第239回 捕われの獣

犬も歩けば棒に当たる、と言うが、私もその例に漏れない。
あの日、近くの里山を歩いていると、罠にかかった獣を発見した。体長30センチくらいの褐色の体毛をしたスレンダーな獣だ。必死で罠から逃げ出そうとしているが、残念ながらうまくいかないようだ。罠は踏み板式トラップで金属網の檻になっていた。一度、蓋が閉じると自力で中から出ることはできないようだ。
獣は私に気がつくと、暴れるのをやめ、すがるように私を見た。なんだか涙ぐんでいるようで、その目を見ていると、可哀想でたまらなくなった。
罠は、ネズミ捕りと構造は同じだった。私は罠に近付いて、仕掛けになっている蓋を上げてやった。獣は、その瞬間に喜んで外に飛び出す。それから逃げ去ろうとするときに獣は立ち止まり、振り返ると何度も頭を下げた。喜んでいる。私に感謝の気持ちを伝えたかったのだろう。よしよし。もう二度と罠に捕まるようなヘマをするんじゃないぞ、と私は呟いた。
帰りがけ、自分がなにか善行をした気分でうきうきしていたことは隠さなくてもいいだろう。しかし、あの獣はいったいなんだったのだろう?狐にしては小さすぎるし。
その夜のこと。夜は何を食べよう、面倒だなぁ。とテレビを見ていると玄関を叩く音がする。
誰だろう?
あわてて立ち上がり玄関へ行き、ドアを開くと若い女の子が立っていた。上品な褐色の服を着ていて、深々と私に頭を下げた。知った顔ではないが、とても美しくスレンダーでスタイルもいい。よもや。
すると彼女が言う。その声は、鈴が転がるような心地よい声だった。
「今日、危いところを助けていただいたものです。本当にありがとうございました。嬉しくてお礼にうかがいました」
えっ!今日……。ということは、実は、昼間に罠から救ったのは、この美女だったということか。美女が化けた姿?狐は化けると聞いたことがあるが、そうか、あれは狐より小さいから、イタチだったのか?
イタチに化かされたという話も聞いたことはあるような気がする。私は悪戯心を起こした。
「それは。それは。よくおいで下さった。狭いところですが、おあがり下さい」
女は申し訳なさそうに部屋に入ってきた。どこから見ても人間だ。こんなにうまく化けられるものか、と感心した。
女にお茶を出すと、女はゆっくりと、部屋を見回した。
「あの。お礼にあがりましたが、何を持参したらいいのかわかりません。とりあえずお話をうかがってからがよいかと思いまして。現在、何かお困りのこと、不便なこととかありませんか?」
「いや、気楽なひとり暮らしで別に困っていることはありません。男やもめで少々部屋が汚いのは仕方ないと思いますがね」
そう答えると、女は、ぽんっと手を叩いて立ち上がり、前掛けをつけて「わかりました。では、部屋を片付けさせていただきます」
ぽかんとしている私を尻目に、女は箒がけ雑巾がけを始めた。何という行動力なのだろう。
みるみる部屋はぴかぴかに磨きあげられた。とても私の部屋とは思えない。
「お食事はすまされましたか?」
「いや、即席焼きそばでも作るつもりでした」
「そうですか」と女は立ち上がり冷蔵庫から何かあり合わせの食材を取り出すと、てきぱきと何やら作り始めた。
「お待たせしました」
テーブルの上にあったのは初めて見るような高級料理。うまい。奇跡のようだ。「いやぁ、こんなお嫁さんがいたら、素晴らしいだろうなぁ」と思わず漏らす。「そうですか。嬉しいです。ぜひ、私をお嫁さんにして下さい」と女が言った。
一瞬、ワクワクしたものの思いなおした。彼女はイタチなのだ。それはまずいのではないか?
「そればかりは、許されないのではありませんか?人間と獣の婚姻というのは、昔から民話では悲劇的な結末ですよ」
「そうでしょうか」と女は言った。すると、突然女は立ち上がりピタンと飛んだり床をごろごろと転がったり。
何をやっている。この女は!!と驚いた。目を離そうとするが目が離せない。私はくらくらして意識が遠のいていった。
目が醒めると、そこには誰もいなかった。
それから、数年が経つ。あの美女を時々思い出すが、あれはイタチなのだと自分に言いきかせた。ある日、玄関に彼女がいた。心がときめいたが、どうしたんだ。そう尋ねると女は「結婚しましょう。私のお腹にはあなたの子がいます」
私はエー!と驚く。何故?
「私はオコジョなのです。オコジョが獲物を捕まえるとき、踊りを舞うのをご存知ですか?あれは、獲物に睡眠術をかけているのです。あなたには結婚願望があった。それを見抜いたから、あの踊りを舞って……」エーッ。
「でも、あれから、随分と時が経っている」
「オコジョは着床遅延という能力があります。出産に適した時期まで受精卵を着床させません。そして今、子宮着床になったんです」
そうか。ならば私は責任をとらなくては。
こうしてオコジョの女と私は結婚してはや十数年、今も幸福な生活を送っている。
息子ももう高校生だ。息子が「今度、ぼくのオコジョを紹介するよ」
それは彼女のことだろう、と訂正するのだが、息子にとっては彼女のことを「オコジョ」としか言えない。それはオコジョの血をひく本能らしい。まぁそのくらい仕方ないか。

第238回 釜の蓋が開く

生前、よい行いをしてきた人は、あの世では極楽というところへ行く。私もそうだ。
美しい花が咲きみだれ、心地よい音楽が流れている。暑くもなく寒くもない。お腹が空くこともないのだが、甘いものを少しだけ食べたいなと考えれば、どこからともなく甘いものが現れ、味わうことができる。ちょうどよい湯かげんの温泉に浸り、「極楽!極楽」と伸びをする。そんな時間が永遠に続く。
最初のうちはよいのだが、永遠にそんな日を送っていると必ずだんだん退屈になってくる。そんな贅沢を言ってはバチがあたると思うのだが、どんな極楽気分で毎日を過ごしていても、これだけは避けられないようだった。「毎日、いい気分で過ごしているのことも飽きてしまった。もっと刺激的な楽しいことはないものだろうか?何の不満もない。不自由もない。あるのは、退屈だけ。だれか退屈を吹きとばしてくれ。これこそ退屈地獄というやつではないか」と。
ある日のこと。隣に住んでいる男がやってきた。
「やぁ、毎日、極楽ですなぁ」お決まりの挨拶を交わした後、私にチラシを差し出した。
「なんですか?これ」
「いえ、うちの郵便受に入っていた旅行社の案内チラシですよ。この旅行社でツアーを予定しているらしいですよ。興味ありませんかな?」
旅行は生前に行きたいところへはほとんど行ったつもりだった。
「行きたいツアーなんて、ないんですがね」
「いや、内容を見て驚いたんですよ。こんなツアーは聞いたこともない」
「いったい、どこのツアーなんですか?」
「地獄ツアーですよ。地獄に行ったことないでしょう」
確かに地獄のことは話には聞いているけれど自分の目で見たことはない。せっかく極楽に来れたのに阿鼻叫喚の地獄など行こうとも思わない。
「というのが、八月のその日は地獄の釜の蓋が開くんだそうです。地獄の鬼たちもその日だけは休みをとるということで。その日に地獄めぐりをすれば安全で快適なのだそうです。こんな日でもなければ、地獄見物はできませんよ。興味ありませんか?」
なんと刺激的なツアーだろう。地獄の釜の蓋が開き、鬼たちがいなくなった地獄をお気楽に、自由に見て回れるというのだ。鬼たちがいなくても、想像力を使えば日常の地獄の姿を知ることができるだろう。そして、いかに自分が極楽で幸福な日々を送っているのか感謝することができるにちがいない。日頃の幸せに退屈するなんて、もっての外だとわかるだろう。
「そりゃあいい。ぜひ、地獄見学ツアーに参加させてください」と申し出る。「私も」「俺も」と地獄ツアー希望者でみるみるいっぱいになってしまった。
成程、極楽の人々も考えることは一緒なんだなぁ。
お盆の十六日。私たちはその日を迎えた。地獄の釜の蓋が開く日だ。私たちは極楽バスで地獄の入口に乗りつけた。門を抜けると、なるほど、地獄は人っ気がなくガランとしている。本当に鬼たちもいない。塀にはたくさんの鬼の金棒が立てかけられていた。
興味津々で私たちは地獄めぐりを開始した。
「へぇ。こんなところを歩かされるのか!」
でかい尖った無数の針の山がある。針山地獄だ。「痛かろうなぁ」
でかい釜があるが、その時は使われていない。ガイドが「罪人はこの釜で煮られるのです。逃げようとしても鬼の獄卒が出してくれません」なるほど、それが永遠に続くのか。
「熱かろうな、怖かろうな」と地獄に堕ちた人々の苦労を偲んだ。
焦熱地獄も熱そうだし、木の葉が刃物になった山も痛そうだし、地獄はとんでもないところだ。だから退屈は一発で吹き飛んだ。地獄は広い。すべてを見ないと気がおさまらない。ひと通り見学を済ませる。ほどよく汗をかいた。釜を見ると火が入ってないから湯加減はよさそうだ。ひと風呂浴びて、汗流して帰るか。
地獄の釜の湯につかる。するとすっかりいい気分に。思わずウトウトとしてしまう。
釜の上の方はなにやら様子がちがう。はっ、と目を覚した。
釜から顔を出すと、極楽ツアーの連中の姿はどこにもいない。みるみる釜の中の熱湯が噴き出してきて、あわてて釜から飛び出る。寝過ごしてしまったのか。地獄ツアーは私を置いて極楽に帰ってしまったようだ!
このままだと私は地獄の亡者として釜茹でされてしまう。こりゃ大変だ。
日が変わろうとしているのだ。釜から登る。騒がしい声がする。鬼たちが戻ってきたのだ。
地獄の門に急いだが、門はすでに閉じていた。
万事休す。
もう、どうしようもなく身を守るために塀に立てかけられていた金棒を手に取った。すると、あら不思議。私の両腕は筋肉が盛り上がり、赤く皮膚が変わっていく。頭からなにか生えて……角だ。
帰ってきたのは貧相な奴等だった。手当たり次第、金棒を叩きつけ釜に放り込んでやった。
鬼に変身した私は、それから獄卒として亡者たちを苛める日々を過ごしている。
来年の地獄の釜の蓋が開く日まで、とりあえずこうして過ごすつもりだ。案外楽しくて退屈しない。そんな自分が来年、極楽に戻って暮らしていけるかどうかが不安なのだが、とりあえず今は心を鬼にして亡者を苛めることに専念するつもりでいる。

第237回 スポンサーから一言

 わが身の不幸は予測できなかった。予測できる筈もなかった。それは事故だった。
しかも突然に振りかかってきたのだ。
交通事故ではない。
山道を歩いていて、片足を岩の上に乗せて飛び越えようとしたら、岩が突然に転がり、乗っていた私は足をとられて転がり落ちた。その私の上にも岩が崩れ落ちてきたらしい。
全身がぐしゃぐしゃだったということは後から聞かされた。
そして、病院のベッドの上で意識を取り戻した。助かったのだ。そして医師の説明を聞いた。
私は大手術を受けて奇跡的に助かったのだという。山道での事故だから、誰からの賠償も受けられないことを知った。しかも大手術で医療費も膨大な金額になるという。私の収入では、とてもまかなえるものではなかった。私は天涯孤独の身の上だ。誰も医療費を負担してくれる筈がなかった。なのに、大手術はなされ、おかげで生命は助かったのだ。手術が決断されるまでに、それほど時間はなかったのに。経済的なことは後回しで、とにかく生命を救うことを優先させたということなのか。すると、医師が言った。
「私たちは何よりも患者の生命を救うことを優先し、医療行為を施します。そして、医療費の支払いは医療スポンサー機構に申請を出すことで解決します。それで、費用のことは案ずることなく救急作業に従事できるのです。おかげで、あなたの生命も救うことができた。よかった!」
 確かに親戚も友人も一人もいない私にとっては、医師のその選択はありがたかった。おかげで一命をとりとめることがきたのだから。
 だが、“医療スポンサー機構”とはなんだ?初めて聞くのだが。
誰だ。
率直に医師にそのことを尋ねてみた。
「医療スポンサー機構ってなんですか?初めて聞くのですが」
「ああ、本当はもっと難しい名称がついているのですが、わかりやすい表現として医療関係者でも、こう呼ぶようになりました。
 人命を救う医療を行う際、医療費が高額になると予測されるとき、我々は医療スポンサー機構に申請するのです。この機構は数百社からなる民間企業で構成されており、人命を救うために医療費を代替してくれるのです」
 なんと奇特な団体なのだろう。ありがたいことだ。そして、ゆったりと私は治療を受け、主治医からも完治というお墨付きを受けた。医療費の返済も機構にする必要はないということだった。「ただ一つ、スポンサー機構から代わりの現象が時々出現しますが、慣れれば気にならないと思いますよ」
「それは目まい、ふらつきみたいなものですか?」
「いや、その都度ちがうようです。ただ、生命にかかわるようなものではありません」
 そして社会に復帰した。それが起ったのは仕事の途中、一息ついた時だった。突然に目の前が白くなった。そして声が聞こえた。美女が現れ言った。「あなたはお金のある暮らしはお好きですか?最少の投資で最高のリターンをかなえます。角万証券におまかせください」
なんだ、これは!目の前のコマーシャルが消えると日常が蘇った。これはいったい何事だ。それからも突然、目の前で唐突にコマーシャルが始まる現象は続いた。首を蚊に刺されたときは「ムシ刺されにカユミDを塗りましょう。お近くの薬局で」とアイドル系少女が微笑み、夕方くたくたで帰っているときは「疲労回復はこの一本!」とドリンク剤を持った男が飛び跳ねるようになった。
 そこで、はたと気がついた。出現する幻視の商品は医療スポンサー機構の加盟企業だったことに。手術を無料で受けた代わりにスポンサーのコマーシャルを強制的に見せられるのだ。なんという……呪いだろう。
 主治医が慣れれば気にならないと言っていたが…。気にならない方がおかしい。
 始めは、ほっと一息の時に現れることが多かったが、だんだんと節操なく現れるようになった。彼女とデートをして、いい雰囲気になりかけた時、突然目の前が真っ白に。そして「あなたの口臭は気になりませんか。シュッとひと吹き。魅力的な草原の香りに変身。恋人もめろめろですよ」
 視界が戻ると彼女の姿がない。なんてこった、怒って帰ってしまったようだ。
 怒り狂い主治医に言うと「気にいらないときは、右上にボッチありますから“広告を非表示にする”で消すことができますよ」
 へぇ、そんなことができるのか!良いことを聞いた!
 次に目の前の風景が消えると、ニタニタ笑いの男が現れた。「失恋の悲しさを癒しましょう。旅に出ませんか?」思わずコマーシャルに見とれそうになりつつ、右上のボッチを押した。出た!主治医の言ったとおりの文字だ。“広告を非表示にする”だ。それを押した。すると、広告を非表示と現れた。しかし、その下に「広告を非表示にした理由をお聞かせください。/正しくない言語/関連性がない/デリケートなトピック/個人的すぎる/何度も表示される」どれも押したいが、とりあえず関連性がない、を押した。すると、「この広告は表示されなくなりました」と。
 やった。これで広告に悩まされることがなくなった、と喜び、日常生活に戻った。すると目の前がまた白くなり女性が現れた。「あなたは男性の自信を取り戻したくありませんか?」
 そうか。スポンサー機構の企業はまだ無限にあるのだ。このコマーシャルを消しても、次のコマーシャルが…。

第236回 笑顔の真相

 私にも悩みがある。
 自分の心を偽ることができないのだ。仕事はおかげで評判よろしくない。何故かというと、考えていることが、そのまま表情に出てしまう。
 百貨店に勤めている。売場にいたのだが、お客が服を買いにきた。どんな服を着ても似合いはしないようなお客だった。お客は気に入った服を見つけて試着したいと言いだした。
 お客の要望はかなえてあげるのが鉄則だ。試着室を出てきたお客から「どうかしら、似合うかしら?」と尋ねられる。
 とても、お世辞にも似合うとは言えないのだが、売上を伸ばすためには仕方がない。「とてもお似合いですよ」と答える。
 だが、お客はぷんぷん顔で品物を返すと、売場を出ていってしまった。
 あれほど似合うとほめたのに。
 すると、売場の上司に呼ばれた。
「どうして断られたかわかるか?」
「わかりません」
「自分の顔を鏡で見てみろ」
言われたとおりに鏡をのぞいてみる。
 自分でも呆れてしまった。私の表情は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。「そんな顔でお似合いですと言われても、誰も信用しないんだよ。信用される表情をしろよ」
 だから、本質的には接客には向いていないのだと思う。心の中が、そのまま表情に出てしまうらしい。もちろんそんなふうだから恋人もできない。
 恋人ができると、最初は言うことと表情が一致して何も問題ないのだが、しばらく経つと、恋人から何かを話しかけられても上の空の表情になってしまうらしい。
 恋人は哀しそうな表情を浮かべて「あなたは私が言うことが余程つまらないのね。もう一緒にいても楽しくないのね」と去っていく。
 だから恋人と数ヵ月も続かない。
 恋人を嫌いになったわけではない。以前ほど笑顔が続かなくなったのは恋人に慣れてきただけのこと。もっと愛想よくすればいいのかもしれないが、やはり気兼ねしなくていいんだという安心が仏頂面として現れてくる結果になった。
 もちろん努力はした。
 ここは笑顔でお客に話すところだ!という場面はわかる。だが、笑顔が作れないのだ。鏡を見て口角を上げてみたり目を細めてみたりするのだが、顔は固まったまま。
 このままで自分の人生は終わるのかと思っていた。
 だが、奇跡が起った。予測できない奇跡が。
 あるランチのときに最近できたばかりのカレー屋に入った。そしてチキンカレーを注文した。
 職場に戻っているとき、顔が小さく痙攣するのがわかった。その感じは、職場に帰りつく迄続いた。
 今、バックヤードの人に会わない場所で在庫の管理をしている。しかし、売場を過ぎて自分の仕事場へ行かなければならない。そこで売場にいたお客に「いらっしゃいませ」と挨拶して仕事場に入った。すると…。
 売場担当者が、大あわてで駆け寄ってきた。
「お前にお客様が相手してほしいってさ」
「何故、私に?」
「いらっしゃいませと言われた笑顔が素晴らしかったから、あの笑顔の店員さんにお願いしたいって」
「まさか。笑顔を浮かべたつもりなんてない」
 自分でも信じられず、近くの鏡を覗きこんだ。そして笑顔を作ってみた。
 なんと素晴らしい笑顔だ。いや、本心の笑顔ではない。作り笑いだ。あれほど顔が強張って仏頂面しか作れなかったのに。
 久しぶりの接客の仕事ではあったが、喜んで買っていかれた。作り笑顔の効果で思いがけぬ売上を記録できた。
続いて来店したお客にも次々に接客。あっという間に一ヵ月分の売上をあげた。
 ここ迄実績をあげるとは。しかも急に。
 理由は?
 チキン・カレー。
 あの店のカレーを食べてからだ。心にもない作り笑い、愛想笑いができるようになったのは。何故なのかはわからないが。まるで、魔法のカレーだ。おかげで仕事は順調だ。
 翌日、午前中に表情が強張りかけたから、あの店へ早目に行き、カレーを食べた。おかげで顔の筋肉が癒されてきた。
 正式に売場担当に指名されることになった。実績も認められたのだろう。新しい彼女もすぐにできた。口ではうまいことが前から言えたのだが、それに笑顔が不足していたのだ。今となっては鬼に金棒。彼女からは「あなたが笑顔で話していると、もう魅力的で離れられなーい」とまで言われてしまった。仕事もプライベートも絶好調。しかし、これは作り笑い、愛想笑いということは自分でもわかっている。人の表情と本心は一致しないということは、わかっておいた方がいい。
 それからもすべては順調そうに思えたのだが、何故か少しずつ売上が落ちてきたように思える。あれほど、笑顔が好きだ、と言っていた彼女も冷たくなったような気がする。
 あれからも、あの店でチキンカレーを欠かさず食べている。作り笑いも愛想笑いもレベルが落ちたとは思わないのだが。
 そして同僚の一人にこう言われた。
「最近、売上落ちたでしょう。お客が言ってたんですよ。あの人、笑っても心からじゃない作り笑いだとわかるのよね。だから言うことも甘いことばかりと思う…今一つ信じられなくて買う気がおきないって」
 翌日、ランチに行くとカレー屋の主人が言った。
 「実はうちのカレーは辛さが選べるんです。これまでカレーの辛さをお聞きしてなかったんですがいかがなさいます」
 初耳だった。意外だった。選べたのか!それがわかれば!!
 「今日からは、最高の辛口にしてくれ」

第235回 変身クリニック

 満月の夜になると、獣に変身する人間がいるというのは伝説ではない。本当のことだ。私もその中の一人。おかげでまともな人間生活が送れずに悩んでいた。いや、私が狼男というわけではない。念のために。そこで、名医がいるとの噂を耳にしてここにやってきた。その名も“大神クリニック“。こちらの先生もかつて私と似たような悩みを抱えていて、治療法がないから自分で治せるようにしよう、と医者の道を志したと聞く。病院名からもわかる通り、先生も人狼なのだ。満月の夜になると狼男に変身するという。だから満月の日は休診ということになる。
「先生は狼男ですか?」と真っ先に尋ねたのだが、先生は否定することもなく「ええ、その通りです。世の中には、私のような変身症で悩んでおられる方がいかに多いか。でももう悩まれることはありません。そんな変身症の方々のお役に立ちたいとクリニックを立ち上げたのですから」と言ってくれた。先生の言葉を信じてみようと思った。
「どんな症状でお悩みですか?」
 私が症状を伝えると、先生は「なあるほど」と膝を叩き「ではグループ療法が一番いいかも知れませんね」と。
 グループ療法の部屋に入ると、すでに十数人を超える男女が椅子に座っていた。程なく先生が現れ椅子に腰を下ろし、愛猫を撫でながら、口を開いた。
「まずお一人づつ症状を話してください。みなさんの話を聞けば悩みが自分だけではないのだとおわかり頂けるかと思います」
 最初は男が話し始めた。「私は麺類を食べることができない。麺類を口にすると頭に角が生えて、手足に蹄が生えてきて、牛男になってしまいます。凶暴性はないのですが、人間に戻るまで涎を垂らして怠惰になってしまいます」
 満月の夜とは関係ないらしい。先生が男にラーメンを与えると、実は見るだけで我慢できなくなるらしく、みるみる食べてしまう。すると頭から角が生え、四つん這いの人牛と化した。私はあんぐりと口を開いた。これは予言する妖怪“件(くだん)“ではないか。
 次は大男だ。「私は酒を飲むと変身します。酒席で何度失敗したことか…」先生が彼に差し出したのはコップ酒だ。「やめてください。我慢できない」大男は自分の手を手錠で拘束した。彼の口に酒が注がれると、なんと男の全身に縞ができ、耳が立ち、大トラ男に変身したのだった。大トラになった彼は泣き叫ぶ。彼は泣上戸でもあるようだった。先生の膝にいた猫が驚いていた。
 各人は自分の番になると、自分の変身後の姿について語り始めた。私は世の中にはこんなにいろんなものに変身する人がいるのだと知り、安心すると同時に呆れ返ってしまった。私は変身するのは狼男くらいかと勝手に思い込んでしまっていたようだ。りんごを見るとヘビに変身する男もいた。イブに禁断の果実を食べさせた先祖の呪いなのだろうか。
 次の女性は走り始めるとウマに変身してしまうという。だから走れないのが悩みだとか。しかし、他の人たちからは「今はウマ娘はブームじゃないですか!」としきりに羨ましがられた。満月を見ると変身するのは、犬に変身する男くらいでヒツジやウサギに変身する女性は何が原因かわからないという。狼男に変身する人以外にも、いろんな変身の条件があるものだ。一つ共通点に気づいたのは次の男の話からだった。
「私はドラゴンに変身するんです」と。ドラゴンなんて架空の動物ではないか。実存しない動物に変身できるわけがない。そう思った。「私はヌンチャクに手にすると」バッグから男はヌンチャクを取り出し上半身を脱いで手に持った。すると顔がみるみる変貌していく。眉が濃くなり、眼がぎらつき、むきむきの筋肉が浮かび上がってくる。「ドラゴンに変身するのです」そしてヌンチャクを振り回すと甲高い奇声をあげた。
“アチョー!!
“部屋の隅に逃げていた猫が驚き飛び上がる。
 まるでブルース・リーだ。まさに男はドラゴンに変身していた。
 彼らに共通していたのは、彼らが変身するのはどうも十二支に関係する動物だということだ。
 さて今度は私の番だ。私は立ち上がった。「私は満月の夜にネズミになるんです。ただし姿がネズミになるだけで人を襲ったりすることはありません。しかし、みなさんの話を聞いていて、それぞれさまざまな悩みを持っておられるんだなと驚きました」
 満月ではなかったので私はネズミに変身することなく自分の症状を伝えることができた。自分だけが変身の悩みを抱えているわけではないことがわかっただけで心穏やかになった。
 そこで先生が皆に言った。
「他の方の話を聞かれて、どう感じられましたか?正直な話、私は自分の経験や知識からみなさんの症状を治す方法を見つけてはいません。しかし、あとはみなさんの心の持ち方です。同病の方の存在を考えれば、気の持ち方も楽になるはずです。それからこの悩みは人間だけではありません。獣の中にも条件が揃えば人間に変身するものもいるはずです。」ということで、この日のグループ療法の会は解散になった。帰ろうとすると、一人の女性が私を追いかけてきた。
「ネズミに変身するんですね。私、漫画映画でも遊園地でもネズミの大ファンなんですよ。もっと親しくなりたいわ」
 よく見ると、とても魅力的な若い娘だ。はて、彼女はさっきのグループにいたっけ?思い出せない。彼女は変身するとどうなるんだっけ?いや、彼女は自分のことを話していないのでは?彼女の正体は誰なのだろう。
 しかし、彼女の態度が猫っかぶりで猫撫で声を使っているようにしか思えない。彼女が私なんかになんの興味があるんだろう?彼女が私に近づく理由はなんなのだ。気にはなるが、美人だし、まあいいか。

第234回 女神降臨

 よく百円ショップを利用する。必要なものができたときは、とりあえず飛び込むし、必要がなくても、暇なときは百円ショップに寄って時間潰しをする。掘り出し物もよく見つけたりする。小物を入れる缶ケースや、木の蓋のついたガラス容器。ちょっとしたサコッシュも。迷ったら、とりあえず買う。買っても後悔しないのが百円ショップのいいところかな。

 その日も別に欲しいものがあったわけではなく、ふらりと百円ショップに入ったのだった。そこで「伸びる靴ひも」なる変なアイテムを見つけた。一瞬迷ったものの、一応買っておこうとレジへ向かった。

 この日は客が少ない。だからかもしれないがレジは二つしか使われていなかった。今は、セルフレジも多いのだが、やはり人が対応してくれた方がいい。男性のレジと女性のレジがあったのだが、女性のレジを選んだ。別に理由はないのだが、やはり女性に対応してもらった方がソフトな感じがするというだけのこと。

 商品と代金を差し出したときだった。目の前のレジの女性の全身が白く輝いた。なにごとかと立ちすくむ。

 確か目の前にいたのはメガネをかけ事務用の前掛けを着た、どこにでもいるおばちゃんだったはずだ。しかし、今そこにいるのはなんともおごそかな、輝く白衣をまとった女性だった。あんぐりと口を開き、全身がフリーズしてしまった。いったい何が起こったのだ。

 白衣の女性はやさしく微笑んで言った。その声は慈愛に満ちていた。
「いつも百円ショップをご利用下さり、ありがとうございます」
「あなたは……?!」
「私は百円ショップの女神です。あなたがいつも百円ショップをご利用されているのがわかって、あまりの嬉しさに姿を現してしまいました。いつも、ありがとうございます」
「女神……なんであなたがレジにいるんですか?」
「はい。いま人手不足で募集してもなかなかバイト希望者が集まらないんですよ。その苦境を見かねて、私もレジを手伝っているんですけど」

 そうか。どこも人手不足とは聞いていたが女神が手伝わねばならないほどバイトは集まらないんだなあ。

「わかりました。女神さまも大変なんですね」
「ええ。お気遣いありがとうございます。私は、いつも百円ショップをご利用いただくあなたの姿を見て、何かお礼を差し上げなくてはと我慢できなくなりました。女神として、あなたの願いをかなえてあげたい。この百円ショップにあるものなら、なんでいいので欲しいものを願ってください。あなたに差し上げましょう」と女神は表情を輝かせながら言う。しかし、なんでも欲しいものと言っても、願うほどのものはない。どれも自分の小銭で買えるのだから。

 女神にニコニコしながら言われても困ってしまう。「いや、欲しいものができたら自分で買いますから」

 すると女神は両手で顔を覆い首を振った。
「なんという正直で欲のない人でしょう?こんなに無欲な人は初めてです」と買い被られてしまった。いや、欲しいものがないと言うわけではないのだが、切望しても手の届かないものが、百円ショップにはないというだけのことだ。もし湖の女神なら「あなたは正直ものです。湖に落とした斧でなく、金の斧も銀の斧もあげましょう」と言ってくれるところだ。そっちの方が金の斧と銀の斧を貴金属店に買い取ってもらえるから、いいかもしれないな、とぼんやり考えていたら、女神はとんでもないことを言い始めた。
「欲しいものがあれば自分で買うと言い張るのを見て、あなたに何が足りないかがわかりました。人間は生まれつき欲を持っている存在です。あなたには、その“欲“が欠落しているのですね。だから欲しいものは自分で買うなどと言ってしまうのです。あなたは正直ものだから、あなたに欠けている“欲“を授けましょう。なんでも欲しくなる“物欲“。地位を望む“名誉欲“。美味しいものを食べたがる“食欲“。疲れたときに休息するための“睡眠欲“。そして…それらすべての欲望をあなたに」

 とんでもないことだ。そんなものを与えられたら、自分が何をしでかすことになるかわかったもんじゃない。いや、もはや心を欲望の塊に支配されたケダモノのようになってしまいかねない。

 どうも、この女神はおかしい。もっとも、女神でなんでもできるなら、この百円ショップも自分が人の姿に化けて手伝うようなことをせず、アルバイト希望者が増えるようにできないものなのか?人の願いをかなえることができる女神なら、当然そのくらいまず最初にやれるはずだろう。
「せっかくの申し出ですが、私は私の無欲さが気に入っています。ですから、私に欠けている欲望をくださらなくてもけっこうです。それよりも、この百円ショップですが、レジを担当される前に店内の床の汚れや埃、塵、ゴミの散り具合を女神さまの能力でどうにかされませんか?そしてレジ担当者を女神の能力で集められてはいかがですか?」

 女神は哀しそうな表情だ。「残念ながら店のことは私自身にはできません。でもあなたの力を借りれば店をきれいにできますが」「私の力を…?」「そう。ショージキ者の貴方の」「いいですよ」と言うと女神は杖をひとふり。

 私は変身させられた。

 いま、私は電気ショージキとして店の床をきれいに掃除してまわっているのだが…。これでいいのか?

第233回 花咲か爺さんの陰で

三月の下旬。サクラの蕾も膨らみ始めていた。来週には咲き乱れて、この公園も凄いことになるのだろうな、と散歩していたときだった。
一人の老人が恨めしそうにサクラの木を眺めていた。
老人は痩せて貧相だ。おまけにゲジゲジ眉のギョロ目。いかにも欲が深くて意地が悪そうだった。
どうもこの人は見覚えがある気がする。だが会ったことはないような。なぜだろう?思わず声をかけた。

「あなたはひょっとして……」そこから先が言葉に詰まって出てこない。
誰だったろう…。

「わかりましたか!?」と老人は目を輝かせた。
有名人だろうか?

「そう。私は花咲か爺さんの隣に住んでいた通称“いじわる爺さん“ですよ。そのような目で世の中の人からは見られている。ちがうんです。これには大きな陰謀が隠されている」
「ええっ!」
「サクラが咲き乱れる時期が来ると、辛い思い出が蘇る。私の話を聞いてくださいな」

いじわる爺さんは、腰を下ろすと天を見上げてとつとつと話し始めた。

「うちで畑をやってましてね。種を蒔いていると、必ず白い犬がやってきて掘り返すんですよ。二度三度と繰り返すので追い払った。その犬がいつの間にか隣の老夫婦の家に住みついたんです。まあ、それでもこちらに悪ささえしなければよいか、と思ってました。その頃、近くに盗賊が出るという噂があり、物騒なので家の近くの松の木の下にやっと貯めた財産を埋めて隠したんですよ。それを隣の白犬が見ていたんでしょうね。気がついたときには、隣の爺さんをその松の木まで連れて行って掘らせていた。隣の爺さん大喜びですよ。犬が教える場所を掘ったら金目のものが出てきたんですから。そりゃ、うちのものだと主張したが土の中にあるものは誰のものでもないはずだ、と。そう言われたらこちらはぐうの音も出ません。おかげで私は無一文です」

「隣の爺さんに頼み込んで白犬を借り出して『あれはうちの財産だったんだ。どうして隣の爺さんに』と愚痴ると、なんと人間の言葉で私に言ったんですよ。『ふ・ふ・ふ…実はわしは犬じゃない。こいぬ座プロキオンから地球を侵略しにきているエイリアンだ。犬の姿は、怪しまれないように地球征服活動をするため。その間の暇つぶしにやっただけだ』」

「地球征服とは大変だ!私の財産どころではない。私はそのとき手に持っていた鍬で反射的に犬に化けたそいつを殴り殺しました。私は地球を救ったんです。だが、そのことを隣の爺さんに伝えても信じてもらえません。そして私の目を盗んでエイリアン犬を埋葬していたのです。しかしあいつは黙って死んでいるような生やさしい奴じゃなかった。自分はまだ死んではいない。征服するどころか、いっそ地球を滅ぼしてやる!そう私の夢枕で宣言するのです。もう、犬の体はいらない。これからは好きなように隣の爺さんの肉体を操ると。隣の爺さんは憑かれたように松の木を切り倒し、犬エイリアンの命ずるままに臼を作り始めました。つくと金銀が生まれてくる臼です。それで爺さんばかりか他の人々をも惑わそうとしていたのです。私はなんとか隣の爺さんを欺き、跡形もないように臼を燃やしたのです」

「これで一件落着と思ったのですが、隣の爺さんは燃やした臼の灰を持ち出しました。まだエイリアン犬に操られていたのです。その灰には人々を幻覚に陥れる力がありました。灰を吸うと、どうも人々の脳は美しいものを見たと錯覚して、自分では何も判断ができなくなり、犬エイリアンの傀儡となってしまうらしいのですよ。その灰を老人は蒔いて回りました。人々の目がどろんと濁っていたから、美しく咲いたサクラの花でも見えたのでしょう。それは仮想現実のサクラです。私は鼻口を布で覆い、その様子を見届けました。これではいけない。私は密かに人心を惑わす幻覚灰の解毒剤の開発に着手しておりました。しかしそれが完成したときはすでに遅く、エイリアン犬の奴隷と化した自称“花咲か爺さん“に殿さままでも枯れた松にサクラが咲く幻覚を見せられていたのです」

「私は殿さまの前に飛び出し、幻覚灰の解毒灰を天よご照覧あれ!とまき散らしました。殿さまの視界は奪ってしまったものの、無事に幻覚からお救いすることができました。私はこうしてエイリアン犬の恐怖と陰謀を阻止したのに、殿さまのお怒りも誤解も解けず、ついこの間まで牢で服役しておったのです。やっと解放され、本物のサクラが咲くこの公園にやってきました。ここでは、もうすぐ天然の美しいサクラを見ることができるんですね。私は世の中では欲の深いいじわる爺さんということになってしまいました。なにそれでも構いませんよ。なにが真実か皆が知らなくても、世の中の陰謀を私が防ぐことができた、そう考えれば満足なのですよ」

そうだったのか。世の中は陽と陰でできている。なにが真実なのか?それは大事なことだが、真実のわかる人間がどれだけいるというのか。
さっき恨めしそうに見えた老人の表情が、私には実は世界を救った満足の表情に見えるようになったのは皮肉なことだ。

すると、近くのサクラの木の下に老婆たちの姿が見える。目が合うと老婆たちは私に近づいてきた。そして語りかける。
「舌切り雀の真実を知りたくありませんか?どうやって世界を守ったか」
「どうやってヘンゼルとグレーテルの不良兄妹を躾けることができたのか、詳しくお話しできますよ。この火傷ももうすぐ治ります」

 

第232回 死神 vs 生神さま

世の中は、さまざまな偶然で出来ている。
たとえば、私。数日まではそこいらのどこにでもいる平凡なサラリーマンだった。
その朝、通勤していると目の前で女の子が自動車にはねられ十メートルほども飛ばされて道路に叩きつけられた。
救急車を呼べ!息がないぞ!と騒ぐ人々を尻目に私は横たわった女の子を抱きかかえた。
なるほど顔に血の気がなく息をしていない。
私が「しっかりしなさい」と揺すると、なんと!女の子は呻き声をあげた。
顔に血の気が戻っていく。一時的に仮死状態だったのだろう。

皆が私を指差して「この人のおかげで生き返ったぞ!」まったく外傷もないようだ。よかった!と私が言った瞬間だった。

私の背後に閃光が走り雷鳴が轟いた。空は晴れているのに私の後ろの樟の巨木に雷が落ちたのだ。
青天の霹靂が文字通りに現実に起こるとは。これほどの偶然を私は知らない。
偶然がいくつ同時に起これば奇跡と呼ばれることになるのか。女の子は立ち上がり、私に礼を言った。
そして周囲の人々は平伏して私に“神さま“と祈りはじめた。そう呼ばれて悪い気はしない。
「神さま」だけじゃない「生き神さま」と。
そして「何かお言葉を」
私は軽くため息をつき、何と言うべきか考えた。
思いつかないが神さまといえば聖書だろう。聖書に書いてあるのは‥愛という単語だったかなあ。
確か、神は愛であると言ったな。「愛‥‥」と言うと怒涛のように叫びが湧き上がった。
「生き神さまがお言葉をのたまわれた」それで十分だったのか。私の背後でビートルズのオールユニードイズラブが流れていたような気がする。
愛こそ、すべて‥か。

それから私は生き神さまになった。その翌日の新聞にも私のことは載っている。私も生き神さまとして一躍有名になったようだ。
来客だ。玄関に出るとひょろりと背が高い陰気な男が立っていた。全身黒ずくめ。
「どちら様ですか?」
「死神と申します」
「死神って、あの死神ですか?」
「そうですが」
「なぜここへ?」
すると死神という男はじっと私を睨んで言った。

「あなたのことを新聞で読んだのですよ。誰も私のことは歓迎しないのに、あなたは新聞に載って褒め称えられているじゃありませんか。一度会っておかなくてはとお訪ねしたんですよ」
私は慌てて「いえ、私が生き神かどうか皆が言い出したことで本当かどうかもわからないのですよ。
私には神の自覚などないし、私なぞ無視されるのが一番かと思いますよ」

すると死神は大声で言った。
「いや、ここへ来てあなたを一目見たときからわかりました。どんなに否定しても嘘はつけません。あなたは生き神です」
そうか。死神に断定されるくらいだから、私は本当に生き神になったのかもしれない。
「はあ。わかりました。納得されたらお引き取りください」死神にいつまでもいてもらっては私も困る。
いや、本人は死神と言っているが本物かどうかもわからない。心を病んだ人かもしれないではないか。

「いや、私はあなたが生き神というのが許せないのです。だいたい、私のことは皆死神と呼び捨てにするのに、あなたのことは生き神さま、と“さま“付けするんですか」
「それは私が言い出したことではないからなあ」

「しかも、生き神は皆で敬うのに。私のことなぞ名前を聞いただけで慄えあがる。何という不公平。しかも、私が死神であなたが生き神。名前は正反対の意味なのに言葉のニュアンスはまるで違う。不公平すぎる」
「でも死神さんは、自分が死神だと確信しておられるんですね。なぜですか?」
「私はなぜか、これから死ぬ人の周りに引き寄せられてしまう。なぜ引き寄せられるかわからないが、その人に一定以上近づくと必ずその人はすぐ死んでしまう。だから気づいたのですよ。私が死神であるということにね」
「どのくらい死神をやっているですか?」
「さあ、とにかく物心ついてからずっとですからねえ」

この世は人で溢れている。引き寄せられて人が死ぬくらいでは間に合わないのではないか?
「死神って、あなた一人なんですか?事故や戦争で大量に死者が出るときはあなた一人で大丈夫なのですか?」
「いや、ひょっとしたら実は死神というのは私だけではないと考えるようになってはいたのですがね。死神という職業があるのではないか、と」
「なるほど。じゃあ生き神というのも私の他に何人もいるのだ、と考えてもおかしくはないわけですね。で、どうしようと思うんですか?」
「ふふふ、おわかりですか!」と死神が薄笑いする。嫌な予感だ。死神は死ぬ人の周りに引き寄せられると言っていた。
私の前にいるということは……私も。

そのとき。「待て!待て!待て!」と大声で男が飛び込んできた。
すると死神がへなへなへなと私の前で倒れ込んだ。助かった。これで死神の餌食にならずに済む。
しかし彼は?「あなたは何者ですか。死神から私を助けてくれてありがとう。あなたは何者ですか?」
男は自分の胸を叩いて得意そうに言った。
「名乗るほどでもありませんが、実は私もやはり神なんです。でもこんな場所に引き寄せられるんです。ええ。失う神と書いて失神というんですよ」

 

第231回 おさご幻奇譚

皆さま、明けましておめでとうございます。今回は、ショートショートではございません。実は今月から熊本日日新聞で新しい連載小説を始めます。その紹介をさせて頂こうというわがママなコラムに致しました。
タイトルは「おさご幻奇譚 むかし山都町で」です。ひょっとしたら時代小説じゃないのか?と思われた方、まさにご賢察!そのとおりです。
私、これまでいろいろと書いてまいりましたが、時代小説を長編で書くのは初めての挑戦になります。「つばき時跳び」という作品は主人公のつばきという女性が江戸時代の人物という設定ですが、タイムトラベルして現代にやってくるという物語で、前半が現代、後半に江戸時代という半分時代劇半分SFという構造にしており、話を通してみるとタイムトラベルSFというべき話かなと思っているのです。
さて、つばきという女性はフィクションですが「おさご幻奇譚」の主人公おさごは実存した女性なのです。
「おさご幻奇譚」は、このカジシンエッセイの第81回で取り上げた『仏原騒動』の物語です。
延宝2年、西暦1687年のこと。
山都町の清和文楽館の近くの仏原で起こった事件。かつてここに結城半太夫、十太夫という地侍の兄弟がいた。その年の正月に夢枕で半太夫にお告げがあった。それによると、高千穂神社に天下を取ることのできる巻物がある。その巻物を持ち帰るべし、と。早速、高千穂の神社より巻物を持ち帰り、巻物を壁にかけ、仲間を集めて騒ぎ始めたところ、その知らせを聞い矢部の惣庄屋が、これは一揆の企みかと武装して結城家を取り囲み、半太夫、十太夫は斬り合いの後に死亡。そしてこの騒ぎに加わったものたちは取り調べのうえ、ことごとく打首になったと伝わっています。
私がはじめに知った情報はそのくらい。それ以上のことがわからず、自分なりに『仏原騒動』について調べ始めたのですが、なかなか詳しい資料にたどり着けませんでした。調べていくうちに事件は、結城半太夫、十太夫だけではなく実は五人兄妹によるものらしいことがわかってきました。その頃になっておさごという妹の存在も知りました。
『仏原騒動』のいろいろな資料をつき合わせていくと、それぞれ書かれている内容が異なることもわかってきました。兄妹たちが“八福輪“という宗教を信じる狂人たちだと書かれているものもあり、愛藤寺城大将の結城弥兵次の一族であり末裔であるという記述もありました。結城弥兵次は小西行長の流れだから、隠れキリシタンであったという説になります。
騒動の元となった高千穂三田井宮(高千穂神社)から持ってきた巻物は源頼朝ゆかりのものであるという説や、義経が使った『六稲三略(ろくとうさんりゃく)』というものでこの巻物のとおりにすればどういうやり方をしても勝つという兵法巻物である、という説。
こりゃ真実は言ったもの勝ちということじゃないか、というのが正直なところです。
自分なりに現地に足を運んでみました。山都町の仏原騒動跡。国道218号の清和文楽館から少し馬見原寄りで国道から中に入ったところ、石段の上にぽつんと枯れたススキに囲まれて石碑がありました。
これだけでは、いったいどのような事件だったのか現在では想像することもできません。人が訪れた形跡もほとんど感じることができませんでした。それから、問題の兵法の巻物を手に入れたという高千穂神社にも足を運んでみました。仏原から高千穂まで、自動車を使い日向往還ルートを走っても25キロあります。往復で50キロ。現在のように道路が整備されていない山道を半太夫はお告げを信じて往復できたのでしょうか?兵法書がどこに置かれていたかも知っていたのか?
さまざまな疑問が湧き起こりました。
もちろん、神社にも問い合わせました。宝暦二年に巻物が盗難にあった記録があるのかどうか?
高千穂神社には、そのような記録はないという返事でした。そして、仏原騒動のことは初耳ということで。まあ、代が替わるに従い失われる記録もあるのでしょうね。
ただ、調べていてわかることは、この仏原騒動について山都町の方たちもほとんどご存知ないということ。ご存じの方でも、あまりよい印象を持っておられないということ。
とすれば、この話を読んでみたいと思って頂くには、どのような語りをやっていけばいいのか?それが、まず最大の問題ですね。
宝暦という時代の山都町の地侍たちの暮らしはどうだったのか?できる限りリアルに調べていきたい。そんな悩み。
県立図書館の丸山学芸委員にご相談申し上げると、なんと、懇切な新資料をたくさんご紹介頂きました。ありがたいことです。
とりあえず連載をスタートさせますが、調べていて興味が湧いたのはやはり妹のおさごです。後に処刑されていますが、彼女には「幻術を使った」という言い伝えがあります。「おさごは断崖絶壁の中途で機を織って見せた」「水の上を歩いてみせた」とも。
仏原騒動を語る上で主軸になる人物は、おさご以外にはない。と今は考えています。そして負のイメージを持つこの事件が、山都町の方々に誇りを持って語り継いでいく出来事になれば、と願っていますし、それが私のこの小説を書く使命になると信じています。
よろしく、連載おつきあい下さい。

 

第230回 ピエロの日

帰宅すると封筒がきていた。赤と白と黄色の奇妙な模様が描かれた封筒で、嫌な予感がする。
開けると予感は的中した。
抽選に当たった成人はその地域で六ヶ月間ピエロにならなくてはならない。これは法で定められたことだ。法が制定された当初は騒がれたが、今はもう理由が云々されることはない。既成の法があるという認識だけだ。
そして何ということだ。私が“公共道化師従事者“に指名されてしまうとは。拒否することはできるが、拒否者の氏名は報道され、皆に知れわたる。そしてピエロを拒否した反社会人物として世間から白い目で見られることになる。挙句、一家心中に追い込まれた例も知っている。「お父さん、荷物が届いたよ」と息子が教えてくれた。けっこう大きな箱だ。開けてみると、私の体型に合わせたピエロの服が入っていた。帽子もあるし、私の足の倍はあろうとかいうドタ靴も入っていた。そしてドーランなどピエロのメイク用品も一式。もちろんピエロ期間中も、私の私生活はこれまで通りだ。しかし人前ではピエロの格好で過ごさなくてはならない。事務職であればいいのだが、私は営業職だ。それをピエロ姿でやらねばならないとは。そのことを前もって会社の上司に報告すると「たいへんだね。無事に務めあげてくれ。兵役に行くと思って」と激励してくれた。妻も「大丈夫?」と心配してくれた。ただ「公共道化師報酬」が出るのが慰めだが、額は微々たるものだ。これは地域社会への奉仕と自分に言い聞かせるしかなかった。
さて、私の「ピエロの日」がやってきた。服を着て顔に化粧をして、つけ鼻をする。帽子をかぶって鏡の前に立つと、立派なピエロだ。妻が私を見てぷっと吹き出し、申し訳ないと思ったのか顔を覆った。そして言った「お義母さんが見えましたよ」心配で駆けつけてくれたようだ。母は私を見て言葉も出ない。顔を伏せ肩を震わせている。泣いているのか?あまりの哀れさに。違った。母は泣いて肩を震わせているのではなく、笑いを堪えていたのだった。それから息をヒィヒィ押し殺して私に言った。「無事に、立派に、半年お務めしなさい」もう私に逃げ道はないようだ。
出勤のため玄関を出ると、そこは人の山だった。一目だけでも私を見ようと広報を見て集まってきていたのだ。皆が私にスマートフォンを向ける。新人のピエロをS N Sに載せようというつもりらしい。カメラの音と歓声。
役所の担当者が近付き、いくつかの確認事項を読みあげ、感謝を伝えて去っていった。
それから私は電車に乗り職場へと向かう。電車に乗ると、乗客たちが歓声をあげた。「ご苦労さまです」と。「どうぞ使ってください」と席を一列空けられた。仕方なく座るとここでもスマートフォンで撮られ始める。一人だけ幼児が大声をあげて泣き出した。「怖いよー。あの人怖いよー」と。きっと“道化恐怖症“の子どもなのだろう。申し訳ないと思う。そういえば、ホラー映画でもピエロが登場する作品は多いものな。そして会社へ。ピエロ姿を見て女性社員が大興奮。「ほんとだったんだー」近づいてこない人と、駈け寄る人。人の反応は二極に分かれていた。そして上司は前日までは「立派に務めろよ」と言っていたくせに、腹を抱えて笑い転げていた。それまで言っていたことと、反応がまるで違うのだ。同僚からも私がいないところで上司が、あそこ迄不様にやれるのかね、と嘲笑っていたと聞いた。どうして、そんな抽選に当たったのか。得意先への営業ももちろんピエロ姿だった。得意先の私への反応がそれまではややツッケンどんだったのが、ピエロ姿だと逆に丁寧になったのは意外だった。
それも最初の頃だけ。なぜ期間が六ヶ月かという理由もぼんやりとわかったような気がした。周囲の人々も私のピエロ姿に馴れて来たようなのだ。私も顔のメイクを変えてみるようになった。口角を下げて書いてみたり、びっくり目にしてみたり。服も他の縞々模様にしてみたり。私自身もピエロ姿が当然だと思うようになり、通勤電車に乗っても何も感じなくなる。もちろん、いくつかのできごとが私がピエロ姿になってから起こった。たとえば妻の反応。私が外出しようと誘っても何かと理由をつけて断ってくる。やはり、こんな姿の私とどこかへ行くということが妻には耐えられないことなのか。それを妻に尋ねてみたいのだが、尋ねるのが怖い自分もいる。
小学校から帰って来た息子が泣きながら言った。いじめられたらしい。「ピエロの子ならピエロの子らしくもっと面白いことやってみろ。ピエロの父親は家でもピエロなのか」と。
ピエロの日がスタートしたときは、息子も小学校では得意そうだったというのに。世の中は、そんなものらしい。普通の自分とピエロになった自分。わからなかったことが見えてくるシステムではあるなあ。ふとそう思う。そして、その期限まで残りが少なくなってきた。ピエロは涙を顔に書き込むのが多いとか。滑稽な外見でも悲しみを内面に秘めているということなのだろう。私の顔に描く涙がだんだん大きくなっていったある日、見知らぬ男が私に近づき話しかけてきた。「私、公共道化師事務局のものです。道化師従事ご苦労様です。もうすぐ任期が終了ですが、少しシステムが変わりました。これからは抽選ではなく前任者が後任の道化師を指名できるようになりました。ですから次はどなたを指名されます?」
そう言われて考え込む。やはり、口では上手いことを言って悪口を言ってた上司なのかなあ。
いや‥‥いや‥‥いや。
それは‥‥‥、お前だあ!!