第259回 理想の相手

 紹介者の前で、初対面の女性に言われたこと。彼女は美人で身のこなしも文句のつけようがない。
「あの。まず最初の確認ですが、あなたはAIではありませんよね」
「はいっ?!」
 私の箸を持った手が止まった。
「え?あのう、人間に見えませんか?」
 一目見ただけで、私が人間かどうかわかると思うのだが。
「では、証明をお願いしたいのですが」
 履歴書でもなく、健康診断書でもなく、私が人間であるという証明が必要?女性は自分のスマホを取り出し、何やらアプリを起動させている。女性は言った。「AI判定アプリです」
 私もそれは見覚えがあった。九つの写真が画面にあった。そして、上に「橋の写真をすべてチェックしてください」とある。簡単だった。五枚が橋の写真だった。普通の橋や陸橋を見上げたもの。パリのポンヌフ橋の写真もあった。チェックし終えて画面を見せると、彼女は頷いた。画面にはこう表示されていた。
――私はロボットではありません
 その画面が――判定中――に変り、ぐるぐると渦巻く。次の表示が現れた。
――あなたは人間です
 やはり、そうだ。ほっと溜息をつこうとして、その息が止まった。続いて表示されていた。(信頼度:18%)思わず呻き声を漏らしてしまった。「低う……!」私の本音だ。
 目の前の女性は腕を組んで私を睨んでいた。
「やはり……」その目は私を疑っている。
 私は焦った。「なにが、“やはり……”ですか。目の前の人間を普通疑わないでしょう」
「それがAIの浅はかな考えです。現実は、あなたが本当の人間であるかの証明にはなっていないと訴えているも同然です」
「じゃあ、どうすれば人間だと信じてくれるんですか!」
「では追加試験を受けてください」
「追加…試験…」もう私としてもやけっぱちだ。「で、今度の問題は、いったい何ですか」
 彼女は頷き、スマホをゆっくりと私に向けた。
「では、私に、どうでもいいことを三つ、話してください。どうぞ」
それが追加試験の問題なのか?だが、何と答えれば合格になるのかはわからない。
「ええっとですね。私は今、パンツを裏返しにはいています。ちゃんとはいたつもりでしたが鏡を見たときに、それに気が付いたのです。ところがはきなおそうとしたときに、すでに見合の時間が差し迫っていることに気付いて、仕方なくそのままズボンをはいて、ここに来てしまいました。今もパンツは裏返し。これって、どうでもいいことですよね。あと……二つ。あと…二つ。どうでもいいこと……。あのう。気になりませんか?大仏さんの頭がパンチパーマみたいだってこと。あれはブッダもパンチパーマだったということですよね。本当にそうだったのかなあ。私のまわりにあんな髪型の人はいませんよね。どうして大仏はあんな髪型なんですかね?でも、これってどうでもいいことですよね。
 これで二つですね。あと一つは……どうして、どうでもいいことが三つ必要なんですか?二つや四つではいけないんですか?あ、これで、三つ。ということではいけませんか?」
 女性はふっと笑った。
「はい合格です」
「え?」
「完璧に人間です。AIは、“状況への素朴な疑問”が一番苦手です。わかりました」
 これでマッチングになるのだろうか。すると、彼女を引き合わせてくれた二人の間にいた紹介者が口を開いた。
「では次は彼女側の証明ですね」
 彼女はすっと背筋を伸ばした。まさかー。
 私も彼女にロボット判定アプリを差出す。
――私はロボットではありません
 すべての画面で自動車が入っているものにチェックされている。私が見るかぎり、間違いはない。――判定中――。ぐるぐるぐる。
――あなたは人間です。そして(信頼度100%)の表示。
 すごい。私のときが18%だったのに、今回は100%だ。
「まさかとは思いましたが、100%満点だなんてね」
 女性は、にっこりと微笑んだ。
「当然ですわ」そう言って少しだけ首を傾げてみせた。その横で彼女を私に紹介してくれた担当者がぱちぱちと手を叩いた。
「いやあ、私も迷うほどの改良ぶりでした。これが今期モデルですよ」
「今期モデルということは、彼女は……!」
 女性は立ち上がり、私に頭を下げた。紹介者と共に。「そう。彼女は人型見合AIです。そして、あなたも人間サンプル枠として、とても優秀でした。これ以上ない成果でした」
 私は、本当の見合相手として必死だったのに。しかもAIとわかっても彼女は完璧だった。立ち振舞い、美貌、言葉遣い!
「そうですね。あなたは本当に彼女を人間と信じて見合に臨まれていた」
 もう私には、普通の人間との見合で理想の相手には巡りあうことはないように思えてきていたというのに。そのことを紹介者に告げた。
「もう、彼女以上の理想の相手には出会えないような気がします。AIでもいい。彼女と私が結ばれる方法はないのでしょうか?」
 すると仲人は頷いて言った。
「気にいりましたか。彼女はより人間の理想に近いAIです。無理もない。そしてあなたは人間そっくりの人間サンプル体。完全な人間ではない。あなたと彼女なら人間もどきに人間もどきだしな。人間界なら、割れ鍋に綴じ蓋とも言うし、ベストな組合わせかもしれんし」
 私と彼女にとって、それが幸福なのか?不幸なのか?

第258回 四月に山姥に襲われた話

四月といえば山菜だ。私の趣味は山菜採りだ。その時季、深山に駆け込み、季節の野性味溢れる珍味を採りつくす。タラの芽、ハリギリ、タカノツメ、コシアブラ。それほど簡単に採れるものではない。切り立った崖の中央部や足許がもろい岩ばかりの斜面。生命の危機が伴うところも多いのだが、山菜を見つけると頭の中が真っ白になり、そんな身の危険のことなど、どうでもよくなる。
 そんな私が四月の山奥で人喰い山姥(やまんば)と出会ったときの話だ。
 その日はうららかな日和で、私は人一人出会わぬ山奥に山菜を求めて分け入っていた。目的の山菜は腰につけた竹籠にまだ半分も採れていなかった。そんなとき、杣道で奇妙な婆さんが近づいてきた。薄気味悪い笑い声をあげながら。
「おやぁ、うまそうな奴がおるわい。ひ・ひ・ひ…」
手には包丁が握られていた。婆さんは歯のない顔で包丁を振りかぶった。
 「ちょうどよいところへ。腹がへっておったんじゃ」
 これは、話に聞く山姥だ。山で会った者をかたっぱなしに喰い殺すそうだ。しかも怪力で掴まったら逃げる術はないらしい。どうすれば、いい。
「これは山姥だ…と心配しとるな。そうだ。わしゃあ山姥だ。ここで会ったがお前の運の尽きだ。わしの昼飯になれ」
 なんとか逃げないと。急いで走れば逃げおおせるか。
「ほお。急いで逃げれば逃げられるか、と考えているな?だがわしの足も速いぞ。百メートルの山道を八秒で走る。それにお前の心は何でもわかる。考えていることはすべてだ」
 とても逃げられない。それに何を考えているかわかるのか!山姥はサトルの化物でもあるのか?山姥は包丁を素早い動きで振り回していた。何か助かる方法は?昔話では、樽を作っていた男がサトルの化物が近づくと、樽のワッカがはずれてサトルを叩いて撃退できたという。囲炉裏にくべていた薪がはぜてサトルの化物の顔にあたって助かる話とかもあったけれど、そんなものは、まわりにはないしなあ。
「ほほお。日本むかし話のサトルの化物から助かった話を思い出そうとしているのか。残念なことに、お前は樽づくりをやっとらんし、囲炉裏もないから助からんなあ。ひ、ひ、ひ。」
 本当に心を読まれている。そうだ。E・F・ラッセルのSFでもあったな。あれは、部屋に入ってきた使用人がサトルの化物みたいな怪物を斧で、即、何か考える前に衝動的に叩き殺すという話だった。そんな仲間も、ここにはいない。するとニタニタ笑いの山姥が言う。
「ほほう。SFを書いたりするのか。三月に新刊『おさご幻奇譚』が河出文庫から出たばかりだな。売れているか心配だそうが、喰われてしまえば、そんな心配もせんでええぞ」
 何か、石を投げればどうだろう。うまく当てれば、逃げるチャンスも出てくる。
「石を投げても無駄だわい。そんな心が読めるから、わしは石から逃げるくらいお茶のこさいさいだからな。まだ心が読めるぞ。
 なに、なに。今月も新刊を出すのか。シリーズものか。エマノンシリーズとな。徳間書店から『もののけエマノン』というタイトルなのか。もののけといったら、わしと同類のようなものではないか。変なことを思いつくやつだな。そんな奴の肉の味はどんなかのう」
 そこまで山姥は私の心が読めるのか。どうすれば足の速い力の強い山姥から逃げることができるというのだ。いや、こんな考えさえ山姥に読まれているのだろうか。何を考えても先まわりして山姥は私を制してしまうのか。
「ふ、ふ、ふ。色々考えても私の前では無駄だとわかってきたようだな。
何々、近々もう一冊、本が発売されるのか、これは小説ではないな。お前はキノコ採りもするのか?タイトルは『キノコが私を呼んでいる』それほどお前はキノコ採りが好きだとはなあ。この本も、発売になる予定らしいな」
 そこまで心を読まれるとは、私は思わず、よろしくお願いします!と言いかけたほどだ。
 なんと恐ろしい。私の心の底まで読む怪物のような山姥。やがて私のすべての思考が読まれ、私の心が真っ白になったとき、私はこの山姥に食べられてしまうのだ。ああ、なんと悲惨な運命。
 山姥は、ニタニタ笑いを浮かべ、包丁を頭上にかまえて私に近づいてくる。
「さあ、覚悟して念仏でもとなえるんだ。おいしく食べてやるからな」
 南無三!と目を閉じかけたときだった。山姥の後方の斜面の枝の先端にでっかいそれを見つけた。
 タラの芽。
 それも、そんじゃそこらでは見かけない立派なもの。芽を出して開きかけたばかり。美味しそう!!
 こんな逸物を採らずにおけるものか!
 私は素早く山姥の脇をすり抜けると数本の木の枝がたわむのも気にせず、タラの木にたどりついた。それから手袋を素早く着けるとタラの木の棘の枝を掴み、たわませた。そして、その先端からタラの芽を採る!タラの太い枝は大きく宙を薙いだ。
 ギエッ!!
 何かの声がした。そのとき、私は自分が置かれていた立場を思いだした。
 山姥に殺されかけていた筈だ。その山姥は。
 姿がない。
 いや、細い枝に掴まって崖っぷちに宙ぶらりとぶら下がっていた。私がタラの芽を発作的に採ったとき、山姥はタラの木の枝で弾かれたのだ。山姥にも私の山菜好きの発作的行動は読めなかったのだ。
 山菜を見つけると私の頭は真っ白になる。
自分でも何をしでかすか、わからないくらいだから。おかげで助かって、このショートショート書けたんだなあ。感無量。

第257回 鈴木クンの頭山

“頭山”という落語がある。ケチな男がサクランボを食べると、頭に桜の木が生える。春になると桜の花が咲き、桜の木の下で花見客集まり大騒ぎ。あまりにうるさいので引っこ抜くと、その穴に降った雨水が溜り、池になる。魚が棲み始めると釣り客が集まるように。そして芸者連れの屋形船まで出て大賑わい。男はあまりのうるささに池に身を投げて死んじまう……という噺。

今朝、出社した鈴木を見て、その噺を思い出した。鈴木の頭に木の皮のようなものが、ちょこんと生えていたからだ。「……桜?」
桜の木の先に、ぽつんとピンク色のつぼみがついていた。「何か、変なもの食ったのか?」「三日前に、果物売場でサクランボを試食したんだ。三粒。もったいないから種子ごと飲みこんだ。昨日の夜から頭ずきずきして、今朝気がついたら、こんなになっていた」
翌日の鈴木の頭はもっとひどいことになっていた。桜の木は、より成長していたのだ。
まさしく鈴木の頭は、頭山になろうとしていた。とにかく桜の木を抜いてやらなくてはならない。桜の花が咲く前に。
ゴム手袋をして枝をつかんで引っこ抜こうとした。鈴木は悲鳴をあげた。「痛たたた。ひぃー。やめてくれ。」
数日後、鈴木の頭では見事な桜が咲いた。鈴木がベンチに座ると人々は彼にスマホを向けた。SNSでは、鈴木の人間桜の写真で溢れかえった。何故かベンチの前には、小銭が置かれていた。鈴木は絶望的な表情で泣きくれた。
なんとか鈴木を助けてやりたい。私はホームセンターから様々な薬剤を買ってきた。除草剤、育毛剤、漢方薬、ビタミン剤、そして毒をもって毒を制す。いろんな種子も。それを鈴木の頭に塗ってやった。
翌朝。鈴木の頭には桃、梅、梨、栗が実っていた。
「よくなってるどころか、これでは鈴木総合果樹園になってるじゃないか」
鈴木は苦しそうだった。よかれと思ってやったことが、裏目に出てしまったようだ。これ以上の苦しみはなさそうだった。頭の上の植物群を引き抜いてやれば、少しは苦痛もなくなるのではないか?頭に穴があいたとしても雨水が溜らなければ、池にはならない。私は鈴木を押さえて無理に桜の木や桃の木、梨の木を引っこ抜いた。凄い悲鳴を鈴木はあげた。
気を失った彼を私は急いで病院に運びこんだ。手当をすればいい結果になると思ったからだ。
医師は鈴木をMRIにかけた。そして言った。「これは、もう脳とは呼べませんね。代わりに頭の中に地形が形成されています」よく意味がわからない。「地形ですか」と問返す。「はい。頭の中に山があり、川があり、果樹園、温泉街、ほぼ観光地化しています」
これは新しい頭山の形なのだろうか?
鈴木の頭の上で観光バスが走り始めているのが見える。信じられない。
どうすればいい?
観光バスがこちらにやってきた。手をあげると、バスは私の目の前で停まった。何も考えないままドアを開く。
ぐにゃりと世界が歪んだ。バスの中にいた。
バスは走り出す。
視界が反転したようだった。バスの窓の外の遠いところで病院の白い壁が見えているような気がした。
それも気のせいだった。すぐに見えなくなる。
そのとき気がついた。これは鈴木の頭の中だということに。落語の頭山を聴いていて、いつも不思議に思っていたことがある。頭に池ができて、そこで魚を釣ったり屋形船を浮かべたり、どうしてできるのだろう、という疑問だ。
なるほど、こういうことなら、可能にちがいない、と納得できてしまった。
持っていたスマートフォンが突然、鳴り出した。出ると、鈴木だった。
「急にいなくなったから、どうしたんだと思って電話したんだ。今、どこにいるんだ?」
「今、鈴木の頭の中にいるんだ。鈴木の頭の中からバスが来て、うっかり乗ってしまった。ここには山があり谷があり、温泉もあっていいところだぞ。鈴木も来たらどうだ」
「いや、やめておくよ。あれから何と、調子が良くなったんだ。これは君のおかげだよなぁ。このまま、しばらく生活してみるつもりでいる」
「それは、よかったなあ。しかし、どうやったら鈴木の頭の中から出てこられるのだろう。と言っても鈴木にもわからないだろうし」
そう深刻に考えなかった。なんか、このバスに乗ったように元の世界に戻る方法がありそうだし。
「ああ、わからない。思いついたら教えるよ」
「じゃあ、鈴木の頭の中で、しばらくゆっくりしてみるよ。いい方法あれば教えてくれ」
私はバスを降りた。
のどかなところだった。出会う人たちは皆、感じがよく人なつこい。
誰もが私に声をかけてくれる。頼みもしないのに住まいを見つけてくれた。採れた食べものも持ってきてくれた。でかい温泉につかっていると、ここが鈴木の頭の中だということも忘れてのんびりと時が過ぎていくのを感じていた。秋には紅葉が見事だった。短い冬が過ぎると、春を迎えた。そして、方々で桜が花を咲かせた。人々は花見で酒に酔いしれた。まるで、天国だ。桜は散り、サクランボが無数になる。その頃だった。ここの人々の頭に異変が起ったのは!
住人たちの頭に例外なく樹が生えている!
あのサクランボ!
私は、この人たちをどうすればいいのだ。

第256回 二月の人

二月は逃げ月と言う人がいる。他の月よりも日が少ないから、あっという間に月が逃げ去ってしまうことから、そう言われるのだろう。今年も二月は二十八日までだ。
 なるほど卓上カレンダーの二月を開いてみると、最後の方はすかすかの空白になっている。他の月より二十九、三十、三十一の部分は白紙の状態なのだ。
 これでは、二月のカレンダーは淋しいだろう。予定の会合日や観劇、検診日を書き込んだ後にそう思った。
 そこは本来なら、二十九日の行事予定を書き込む場所だ。だが、二月の場合、そうなっている。
 そのとき、ボールペンを持っていたから、冗談半分で思わずその空白に走り書きしてしまった。
「締切守るぞ!」
 私は小説家なのだ。
 かつては趣味で書いていたのが仕事になってしまった。一ヵ月過ごした後に、そのページにたどりつけば、自分でも頷けるような激励になるのではないか?と思えたからだった。締切守る宣言なんて、自分らしくもないな、と思いつつ。
 おかしなことに気がついたのは、数日後のこと。月末近くに知人たちとの集まりが決まり、その知らせが届いた。忘れないようにカレンダーに書きこんでおこう、とめくって予定を書き込む。元に戻そうとしたときだった。カレンダーが、なぜかぱらっぱらっとめくれたのだ。
 あれ?
 そこは二月カレンダーの月末の余白だった。
「締切守るぞ!」と見覚えのある自分の文字がある。
 だが、その下に見なれない書体の文字が書かれていた。
「締切守るって大好き!ステキよ」
 目玉が飛び出るほど、驚いた。それは私の書いた文字ではなかった。美しく品のある文字だった。男性が書いてもこのような文字にならない。細くて柔かく、流れるような書体だった。
 思わず私は顔を上げ、自分が今いる周囲を見回した。
 それは私の仕事部屋の中だった。部屋の中には私しかいない。誰も部屋の中には入ってこれない。
 私は首をひねりながらも、その下の余白に書きこんだ。
「ありがとう。ステキと言われて嬉しいよ。君は誰?女の人?」
 なかなか返事はなかった。仕事の合い間にその二十八日の翌日の余白を覗いた。「そう。会いたいな」と、ある日書きこまれているのを発見したのだ。すぐに、その下に書きこんだ。二月二十六日のことだった。
「いいよ。会おう。いつ?どこで?」
 奇妙な場所を彼女は指定してきた。
「あなたの大学の二号館の前へ、明日午後三時に行きます。青いシャツを着て」
 私が出た大学のことを知っているのだろうか?私の大学時代の知り合い?
 大学二号館前のベンチに私は行った。果たして午後三時ちょうどに青いシャツの女性が現れた。笑顔を浮かべて。
 想像を遥かに超えて彼女は美人だった。昔、好きだったアイドルや女優にどこか似ていてそんな印象を持ったのかもしれない。しかしどこかで会った気はするのだが、どうしても思い出せなかった。
「君がメモを書いたの?」私は震える声で尋ねた。
「そうよ。私、あなたのカレンダーの余白に書いたの」と彼女は言った。彼女は自動販売機に駆け寄りコーヒーを出した。それは学生時代、私が好んで飲んでいたコーヒーだった。
「どうして私が好きだったコーヒーを知っているんだ?」
 彼女は私に笑顔を向けた。それから、色々なことを私に語り始めた。彼女が語ると、私は忘れていた学生時代のことを次々に思い出していた。
 試験に遅れて必死に走って教室に飛びこんで落第点になりそうだったこと。文化祭で、前夜に徹夜してポスターを書き上げたこと。急に腹痛をおこして学内で倒れて医務室に運びこまれたこと。
 誰も、ここ迄くわしい筈はないと思うのに、現れた彼女は、すべてを自分の目で見たことのように語ってくれる。
 なぜだ。
 考えるが、もう少しでたどり着きそうなのに、その答は見つからない。しかし、彼女は全部知っていた。不思議だ。
「君は誰なの?どうして私のことを?」
「あなたは昔から小説を書いていたよね。私、あなたが書いた小説のヒロインだった。あなたは私を現実に存在するように想像していた。主人公がヒロインに出会ったのが二月二十九日だったのよ」
 だから彼女は二月二十九日の余白で実体化したのか。実は、昔、二月は毎年二十九日迄あると思いこんでいた。そして彼女が好きだったアイドルに似ているのは、そういうことだったのか。
「私のこと思い出してくれた?」
「思い出した。カレンダーに書いたのも君なんだね!」
 次の瞬間、私の前から彼女は消え去っていた。あたりを見回しても彼女の姿はなかった。
 翌日、仕事場のカレンダーの二月二十九日の余白には何も書かれていなかった。だが……そして一枚めくると、そこは三月一日。その下の狭い余白に彼女の字が。
「次は、どんな物語を書くの?」

第255回 十年賀状

新人の彼にとっては、初めての年賀状配達になる。
 その田舎の郵便局の大晦日。彼は仕訳け室の片隅に、ぽつんと木箱が置かれていることに気がついた。古びた木箱で、ずっと置かれていたらしいが、何故か今日まで気がつかなかった。
 彼は先輩に尋ねた。「これ、なんですか?」
 先輩は、眉を寄せた。「ああ。未処理年賀状だよ。七、八年前の大掃除で出てきた。そのままになっているんだ」
 彼は、木箱を開いてみた。少し色が黄ばんだ年賀状が一枚だけ入っていた。そして、その年賀状の年は、なんと十年前だった。ちゃんと住所もあるというのに。

 -あけましておめでとう。
  今年も仲良く過ごそうね。
  由香里

 差出人は女性の名前だけがある。
 女性の名前。住所はない。
 宛先の住所は書かれていた。住所は彼の配達担当地域だ。これもやさしい文字で書かれている。
「これ、明日、届けようと思いますが」
「その住所。家はあるが、誰も住んでいない。返送しようにも差出人の住所もわからないんだよ。そして十年も前だよ」
 年が明け、彼は多くの年賀状を抱えて配達に出た。ほとんど配達を終えて、彼の手元には一枚だけが残った。あの十年前の配達されなかった年賀状だ。今もその住所には古びた無人の家があるのだろうか?
 果して、その家を彼は訪れた。
 無人ではなかった。家の中から明かりが漏れているではないか。彼は入口で叫んだ。
「はい」と返事がある。しばらくの間の後、玄関が開き、男が顔を出した。二十代も終ろうかという男だった。
「あ、郵便局のものです。大変申し訳ないのですが、十年前に未配達になっていた郵便物をお届けにあがりました」
 男は古びた年賀状を受取り不思議そうに裏返し、驚きの声をあげた。
「由香里から!」
 大事な人から年賀状だったのだろう。これほど感情の表れた声をあげるなんて。きっと、何故こんなに遅くなったのだ、と文句を言われるのだろうな、と彼は覚悟した。
 しかし、……男は涙腺がゆるんでしまっているようだった。鼻水をこらえる様子まで、はっきりとわかった。
「本当に申し訳ありません。十年間も、この年賀状をお届けできなかったなんて」
 男は何度かうなずき、受け取った年賀状をやさしく自分の胸にあてた。そして、やっと笑顔を浮かべた。
「いや、心配しないでください。届かなかった理由はわかりますよ。ぼくは県外に出ていったし、その後、ここにいた家族も他所に出てしまった。うまく住所変更もできていなかったみたいですね。
 この年賀状をくれたのも幼い頃からの友だちなんです。十年前に彼女も急に引っ越してしまった。それから連絡も途絶えてしまって…」
 そしてもう一度、年賀状を男は見る。
「今年も仲良く過ごそうね…か。由香里もこの後、県外に出たんだろうなあ」男は目元を押さえ、きまり悪そうに笑った。「あ、この家は、まだ父の名義なんです。年末に、ぼくは帰ってきて、家の整理をしていたんですよ。十年ぶりに訪れたわが家。なにもかもがなつかしい」
 そして郵便配達の彼に向かって、感慨深げに言った。
「……でも、十年遅れて…しかも、ぼくがいるときに届くなんて。なんか由香里がぼくのことを応援してくれていたみたいだ」
「この家には、ご家族で帰られたんですか?」
「いえ、ずっと私はひとり者です。家族は誰もいません。気楽なものですよ…」しかし、その話かたには、どこか自嘲的に聞こえるものがあった。男はずっと独身を通してきたかのようにも見えた。
 そのときだった。家の固定電話がけたたましく鳴った。「あ、この電話、まだ使えるんだ」と言いつつ受話器をとった。
 彼は耳を疑った。
 受話器をとった。それから「由香里?」
 男自身も驚いているのは明らかだ。彼も自分の耳を疑っていた。
 男は言う。
「うん……。うん……。久しぶり。元気だったみたいだね。もちろん……。もちろん会いたいよ」
 男は信じられない表情で電話を切り、年賀状を彼に差し出した。
「信じられますか。この彼女からですよ。今日、たまたま帰省していて……通じないとわかっていても昔の番号を覚えていたから電話をかけてみたって、信じられない。繋がったって。会いたい…そう言ってくれました。この十年前の年賀状。きっと意味があった気がする。だから今日だったんだ。この年賀状。由香里にも見せるつもりです。これは…十年遅れの新年の奇跡です」
 深々と男は頭を下げた。

 彼は配達用の自転車のサドルに足をかけた。
――郵便物は遅れてもいい。届くべき場所に届くなら、それは『間に合った』ということではないのか?
 ふとサドルの上に年賀状が残っていた。さっき渡した筈の十年前の年賀状。彼はあわててそれを渡すために引返した。灯りはもう消えていた。玄関を開けようにも固く閉じられていた。人が住んでいる気配はない。まだ数刻前なのに。
「あの…」後ろから若い女が携帯電話を持ち、立っていた。彼に言った。
 彼は振り返った。「由香里さん」思わず彼女の名を呼んだ。女は頷く。
 「何故、私の名を?」
北風が二人の間をやさしく
通り過ぎていった。

第254回 走る教師

何故か、世の中には不思議で理解できない行事がある。それも私の職業に関してだ。
 私が教師の仕事につくときも両親は心配したものだ。
 「教師になれば、年末には、“あれ”があるんだよ。お前は「子どもの頃から運動音痴だったろう」と。
 「いや、ぼくは生徒たちを、より高く導くだけで満足なんだ。そのくらいのことは覚悟して教師の職業に就くよ。一回うまくこなせば毎年でもコツを掴んで、うまくやれると思うんだ」
 両親は、それ以上、私を説得する言葉もなかったようだ。私のことを言い出したら聞かない子と思っていた。
 そして私は教師になった。生徒たちに新しい知識を学ばせていくことは素晴らしかった。皆が真面目で勉学にいそしんでくれる。父兄たちも私の教えかたに口を挟んだりはしない。やりがいのある仕事だった。この仕事を選んでよかったと思う日々が続いた。
 この仕事に就くまで色々と脅された。昼も夜もやることが多くて頭がおかしくなるぞ、とか、モンスターペアレントが押しかけてくるぞ、とか。しかし、そんなことはなかった。週休も二日とれて、自分の時間を誰にも邪魔されることはなかった。
 理想の仕事だった。
 そして十一月末。両親の心配していた“あれ”の連絡が、私宛に送られてきた。どこからだって?
<教育委員会>から。

─十二月は、教師は全員、走行免除試験を受けなければなりません。この試験に合格した教師だけ走行免除許可証が授与され歩行できます。また、不合格の教師は、十二月末日迄、師走ぱんつを装着して行動することが義務づけられる。なお、師走ぱんつは時速五キロ以下になると、爆発します。─

 愕然とした。両親が案じていたのはこれか。
 先輩教師たちは驚いている様子はない。
「あの…毎年、走行免除試験とか、行われているのですか?」
「当たり前ですよ。これは暮の風物詩ですからね。師走は、先生、つまり師も走る月ということです。しかし、これは諸々経験の少ない先生が走るということです。経験豊富な先生はあわてることもない。つまり走ることもない。それが試験で問われるということです」
 先輩教師は落着きはらってそう答えた。
「しかし、師走ぱんつを装着して時速五キロ以下で走ると爆発するんですよ」
「当然でしょう。仕方ないことです。教師の資格を問われるような教師が爆死するというのは自業自得でしょう。そう。教師の資格がないことですから。教師は走りまわって当然なのです。先生が走りまわって、初めて師走と言えるのですからね」
 これは大変だ。だが、先輩教師たちは、まったく焦ったりあわてたりしている様子もない。日常の仕事をこなし、授業をやっている。
 ということは、あまりあわてることもないのだろうか。常識的問題が出ると考えていればいいのか。
 先輩教師の一人がひとり言のように言った。
「やはり、十二月は師走というから、一人くらいは走りまわっている先生の姿を見るのも心和みますよねえ」
 やがてすべての教師が受ける走行免除試験の日がやってきた。走行免除試験というから実技試験で運動場を何周かしなければならないのかと思ったら、違った。
 先輩教師たちは、余裕で鼻唄を唄っている。
「何故、そんなに余裕なんですか?」と尋ねると、にたにた笑いで言った。
「なあに。毎年、同じ問題が出るから、毎年同じ答を書けばいいんだよ。これほど気楽な試験はない」
 エエーッ。どうして早く教えてくれなかったんだ。
「はーい。では試験を始めます。皆は私語をつつしんで。これから、一言も話してはいけません」
 試験が始まった。走らなければならないと思ったら筆記試験のみという。
<第一問 国語
 三浦しをんの小説「風が強く吹いている」は箱根駅伝が舞台ですが、十人のメンバーの登場人物のうち主人公灰二の最高走行速度はいくつですか?>
 読んだぞ。この小説。とても面白かったけれど…。最高速度?そんな描写、あったっけ?お…憶えてない。時間がない。次、次の問題。
<第二問 数学
 あなたが全力疾走したとき消失する時速および必要な距離を求めよ。また、消失したあなが出現する過去を正確に記せ>
 まったく見当もつかないい。相対性理論か?
 その調子で問題は十問まで続いた。手も足も出ない。お手上げだ。
 そんなわけで、試験に落ちた。私は師走ぱんつを着け、走りまわりながら食事をすませ授業をやり、師走の走る先生として日常をこなしている。とにかく忙しく走りまわらなければ師走ぱんつが爆発するのだ。
 同僚の教師たちは、毎年同じ答を書くだけで試験に合格している。なんという不公平だ。試験に落ちた私のことなぞ、なんの心配もしていない。試験内容も教えてくれなかった。
 もうそろそろ限界だ。足がふらつく。しかし走り続けないと爆発してしまう。
 ああ、ゆっくりと大の字になって横たわりたい。しかし、師走ぱんつが爆発…。もう駄目だ。しかし、一人では死なんぞ。これから職員室に駆け込み薄情な同僚教師たちの真中で…。

第253回 願い茸

 ある村に仲の良い若夫婦がいた。ヒデとアサだ。朝早くから日暮れまで野良仕事で楽しく働いた。時々、二人して村の市に顔を出し愛嬌を振りまいて作物を売っていた。笑顔の絶えない二人は、これ以上の幸せはないように見えた。
 だが悲劇はある日突然にやってきた。村が大雨に襲われた。鉄砲水でアサが流れそうになったとき、アサを救うためにヒデが身代わりとなり亡くなってしまったのだ。
 残されたアサの生活は一変した。アサの頬はげっそりと落ち、外にも出られず、日々泣いて暮らすようになった。そして、口を開けば自分の代わりに亡くなった夫のヒデのことばかり。「もう一度、会いたい。私が先に死ねばよかった」と。その様子に隣家の人々も声をかける。「何かわしたちに出来ることはないかねぇ」
 するとアサは、つらそうに言った。「もう一度、アサに会いたいです」
 隣人の家族は肩をすくめ、眉を寄せあった。
「こればかりはの。死んだ人を生き返らせる方法はないよ」
 すると、隣人の妻がこう言った。
「願いをかなえる幻を見せるキノコがあるというよ。村はずれのナバナバ山には秋に何百種類というキノコが生えるけど、その中に願ったものの幻覚を見せてくれるキノコがある、と聞いたことがある。それを探したらどうだ」
 アサはかすかな希望を抱いた瞳になった。
「それは、どんなキノコですか?」
「うん。聞いた話だ。死者を蘇らせるキノコじゃない。願う幻覚を見せてくれる願い茸だと。満月の夜、ナバナバ山のドンゾコ谷に一本だけ白く光るキノコが生えるという。それを採って、炙って、願いを唱えながら食べるんだ。一年に一本しか生えないという。見つけられたら、ええな。願いはヒデさんに会えることだな。ひょっとしたら会えるかもしれん。じゃが幻覚のヒデさんだけどな」「ありがとうございます」
 キノコの季節、満月の夜、アサはドンゾコ谷へ行った。闇の中に一本だけ白く輝くキノコがあった。アサは歓び、そのキノコを採って持ち帰った。そして聞いたとおり、そのキノコを炙り、食べる。そして夫の名前を口にした。するとアサの周囲の風景が溶け始める。すると目の前に一人の男が立っていた。夫のヒデだった。ヒデはやさしい笑みでアサに言った。「やぁ。なつかしいなぁ。会いに来てくれたのか!」
アサは感動に胸を震わせた。だが、これは現実ではないことも承知していた。これは願い茸が見せる幻覚なのだ、と。しかし「そうよ。とても会いたかったから」と言う。ヒデは嬉しそうに微笑む。気がつくと、あたりは二人の働いていた畑になっているではないか。
「じゃあ、日が高いうちに野良仕事すませるか」とヒデ。「ええ」とアサは答え、かつてのように二人で畑仕事をこなす。あたり前と思っていた時間がこんなに充実した貴重なものだったのだとアサは実感していた。でもこれは願い茸の幻覚だ。現実ではない。するとヒデの表情が変る。
「このくらいかな、アサと過ごせるのは。アサを悲しませたくないが、本当にごめん」とヒデは頭を下げた。「あやまらないで。でも、あなたと一緒にいたい。ナバナバ山には色んなキノコがあるという。そこで苦しまずあなたの所に行ける毒キノコを探してみるわ」
「それは駄目だ」とヒデは言う。「アサは生きろ。私はアサの胸の中に残る。私がいた時のように畑仕事をして好きな唄を口ずさんでいたら、私をまだアサの心の中で感じれる筈だ」ヒデはアサの腕を離そうとした。消えかけながら。アサは必死でヒデの手を握った。
「お願いがあります。だったら、これからあなたが私の胸の中にいるって私に誓って。そして、そのことを私に感じさせていて」
「約束する。アサの胸の中にいると誓うよ」
 次の瞬間、夫の姿はどこにもなかった。
 それからのこと。村の人々は、彼女が少し変ったことに気がついた。朝から野菜を市に持ってくるとき、以前のような暗さは消えていた。夫を亡くしたときは蒼白かった顔色にも、少しばかり赤みが戻っているようだった。一人でいる彼女の背後に近付くと、彼女の鼻唄さえ聞こえていたほどだ。
 隣人たちは、自分たちが願い茸の噂をアサに教えたことなど、もう忘れていた。
 隣人たちも、その世代が変り、アサの若い頃のことを知る者もいなくなっていた。
「最近、アサさんはひとりごとが多いのね。隣で聞いて、びっくりしてしまうよ」
若い隣人がそう言うとアサは笑って答えた。
「ああ、昔のことを思い出して話していたのよ。忘れないように」
「誰と?」と尋ねると、女は自分の胸に手をあてて、少し微笑んでみせたという。
 若い隣人は、くわしくはよくわからなかったが、一人暮らしのアサが幸せそうなら、それでいいのではないかと納得していたという。
 それからアサは日常の生活を続けていた。
 月は一つ、また一つと過ぎていきアサの髪に白いものが混じり始めた。夜になると縁側に座り、誰かと話しているかのように、ひとりごとを続けていたという。
 隣人が蜜柑を届けると、女は「これはヒデが大好きだったもの」と喜び胸に抱きしめた。
 年老いた女はあるとき体調を崩した。隣家の夫婦が介抱しようとしたが女はそれをはっきりと断った。「最後まで私はヒデと一緒にいれてよかった。あの人と寿命を共に終えられるなら幻覚でも本望ですよ」それが最期の言葉だった。遠くの夜空で星が流れた。
 山へ入っていった隣人の子が帰ってきたのが、そのときだった。「谷でキノコが光ってたよ。これ!何のキノコだろう。食えるかなぁ?」

第252回 ハロウィンの彼女

おじいちゃんがハロウィンのことを知っていたのが不思議だった。おじいちゃんはこう言った。「アメリカ帰りの叔父さんから教えてもらったのだよ。十月にそんな日があるって。不思議な子どもが訪ねてくる。そして言うんだ。トリック(いたずら)・オア・トリート(お菓子)って。お菓子を渡すと子どもは消えてくれる。それでハロウィンを憶えたのさ」その話が大好きになったおじいちゃんは、ハロウィンの日に子どもを待っていた。そしたら本当に玄関からその子どもが現れたそうだ。その子は少しイメージと違っていたらしい。子どもの頃のおじいちゃんより、ずいぶん歳上のお姉さんだったそうだ。黒い服を着て、白いペイントを顔に塗っていた。でもとても素敵な人なんだとわかったそうだ。「トリック・オア・トリート」という彼女の声は十月の風のように柔かく、彼女が街灯代わりに持っていたカボチャの灯火のように温かかったと。おじいちゃんは現れた彼女を大好きになったそうだ。でもお菓子をもらうとすぐに消えてしまった。次の一年、おじいちゃんはとてもハロウィンが待ち遠しかった。彼女とどうすれば他の日も会えるのか尋ねるつもりだった。でも、また今年も来てくれるだろうか?
次の年のハロウィンの日。同じ時刻。彼女はやってきた。そして彼女は言った。「トリック・オア・トリート」前の年と同じ笑顔で。おじいちゃんはお菓子を手に持ち「ねぇ。いつもどこに行けば会えるの?」と尋ねようとした。でも尋ねられなかった。ふと、おじいちゃんが彼女の足許を見たからだ。
彼女の足は、宙に浮いていた。
呆然としたまま、おじいちゃんがお菓子を渡すと「ありがとう」と彼女は言って、闇の中に溶けこむように消えてしまったということだ。
いったい彼女は何者なんだ?
毎年、ハロウィンの日に彼女はやってきた。不思議なのは彼女がまったく成長しないことだ。歳上に見えていたのに、その頃は同じくらいの年齢になっていた。ある年、お菓子に加えておじいちゃんは黒マントを彼女にプレゼントした。彼女は大喜びだった。当然だがマントは彼女に、とても似合っていたんだ。それから彼女はおじいちゃんと色んな話をするようになったのだという。そのあたりで少しずつ日本でもハロウィンの習慣が知られるようになった。皆が仮装してハロウィンの日に集まって大騒ぎしたりするようになった頃のこと。相変らずハロウィンの日になると、彼女はおじいちゃんのところへ忘れずに現れた。おじいちゃんは毎年、「今年もまた会えたね」と伝えると、彼女は本当に嬉しそうな表情を浮かべ、二人で宵闇の中を歩き、色んな話をしたのだという。その頃は、彼女は白塗りをやめ、美しい笑顔を向けてくれるようになっていた。
数年が経過すると歳上と思っていた彼女は、おじいちゃんより幼なく見えるようになっていた。彼女は歳をとらないのだ。
おじいちゃんは思いきって自分の気持ちを彼女に伝えた。大好きだ。ずっと一緒にいたい。そのとき、おじいちゃんは彼女の正体を知った。そして自分が彼女と一緒になれないことも。
「私は人間ではありません。ハロウィンを創り出した人間の心から生まれた、ハロウィンの精なのです。だから、人といつも一緒にいることはできません。私もあなたのことは大好きです。それだけはわかってください」
そう彼女はおじいちゃんに伝えた。おじいちゃんは無理を言うような人ではなかった。一番大事なのは彼女が変わらずに自分のところへ毎年訪ねてきてくれることだったのだから。
歳月は正直だった。おじいちゃんはそう言っていた。おじいちゃんは毎年、年齢を重ねていき、それ迄、誰にも話さなかったこの話をママに話してくれたそうだ。
おじいちゃんは言っていた。少しずつ声はかすれるようになったし、手も震えるようになった。それでも毎年、彼女はハロウィンの夜に、ぼくのところに訪ねてきてくれるんだ、と。そのとき彼女を抱きしめ、どんな一年を過ごしていたのかを語った。彼女がどんなことを話してくれたかは、しっかりと覚えている。彼女は言っていた。「私は変わらない。だから私のことも忘れないで」
彼女は永遠のハロウィンの精霊になったんだとおじいちゃんはそのとき思ったそうだ。
あるハロウィンの夜、おじいちゃんはいってしまった。「でも、心配するんじゃない。私は、彼女とともに初めて毎日を過ごせるようになるんだから。今年も彼女が、そこに来てくれている」
だから、ママは悲しくなかったと言っている。おじいちゃんは本当に幸福そうな笑顔を浮かべていたそうだから。
ママのことかい?
ああ。ある年のハロウィンに彼女が赤ん坊を抱き、おじいちゃんのところに現われ、そして言ったんだそうだな。
「この女の子は、あなたの子です。可愛がって育てて下さい」
彼女がそう言うのなら、きっとこの子は彼女と自分の間にできた子だ。おじいちゃんはそう信じた。そして大切に大切に育てたという。
そう、ママは誇らしく言った。その子が私なのだ、と。
それからハロウィンの夜は三人で過ごしたの。それがハロウィンのおじいちゃんの話。
信じる?信じない?
そう言ったママは一枚の写真を出した。「ママが撮った写真。これ、おじいちゃんよ。隣の女の人が、毎年ハロウィンに訪ねてきた人」
初めて見る写真だった。おじいちゃんの横にいるきれいな黒い服の女の人は、驚くほどママに似ていた。
そして今夜はハロウィン。ドアの外からノックの音が響く。「はい」とドアに走る。いったいどんな人がいて、そして言うんだろう。
「トリック・オア・トリート」と。

第251回 『猿の手』あります

見知らぬ駅で、何故か気になり列車を降りた。何故、気になったのかわからないが気まぐれに歩き始めた。
その日は霧が出ていてその街は独特の雰囲気が漂っていた。まるで外国のひなびた街のようだ。
少し歩くと喉が渇いてきた。通りに椅子が置かれていてコーヒーを飲んでいる人の姿が見えた。よし、私も渇きを癒すか。一杯飲んだら駅に戻ろう。「いい街でしょう」と声をかけられた。
「いや、初めてなので」と答える。
「何か、この街でおすすめとかありますか?」
声をかけてくれた男は首をすくめた。「この街は静かなことが取り柄かな。他はなにもおすすめはありませんね。名物らしいものはなにも売ってないし。そういえば、一軒だけ古物商のお店がありますよ。変なものばかりあるらしいけれど」
変なものには興味は湧かない。もっと面白い店はないのか?
私の気持ちがわかったのだろう。申し訳なさそうに言った。「すぐそこにありますよ。店の前に『猿の手』ありますと書いてあるから、すぐわかる」
『猿の手』?私は驚いた。
「『猿の手』って有名なあれですか?W・W・ジェイコブズの小説で登場する……」
「そうです。古物商の主人がそのことを言っていたから間違いありませんぞ」
猿の手のミイラの話はこうだ。老夫婦と息子が暮らす家に立ち寄った軍人が言う。三つの願いをかなえる魔力を持つ猿の手のミイラを持っているが、よくない気がするので捨てようと思っている、と。それでは私に、と老夫婦はその猿の手を譲ってもらう。果して、家の借金二百ポンドを欲しい!と願うと、翌日、息子は仕事先の事故で死亡。だが、補償金として老夫婦は二百ポンドを受け取った。息子の死を悔やむ妻は、あと二つ願いをかなえてくれると思い当たる。猿の手に頼んだ。息子を返してくれ、と。すると誰かが表のドアを開けてくれ、と叩き始める。妻は息子が戻ってきた、と狂喜する。妻がドアを開けようとした瞬間、夫は怖しいできごとを予測する。夫は猿の手に三つ目の願い事をした。すると、ピタリとノックの音が止んだ。ドアを開けると外に誰の姿もなかった。
それが、『猿の手』の話のすべてだ。その『猿の手』が、こんなひなびた街の古物商店に流れ流れて売られているとは。
「『猿の手』が、巡り巡って、何故こんな小さな街にあるんですかね?」
「さあ、それはわかりません。『猿の手』の話でも、その話以降の『猿の手』がどのような人の手に渡り、どのようなできごとがあったのかは誰も知らないことではありませんか?それが幾人もの人の手を経て、日本に渡り、この街にやってきたとしても、何も不思議ではないと思いますよ」
もし、本物がそこにあるとすれば、ぜひ手に入れたいと思う。三つの願いがかなうとすれば……。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
「おっ。興味があるんですね」
「ええ。まあ…その古物商は、ここから近いんですか?」
「ええ。すぐに見つけられますよ。大きな目玉が描かれた看板があるから、わかりやすい。それに大きく『猿の手』あります、という貼紙がドアにありますから」
私は礼を述べて立上り、歩き始めた。本当に願いをかなえてくれる『猿の手』が存在するならば、願うことがある。
私たち夫婦は長年の夢であったマイホームを建てた。そして四千万円のローンを組んだ。十分に計画したつもりだったが現実にはその借金は苦しかった。余裕はまったくない。何のために生きているのか?借金を返すため?
本当に『猿の手』があるとすれば、その四千万円が入ってくることを願う。そうすれば、私たち夫婦は、これから人間らしい生活を送ることができるようになるではないか。
もし、その『猿の手』が本物であるならば、願いは三つもいらない。一つだけで十分だ。
他に家族もいない。私たち夫婦二人だけだ。
歩いている人は誰もいない。薄暗い街をとぼとぼ歩くと、前方に看板が見えた。その看板は大きな目玉を描いたものだった。霧の中だと不気味さが増す。『珍古堂』と書かれていた。ここだ。ドアは木製で閉じられていた。営業しているのだろうか?ここに本当に『猿の手』が売られているのだろうか?
なるほど。ドアに手書きの貼紙があった。
<『猿の手』あります>
ここだ。間違いない。それにしても深い霧だ。ここまで近付かなくては、なんと書いてあるかも読めないとは。
内部から光が漏れているのが見えた。ちゃんと営業しているらしい。『猿の手』があれば、ぜひ売ってもらおう。
ドアに近付くと内部で興奮したような声が聞こえた。先客がいるらしいが、何事があったのだろう。先客らしい女の声は、どうも聞き覚えがある。誰だったろう。あんなに興奮して泣き喚くとは。私は耳をすませた。
「そりゃあ、私は四千万円欲しくて『猿の手』に願いましたよ。四千万円欲しいって。それがなんです。列車事故があって、私の主人が死亡して、その補償金が四千万円だって。主人を返して下さい」
これは私の妻だ。この店の噂を聞きつけて『猿の手』に四千万円欲しいと願いにきていたのか。そして私が列車事故死してるなんて。
「そうだ。まだ二つ願いがかなうんですよね。愛する主人を生き返らせます。お願い『猿の手』」
私はドアを叩いた。私はこうして生きているぞ。冗談じゃない。
すると中の妻の声が止まる。私はドアを叩き続ける。すると、珍古堂主人が妻に言う。
「怯えないで下さい。願いはもう一つかなえられますよ。それを願って!」そして妻は…。三つ目の願いを口にする…。すると…。

第250回 日本むかし話の真実

定年になった。六十五歳。
これまでの仕事はやめなければならない。退職金は微々たるものだった。これでは身にもしものことがあったら生きていけない。年金生活者として暮らしていくしかないのか。貰える年金いくらだ?額を聞いて驚いた。とても生活していける額ではない。いや、生きていくことさえ難しい。これまで、あんなに幾重にも税金を納めてきたというのに。
やはり、これからも働かなくてはまともに過ごしていけない。しかし、仕事はあるのだろうか?
ハローワークへ行き、仕事を探す。だが、いい仕事には巡り会えない。賃金も安い。紹介される仕事に溜息ばかり出た。ハローワーク職員が言った。「紹介できるのは、これくらいですね。面白くて条件のいい仕事ってありませんよ。あなたの年齢なら、シルバー人材センターを利用しては、どうですか?」
そうなのか。確かに身体も方々ガタがきている。若い頃のように思いきり動きまわれる自信はない。鏡を見ると、立派なおじさんではないか。
とぼとぼとハローワークを出て歩き始めると見知らぬ男から声をかけられた。
「ちょっとお待ちください。お仕事を探しに来られたのですか?決まりましたか?」
「いえ。まだ決まりません」とつらそうな声を漏らした。すると男は、よかった!というように胸を撫で下した。腹が立つ。人の不幸で何がそんなに嬉しいんだ。男はそれから言った。
「日本むかし話のおじいさんが人手不足なんですよ。私は民話人材スカウトマンですが」
「それって人材派遣会社みたいなものですか?」
「はい。条件はこんな感じで」
給与もいい。勤務地も近くのようだ。「ありがたいお話です。私でいいのですか?」
「はい。誰でもいいという訳ではありません。見たところ、あなたのようにこれはぴったりの日本むかし話のおじいさんはおられません。勤務もこの近くですから」
「で、どんな仕事なのでしょう」
「はい。近くに『日本むかし話普及センター』があります。この施設の中は異次元で、むかし話の世界になっています。子供達が日本むかし話を読むと実は想像の世界でこの施設の中とつながるのです。子供達が成長していくために欠かせない施設です。そして、むかし話で一番登場数が多いのがおじいさんです。その世界でおじいさんをやって頂けないでしょうか?」
それは楽しそうな仕事だ。
しかし、異なる次元につながっているとは。
「やりましょう」
出勤すると、早速、仕事だ。むかし話の知識はあるから、「適当に言ってくださって大丈夫です」と。
おじいさんの着物は想像どおりの昔のものだ。最初の仕事は桃太郎のおじいさんだ。山にシバカリに行って帰ると、川に洗濯に行っていたおばあさん役が大きな桃を持ってきた。そして私を見て呆れて言った。「山に何しに行ってきたのですか?」私は方々山を歩いて集めた芝を見せた。「山に芝がなくて、これだけ集めるの大変だったのですよ」おばあさんは首を振った。「シバカリとは、柴刈りです。芝刈りではありません」
カマドの燃料となる小枝のことなのか。
「もっと常識あるおじいさんだと思ったのに」
スカウトマンが、手招きした。「じゃあ、こちらはいいですから、カチカチ山の方へ行ってください」
「わかりました」
次の場面ならわかる。ウサギが悪いタヌキを懲らしめる。私は、おばあさんをタヌキに殺されたおじいさんの役をやればいいのか。これなら間違いようがない。野良仕事から帰っておばあさんがタヌキに殺されたことを知るという場面だった。家の中に入る。するとおばあさんが「タヌキ汁できてますよ」とすすめてくる。その汁を食べる場面だった。
知っている。この汁は、殺したおばあさんで作った婆汁なのだ。食べるとタヌキが出てきて「じいさん、ばばあ食べた」とはやし立てるのだ。これを食べなければ、むかし話進まない。どうしよう。持った箸が止まってしまった。この汁の中は、おばあさんだ。食える筈がない。どうしよう。するとスカウトした人がまたしても現れた。「なにをもたもたしてるんです。食べなきゃ、話が進まないではありませんか?」「食べれません。人肉でしょう」と私は言うと、スカウトマンは溜息をついた。「やはり、無理ですか。では、かぐや姫のおじいさんをお願いします。竹の中からかぐや姫を見つけるところからですが」
それなら簡単だ。光り輝く竹を見つけて、おじいさんが竹を切ると、かぐや姫をその中で発見するのだ。確かに輝く竹があった。駆寄り竹を切ると、中に女の子が。その女の子を抱き上げる。何と美しいのだろう?これが、かぐや姫か!するとかぐや姫が尋ねた。
「はじめまして。おじいさん。私の名前をつけてください」もちろん、かぐや姫と言おうとして口籠ってしまった。何故、かぐや姫という名なのか?必然性がない。家具がまわりにあるというわけでもなし。名付けるには必然性が要るぞ。
何故かぐや姫だ?えーと。えーと。
またしてもスカウトマンが現れた。
「かぐやというのは、光り輝く!という意味なんですよえ。これも役がつとまりませんか」「すみません。じゃあクビですか?」
「うーん。人手不足ですからねぇ。じゃあ、悪いおじいさんをやってみますか?善人の顔で実は悪人という憾みもでていいかもしれない」
クビは免れたものの、内心は複雑な思いだ。
これでは日本むかし話ではなく、日本むずかし話と言った方が正確ではないか。