冗談半分で思わずその空白に走り書きしてしまった。
「締切守るぞ!」
 私は小説家なのだ。
 かつては趣味で書いていたのが仕事になってしまった。一ヵ月過ごした後に、そのページにたどりつけば、自分でも頷けるような激励になるのではないか?と思えたからだった。締切守る宣言なんて、自分らしくもないな、と思いつつ。
 おかしなことに気がついたのは、数日後のこと。月末近くに知人たちとの集まりが決まり、その知らせが届いた。忘れないようにカレンダーに書きこんでおこう、とめくって予定を書き込む。元に戻そうとしたときだった。カレンダーが、なぜかぱらっぱらっとめくれたのだ。
 あれ?
 そこは二月カレンダーの月末の余白だった。
「締切守るぞ!」と見覚えのある自分の文字がある。
 だが、その下に見なれない書体の文字が書かれていた。
「締切守るって大好き!ステキよ」
 目玉が飛び出るほど、驚いた。それは私の書いた文字ではなかった。美しく品のある文字だった。男性が書いてもこのような文字にならない。細くて柔かく、流れるような書体だった。
 思わず私は顔を上げ、自分が今いる周囲を見回した。
 それは私の仕事部屋の中だった。部屋の中には私しかいない。誰も部屋の中には入ってこれない。
 私は首をひねりながらも、その下の余白に書きこんだ。
「ありがとう。ステキと言われて嬉しいよ。君は誰?女の人?」
 なかなか返事はなかった。仕事の合い間にその二十八日の翌日の余白を覗いた。「そう。会いたいな」と、ある日書きこまれているのを発見したのだ。すぐに、その下に書きこんだ。二月二十六日のことだった。
「いいよ。会おう。いつ?どこで?」
 奇妙な場所を彼女は指定してきた。
「あなたの大学の二号館の前へ、明日午後三時に行きます。青いシャツを着て」
 私が出た大学のことを知っているのだろうか?私の大学時代の知り合い?
 大学二号館前のベンチに私は行った。果たして午後三時ちょうどに青いシャツの女性が現れた。笑顔を浮かべて。
 想像を遥かに超えて彼女は美人だった。昔、好きだったアイドルや女優にどこか似ていてそんな印象を持ったのかもしれない。しかしどこかで会った気はするのだが、どうしても思い出せなかった。
「君がメモを書いたの?」私は震える声で尋ねた。
「そうよ。私、あなたのカレンダーの余白に書いたの」と彼女は言った。彼女は自動販売機に駆け寄りコーヒーを出した。それは学生時代、私が好んで飲んでいたコーヒーだった。
「どうして私が好きだったコーヒーを知っているんだ?」
 彼女は私に笑顔を向けた。それから、色々なことを私に語り始めた。彼女が語ると、私は忘れていた学生時代のことを次々に思い出していた。
 試験に遅れて必死に走って教室に飛びこんで落第点になりそうだったこと。文化祭で、前夜に徹夜してポスターを書き上げたこと。急に腹痛をおこして学内で倒れて医務室に運びこまれたこと。
 誰も、ここ迄くわしい筈はないと思うのに、現れた彼女は、すべてを自分の目で見たことのように語ってくれる。
 なぜだ。
 考えるが、もう少しでたどり着きそうなのに、その答は見つからない。しかし、彼女は全部知っていた。不思議だ。
「君は誰なの?どうして私のことを?」
「あなたは昔から小説を書いていたよね。私、あなたが書いた小説のヒロインだった。あなたは私を現実に存在するように想像していた。主人公がヒロインに出会ったのが二月二十九日だったのよ」
 だから彼女は二月二十九日の余白で実体化したのか。実は、昔、二月は毎年二十九日迄あると思いこんでいた。そして彼女が好きだったアイドルに似ているのは、そういうことだったのか。
「私のこと思い出してくれた?」
「思い出した。カレンダーに書いたのも君なんだね!」
 次の瞬間、私の前から彼女は消え去っていた。あたりを見回しても彼女の姿はなかった。
 翌日、仕事場のカレンダーの二月二十九日の余白には何も書かれていなかった。だが……そして一枚めくると、そこは三月一日。その下の狭い余白に彼女の字が。
「次は、どんな物語を書くの?」

第255回 十年賀状

新人の彼にとっては、初めての年賀状配達になる。
 その田舎の郵便局の大晦日。彼は仕訳け室の片隅に、ぽつんと木箱が置かれていることに気がついた。古びた木箱で、ずっと置かれていたらしいが、何故か今日まで気がつかなかった。
 彼は先輩に尋ねた。「これ、なんですか?」
 先輩は、眉を寄せた。「ああ。未処理年賀状だよ。七、八年前の大掃除で出てきた。そのままになっているんだ」
 彼は、木箱を開いてみた。少し色が黄ばんだ年賀状が一枚だけ入っていた。そして、その年賀状の年は、なんと十年前だった。ちゃんと住所もあるというのに。

 -あけましておめでとう。
  今年も仲良く過ごそうね。
  由香里

 差出人は女性の名前だけがある。
 女性の名前。住所はない。
 宛先の住所は書かれていた。住所は彼の配達担当地域だ。これもやさしい文字で書かれている。
「これ、明日、届けようと思いますが」
「その住所。家はあるが、誰も住んでいない。返送しようにも差出人の住所もわからないんだよ。そして十年も前だよ」
 年が明け、彼は多くの年賀状を抱えて配達に出た。ほとんど配達を終えて、彼の手元には一枚だけが残った。あの十年前の配達されなかった年賀状だ。今もその住所には古びた無人の家があるのだろうか?
 果して、その家を彼は訪れた。
 無人ではなかった。家の中から明かりが漏れているではないか。彼は入口で叫んだ。
「はい」と返事がある。しばらくの間の後、玄関が開き、男が顔を出した。二十代も終ろうかという男だった。
「あ、郵便局のものです。大変申し訳ないのですが、十年前に未配達になっていた郵便物をお届けにあがりました」
 男は古びた年賀状を受取り不思議そうに裏返し、驚きの声をあげた。
「由香里から!」
 大事な人から年賀状だったのだろう。これほど感情の表れた声をあげるなんて。きっと、何故こんなに遅くなったのだ、と文句を言われるのだろうな、と彼は覚悟した。
 しかし、……男は涙腺がゆるんでしまっているようだった。鼻水をこらえる様子まで、はっきりとわかった。
「本当に申し訳ありません。十年間も、この年賀状をお届けできなかったなんて」
 男は何度かうなずき、受け取った年賀状をやさしく自分の胸にあてた。そして、やっと笑顔を浮かべた。
「いや、心配しないでください。届かなかった理由はわかりますよ。ぼくは県外に出ていったし、その後、ここにいた家族も他所に出てしまった。うまく住所変更もできていなかったみたいですね。
 この年賀状をくれたのも幼い頃からの友だちなんです。十年前に彼女も急に引っ越してしまった。それから連絡も途絶えてしまって…」
 そしてもう一度、年賀状を男は見る。
「今年も仲良く過ごそうね…か。由香里もこの後、県外に出たんだろうなあ」男は目元を押さえ、きまり悪そうに笑った。「あ、この家は、まだ父の名義なんです。年末に、ぼくは帰ってきて、家の整理をしていたんですよ。十年ぶりに訪れたわが家。なにもかもがなつかしい」
 そして郵便配達の彼に向かって、感慨深げに言った。
「……でも、十年遅れて…しかも、ぼくがいるときに届くなんて。なんか由香里がぼくのことを応援してくれていたみたいだ」
「この家には、ご家族で帰られたんですか?」
「いえ、ずっと私はひとり者です。家族は誰もいません。気楽なものですよ…」しかし、その話かたには、どこか自嘲的に聞こえるものがあった。男はずっと独身を通してきたかのようにも見えた。
 そのときだった。家の固定電話がけたたましく鳴った。「あ、この電話、まだ使えるんだ」と言いつつ受話器をとった。
 彼は耳を疑った。
 受話器をとった。それから「由香里?」
 男自身も驚いているのは明らかだ。彼も自分の耳を疑っていた。
 男は言う。
「うん……。うん……。久しぶり。元気だったみたいだね。もちろん……。もちろん会いたいよ」
 男は信じられない表情で電話を切り、年賀状を彼に差し出した。
「信じられますか。この彼女からですよ。今日、たまたま帰省していて……通じないとわかっていても昔の番号を覚えていたから電話をかけてみたって、信じられない。繋がったって。会いたい…そう言ってくれました。この十年前の年賀状。きっと意味があった気がする。だから今日だったんだ。この年賀状。由香里にも見せるつもりです。これは…十年遅れの新年の奇跡です」
 深々と男は頭を下げた。

 彼は配達用の自転車のサドルに足をかけた。
――郵便物は遅れてもいい。届くべき場所に届くなら、それは『間に合った』ということではないのか?
 ふとサドルの上に年賀状が残っていた。さっき渡した筈の十年前の年賀状。彼はあわててそれを渡すために引返した。灯りはもう消えていた。玄関を開けようにも固く閉じられていた。人が住んでいる気配はない。まだ数刻前なのに。
「あの…」後ろから若い女が携帯電話を持ち、立っていた。彼に言った。
 彼は振り返った。「由香里さん」思わず彼女の名を呼んだ。女は頷く。
 「何故、私の名を?」
北風が二人の間をやさしく
通り過ぎていった。