小学校の帰りに、初めて花屋の前で鈴佳は意識した。母の日にはカーネーションを贈るのがならわしだということを。
いや、それよりも五月の第二日曜日が母の日になると意識していなかった。学校で、もうすぐ母の日だからお母さんに感謝の気持を伝えるための作文を書こう、と先生からお題を出されて、仕方なく心にも思っていないことを書き連ねて提出したことは覚えている。それがいつのことだったかは忘れてしまっている。
「お母さまに日頃のありがとうの気持ちとして赤いカーネーションを贈りましょう。贈れない人は白いカーネーションを飾りましょう」とポスターにある。それがどういう意味なのかは鈴佳にもわかった。
私は白いカーネーションなんだ。お母さんは亡くなってしまったから。
去年の母の日は赤いカーネーションも買わなかった。母の日にカーネーションを贈る習慣があることは知っていたのに。カーネーションをプレゼントしてもお母さんは喜びはしないと、勝手に鈴佳は思っていた。
初めて鈴佳は母の日にカーネーションを買った。
白いカーネーション。
鈴佳にとって安い買い物ではない。一本百五十円だった。ペットボトルのミルクティが買える値段だな、と思う。
二〇世紀初頭、母の日の創設者であるアンナ・ジャーヴィスが自分の母親の追悼式で母親の大好きだった白いカーネーションを参列者の一人づつに手渡したという。それから、母親を偲ぶとき白いカーネーションを供えるようになったのよ。そう花屋のお姉さんは、鈴佳に教えてくれた。
白いカーネーションを手に家に帰り着くまで、鈴佳は自然と涙が溢れてきて止めることができなかった。
大事なものは、失ってしまってから何が大事だったのかに気づくものだ。
それは鈴佳にとっては、お母さんだった。
お母さんが元気なときには、わがままばかり言っていた。お母さん、欲しい物があるから買って。お母さん、これ作って。お母さん、暗いからついてきて。
いつもそうだった。それが鈴佳にとって当然の毎日だった。お母さんはいつもそばにいるものと思いこんでいたから。いつも自分がしてほしいことを母親に無理強いし、母親から鈴佳への頼みごとは、そんなこと頼まないで!と無視していた。そんな日々が突然断ち切られた。
あの日の朝も鈴佳はわがままだった。お母さんに郵便局での用事を頼まれた。それをつれなく断った。
「めんどうだし、いそがしいもん」
お母さんは郵便局に行った帰りに事故にあったことを知った。
帰ると鈴佳は仏壇の花瓶に白いカーネーションを挿した。それから長い時間手を合わせた。お母さん、ごめんなさい。とても会いたい。もしも会えたら言うこと何でも聞く。いい子にする。
手を合わせていると小六の姉の芳美が「あっ、白いカーネーションだ。ちょうどよかった」
止める間もなく芳美は花を花瓶から抜くと自分の部屋に持っていった。あわてて鈴佳は姉の後を追った。「姉さん。何するの。それは……」
「宿題!宿題!理科の実験の宿題を出さなきゃならないの」
「カーネーションで何の実験をするの?」
「維管束について。植物には維管束というのがあって、それは養分や水の通り道なんだって」
「どうしてカーネーションで実験するの?」
「教科書にこの実験は白のカーネーションがオススメって。維管束には道管と師管があるのよ。今日は道管の実験」
芳美が花をガラスの一輪挿しに入れると、白のカーネーションの花びらが外側からピンクに染まっていく。
「食紅を濃く溶かした水に花を入れると、維管束の中を食紅が上がって花が紅くなるのよ」
鈴佳は驚き姉に叫ぶ。「これは母の日のカーネーション。お母さんのいない子は白いカーネーション。大事なカーネーションだったのに」芳美も、母の日の白いカーネーションとは知らなかった。
「ごめん、鈴佳」
わっと大声で鈴佳は泣き伏す。ごめんなさい、お母さん!
白いカーネーションはピンクになった。それどころではなく真っ赤な色に。もはや真紅だった。お母さん、ごめんなさい。私がわがままだったから!
家にはこのとき誰もいない筈だった。
姉の芳美の部屋のドアの向こうで声がした。
「芳美、鈴佳、大丈夫よ。あなたたちのこといつも見てるから仲良くね。鈴佳、もう自分を責めないで」
二人はドアを振り返る「お母さん?」もう誰の気配もない。白のカーネーションが赤く変化したから、一瞬だけお母さんは帰ってきてくれた?
「見て!」と芳美が指差した。その指の先の維管束実験のカーネーションは、今は純白に戻り凛としてそこにあった。
まるで元気な頃の母親のように。
鈴佳と芳美は無意識に手を取り合い、ドアの向こうにつぶやくようにもらす。「ありがとう。お母さん」
カテゴリー: カジシンエッセイ
第197回 哀しきアムネジア
最近は、どうも物忘れがひどくなった。人と話をしていて固有名詞が出てこない。俳優や歌手、政治家、ひいては歴史上の人物まで。口許まで出かかっているのだが、言おうとするとどうしても口に出せない。だから、仕方なく「あ・れ・だよ。あれ。あれ」と言ってしまう。場所なら「あそこだよ。だいぶ前に行ったとこ」俳優なら「あの人だよ。よく悪役もやる。あ・の・人」といった感じ。気心の知れた人だと、うまく会話の流れをつかんで「あ、カレーのうまいの食べたところだね。わかる、わかる」という具合に察してくれる。正解は出てこなくても、その場は何とかやり過ごせる。喉元に引っかかったままなのだが、ある瞬間にふっと声が聞こえることがある。そうだったんだ。なんで、こんな簡単なこと思い出せなかったんだろう、と自分が嫌になってしまう。
固有名詞が思い出せないだけではない。日常生活でも、影響は確実に現れている。
最近、本を読んでいて活字が読みづらくなった。字のまわりが滲んだように見えるのだ。「老眼鏡を使ってみたらいいと思う」と薦められ、かけるようになった。
そのとおりだった。劇的に視界が明るくなった。仕事は事務でパソコンを使わず手書きでやっている。だから、仕事にも老眼鏡は効果を上げている。使い始めてよかった。薦めてくれたことに感謝している。
だが、私はいつでも老眼鏡をかけるわけではない。映画を観に行くときや、テレビを見るときはメガネを使わなくて済む。
そこで大変なことが起こる。テレビでニュースを見てから書斎へ戻る。そして本を取り出したときに問題は起こる。
机の上に眼鏡がない。煙のように消えている、あれ、さっき本を読んでいたときは、たしかにここで使っていた。
それが今はなくなっている。あわてて机のまわりを見る。
ない。
机の下も見る。ない。机の横の隙間も覗き込む。ない。ひょっとしたらテレビを観るときに無意識にはずしたとか。
テレビの部屋に行き隅から隅までチェックするが、ない。消えてしまったのだろうか、とも思う。まるで魔法のように。「そんなときは、顔でも洗ったらいい。ふふ」
そして、ふと洗面所の鏡の前に着いたときに、眼鏡のありかを知らされることになる。
老眼鏡は、頭の髪の上にかけられたままになっていたのだ。いくら部屋の中を探しても、出てこないわけだ。
へなへなと崩れ落ちてしまう。
きっと、老眼鏡をテレビを観るとき頭にかけたのは、無意識だったのだろう。自分が悲しくなる。似たようなことは携帯電話でも起こる。帰り着いて携帯電話を取り出そうとしてないことに気づく。さんざん部屋中を探すが見つからない。もちろん、バッグの中も探す。出てこない。ひょっとしたら、出先に置き忘れてきたのだろうか?行った先やタクシー会社に電話するが見当たらないという返事が。途方に暮れる。「固定電話から携帯電話にかけてみたらいいよ」といわれる。
そうだ。その手があったか。あわてて電話してみる。すると…電話の呼出音が鳴り響く。
なんと電話は私が帰ってきて置いた帽子の下にあった。携帯電話を置いてその上に帽子を無意識にかぶせてしまったらしい。
冗談にならないくらい物忘れはひどくなっている。健忘症という言い方がある。健やかな物忘れ病となるが、私のじゃない、私のは妄忘病くらいが正しいかな。昨年もそうだ。昼食を終え、仕事場に戻り午後の仕事を始めた。書き損じが出たのであわてて消しゴムで消す。大量の消しカスが出たので、机の上をきれいにするために消しカスを吹く。
不思議だ。消しカスはそのままだ。首をひねる。「はめたままじゃないか」と言われる。
なるほど。外出から帰ってからマスクを外さないままでいたのだ。消しゴムのカスが吹き飛ばせない理由がわかった。
どれも、自分の物忘れが原因だ。
しかし、いつもかろうじてのところで、大事なことをアドバイスしてくれることに感謝している。やはり持つべきは家族だな。
その家族が今日は揃ってやってきた。ときには、単独ではなく家族全員で行動することも必要だろう。妻と娘は手分けをして掃除にいそしんでいる。二人が協力しあって作業しているのを見るのは気持ちがいい。母は、その様子をにこにこ笑いながら眺めている。頼まれていたものがやっと揃ったらしく、息子が遅れて到着した。「お待たせぇ。途中、道が混んでいてさぁ」
「さぁ、掃除も終わったし、全員揃ったから」と私はみんなに言った。ライターを探す。あれ?ライターを持ってきた筈なのに。ポケットに入っていない。どうしよう。「ライターなかったから、マッチを持ってきたんじゃないか」といつものように教えられる。その通りだ。小物を入れるバッグの中にマッチを入れてきたのだった。すんでのところでいつも父のアドバイスに教えられる。「始めようか。花を飾って、線香とロウソクに火をつけて」
そこで、あれ?と思う。なぜ、父が教えてくれるんだ。不思議だ。
今日は、父の一周忌で家族揃っての墓参りだったのではないか。
どうも、最近は物忘れがひどくなったなぁ。自分のことながら、呆れるしかない。
第196回 世の中リモコン
歩いていると、不思議な老人がいる。存在感がないというか、透明っぽいというか。「おかしいなぁ?ここいらと思うんだが?」と呟いている。通り過ぎて振り返ると老人はしきりに道で何かを探しているようだ。
落としもの?と首をひねったとき街路の脇の溝に黒っぽい装置のようなものが落ちているのを見つけた。ひょっとしたら、さっきの老人は、これを探していたのではないだろうか?
あわてて拾いあげて老人に教えてやろうと見ると、老人の姿は薄くなり、消えてしまった。いったい何者だったのか?
黒っぽい装置は長さ20センチほどの板状の物体だった。左上に赤い丸が一つある。その下にいくつものボタンがならんでいた。そのボタン一つずつに意味があるのかもしれない。表示がないからわからないが。
老人が見えたあたりまで戻ってみたが、もう姿がない。目の錯覚でなければ、薄くなって本当に“消えた”のかもしれない。
いったい何者だったのだろう。
そのまま会社に戻った。今日は終業まで営業会議だった。思ったような成績をあげられていないから気が重い。正直、会議も出たくない。成績アップがテーマの会議なのだ。
会議が始まり、課長がそれぞれに意見を述べさせる。いらいらしながら順番を待つ。早く終わればいいのに、と、手に持っていた黒い装置を握りしめた。
どうしたことか、課長が甲高い声でチャカチャカ話し始めた。慌てて手を離すと、話が正常になった。
この装置のせいだ。
会議は続く。次があてられ意見を述べたが、つまらない、と課長に罵倒された。
次にこちらを指差した。なにもアイデアはない。脂汗がにじみ装置を握ると、会議の出席者がいっせいにフリーズした。
この装置のせいなのか?
課長はこちらを指差したまま静止。他の課員もつまらなさそうに止まったままだ。
わかった。この細長い黒い装置は世の中のリモコン装置なのだ。そして今押したのは“一時停止”。さっき、課長がものすごい勢いで話しだしたのは“早送り”か。いや“1.3倍速再生”なのだろう。立ち上がって課長の前に置かれた用紙を見ると「試みる手法案」が箇条書きにしていくつもあげられてる。あわててそれを写して席に戻り装置を動かす。
世の中がまた動き出した。
立ち上がって、今メモしたものを読み上げて「以上のようなものを打開策として申し上げます、これらを一つづつ実施していくことが有効かと思います」
席に座ると、課長はぽかんと口を開けてこちらを見ている。先に結論を言ってしまったので、早々に会議は終わってしまった。
終業時間まで早送りして帰りたかったのだが、どれが早送りボタンなのかがかわからない。
定刻で終業して家に帰る。
帰り道にぼんやりと考える。あのリモコンを落とした老人は、いったい何者なのだろう?
ひょっとしたら神さまなのかもしれないなぁ。そして、この世の中を操作しているのかも。
家に帰ると妻に文句を言われた。頼まれていた買い物を忘れてしまったからだ。妻の小言に耐えていると、持ち帰ったリモコン装置が目に入った。そして、その斜め前には我が家のブルーレイディスク用のリモコン装置がある。その2つを見比べて気がついた。
なんと、テレビやブルーレイのリモコンと私が拾って持ち帰ってきたリモコンのボタンの配列はまったく同じなのだ。ということは…。
ブルーレイリモコンの早送りの位置にあるボタンを試しに押して見る。すると妻の小言がすごい勢いで進み、あっという間に終わってしまった。これだ、これだ。
ブルーレイのリモコンの方には操作方法がすべて表示されていた。同じ位置のボタンを押せば、世の中も同じように操作できるのだ。しかし、今の生活は同じことの繰り返し。いい加減飽き飽きしてきたぞ。このリモコンで、もっと刺激のある生活はできないものだろうか?
ぼんやりとそう思うようになった。ブルーレイリモコンに細長い“チャンネル”というボタンがあった。では、こちらの方の同じ位置にあるボタンを。
エイッ。
うわっ。目の前の世界が消え去る。ここは密林の中か。遠くから獣の吠える声がする。そして地響き。近づいてくる。巨木の間から出現したのは恐竜だった。あわててボタンを押すと、部屋の中だ。半裸の美女がソファーの私に飲み物を差し出す。これだよ。この世界だ。いつまでもこの世界が続いてくれればいい。「もうお別れなの。残念だわ」と美女が言う。いやだ、行かないでくれ。この世界がいい。と“停止”位置のボタンを押すと世界が凍結してしまった。世界は変化しないが、何も動かない。どうすれば元に戻る?いろんなボタンを押してみたが、凍結した世界が元に戻ることはなかった。あとは、リモコンの左上にある赤いボタンしかない。
仕方ない。その赤いボタンを押してみると、世の中のすべてが真っ白く……消え
第195回 悪魔の温泉
私は温泉評論家。全国津々浦々の名湯秘湯を訪れ、紹介している。温泉が大好きという人々がいかに多いことか。そんな人々が私の温泉紹介を心待ちにしていてくれる。潮が引くと出現する海底温泉や、一日一度だけ地中から噴き出す湯の溜まりを利用する間欠泉温泉やらも皆に喜んでもらった。私が紹介すると珍しがられて、ある岩窟温泉などすぐに世界遺産に指定されたほどだ。だから、今日も私の知られざる温泉探しの旅は続く。
普段でも温泉人気は凄いのだが、特に冬場は温泉の人気が高まるようだ。雪が舞う風景の中で風呂に入る情景には誰もがロマンを駆り立てられるのではなかろうか。ネット情報では、もう誰もが知っている手垢のついた情報しか得られない。本当に貴重な情報は方々の土地を訪ね、口伝えに教えて貰わなければ得ることはできないのだ。
この日、あるひなびた田舎町を訪ね、その温泉のことをそして、知った。情報をくれた男はあやふやに教えてくれた。背後のどんよりとした雲のかかった灰色の山を指差して。
「あの山の高いところに物凄く素晴らしい湯が湧いているそうだよ。どこのガイド本にも載っていない。発見されてまだ間がないらしい。いや、私もまだ行っていない。山に登るのは苦手なんだ。なんでも、誰かのお告げで見つかったらしい。噂だけれどもね。とにかく素晴らしいらしい。その湯に自分で浸らないと湯の素晴らしさはわからんのだろうな」
もちろん、そんな温泉の存在は知らなかった。
お告げで温泉が見つかるのは、定番だ。布袋さまが夢枕で教えてくれたり、聖徳太子が指差していたり、日蓮上人や薬師如来さんと偉い人の温泉のお告げ話は多い。だから不思議なことではない。
教えられた山へタオル一本持って登ってみた。お告げで見つかった温泉にはどんな効能があるんだろう?いや、本当に温泉が存在するのか?雪が深くなっていく。
温泉があっても誰が使う?熊?猿?鹿?
山へと登る。ピークを過ぎて下ると岩場に出た。その岩場が奥に続く。あたりが急に冷え込んできた。高度のある山だから。平地より百メートル標高が上がるごとに〇・六度気温は下がるという。仕方ない。その岩陰の向こうは……。
驚いた!点々と遭難者の凍死体が転がっているではないか。
遺体の傍らにはタオルが……。皆、温泉を求めてここにたどり着いたのか。しかし力尽きて……?しかし、温泉は本当にあるのか?
と、その岩陰の向こうにまわると天然の温泉が。体育館より広い巨大プールのような。迫り出した岩で温泉の半分くらいは雨が降っても大丈夫なようだ。そして、無数の人々が湯気の間から幸福な表情で浸かっているのが見えた。さっきの遺体は、もう少しで極楽温泉にたどり着けたというのに。可哀想に。
さて、この温泉を体験しなくては。服を脱ぐと、早速、湯に浸る。
なんと!この素晴らしい湯加減は!しかも湯質はとろっとろ。かすかに白濁して硫黄が香る。最高の温泉だ!身も心も癒やされる。
「もし、新顔の方かな」と声をかけられた。痩せた老人だ。この温泉の常連だろうか?
「はい。初めてです。いい湯ですね。私は温泉を取材に来ました。話を聞かせていただいていいですか?」
「ああ、かまわないよ。しかし取材したところで役には立たんと思うよ」
「いやいやいや。あなたは、この温泉の常連さん…?」
「なんと言えばいいか。発見者というか、生み出したものというか。昔はこのあたりに温泉がなくてのう…」
なんと素晴らしい。温泉の発見者に会えるとは。
「へぇ、それで?」
「残念に思い、さまざまな神様仏様に温泉を作ってくれと祈ったが聞き入れてくれないんだ。そのとき、悪魔に願えば叶う…という噂を耳にしてな。悪魔を呼び出して頼んだんだ。悪魔は願いを叶える代わりに陥し穴を仕掛けると聞いていたんで、地獄の釜のような温泉を作らないように、最高の湯質湯加減の温泉にしてくれ。それで湧き出したのが、この“悪魔の湯”なのじゃ。まさに悪魔が作り出しただけあって、約束通り、湯に浸れば夢心地になれる至上の温泉というわけじゃ」
なるほど。それで、これほどまでに素晴らしい温泉というわけだ。一度この湯に浸かれば二度とあがりたくなくなる魅力的温泉。まさに悪魔的!
「いい温泉でよかったですね。では、あなたはしょっちゅう、この温泉に来ておられるんですね?」
老人は意外なことにため息をついた。なぜ?
「いや。私はこの悪魔の湯に入って以来、ここから出ていけなくなった。あまりの湯の気持ちよさに身も心も虜になってしまった。温泉を上がろうともしたのだが、無理だとわかった。だから悪魔の温泉で暮らし続けている。腹が減れば、温泉の中央に木の実もなっておる。それを喰えば、また極楽気分で、どうでもよくなる」
ぞっとした。聞けば入浴中の他の人々も湯に浸かったままだと。まさに温泉に囚われた人々だ。「失礼します」とお湯から飛び出して全身をタオルで拭き、服を着る。と同時に、ものすごい寒さに凍え始めた。この悪魔の温泉から出ようとすると全身が凍えるということをその瞬間に理解した。さっきの凍え死んだ人々は温泉にたどり着けなかったのではなく、逃げようとして…。
寒さに耐えられず服を脱ぎ再び温泉に飛び込む。全身に快感が戻る。至福だ。やはり…「悪魔の温泉じゃ」と老人が言った。
第194回 秘境宮詣り
元旦にはご利益のある神社に詣りに連れていくよ!と言っていた友人に連れられて山奥の渓谷の岩場にやってきた。登山口までは大学の研究室にいる彼の従弟が運転して。彼も友人の話に興味を持ったらしく、リュックに彼の計器類を詰め込んで。足を踏み入れづらい秘境にあるお宮だから参拝客は少ないそうだ。それだけに霊験あらたかかもしれないが。
細い山道を一歩づつ丁寧に登りあげながら友人は話してくれた。
「そのお宮では、真剣に祈ると神さまが直々に話しかけてくれるそうだ。今、自分が迷っていることに答えを出してくれたり、年始なら一年のアドバイスをしてくれる。そのとおりに過ごせば強運まちがいなしということだ」
友人は信じている。もともとスピリチュアル系の話が好きな奴だと思う。外国までパワースポットを求めて行ったりするからなあ。本当かどうかよりも、こっちは深山のフィトンチッドを味わえるだけでもいいと自分に言いきかせ、友人につきあったのだが。
「神社の裏に誰かが隠れてお告げを伝えるんじゃないか?」
「そんなことない。山奥で無人のお宮だし」
足元に注意しながら谷底へ下りると、岩場の陰に小さな古い社があった。「着いた。ここだ」確かに他に人の気配はない。友人の従弟もあたりを見て確かにそうだと、とうなずく。
「さあ、参拝しよう」三人で小さな神殿の前にならび二礼二拍手一礼。そして、しっかりとお詣りした。今年こそいい年になりますように。どのくらい必死で祈ったろう。心の中で誰かが言った。
「よう、詣られた。願いはしかと聞き届けたぞ」どこで誰が言ってるんだ。神殿の上に光るものが見えた。その光が言う。「我を信じなさい」光はそのまま浮き上がり、次の瞬間、消えてしまった。友人や従弟にも見えたらしく、それぞれあたりを不思議そうに見回す。「神さまが約束してくれた。ありがたや」「ぼくにも聞こえたし、見えた。神か!」
しかし従弟はリュックから計器を取り出し、何かを測定し始めていた。それから呟く。「やっぱりだ」それから「この神社で神の声が聞こえるようになったのはいつからですか?」「三年ほど前からかな?」「鹿はこのあたり多いんですか?」「山奥だからかな。鹿被害を避けるため、鹿よけネットを数年前から張ったくらいだから。でも、効果はどうかな?増えて希少植物まで食ってるらしい」そういえば、山の斜面はネットで覆われたエリアが方々にあった。「だから、ネットだけじゃなく鹿の嫌がる音を発生させる装置を、あちこちに三年前からつけていると聞いた」
「謎がとけた。それだ!」と従弟が言った。わけがわからない。「鹿の嫌う音は人に聞こえない高複雑性超高周波です。そして兄さんが使っているのは、山奥で使える特殊な衛星携帯電話ですよね。より強力な電磁波を発するその周波数が重なり、脳のシルヴィウス溝を刺激する。すると天使が見えたり神の声が聞こえたりという錯覚が起こるんです。これはカナダのローレンシアン大学のパーシンガー博士が発見している。鹿除け高周波ハイパーソニック効果と電磁波携帯電話の相乗効果で起こる現象にすぎないのです。これで、幽霊が現れたり見たり、宇宙人に拉致され意識を失ったという現象は説明がつくんです」
そうだったのか。科学で全て説明がつくとは。友人も憑き物が落ちたような表情になっていた。そう説明がつけば納得してしまう。
そのとき人声がする。見ると団体さんが、やっとのことでお宮にたどり着いたところだ。「ここが神がお告げをなされるお社!」「ありがたやありがたや」「南無南無。本当だ。神さまが来年は幸福にしてやると仰った」
人々は狂喜して叫ぶ。なかには感動で泣き出すものも。「苦労してここ迄来てよかった」「神さま、ありがとうございます」
本当のことを教えてやろうかと思ったが、それは苦労してここ迄たどり着いた彼らにあまりにも酷なことのように思えて黙っていた。人々は、何度も社に頭を下げ喜び立ち去っていった。そんな彼らを羨ましく思った。まさに信じるものこそ救われん、鰯の頭も信心からだなあ、と。
見送った友人と従弟は我に返ったようだ。
「インチキ神さまだとわかったら、このままにしておくべきじゃない気がしてきたよ」「神殿を壊しておけば、人々はご利益がないとわかるだろう」と、とんでもないことを言い出した。友人が賽銭箱を蹴り、従弟がバールで社を壊そうとしたときだった。社の中から、真っ黒などろどろしたタールのような物体が噴き出した。真っ黒いものは腕を伸ばし悲鳴をあげる二人を捕まえると、否応なく地下へと引きずり込んだ。これは……神さまだ。この社で奉られている…。なんと怖ろしい。
腰が抜けて身動きできずにいると、真っ黒な形のわからないものが近づいてきて、唸り声をあげた。もうだめだ。口からでまかせを言った。
「先ほどは、今年はいい年になりますようにと願いを聞き届けていただきありがとうございます。この神さまは神々しくありがたい神さまだと、せいぜい宣伝につとめます。ですからお見逃しください」
すると真っ黒い物は、納得したようでゆっくりと地下に戻っていった。後は静寂だけ。
あれは神さまなのだろうか?私にはなにか正体のわからない邪悪なものにしか見えなかった。
そして、その年はいい年になったかというと、いいこともあり悪いこともある、程々の年だった。
年始詣りってそんなもんじゃないか、と最近は思っている。
あ、そうだ!賽銭あげるの忘れてた。それか!
第193回 無神教のお誘い
師走の声を聞くと風も冷たく思える。そうか、師走かあ、と溜息が出る。大変な年だったなあ、と振り返って毎年思うのだが、今年は特に大変な年だったような気がする。師走は師も走るほど忙しいという意味だが、この“師”というのは学校の先生のことではなく坊さんのことだという。人の道を悟す坊さんでさえ走り回るのか。
駅前へ来て思う。このような駅前広場では日頃から宗教に関わる人が出没するのだが、なるほど師走はいつもより出現率が高い気がする。大声で叫んでいる男が持つ旗には。
ーー目覚めなさい。神の最後の審判の日は近づいている。
先を急ごうとすると女性が小冊子を手渡してきた。
ーー神はあなたの行いを常に見ている。
目玉の絵と仔羊たちの絵。アンバランスだが、その目玉は神の目なのだろうか。
「おまちなさい」と呼び止められた。「なにごとですか」と訊ねると「あなたの心の中に住む邪悪なものが見えます。追いやってあげましょう。わたしの手の先に神が宿っていますから手かざしで浄化します」と
実は、私は神という存在を信じていない。彼らはこの世界を、宇宙を、神が創造したのだという。神ではなく物理現象で宇宙は生れた。地球が誕生して生物が発生する。生物が進化を繰り返して人間になった。そして現在に至る、と思っている。
そうではないか!神がどこに介在できるというのだ。
すべての宗教で死後の世界には天国と地獄が待っている。行く先は生前の行いや信仰によって決まる、ということになっている。だから神が示したルールで生前を過ごすのが大事なのだと。
神などいない。馬鹿げている。死後の世界など存在するわけがない。死後の世界を恐れる人間が作り出したのが、宗教の正体だと思う。だから、私は、神の存在を信じない。このような者を無神論者と呼ぶのだ。そんな人間は宗教には縁がない。
それにしても、年末はよくもこんなに各宗派が信者を増やそうと、駅前に出現するものだ。少なくとも私には無駄だ。呼びかけても。
すると「神はいない」と記されたポスターが貼ってある。これは意外だ。私と同じ考えだ。中年男が叫ぶ。「無神教へお入りください」ポスターには「天国も地獄もない」とある。そして「死後の世界もない」
これが宗教として成立するのか?驚き呆れて足を止めた。ポスターの前の男が近づいて来て言った。
「顔を見ればわかります。あなたは無神論者ですね。どうです。無神教に入りませんか」
「そんな宗教に入らなくてもやっていける。無神教に入るとどんなメリットがあるというのです?」
男はにっと笑った。「私は科学者です。快楽死酵素を発見したことを皆に知ってもらいたくて無神教を立ち上げました」
快楽死酵素…初耳だ。男は話し始めた。
「死後の世界はありませんが、人は死ぬ瞬間に苦しさや痛みを味わいます。ところが、その苦痛をなくす酵素が存在することを私は私は発見しました。その酵素の中でも特別な酵素が存在します。苦痛がなくなるだけでなく、死ぬ瞬間に、生涯味わったことのないような至上の快感を全身にもたらしてくれる。そんな酵素です。これを快楽死酵素と名付けました。現存するどんな麻薬より素晴らしい快感です。入信した途端、この酵素は体内で自己生成されることがわかりました。どうです。そんな体質になりたくありませんか?」
なるほど。私は神は信じないけれど、これまで味わったことのない快楽が人生の最後に味わえるのであれば信者になってみようかという気になった。しかし、待てよ。
「入信して教団員になっただけで快楽死酵素が得られるならば、いったん入団してすぐに教団をやめればいいとも思えますが」
「無神教に入ればすぐに快楽死酵素がフルに備わるのは確かですが、この酵素はすぐに分解してしまいます。ただ無神教の教義を実行していれば、分解は止められるのです。教義はむずかしくありません。八つの戒めを守るだけです」
へぇ。簡単な八つの戒めとはなんだろう?
「本当に簡単なことですか?片足立ちで一日過ごせ、とか、お犬さまより早く食事をしてはいけない、とかむずかしいことなんじゃありませんか?」
「そんなことはありません。実はあなたがよくご存知の方も無神教の信者だったとわかっています。たとえばキリスト。彼はキリスト教を起こしてから世の中の真実に気づき、無意識のうちに無神教の法則を実行していたのです。だから十字架で磔にされたときも激痛の表情に見える絵画ばかりが残っているが快楽の極みの表情だったのです」
「ホントですか?」
「実は仏陀も無神教信者でした。仏教を開いた後だったのでいまさら無神教と言えなかった。ご存知かと。傲慢、強欲、嫉妬、色欲、憤怒、暴食、怠慢などを犯さねば快楽死酵素は減少しない。世の中も平和になる」
なんだ、それは知っているぞ「簡単ですね。七つの大罪を犯すなということですね。それならやれる。私も、その無神教に入信します。ん?待てよ。今ので七つですね。確か、さっきは八つと。最後の戒めは何でしょうか?」
男はにっと笑った「はい。八番目。汝、教団にお布施を欠かすことなかれ」
第192回 ショート・ショートの主題と構造
定期的にショート・ショートを書いていると迷いも生まれる。
かつては、思いついたアイデアをそのままの勢いで原稿用紙に書き進めていれば、ちゃんと仕上がっていたし、面白いものになったと自己満足もできていた。
そんな日々を送っていても、自分の作品に疑問を感じるようになる。壁に突き当たる。
書いている途中で、このアイデアは一度書いたような気がしてならない。読者の方に陳腐と思われはしないか?誰もが驚くような斬新な話を書きたいのに。これは誰かがすでに書いたアイデアではないか?このオチでいいのだろうか?意外性は?ひとりよがりではないのか?
そう思い始めると限りがない。思考が空回りを始める。それでも、無慈悲に締切は迫ってくる。だが、出てくるアイデアはどれも気に入らない。どうしよう。焦る。どうすればいい?
そうだ。このようなときは初心に還るべきではないのか?ショート・ショートのどこに自分は感激したのか?幼い頃は、星新一ショート・ショート集を次々に読んでいたなぁ。変な事件が起こり読み進めていくと、結末では予想もしなかったオチが待っていた。ぞっとさせられたり、笑いが止まらなかったり。ときにはそれまで感じたことのない奇妙な気持ちにさせられたり。
謎の薬を発明したり、見知らぬ部屋にいると外からノックの音がしたり。悪魔や魔人が出現して願いを叶えてくれる話もよく読んだ気がするなあ。そうだ。悪魔や魔人をどうやって呼び出していたのかを調べてみよう。
私は、それから何冊もの古書を読み耽った。すると、その中に表紙が取れて中のページもずいぶん抜け落ちた一冊があった。読める部分にはこうある。
「ーを呼び出すには、こう唱える。“ハザラ・カマ・カマ・エキュイタス・ナヌーシ・ハヌーシ………”」
何を呼び出すか前後がないからわからないが、大声で書かれた呪文を言ってみた。
すると……。信じられない。何もない空間から中年男が突然現れたではないか。
「呼び出したのはお前か?何か頼み事があるのか?」
悪魔にしてはうだつのあがらない風体。表情もどことなくぼんやりしている。
「いえ。今、面白いショート・ショートを書きたくて調べていたんです。そしたら間違えてあなたを出してしまった。いや、ショート・ショートを書く法則みたいなものがわかればいいなと思って」
男は、わかったというように頷く。「ふん。お前の願いは、ショート・ショートを書くコツを知りたい、ということか」
「ま、早い話がそうです」
「ショート・ショートは6000字を超えずに一つの物語を完結させるのがいい。短く。数行でも大傑作が書けるのも特徴だ。短いのならこういうのもある。
“Boy meets girl.
Boy lost girl.”
Boy made girl.
三行ショート・ショートだな。これも最後に意外性を持ってきておる。」
「登場人物は少ないほうがいい。ショート・ショートで群像劇を書いても話が盛り上がらないし、ストーリーが語れない。それから、宇宙人や幽霊を出すと、読者を引き込みやすい。だが、叙述トリックのオチが多くてマンネリになりやすいから注意だな。ー私は3本目の手を素早く動かし驚いて倒れそうになる地球人を支えた~とか~うっかり、もう私には足がないことを忘れていた。もう私は死んでいるのだ~といったものだ。こんなオチでは呆れられるのが関の山だ。」
「それから、避けたいのは夢オチだな。さまざまな異変で、どうなるのだと読者をワクワクさせておいて、これまでの出来事はすべて夢でした、という結末にするのは読者に対する裏切りでしかない。読者から馬鹿にされても仕方ない。避けるべきだろうな。」
「悪魔との取引きや、不思議なものを売ってくれる店の話もよくあるぞ。これは便利だと思っても何か欠陥がある。魔法使い見習いの話がいい例か。魔法使い見習いがほうきに魔法をかけて水をくんで運ばせる。しかしうまく魔法が解けずにあたりを水浸しにしてしまう。技術の暴走というSFのテーマにも通じる。ドラえもんでもよくあるテーマだよ。」
「これからは、非現実的な設定で語り始めるのも、いい方法だと思う。とても存在しない職業が、現実にあったらどんなことが起こるだろう、というこれもIFの話づくりだな。架空の生物が出現したら、とか、どんなものでもIFを思いついたら。それが突飛であるほど面白い話になる気がするね。」
「ショート・ショートを書く理論は存在しないよ。よりたくさんの作品を読むことだね。そうすれば視野は広がる。そして、迷うより先にたくさんの作品を書いてみる。それがいちばんのショート・ショートを書くコツだよ」
なるほどぉ。話を聞いていると、この謎の男のいう通りがんばれば傑作を書けそうな気がしてきた。いったいこの人は何者?
「ありがとうございます。あなたはショート・ショートの神様ですか?」
「そんなもんじゃないよ」
「悪魔や魔人について調べていたときに出てこられた。じゃぁ、あなたは悪魔?」
「冗談じゃない。悪魔じゃないよ」
「教えてください。魔人ですか?」
男は宙を見上げ困ったように言った。
「魔人でもないなあ。魔人に非ずだよ。なんて言ったらいいかなぁ?」
「そうか!ひょっとして」
魔人に非ず、非・魔人…ひ・ま・じ・ん
第191回 宇宙船降臨
未知の飛行物体が地球に接近しているという報道に世界は騒然とした。その物体は、光沢を放つシャープな流線型の金属だった。どうみてもこのUFOは宇宙船だった。
どこに着陸するのか?この物体に何のためにエイリアンが乗っているのか?侵略?友好?
なんと飛行物体は日本は阿蘇の草千里の上から降下、着陸した。すぐにそれを各国の政府関係、国際機関、報道陣があっという間に十重二十重に取り囲んだ。状況は中継され、テレビやネットで全人類が見守った。
物体の下部が音もなく開き、中から何かが姿を現した。全人類が固唾をのんだ。それはイカのようでもなく、昆虫のようでもなかった。
出てきたのは、冴えない感じの五十歳前後の中年男だった。そこいらで普通に見かけるような。
取り囲んだ群衆を見回し、困ったように頭をバリバリ掻くとフケがパラパラ落ちてきた。しかもゴルフ用のポロシャツを着ている。これが宇宙人か?知的エイリアンなのか?
宇宙人の前の空間にマイクのようなものが出現した。宇宙人は口を開き申し訳なさそうに言った。「どーもでーす」
どこの国の言葉だ?宇宙言語か?「これは日本語のようです」宇宙人は着陸地に配慮して日本語を使っているのではないか?
いずれにしても人類が初めて接する宇宙知性とのファースト・コンタクト。人類も宇宙からの訪問者に日本語で質問した。
ーあなたは、どこから来られたのですか?
「んーとですね。どこのあたりかねぇ。そういうても、どう言えばいいですかねぇ。わかりますかねぇ」
ーこの宇宙船はあなた一人で操縦してこられたのですか?どういう原理で翔ぶのですか?
「宇宙船?ああ、これ。乗ってるのは私だけみたいだねぇ。どういう原理いうてもねぇ。なんか押すと、動きますなあ。それ以上わからんねぇ」
ーあなたの地球へ来られた目的はなんですか?
「え……ちょっと待ってください。目的ですか?目的…目的…あー、ふっと気が向いてとか、いかんですかぁ?」
全人類は思う。なんか変だ。こんな奴が超宇宙船を作ったなんて。
宇宙人はをポケットから何かをぽろりと落とした!ボタンのついた装置!爆弾か!あの装置一つで地球を粉々にできるのでは。中継を見ていた全世界で悲鳴があがった。宇宙人は慌てて装置を拾いポケットに入れた。そして。
「ああ、気にしないで。なんでもないですからぁぁ。いや、なんでもないと思いますから」と手を振る。
ある中小企業の、事務所で中継を見ていた社員たち。一人の事務員が宇宙人を指差して言う。「この宇宙人!変だなと思いませんか?」すると他の社員も「ぼくもそう思ってた。宇宙人ってこんなにダサいかなあ」ふと別の事務員が「この宇宙人、吉田さんに似ていませんか?総務の吉田さん」
皆がおおっ!と驚き困惑する。「そういえば、あの煮ても焼いても食えない話し方もそっくりだ」「そうだ。吉田さんよ。うわっ。加齢臭まで臭って来る気がする」「吉田さん、どこにいる?」「さっきまで、そこらに」「いえ。今日は出社してませんよ」「だから、宇宙船にいるのか?」「そんな馬鹿な。吉田さんに連絡取ってみろ」「電話出られません!」
「見ろ!」社長がテレビを指差すと、宇宙人は「もう、ええですかねぇ」と言い残し、宇宙船の中へ戻ろうとしているところだった。
宇宙人が船内に消える。地球の人々が「待ってください。もう少しお話を」と呼びかけるが、宇宙船からは二度と誰も現れることはなかった。
未知の金属でできているらしい宇宙船は謎の動力でふわりと浮かび上がり、次の瞬間には光を超える速度で遥か上空へ飛び去ってしまった。あっけにとられているのは残された各国政府、報道陣だけではない。中継を見ていた全人類だろう。「あの宇宙船はどこの星から来たのかも、どのような原理で動くのかも、何の目的だったのかも不明のまま、突然に地球に来て、また突然に地球を去ってしまいました。だた、これだけは言えます。宇宙には地球人だけではなかった。他にも知的生命体が存在したのです」と興奮するアナウンサーの背後には、あんぐりと口を開いた各国政府要人たちが写っていた。
それから、数刻の後、ある中小企業の事務所に男が駆け込んできた。その中年男に社員たちが「どうしたんですか。吉田さん」
「いやあ、目が覚めたらこんな時間でしょー。慌てちゃってぇ」
吉田さんはテレビに写っていた宇宙人と同じく、ゴルフ着のポロシャツを着ている。
「さっきの宇宙人は吉田くんじゃないのかね。顔形も同じだし、体型もずんぐりで、話し方も吉田くんそのものだった」と興奮して社長が尋ねた。吉田さんは、社長が何をいっているのかわからない様子で小さな目をきょとんとさせた。
「社長の言ってる意味がよくわからないんですが。とにかく変な夢を立て続けに見て目が覚めないんす。宇宙を飛んでいるような夢だったり、なんか大勢に囲まれて、訳のわからんことを尋ねられたりねぇ。脈絡ないすよねぇ。目ぇ覚めたけど、まだ眠くて眠くて、でも、会社行かなきゃとやっと出社しましたぁ」と肩を落としてみせた。
「やはり、宇宙人と吉田さんが似ているのは偶然だよなぁ。吉田さんがあの宇宙人なら宇宙船は誰が作ったってことになるよねぇ」と誰かが言うと皆もうなずく。
「そうなんすかぁ」と吉田さんがポケットから手を出すと、ボタンの付いた変な装置が転がり落ちた。吉田さんもその装置が何かわからない様子で首をひねりながら拾う。
「このボタン何でしょう?」「その装置はさっきの!」と周りが叫んだ。吉田さんがボタンを押すのを皆は慌てて止めようとしたのだが。
間に合わなかった。
第190回 運命の朝
ぼくは平凡な高校生だ。
父親の転勤で新しい高校に行かなくてはならない。新しい住まいから眠い目をこすりながら登校だ。どんな高校だろう。少し不安だ。
家を出て学校へ続く曲がり角の手前でニャアと鳴き声がする。見ると生後まもない仔猫がこちらを見ている。ぼくは仔猫を手招きしたが、用心したようで隣の塀の中に逃げこんでしまった。仕方ないので立ち去ろうとすると、曲がり角の道から女子高生が飛び出してきた。その娘は口にパンを咥えて「遅刻!遅刻!」と叫んでいた。よく見えなかったが美少女だったかもしれないな、と思う。すんでのところでぶつかるところだった。
腕時計を見たら、女子高生が言っていたとおりだ。ぼくも遅刻するかもしれない。急がなくては。すると、目の前に突然、白い着物姿の小さな老婆が現れた。「たわけものめが!」
なぜ老婆に怒られねばならないのかかよくわからない。「どうして怒るんです。あなたは誰ですか?」「わしは運命の女神だがや。お前は運命を勝手に狂わせたから、出てきたんだが」運命の女神……きれいな若い女性じゃないのか。こんな婆さんが。「お前はその曲がり角で遅刻しそうな女子高生とぶつかる運命だったのだ。そして罵りあいつつ別れるも後に再会を果たし、ラブラブになる。その予定をぶち壊しおって、どうするつもりだ。たいへんなことだぞ」
どうもよくわからないが、ぼくはたいへんなことをしでかしてしまったらしい。運命の女神が言うのだから。運命に逆らってしまったということか。
「どうするつもりだ、って。もう過ぎたことじゃないですか。どうしようもないですよ」
ところが運命の婆さん…いや女神はぼくを睨むと真剣な表情で言い放った。
「いや、ある。最後のチャンスだ。時を巻き戻して運命をやり直す。やらん、とは言わせんぞ」
ぼくが返事をしようとすると、運命の婆さんが消えた。いや、玄関の前だ。後ろで「いってらっしゃい」と母の声。時間がさかのぼってる。学校へ続く曲がり角を歩いている。そうだ、これからぼくは曲がり角で、パンを咥えた女子高生とぶつからなければならないのだ。
それが女神の言うぼくの運命なのだから。
ニャアと鳴き声がした。それを無視して歩き続ける。仔猫で時間を取られたのだから。
もうすぐだ。その角を過ぎたところで、ぼくはパンを咥えた美人女子高生とぶつかることになるのだ。
「うわっ」そのときぼくは足を滑らせ尻餅をついてしまった。バナナの皮を踏んだのだ。
そして、ぼくの目の前をパンを咥えた女子高生が「遅刻!遅刻!」と叫びながら走り去っていく。
しまった。今度も間に合わなかった。
「この間抜け!役立たず!」と声がする。ぼくの目の前に、あの運命の女神が顔をしかめて怒っていた。「お前は本当にあほうだな。せっかくリベンジさせたのに」
「いいですよ。あの子と友達になれないくらい、ぼくにはなんでもありませんから」
「しかし、お前とあの娘がぶつからないというのは運命に逆らうことになる。それでいいと思うのか!」とすごい迫力で攻め立ててくる。ぼくもなんだか悪い気がして「もう一回チャンスがあれば、うまくやれる気がします」といってしまった。すると運命の女神は「本当だな?よし、最後の一回やりなおしチャンスが残っている」
そう呟いて運命の女神は消えてしまった。と、同時に、ぼくはまたしても玄関を出たところに。時間が巻き戻されている。
今度はうまくやれる。あの女子高生と曲がり角でぶつかるんだ。
猫の鳴き声がしたが無視して歩き続ける。バナナの皮が落ちている。これも避ける。完璧だ。もう曲がり角まで1メートル。
べチョリ。鼻に何かがかかる。臭い。手で拭くと何かの糞だ。頭上をカラスがカァと飛んでゆく。
あいつだ!
思わず足を止めたときだった。目の前をパンを咥えた女子高生が「遅刻!遅刻!」と叫んで走り去っていった。
間に合わなかった。
「三度も運命に逆らうとは」呆れと絶望の入り交ざった表情で運命の女神が現れた。「何とも救いようのない男だ」そういわれてぼくはムッとした。「どれも思わぬ出来事に邪魔されたんですよ。不可抗力ではありませんか。もしやぼくは女子高生とぶつからない運命なのでは?」運命の女神はまたしても怒り狂った。「ぶつかるのが運命じゃ。だから二度もリトライさせたのだ。もうやり直せん。すべてお前のせいだからな」「女子高生とぶつからなかったことくらいで、なぜそんなに怒るんです?」
消えてしまった運命の女神は答えてはくれない。だから何だと言うんだ。ぼくには何も責任はない。
凄いスピードで坂の下にむかって走っていた女子高生が、外国人の男にぶつかったという話を学校で聞いた。転げたトランクから奇妙な機械が現れたとのことだ。その機械が赤く点滅を始めて、大慌てで外国人は逃げ去ったと。それは、ぼくには何にも関係ないことだ。午後から世界中でミサイル戦争が起こったことを知った。何が理由かはわからないが、もちろん、ぼくには関係ない。
ぼくにとって一番大事なのは、新しい学校に早く慣れることではないか。
第189回 奇妙な写真
怖い話が好きだと思われているようで、皆が私のところに怖い話を聞きにくる。
特に夏は怪談の委節だから、リクエストが多い。先日も数人の集まりで、やった。
そのときは心霊写真の話だった。
撮影したときは気がつかないけれど、あとで写真を見ると、何かが写っていたり、写っ ている筈のものが消えていたり。集合写真の顔と顔の間に見知らぬ顔があったりする。あるいは背後には誰もいない人物の肩あたりに腕が伸びていたり。
その解説をする。悪戯好きだったり、人がたくさん集まると喜こぶ地縛霊がいたりするんです。そんな霊だったら問題ない。でも、中には悪い霊がいて、そんなのが写っていたら大変なことになるんだよ。呪いの写真だね。でも、滅多にそういう写真はないんだよ、と。
怖い話を聞かせた数ヶ月後、そのとき参加していた一人が電話してきた。私の話が信じられないらしくシラケて聞いていた奴だ。用件を尋ねる。「ぼくの写真を見てもらえませんか? 撮るときは何もなかったのが現像したら変なものが写ってるんですよ」「じゃ、ぼくのスマホに送ってもらえませんか」「いや、使い捨てカメラで撮ってたものを現像したので」「何が写っているんですか?変なものって」
しばらく黙って彼は言った。「最初その写真を見たときには何にも写っていなかったはずですが、朝、見たら、写真の端っこにぼやぁっと小さい黒っぽいものがあって、写真汚したかなと思ったんです。で、今見たら、汚れじゃない。何か写ってる。黒いぼんやりとしたものが大きくなっている。よく見ると手足みたいなものがついている。すぐ、そちらに行っていいですか?」
すぐに彼は写真を持ってやってきた。でも、怖がらせる話はするが、私も心霊写真のホントのところはよく知らない。
「これです。これです」と写真を取り出しかけて、わっと叫ぶ。また大きくなってる」
彼が出した写真はひまわり畑の写真だった。崖沿いにひまわりが咲き乱れている。その左横にお堂がある。彼は、そのお堂の横のあたりを指した、なるほど、二センチくらいの黒い人型の塊のようなものが見える。目を凝らすと、手足らしきものが。
人間だということはわかる。
「悪い霊ですか?」私にわかる筈がない。そのとき……。黒い人影が膨張した。本当だ。見の錯覚ではない。両手を上げていた。
「これは近づいている」「どうすればいいですかね?」「写真をお焚き上げしたほうがいいですかね?やってもらえませんか?」
私には、そんな霊能力者のような力はない。
この写真の謎を解くとすれば…。
「この写真はどこで撮ったんだ?」「車で15分くらいの田舎道沿いのひまわり畑ですが」「これからその場所へ連れて行ってくれないか?」「いいですよ。すぐに行きましょう」その場所なら何かわかるかも。
確かに写真の場所は近かった。お堂がひまわり畑の横にあった。ひまわり畑は崖沿いに向こうまで続いている。
彼は自動車を駐める。確かにこの光景だ。あたりを見回す。別に影は見えない。
「あっ!」彼が叫んだ。写真を手にしている。きっと、また写真が変化したのだろう。
見ると、影は大きくなって、はっきりと人だとわかる。そして両手を上げている。怒っているのか?まだぼんやりとしているが、それは、老婆らしいことがわかる。手を上げて、口を開いて!ん?何を怒っているというのだ。彼が写真を撮ったこと?
この写真を撮影した同じ場所に立ってみる。ここだ!
崖に沿ったお堂、そしてひまわり。間違いない。「この場所で撮ったのですね」彼はそうだ、と頷く。写真を見る。
驚いて叫ぶ。「はっきりわかる。顔も表情も。手を上げている」見ると、さっきまではぼんやりとしていた影がはっきりと人の形に。やはり老婆だった。大きく口を開けている。何かこちらに叫んでいる。誰だ、この老婆は?彼も知らないと首をひねった。
わからない。謎は解けない。そこに、近所に住んでいるらしい老人が通りかかり「どうしたのかね?」と声をかけてきた。ひょっとしたら、この老人なら何か知っているのでは?この老婆がどのような魔女なのか。
「実は、ここで撮ったこの写真ですが、写っている筈のないお婆さんが写ってるんです。心当たりありませんか?」老人はどれどれと写真を手に取り見つめると、あっ!と声をあげた。心配になって尋ねる。
「呪いをかける魔女ではありませんか?」
いやいや。老人は首を横に振った。「悪さをするようなもんじゃない」
それを聞いて私たちは、ほっと胸をなでおろした。「じゃあ、いったいこのお婆さんは何者なんですか?」
「ああ、このあたりに昔から出る有名な“お知らせ婆ァ”だ。知らせてくれるんだ。危険が迫っているから注意しろとな」
「何が迫っているんですか?」
「ほら、婆ァが手を上げとるだろう。指差しとるだろう」
なるほど老婆は単に手を上げてこちらを脅しているわけではなかった。何かを指差しているのだった。お堂の上の崖の方を。
写真から顔を上げ、お堂の上の崖を見上げると……。
崖の上部が崩れ、無数の巨石がこちらに向かって転げ落ちてくる、「うわああああ」
これを知らせてくれていたのか。