第117回 祖母山のできごと

 今年の盆休みの予定は何も決めていなかったのだが、山歩きをする友人が声をかけてくれた。
「祖母山の日の出を見ようということになったのだが、お前もどうだ」と。
 八月十三日の午後から、五カ所の北谷登山口から登り始めよう、ということだった。千間平から三県境、国見峠を越えて山頂へ至るコースだ。
 標高は一七五七メートルある。日本百名山にも名を連ねている。五月のツクシアケボノや六月下旬のオオヤマレンゲの時期には一人で登ったりしていたが、夏にはあまり登った記憶がない。山の名は神武天皇の祖母である豊玉姫が祀られていることに由来するらしい。
「下界は暑いだろう。九合目小屋でゆっくり酒でも飲みながら馬鹿話でもやろうぜ、ということになったんだ。一緒にどうだ。納涼登山だな」
 悪いアイデアではないように思えた。むさ苦しい男たちばかりなのは仕方ないが、楽しいときを過ごせそうな気がした。晴れた夜空を眺めれば、満天の星にも出会えそうだった。
 九合目にある小屋は、トイレ付きだし、予約すればビールも用意しておいてくれる。宿泊費二千円で十分楽しめるに違いない。
「わかった。ぼくも連れて行ってくれよ」
 熊本市を朝の十時に出発して、のんびり登ろう。一旦山頂まで行って九合目小屋まで下ってきてから、ぼちぼち宴会をやろう。メンバーは六名ほどだからにぎやかになるぞ、ということだった。登山口までも友人が乗せていってくれる。
 …ところが、予想外の出来事が。行く日の朝、上司から連絡があった。得意先でクレームが発生したという。処理にあたってくれと。
 仕事だから仕方がない。緊急を要する事案だった。うまくいけば午前中にはクレーム処理は終わりそうだと踏んだ。
 友人に連絡した。「先に行っておいてくれ。終わり次第追いかけるから」
 ところが、予想外に時間を取られ、解放されたのは夕方近くだった。慌てて自分の車で祖母山北谷登山口を目指そうと思った。もう皆は山小屋に着いている頃かと時計を見て思う。すると友人から電話が。
「もう、宴会始めるよ。早く来い。それから、山に入る前に刺身を買ってきてくれ。皆、刺身を食べたがっている」
「わかった。もう、こちらを出るから」
 山の上で刺身を食べるなんて、と首をひねった。酒さえあれば肴はなんでもいいだろうに。しかし、魚屋に行って刺身を多めに用意してもらった。
 市内を出るまでに故郷への帰省ラッシュに巻き込まれ、登山口に到着したのは夜の六時を回っていた。
 歩き始めた。山小屋まで三時間か。最初はまだ明るかった。しかし、日没とともに辺りは暗くなる。七時半を過ぎた頃、千間平の広場に着いたが、もう真っ暗だ。曇っていたので星も見えない。ヘッドランプを頭に付けて歩くことにした。少なくとも道を見失うことはないだろう。だが、ライトの光量が少ない。不安にかられながらも、歩き続ける。すると電池が切れかけていたらしい。ついてない。数分で目の前が真っ暗になってしまった。あと一時間半は暗い中を歩かねばならない。心細いが、ひたすら前進するしかない。
 三県境から国観峠を過ぎた。何度も登った山だから暗くても道はわかる。樹々の中を黙々と歩く。そのとき、気配を感じた。いったい、何の気配だろう。ひたひたと、すぐ後をついてくる。立ち止まって振り返った。何もいない。音もない。気のせいだろうか。再び歩き始めた。気配を再び感じた。確かに何かがいる。姿は見えないが。また立ち止まる。
 がさりと草を踏む音が聞こえて音が止まった。確かに聞こえた。気のせいじゃない。
 急ぎ足で進む。尾いてくる。気配が。ひたひたひた。右後方だったり、左前方に回り込むようだったり。
 獣だろうか?犬?まさか狼?人ではないと思えた。とにかく執拗だ。いったい何の用があるのだ。もしかして襲おうとしているのか?
 立ち止まる。息が切れたからだ。気配も止まった。低い唸り声のようなものが聞こえた。物の怪なのか?
 何度か夜の山道を歩いたことはあったが、こんなことはなかった。何故に今日は…。
 ふと思い当たった。奴らは刺身を狙っているのだ。そして何とか奪おうと隙をうかがっている。山小屋まであと三十分はかかる。殺気があった。飛びかかってきそうな気配もあった。こいつ等手段を選ばない。
 リュックから刺身を出して、できるだけ遠くに投げた。背に腹は代えられない。
 はっきりとわかった。いくつかの気配が刺身を追っていく。激しく奪い合う音と呻きと唸りが聞こえた。
 鳥肌が立ち、登山道を無我夢中で走るように登った。奴らはいったい何だったのか。もう尾いて来ない。気配は消えた。
 やっと、九合目山小屋に着いた。中に入ると山仲間がいい機嫌で酒を酌み交わしていた。こちらのパニック状態も知らずに「遅かったな」と。山道での出来事を話した。正体のわからない連中のことを。だから電話で頼まれた刺身を持って来れなかったと。すると刺身を頼んだ男が不思議そうに言った。
「何を言ってる。携帯電話は圏外だぞ、ここは。刺身を頼むどころか電話なんか、かけられないよ」
 とすると、あの電話は……。

第116回 ゴホンガゼ食べた!

 そのときは謎だったことが、数年の後のある瞬間に、なるほどそうかとわかることがあります。
 若い頃に天草の御所浦に行ったときのこと。港の近くに魚屋さんがありました。で、お店の外にドラム缶があって水が張られており、何だろう。魚か貝の生け簀なのかと覗きこんだら、魚も貝もいない。ただ、中にはビッシリとヒトデが?
 なぜ、ドラム缶の海水の中にこれだけの数のヒトデがいるのだろう?
 謎でありました。
 穫れた魚に混じって網の中に入っていたのだろうか?だったら、すぐに海に戻せばいいことではないか?
 ひょっとしたら、このヒトデは何かに利用されるのではなかろうか。肥料として農地に撒かれるのだろうか?いや、他の道具として使うのかもしれない。表面はゴリゴリしているようだから御所浦の方たちはヒトデを軽石代わりにお風呂で使っているのだろうか?
 御所浦には、そのとき化石を掘りに行ったのでした。宿で美味しいお刺身を頂いた記憶しかありません。しかし、ドラム缶の中の無数のヒトデの印象は強烈に心に焼きついています。それからすぐに海上タクシーに乗り込んだから、謎は解けずじまいになってしまいました。なぜあのとき魚屋さんに「このドラム缶にあんなにたくさんのヒトデを入れているんですか?」と尋ねなかったのか。心に妙に引っ掛かっていました。
 天草の御所浦は島なのです。おいそれとは行けません。
 それから、どれほどの時間が経過したことになるのか。
 テレビのチャンネルを切り替えていたとき、目に飛び込んできた映像。
 ヒトデを食べていた!
 すぐに、カメラは切り替わってしまいましたが、間違いない。場所は国内。どこかの磯でヒトデを茹でて食す風景が。しかも、天草でした。
 御所浦の魚屋で見たドラム缶の中のヒトデの謎が一瞬で結びつきました。
 あの無数のヒトデは食用で、販売用だったのか!
 同時に脳裏に浮かんだのは、天草の人々が食卓で一家揃ってヒトデを持ちながら笑っている場面でした。不気味だ、という思いより、どんな味だろう?という疑問。
 それから、天草に足を延ばすたびに生け簀のある活魚専門店を覗き、ヒトデがないものか探しました。
 ありません。それでも天草では質問します。
「ヒトデとか、食べないんですか?」
「聞かないね」と返事が。天草ならどこでも食べるというものではないようです。あのテレビで一瞬見たのは、天草のどのあたりなのだろう。御所浦出身の方にお会いしたときに尋ねました。「ヒトデ食べていました?」
「いや。食べませんでした。でも、そんな話聞いたことはありますよ」と、あやふやな返事。
 その頃は、インターネットですぐ調べることができる時代じゃなかったからなぁ。
 それからまた時間が過ぎます。
 栖本町に神社や妖怪あぶらすましの出現場所を見に行ったとき。「ヒトデとか食べますか?」「ああ、ゴホンガゼなら、ここいらは大潮のとき、獲って食べる人はいるよ」
 聞きなれない名が飛び出しました。どうもゴホンガゼがヒトデのことらしい。「今、そのヒトデ……ゴホン何とかは食べられますか?」
「うーん。この時期は食べないよ。桜が咲いて、梅雨前までだろう」と謎の言葉。
 絞りこみました。天草でも上天草の東海岸を中心としたエリアだけの食文化のようでした。食べる季節も決まっていて、3月下旬から6月上旬。なぜ、限られた土地でしか食べないんだ。不味いのか?
 それから、私の想像の中だけでヒトデ料理は成長していきました。いや、想像というより妄想ですが。
 その頃架空の天草の島を舞台にした「壱里島奇譚」という小説を書いたのですが、この中でイソギンチャクの味噌汁とヒトデ料理の描写も入れました。つまり想像で書いたんです。
 食べ過ぎると頭が痛くなる。ほろ苦い。いろんな情報が入ってきます。
 そして、今年ついに、天草の某旅館で食べることが出来ました。その日は入荷していたとのこと!
 テーブルの上に茹でたてのヒトデが。裏の皮の下に黒っぽい黄色の粒がびっしり付いています。「そこを食べてください。ヒトデの卵ですから」
 食べました。体内は卵だけしかないんです。ウニがほろほろとした感じというか、蟹の味噌にも似ている。
 長年の謎が解き明かされた瞬間でした。
 どんなヒトデでも良いわけではなく、そのエリアで、食べられるのは「キヒトデ」という種類だそうです。淡白です。ここで、ふと気が付きました。
 焼酎にぴったり!白岳のロックにぴったり。こんなに相性が良いとは。
 ガゼとは、ウニのことらしい。5本足のウニでゴホンガゼ。なるほど。
「これを名物にすれば観光客を集めることができるのではありませんか?」
「昔ほど獲れないんですよ、残念ながら。今年は特に」
「そうですか。ヒトデ不足なんですね」と思わず口にしたら、宿の方に異様にうけてました。

第115回 ネット音痴です

 最近、”炎上”という表現を目にするようになりました。ネットには疎い私ですが、ネット内でよく使われていることがわかりました。それは、ブログやSNSなどの場で書き込まれた意見に対して、非難や抗議の書き込みが集中する現象のようです。あまりに抗議が多すぎて収拾しようがない様子が、激しく燃え盛るようなので、”炎上”と呼ぶようですね。
 炎上には、幾つものパターンがあるようだということが、だんだんわかるようになりました。社会通念からかけ離れた言動をブログで自慢したりするとみるみる”炎上”するようですね。それから筆者の専門外の分野について、したり顔文章で述べたりする方のページも”炎上”していくケースが多いようです。また、政治的なもの、人種差別に抵触するもの、宗教的なものに関して発言されているページで”炎上”現象が起きやすいということもわかりました。そのような意見を書いておられた方に共通しているのは、「まさか、こんなに批判を受けてしまうとは」と、びっくりしておられる方が多いということです。ツイッターなどで「缶ビール飲んだけど、足がないから運転して帰ったヨ」などの呟きを見ると、誰かが書いていましたが「ツイッターは馬鹿発見器」というのは名言だな、と思います。しかも”炎上”の経過を眺めていると、”炎上”の当時者は、本名を暴き立てられ、退学、退職させられる経過が素早くて、愕然とします。これは、ネット社会ならではの現象なのでしょう。ネットがまだ普及していない時代であれば「大多数の批判意見の集中」は、まず活字で世の中に流れ、数ヶ月にわたって五月雨式にゆっくりと批判意見が返ってきたのではありますまいか。そして、拡散する前に次の話題へ移ってしまい消滅するケースも多かったかもしれません。今では”炎上”の話題はあっという間にネット上を駆け巡り、関係のない人々まで『どこかで”炎上”しているページがあるらしいぞ』と知り、その話題のページに訪れる。それからコメントに加わり、益々、火に油を注ぐ状況が作り出される。それまでのタイムラグはだいたい長くて数時間のようです。それから、そのページは書かれた方の謝罪か、あるいはブログやSNSからの撤退、閉鎖、放置という結果になって、やっと”鎮火”するということになるようです。
 私の事で恐縮ですが、やはり無意識のうちに書いてしまった表現が、某地方紙に載って抗議のお手紙を頂いたことがあります。それは、ある映画評のコラムの中で、作品に登場する決断力のない男性のことを、「?の腐ったような奴」と書いてしまったのです。すると数通の抗議の手紙。くださったのは達筆の女性の方ばかりでした。私は女性を侮辱したつもりもなく書いてしまったので、傷つけてしまったら申し訳ないと謝罪の手紙を出したことを記憶しています。そして、表現には気をつけないといろんな受け取り方をする方がいるのだからと肝に銘じたものです。現代なら、”炎上”ものだったのでは、とよく連想するのです。
 時は流れ、抗議のお手紙を頂いて十数年が経過して、目を疑う表現を目にしました。それは”腐女子”という人々の存在です。
 まさか?いったいどんな人々?
 婦女子ではなく、腐女子?
 よく、わからない。ずぶずぶと融けていく発酵人間みたいな連想。こんな表現、OK?
 しかし、いろいろ調べてみてわかりました。美少年同士が愛しあう世界をフィクションとして描いたもの。アニメやコミックやらも。それをBL(ボーイズラブ)というらしいんですが、そんな作品群を愛してやまない女性たちがいて、そんな女性たちは自分たちのことを自虐的に”腐女子”と呼んでいることを知りました。「こんな作品が好きな私たちって腐ってるかも」ということのようですね。
 世の中はいろんな進歩を遂げているんですねぇ。だから、腐女子たちが、自分たちのことを腐女子としてブログやSNSで公言しても”炎上”することはなく………。
 ところが、驚いたのは、中国でBL小説を書いてネット発表をしていた若い女性が二十名も、最近逮捕されたというんですね。「耽美小説網」というページの関係者たちですが、「同性愛等の淫乱な内容を掲載した」という理由だそうです。写真で見る限り、どこにでもいそうな内気そうなお姉さんたちが逮捕されている。日本でBLを読む男って限られていると思うし、女性の妄想の世界が描かれている。だから風紀を乱すことには繋がらないと思うんですが。
 中国はネット炎上より、当局による逮捕が先というのは怖いですねぇ。
 腐女子逮捕に前後して、中国ではタイムトラベルのフィクッションも、「真面目な歴史を浅はかに扱う」という理由で禁止の流れがあるとのこと。
 タイムトラベル話も禁止されるなんて、ネット炎上も怖いけれど、こちらも怖いなあ。

第114回 夢のSTAP細胞

 1月末のことです。聞きなれないSTAP細胞という言葉を耳にしたのは。STAP細胞というのは、刺激惹起性多能性獲得細胞の英語の頭文字をとったものでした。動物の体細胞に刺激を与えて万能細胞化する、という研究結果が発表されたというニュースでした。
 私は科学に疎いので、報道が加熱しているのを見て、これは凄い大発見なのだと受け取っていましたが、具体的にSTAP細胞がどう凄いのかはピンと来ないままでありました。これまで聞かされていたIPS細胞発見にも匹敵するできごとという印象です。報道でも、この発見はノーベル賞も夢ではないのではないかという煽りっぷりでした。
 発見者は、理化学研究所チーム、ハーバード大のチャールズ・バカンテ教授、山梨大学の若山教授たち、ということになっています。
 中でもマスコミの報道の中心となったのは、理化学研究所のチームリーダーであった小保方晴子さんでした。STAP細胞といえば小保方さん、というセット報道になっていたのでは?たしかに意外でした。「世紀の大発見」の中心にいるのが、このように若くて魅力的な女性だったということが。それからは、STAP細胞がどのような細胞か?という報道よりも、世紀の大発見をした小保方さんとは、どんな経歴でどのような女性かという報道ばかりが膨張していきました。
 リケジョ(理系女子)と持て囃され、彼女の趣味や生活まで取り上げられました。研究実験の時は割烹着を身につけている。ムーミンが大好き。いつも笑顔を絶やさない様子に、私も小保方さんのファンになってしまいました。
 ところが、3月の中旬になって、STAP細胞の報道に”あれれ?”の変化が現れたのです。若山教授が論文取り下げを他の研究者たちに呼びかけた時期からの急展開でした。それからSTAP細胞の真実より優先して、報道の矢面に立っていた小保方さんの粗探しが目立つようになりました。写真の使い回しや、論文内のコピペ疑惑やら。
 報道の全てが、ワイドショー化しているなと思えてなりませんでした。ニュースのネタになりそうだと興味を惹きそうな部分だけを抽出して、持ち上げるだけ持ち上げて奈落に突き落とすような。あたかも小保方さん一人が捏造犯人のような扱いで。
 でも、小保方さんファンとなった私は、まだSTAP細胞の真実は見えてない気がしてならないのです。
 そんなある日。
 朝方のことですが、仕事場のゴミを捨てに降りると、階段横に女性がうずくまっていました。近づくと女性は意識がないようです。
 これは放っとけないと私は女性の肩を揺すりました。
「あのー。もし。大丈夫ですか?」
 しかし、返事がありません。そこで、気が付きました。顔色こそ蒼ざめているけれど、若くて魅力的なこの女性は、小保方さんなのだと。
 救急車を呼ぶべきなのだろうか?よりによってなぜこのような場所に彼女がうずくまっていたのかわかりません。しかし、このまま放っておくわけにはいきません。私は、彼女を仕事場に連れ帰りました。
 酷い熱でしたが、私は必死で介抱しました。やがて、彼女はやっと意識を取り戻すことができました。
 それから、私は小保方さんが元気を取り戻すことを祈りながら世話を続けました。そして、やっと立ち上がることができるほどに元気になったのです。
「あなたが私のことを助けてくれたのですね。ありがとうございます」
「いえ、いえ。気になさることはありませんよ。私は当然のことをやったまでですから」
「しかし、それでは私の気が済みません。何かお礼をしないと」
 そう言うと、彼女は割烹着をどこからともなく取り出すと身に着けました。それからキッチンに立って何やら作り始めました。
 しばらくして、彼女はお椀を私に差し出したのです。
「お味噌汁を作りました。召し上がってみていただけませんか?」
 それは本当にいい香りでした。私には断る理由がありません。
「ありがとうございます。いただきます」
 ひとくち食べると、何とも言えず美味しい。こんな美味しい味噌汁は食べたことがありません。そこで、よく見ると、味噌汁の実は見たことのない緑色の丸いものでした。それがいくつも入っている。そして、生きているかのように汁の中を動いているのです。その緑の丸いものが美味しいのだとわかりました。
「この、入っているものは何ですか?」
 私が尋ねると小保方さんはニッコリ笑って、
「STAP細胞です。いかがですか?」
「えっ。STAP細胞ですか。やっぱりできていたんですねぇ。美味しいなあ」
 そう言ったら、これは”夢”なんだ、と気が付き目が覚めました。
 幸せな夢を見たなあ。

第113回 ゴミ戦争がやってくる!

 いつの頃からでしょうね。私の住んでいる町のゴミ出しルールがこれほど厳密になったのは。昔は、おおらかでした。ゴミ収集日に家庭ゴミを一緒くたにして透明なビニール袋に詰めて、朝から収集場所に出しておくというものだったなあ。
 その頃から、朝のゴミ出し担当は我が家では私でした。だから、資源物の空き瓶や缶の日は何曜日?古新聞や雑誌はいつ?くらいの分別は認識しておりました。いつの頃からかなあ、ゴミ出しルールがパズル化し始めたのは?
 ゴミ袋が有料化し始めたあたりからのような気がします。確か、理由はゴミ処理のコストを下げなくてはならないと行政あたりが言い出したからではなかったかなあ。
 そう。ゴミの種類によってゴミを出す日が分れるようになりました。全部燃えるゴミと思っていたらプラスチックは違います、とか。ペットボトルだけは別の日に、とか。紙類だから燃えるゴミの日に出してもいいだろう、と思っていると、名刺サイズより大きい大きい紙は、紙類の収集日にまとめて出さなくてはならない、と。しかも、その頃からゴミで出せないものも出現するようになりました。大型ゴミです。大型ゴミとは45 この頃から、燃えるゴミは有料のゴミ袋に。埋め立てゴミは、埋め立て有料ゴミ袋に。
 そして行政から家庭にゴミカレンダーが送られてきます。で、ゴミを出せる日は決まっているのです。埋め立て有料ゴミは2週に1回。そして、ペットボトルも空き缶、空き瓶も隔週。しかも、自宅から離れた収集場所へ運ばなければなりません。
 なんとか、そんなゴミ出しルールを覚えたのですが、それでも判断に困ってしまうことはしょっちゅう。ペットボトルに蓋やラベルをつけたまま出して、近所の人に注意されたり。庭の木の葉をいつ出すべきかと悩んだり、古いビデオテープは、どの日に出せばいいんだ?といった具合。まさにパズルなんです。いや、今では、ちゃんとわかるようになりましたよ。
 ゴミ収集日には行政の収集車がやってくるのですが、これが結構厳密で、規定の有料ゴミ袋入っていないと「ルール違反です」のシールを貼って持って行ってくれない。だから、ゴミ収集車がちゃんと持って行ってくれると、「ああ、あの判断で正しかったんだ」とほっとする小心者の私なのであります。この「ルール違反です」シールは、違反状況もチェックされていて、ゴミ出し日が違う!とか大型ゴミだ!とか書かれている。普通の神経なら置いていかれたゴミを出した方は「間違っていたのか」とそのゴミを引き取る筈ですが、そのまま放置される非常識な方もいます。他にも非常識な人といえば、宅配ピザの箱をむき出しのまま、ポーンと置き去りにしていたり。町内の方が、ゴミ収集所で指導しておられる姿を見かけたりもするのですが、それでも四六時中見張っているわけにもいかないので、夜明け前とかにルール無視のゴミが置き去りにされているのを見かけます。それも有料シールが必要な大型ゴミだったり。確信犯だな、と思ったり。
 まあ、このゴミ処理に付いてのコストは上がり続けるでしょうね。とすると、住民のゴミ処理費用も負担が大きくなって行くんだろうな。人間は生きていく上で必然的にゴミを生産してしまう。最終的にはどうなるんでしょう。これからは、ゴミ本位制の社会というのもアリかなと夢想してしまいます。その社会での地位は、どれだけのゴミを処分できるかの資格によって決まる、といったもの。セレブでないとゴミが出せない。一般人のゴミの廃棄量は決まっていて。捨てたければゴミ廃棄権を売買する、みたいになったらどうだろう。貧しい人は家庭ゴミが捨てられず家の中はゴミだらけに。仕方ないから夜中にゴミを持ち出し、他人の家に放り込んで来る。ゴミ防衛のため、ゴミを放り込みに来たものに対しては、銃器を使って投棄を止めさせることも許されるようになる。……ゴミ戦争の世界ですね。ゴミを棄てるか殺られるか!怖そうだなあ。
 焼却できるゴミの総量が家庭毎に規定されても、優先的に焼却できる事情も出てくるんではないかな。例えば不幸があった場合、遺体を焼く権利は与えられるとか。
 そんなときは棺桶を二重底にして、そこにゴミを詰める空間を確保して、その空間のゴミ焼却権を売買する……みたいな状況も発生したら、怖いなあ。いや、もちろん、想像上のお遊びです。私の住まいの周りの状況を参考にはしましたが。
 同じ熊本の田舎町でバーベキューに参加したとき。何でもかんでも同じゴミ袋の中にゴミを放り込んでいるのを目撃しました。
「えーっ。分別しないでいいのですか?」と驚いて尋ねると、「いやあ、こちらは分別かと何も言われませんよ」との返事。
 そうか。所変わればルールも変わるのか。いいなあ。と思いましたが、いづれ、ここも私の町のようなゴミ分別ルールが始まると思いますよ。

第112回 ショートショートを書いてきた…。

長編小説を書いていて、その合間にショートショートを書かなければならなくなると、思考のモードを慌てて切り替えなくてはならず、焦ってしまいます。それまで、物語のリズムの中で登場人物たちの性格を表現するような会話を考えつつ進めていて、ふと引き受けていたショートショートの納期を思い出し、慌てて手を付けるわけです。小説を書くことを生業としていると、ショートショートの注文を受けたときから、頭の中で予備スイッチが入ります。机に向かって書き始めると、すらすら話が出てくるのですか。と、よく質問を受けるのですが、そんなことはありません。もしも机に向かっただけでアイデアが次々に湧いてくる方がいたのであれば、私はその方が羨ましくて仕方ありません。予備スイッチが入るといっても、すぐに必死でショートショートのアイデアを考えるというわけではなく、しかし、心の深いところでもやもやと燻り続けることになります。良くしたもので納期が近づくと、いくつかのアイデアが脳裏に生まれている。もちろん、ぼんやりとしたアイデアだけなので、これを膨らませてショートショートに加工しなければならないわけですが。
 私にとっては、SFとの出会いとショートショートとの出会いはほぼ同時期です。どちらも小学六年から中一にかけてでした。で、ショートショートは星新一さんの「人造美人」あたりでした。小学生高学年にとって、星新一さんのショートショートは本当にびっくりでした。何より、数ページのお話の中に奇想天外が詰まっている。宇宙人や未来の機械や不思議な出来事が書かれている。吸い込まれるように読み進めていると、あと数行で話が終わろうとするときに、予想もできなかった、驚きの落とし穴が仕掛けられているのですから。
 その頃、私は毎月SFマガジンを買って読んでいたのですが、掲載されていたのは海外の名作短編が多かった。ロバート・シェクリーやらフレデリック・ブラウンやらクラークにハインライン。そして星新一さんとこれらの作品群の共通点に気がつきました。言われてみて初めて、成る程!と思える奇抜な発想と、その奇抜さの物語の果てに待ち受けている予想もできないオチです。海外のSF名作短編をわかりやすい言葉で短いページ数にまとめると星新一さんのショートショートになるのではないか。かくして、私はSF短編と星ショートショートの面白さにのめり込んでいったわけです。さて、この頃は今で言う厨二病まっただ中にあったわけです。面白いマンガに出会い、熱中すると、このくらいのマンガなら自分にも描けるのではないか!そう思い込んで、Gペンやら黒インクやら模造紙やらを買ってきてマンガを描き始めたものです。このときは、とりあえず8ページのマンガを描き上げ、あまりの才能の欠落っぷりに絶望して、マンガ道具全てを捨ててしまいましたが。厨二病はマンガだけでなく、小説でも発病したわけで。ただ、通常の海外短編は量も結構ある。原稿用紙数10枚の短編を描く根性も自信もない。しかし、名作海外SF短編(!?)なら自分にも書けるのではないかという思い込みが、私の脳裏で沸々と煮えたぎっていたのでありました。ただ、途中まで書いていて、中学生だから途中で書くことに退屈してしまうのではないか?という恐れが生じ。ならば、どうすればいい?と、いうことで、名作海外SF短編(!?)を書くことを一時棚上げして、「ショートショートなら短いから僕にも書けるにちがいない」と挑戦したのです。書いた。書いた。良くもこんなに書けたものだと自分で感心するほど。ショートショートは数枚から15枚くらいの長さですが、そのようなルールはおかまいなし。原稿用紙1枚もないようなものから、2~3枚のものまで、何作書き散らかしたかわからないほど書きました。今思えば、よくもあれだけのショートショートを書いたな、という感想。だからといって傑作を書いたわけではなく、量を書いたということ。数年前に、その頃書いたショートショートが机の隅から出てきたことがありましたが、熊本弁は混ざるは、1人称が突然途中で3人称に変わるは、誤字と脱字だらけだし。ひどいものです。しかしひたすら書き続けたことが効を奏したのでしょう。好きこそものの上手なれと言いますか。なんとなくショートショートの書き方は獲得した気分になっていたのです。ただ、普通の短編とショートショートは大きく違う。ショートショートはプロット優先で結末になだれ込むものだという気がします。だから、どの結末を選択するかで、途中の経過でひたすら注意を払った書き方をします。
 短編「美亜へ贈る真珠」以降はあまりショートショートを書かなくなったなぁ。今回は久々にショートショートを書いているわけですが、しばらく書いていないから、登場人物に妙に心理描写を入れたり、短編の書き方になってしまう。スイッチが切り替わっていないんだなぁ。
 私、飛行機が大嫌いだと、このコラムでも書きましたよね。これから墜落しようとする飛行機の中にいる自分を想像すると嫌なんだよね。そう言ったら、家内が「墜落すると思ったら、残り時間でペンと原稿用紙を取り出してショートショートを書きなさい!遺作のショートショートなら、ひょっとして高く買ってくれるかもしれないし」と。次、飛行機に乗るときまでには、ショートショートの書き方のコツを思い出して、頭の切り替えができるようになっておかなくてはなぁ。

第111回 戦艦美少女かぁ…。

 若い人たちの話を聞いていて、驚いたことがある。やたらと、戦艦や巡洋艦、駆逐艦の名前に詳しいのだ。やがて、ツイッターなどの呟きから、その理由を知ることになった。
 どうも戦艦をテーマにしたようなゲームが流行しているようなのだ。可愛い女の子のアニメに擬人化された旧日本海軍の戦艦、重巡洋艦(艦娘-かんむす-と呼ばれているらしい)を育てていき、最強艦隊を作るというのが目的なのか。
 戦艦美少女たちはセーラー服っぽかったり、軍服っぽいコスチュームで、腕に砲台を装備したり、甲板を楯のようにつけたりとなかなかチャーミングなのだ。とりあえずパソコンで、知っている代表的な戦艦を画像検索してみた。戦艦武蔵、戦艦大和、戦艦長門……。
 どれも、足がすらりと長く、胸のでっかい美少女に描かれていた。戦艦というのを忘れて、ぽかんと見入ってしまった。
 そのとき、同時に思い出したことがある。私の母方の伯父のことだ。
 私の中学時代「英語と数学は基礎が大事だから」と母に言われて、夏休みに伯父の家に勉強を習いにいったことがある。伯父夫婦は、熊本市の北部で貸本屋を営んでいた。朝の9時から夕方まで、伯父の家で商売道具の貸本に漬かるようにして過ごした。伯父は頭も鼻髭も総白髪で痩せていた。貸本屋の店の奥に座り、鼻眼鏡をして読書に耽っていた。そんな伯父を見て、こんな年寄りに英語や数学がわかるのだろうか、訝しんだものだった。ましてや、ランニングにステテコ姿でいたのだから。伯父は新聞のチラシの裏に英語と数字の問題を書き、私に渡す。その問題を解いて伯父に返す。問題集のような洒落たものではなかった。間違った答えのとき、叔父は怒りもせずに淡々と、どのように解答を導くかを教えてくれた。英語もペラペラ話したし、代数も魔法のように解を導いた。だが、奇妙に思ったのは「X」を「エッキス」と発音し、「Z」を「ジー」と発音したことだ。私が「エックス」と「ゼット」だと抗議すると、動揺もせず「学校で習ったことを優先しなさい」と言った。絶対に感情を見せず、静かにうなずく人だった。午前中、勉強をやると、午後は貸本をひたすら読んだ。源氏鶏太も海野十三も伯父の貸本屋で憶えた。疲れると店の隅でいつの間にか午睡していたことがある。それでも伯父は私が目を覚ますまで、揺り起こすことも怒ることもなく、ほっておいてくれたのだ。タバコも喫わないし、酒も飲まない人だった。
 家で、母から聞かされた。なぜ、伯父が英語や数学に明るいのかと質問をしたときだ。「海軍の軍人さんだったからよ。軍服できりっとしていた。中佐だったから。すごく頭が良かったの」その伯父が駆逐艦「秋月」の艦長であったことを知ったのだった。だが、私の中での”絶対に怒らない””口数の少ない””優しい目をしている”伯父と、駆逐艦艦長であったという伯父が、どうしても結びつかなかった。別人ではないかと思ったほどだ。
 中二のときだったと思う。私は伯父に「海軍で戦争へ行ったんだよね。伯父さんは」と尋ねた。伯父は、遠くを見る目で「ああ」と答えた。
 それ以上は何も話すことはなかった。
 大学の頃、伯父が艦長をやっていた「秋月」について書かれたものを目にした。
 1943年10月エンガノ岬沖海戦で「秋月」は空母「瑞鶴」を護衛中、艦中央で火災が発生。総員退去命令後、沈没。「秋月」乗員183名が戦死している。米軍証言では、空母「瑞鶴」に命中する筈だった魚雷を「秋月」が楯になった、と証言している。その瞬間の真実が何かは不明だが、乗員を多数戦死させたことは伯父の中で、それほどの重さを持っていることを知った。
 私が社会人になって伯父の通夜に出たとき、伯父の部下だった方々が多数集まってこられた。そのとき、私は中学時代から接した伯父の、軍人としての姿を初めて耳にすることになった。艦長としての判断力の機敏さ。適確さ。そして責任感。
 総員退避命令後、伯父は一人艦長室に残ろうとしたのだという。それを部下の方が殴り倒し、気絶させてから運び出されたのだと聞いた。
 他にも、驚くべきエピソードをいくつも聞いた。そして、そのどれも私が知っている穏和な伯父とは、別の人だった。生存している部下の方たちから慕われ続けていることが、そのときの私には何より嬉しかった。
 百か日の法事のとき、伯母から「好きな本があったら形見に持っていっていいよ」と言われて伯父の本棚を覗いた。伯父が私が貸本屋に通っていたときに何を読んでいたか興味があったからだ。
 書棚にはインド哲学の本がずらりと並んでいた。同時に私に戦争について伯父が安易に語らなかった理由がわかった気がした。
 もし「秋月」が美少女に擬人化されたらどんなものになるのだろう。そして、それを伯父が見たら、どんな感想を漏らすのだろう?
 そんなことを、ふと考えてしまった。

第110回 新年の目標

 年が明けると、自分の今年の目標を立てないといけないな、と思います。小学校の頃から身についた習慣ですかね。
 一年の計を立てないと後ろめたい気がします。だからといって、その計を一年立派にやり通したという満足感よりも、年末に、今年はあれも達成できなかった。これも守らなかった、という反省ばかりが湧くのはなぜでしょう。小学校の頃は予習・復習は必ずやるし、毎日、日記はつけますみたいな目標でした。日記とかは必ず三日坊主になっていましたっけ。
 高校の頃になると、ずるいもので、建前の目標と本当の目標の二本立てを作っていたような気がします。苦手な科目を制覇する!とか学年何位以内の成績になると親向けの目標を作る一方で、自分の目標は今年は何冊の本を読破するぞ!映画は五十本は必ず観るぞ!そんな感じ。苦手な科目の参考書は開きもしないのに、自分が読んだ本と観た映画のタイトルは手帳に丁寧に書き込んで、加えて自分が評論家にでもなった気分で、「今ひとつ結末にひねりが足りない」とか「登場人物に魅力が欠ける」「展開が安易な気がする」と余白にコメントしている始末。そういうことをやっていたのでバチが当たって、今では読者の方が「カジオは結末にひねりが足りない」とか「展開が安易だ」とか呟いておられるのではないかと怖くなったりするのです。
 社会に出ると、仕事の上でも「年間目標」の数字が重くのしかかり、胃が痛くなることばかりでした。
 そんな時代は、とにかく自分が何をどこまでやれるのか、ひたすら走り続けているだけでした。だから年の初めに目標を立てようというより、歳の瀬の除夜の鐘を聞く頃に「ああ、何とか今年もやり過ごすことができたのか」と呟くのが精一杯だったような気がします。
 そのうちに、時は流れ流れて専業作家宣言をして、年金生活者になったわけです。そうなると、今年の目標は「まだ書いていないあの話を書きたいな」とか「途中まで書いたままになっているあの話を完結させたいな」といったことをぼんやり考えるくらいになって、それだけなら、呑気なものだなと。目標を達成できなくても、まあ、なんてことないや、と考えておりました。
 しかし、数年前から、目標を設定せざるをえない状況が、闇夜の刺客のように訪れていたわけです。
 一度、このコラムでも書きましたが、脳梗塞の症状を起こして入院したことがありました。それで病院で全身をチェックしてもらったわけですが、要注意のポイントが出てくるわ、出てくるわ。まぁ、正直、腹回りと体重が気になってはいたのですが。そう。成人病注意報の数値であったわけです。
 それから、新たな年の初めの目標が突きつけられることになりました。体重はもとより腹囲、悪玉コレステロールの数値、中性脂肪、血圧。
 全てを正常範囲の数値に戻すための目標ができたわけです。そのためには、食事、運動の両面から努力しなくてはなりません。一日一万二千歩以上歩いて、腹八分のバランスの取れた食事。塩分を摂りすぎないように。
 運動を続けたおかげで、境界型だった糖尿病の数値も正常になり、体重も目標体重に。血圧も、やや低めかなというところまで改善できたのであります。
 来年は、もうこの目標も必要ないかな、と思っていたら、ある晩秋の日に、ちと変調を感じてしまいました。滑舌が以上に悪くなってしまって、まっすぐ歩けずに左に左に傾いて歩いてしまいます。で、病院へ。
 MRIを撮ってもらったら医師から言われました。「脳が壊れています」
 私の中でその言葉はけっこうショックでした。そのまま入院させられてしまいました。軽い脳梗塞をまたしても起こしてしまっていたのです。入院させられて脳の機能の検査を受けたのですが、そのときは、脳の詰まっていたところは、すでに正常に戻っていたようでした。だから、機能に問題なし。すぐに退院できました。
 退院してから、何に気をつけるべきかというと、「血液さらさらの薬を忘れずに飲んでください」だけです。血圧の薬も今はなし。
 つまり、年の初めに誓ったりする目標は何もないのです。そして、今のところ、何の後遺症らしきものもなし。
 そうか。人間の脳は十パーセントも普段は使っていないと言われているしなぁ。私なんか、人様よりもっと脳を使っていなかっただろうから、七十パーセント、八十パーセント脳が壊れたとしても、もともと使っていなかったところだから、影響なかったのかもしれないなあ。
 いや、待てよ。と、思っています。脳が壊れたおかげで脳がフル稼働を始めて、ひょっとしたら大傑作が書ける脳になっていたりすればいいなあ。
 ということで、今年はじめの目標は単純に「大傑作を書いちゃうこと」です。
 あ、一つだけ脳の後遺症かなと感じていることがあります。人には口にしてもいいことと、言ってはいけないことがあると思うのですが。どうも言ってはいけないことが、最近タガが外れて流れ出すという、制御の効かない状態に陥ってるなと自分で思うのです。これは後遺症じゃないかなあ。ま、いいか。
 今年もよろしくお願いします。

第109回 嫌いというより生理的にダメ。

 人は、これだけは絶対にダメという嫌いな生き物がいるようです。質問すると、どんな方にも、必ず、あれだけはダメという答えがあります。蛇やムカデという生き物がダメというのはわかります。毒があって咬まれたり刺されたりすれば人命に関わるという危険と隣り合わせの生き物であれば、なるほど納得できます。大昔からの祖先の記憶が刷り込まれた結果なのだろうな、と推測してしまいます。蛾が嫌いだ、というのもわかります。毒蛾の可能性が祖先の遺伝子に刷り込まれたのかな、と。
 で、いろんな方に私はよく尋ねるようになりました。いつの頃からかなあ。
「あなたにとって、ダメ!!という生き物は何ですか?」と。
 けっこう蛇や蜂、ムカデ、クモ、蛾というの多いですね。そしてなぜ、嫌いになったのか?とお尋ねすると、「生まれたときから、大嫌い」とか、「理由なんてありません。嫌いだからダメ。ダメだから嫌いです」と。
「あのときからダメになりました」という方もおられました。その方は、ダニがダメだということでした。大人になって、ある体験をしてからダニがダメになったということがわかったので、先天的ではないようです。
 この方は狩猟が趣味で、ある島で猪を獲ったそうです。そのまま、自分の自動車の後部に獲物を積んでフェリーに乗り、車を離れての客室へ。港に着くと、客室から愛車に移動して下船しました。それから帰路についたのですが、途中で異変に気がついたそうです。
 なんと、自動車の床が真っ黒になっていた!しかも、その床が、ぞわぞわと動いていたそうです。慌てて自動車を道路の脇に駐めて確認しました。
 それから、その正体がわかって悲鳴をあげたそうです。
 自動車の床の上で動く黒い粒は無数のダニだったそうです。
 ダニは猪に寄生していたのですが、死後、自動車の荷台に置かれた猪の死体は体温を失い、どんどん冷たくなっていった。すると、寄生していたダニたちは一斉に死体から逃げ出した。それが、自動車の床の上で黒い絨毯と化したのだそうです。それ以来、ダニと聞いただけで全身が震え上がるようになったそうです。
 わかります。同じ経験をしたら、私も気が狂いそうになったでしょう。
 カマキリが嫌いだという学生時代の友人がいました。彼の場合も、ダニが嫌いだという方に一脈通じる気がします。彼は自分の部屋で孵化寸前のカマキリの卵を破いてみたのだそうです。カマキリも無数の子が一斉に誕生するそうですが、次の瞬間、自分の部屋がチビカマキリの大群に占領されてしまったそうで、以降、カマキリが生理的にダメとのこと。
 女性で、虫がダメという方がおられました。中学の頃までは虫愛でる姫で、虫なんかちっとも怖くなかったそうです。ところが、ある時点で突然虫がダメになったと。虫の中でも特にゴキブリがダメだと。もう、ゴキブリと口にするだけで気色悪いそうです。だから、ゴキブリと言えない。「ゴ」あるいは「G」としか言えないと。ゴジラか!それまでは、台所をカサコソ這い回るのを見ても何ともなかったそうです。噛みつくわけでもなく刺すわけでもない。小さくて素早いカナブンくらいにしか思っていなかったそうです。さすがに、食べ物に乗ったり、ゴミ箱に寄るのを見ると、不潔だな、駆除する必要があるなと思ったらしい。それでもゴキブリなどハエ叩きで駆除できると考えたそうで。ある夜、台所の灯りをつけたら、数匹ガサゴソ動いていたそうです。で、一斉にハエ叩きで駆除するつもりで台所に飛び込んだのですが、その方はゴキブリの生命力を過小評価していた。ハエ叩きで絶命させたと思った次の瞬間に信じられないことが。
 その方はゴキブリに飛翔力があると知らなかった。
 そのゴキブリは羽ばたきながら一直線に顔に飛んできて頬っぺたにとまったそうです。
 それ以来、「ゴ」「G」としか呼べないことになってしまった。よくぞ、あの時自分は発狂しなかったものだと述懐しておられました。
 では…?と私に尋ねられます。そんなのいないの?ダメな生き物は?と。
 私が嫌いなもの。
 ナメクジです。幼い頃からダメなんです。触れるのは全くダメ。見ても嫌い。これこそ自分でも不思議です。なぜなのだろう。子どもの頃に、履いた靴の中で妙な感覚があり、見たらナメクジだったという記憶はあるのですが。これだけ周囲の人のダメな生き物を聞いてきたら、ナメクジ嫌いという奴が一人くらいいてもおかしくはないって気はしています。そして自分でもナメクジ嫌いのままで構わないし、ナメクジ嫌いをなおすつもりは全くありません。
 「サラマンダー殲滅」という小説の中で飛びナメという吸血ナメクジを登場させましたが、そんな生き物を想像する自分も、よくわかります。どうも気色悪い回で、すいません。
 では、いい年をお迎えくださいますように。

第108回 新しいエマノン出ます

今月、エマノンの新作本を出します。
『おもいでエマノン』でスタートして『さすらいエマノン』『かりそめエマノン』『まろうどエマノン』『ゆきずりエマノン』に続く6冊目になるのですが、今回はイメージが変わったかもしれません。
 6冊目のエマノン本のタイトルは『うたかたエマノン』です。
 どこがこれまでのエマノンと違うかというと、今回の『うたかたエマノン』は初の長編なのです。雑誌「読楽」で1年に渡って連載させていただきました。
 これまでのエマノンの活躍の場は主に短編でした。50枚から80枚くらいの長さ。『かりそめエマノン』と『まろうどエマノン』は200枚の中編となっておりますが。ですから500枚近いエマノンなんて初めての経験でありました。
 それから、もう一つ。
 エマノンシリーズでは主人公のエマノンにいくつかのお約束があります。
 いつもジーンズを履いていてセーター姿。自分の記憶の重さから逃れるために、両切りの紙巻きタバコを吸う習慣がある。長い髪で、化粧っ気がないの美少女。そばかすも魅力的です。彼女は地球に生命が発生してから現代に至るまでの、生命体の全ての代の記憶を引き継いでいます。でも、今のエマノンになったのはいつの時代からなのだろう。もちろん人間に進化した後だろうけれども?
『うたかたエマノン』は、これまでのエマノンシリーズの中では舞台が一番古く、19世紀末です。そのとき登場するエマノンは、まだ自分のことはエマノンとは名乗っていませんし、タバコも吸っていません。ジーンズも履いていなかった頃のことです。
 実は、この物語を思いついたのはずいぶん前です。いつ頃かというと……20世紀。だから、デュアル文庫で『おもいでエマノン』が2000年に復刊されたとき、巻末の鶴田謙二さんとの対談で、この『うたかたエマノン』の構想をちらりと口を滑らせているんです。

「ラフカディオ・ハーンとポール・ゴーギャンが、エマノンと一緒にゾンビ狩りをする話を書こうと思っているんですが。後は舞台となるマルチニーク島へ取材に行くだけです」
 私は、そう言い切っています。 
 そのまま宿題を済ませていない子供状態で十数年が経過しました。書いていない理由は、
「まだ、マルチニーク島に取材に行けていない」
 その間にも、鶴田謙二さんはコミック版を描かれていて、私は短編のエマノンを思い出したように書いておりました。
 長編エマノンに手を付けないまま。
 気がつけば、マルチニーク島に行かないまま還暦も過ぎてしまいました。こりゃあ、さすがにまずいな。読者の方に約束したのに嘘をついたような状態だ。
 で、ある瞬間に、物の怪が落ちたように踏ん切りが付きました。
 今、マルチニークを訪ねて取材しても、19世紀のマルチニークとは全く違うんだ。タイムマシーンで行かない限り真実はわからない。だったら、宇宙を舞台する話も、戦国時代のお話も、19世紀末のマルチニーク島の話も同じではないか?全て想像力で解決するしかないのではないか?
 そう自分に言い聞かせたら、長編エマノンが書ける気がしてきたのです。代わりに、マルチニーク島の歴史やら風土がわかる資料、観光本(これがほとんど、ない)を探し、ハーンの西インド滞在時の著書やらゴーギャンの手紙集やらを読み漁りました。
 読めば読むほど、もやもやとしていた19世紀のマルチニーク島が形になってきました。いや、本当のマルチニーク島がどうだかわかりませんが、私の夢想マルチニーク島です。変な生き物が蠢き、割と軽いノリのキャラになってしまったハーンやゴーギャンでも構わないのだ、と。
 開き直ったわけですね。
 おかげで、吹っ切れた途端、最後までぶっ飛ばし書き進めることができました。
 もちろん、ホラ八百のお話であります。それでも虚構なりに、かつての首都サン・ピエールが活火山モン・ペレーの大噴火で壊滅する前の地形や都市の状況は再現したつもりでいます。
 その中で、どうしても確認しておきたいことが発生。この時代のマルチニーク島の特産品ラム酒についてです。世界各地のさとうきび特産の場所ではラム酒が作られているそうで、中でも、マルチニーク島のラム酒は逸品らしい。ハーンも大好きだったのだと。これだけは確認しなくては、と捜しましたが、熊本には売っていない。味が正確に描写できないではないか!
 すると、その話をしたバー「てれすこ」の古田マスターが手に入れてくれました。これには感動しました。もちろん、マルチニーク島の白ラム酒。その味の素晴らしさは、ぜひ本編をお読みくださいませ。
 よろしくお願いします。(平伏)

※「うたかたエマノン」は徳間書店より11月中旬より発売予定です。また、12月に「おもいでエマノン」、平成14年1月に「さすらいエマノン」、2月に「まろうどエマノン」(「かりそめエマノン」と合本)、3月に「ゆきずりエマノン」が徳間文庫で復刊の予定です。こちらも、よろしくお願いします。