第127回 カトマンズの少女

 ネパールには一度だけ行ったことがあります。インドに行ったついでなのですが、なかなか行ける場所ではない気がして。
 四十人乗りくらいの小さな飛行機で行ったのですが、それはそれは凄絶な乗り物でした。窓際に座った私の横で、窓がパタパタと飛行中に鳴り始めました。こりゃ、窓が外れるんじゃないか、と怖くなりましたよ。昔から高所恐怖症に加えて飛行機が大嫌い。もう、窓パタだけで寿命に王手をかけられたような気に。堪らずCAのおばちゃんに、大丈夫かと訴えました。すると私に人差し指を向けて、「心配ない」という風に去って行きます。すぐに戻ってきてガムテープをベタベタと窓に貼り付けました。それから親指を突き出して「ノープロブレム」、と。
 大丈夫かよ?と血の気が引いたまま思ったものです。それから五分も経たずに前方のお手洗いから水が流れ出し、通路を伝って私の横を抜けて後方へ。どうしたんだよ。
 床を指さし不安な顔をすると、CAのおばちゃんが私を特に睨みつけながら、またしても「ノープロブレム」
 近くの人が教えてくれました。「この航空会社は外国の旅客機の耐用年数が終わったものを購入して使っているから仕方ないんですよ」と。「それからCAのカーストの方が乗客のカーストより上だから彼女たちに従わなきゃならんのです。CAが偉いんです」
 何のこっちゃ。通路は人糞の臭いです。
 で、ネパールはカトマンズの安宿で過ごしたのですが、目玉焼きが黄身まで白いのに仰天しました。インドと同じでカレーばっかり食べて過ごしましたよ。標高は1,300メートルと高いけど、結構暖かかったですね。空港に到着する前に見えたヒマラヤの山々の荘厳さは忘れられません。
 日数が取れなかったので、カトマンズの街の中を歩きまわって過ごしました。今度はトレッキングで来たいなぁ、と他の旅行者たちを羨ましく眺めたものです。
 なぜ、そんなことを思い出したかというと、テレビでネパール大地震が現地中継されているのを目にしたからです。
 倒壊した塔を見て絶句しました。何ですって?数千人の死者だって?
 ダラハラの塔って言ったよね。塔の前は繁華街でした。一人で彷徨いたときの記憶。とにかく自転車やら三輪車やら人混みが凄かった。それにクラクションや叫び声、ブレーキ音とうるさかったなぁ。排気ガスもだけれど、人糞の臭いがたまらなかった。下水がちゃんとしていないのかな?と横を見ると、道の隅でお婆さんが人目も気にせず立ち糞していた。ダラハラの塔は確か百年ほど前に地震で倒壊したと聞いた記憶が。今回も倒壊したというのは、再建時にその時の教訓は活かされなかったのかな?
 そして、あの近くにクマリという少女の生き神様が暮らす館があったことを思い出しました。今でも代々のクマリが暮らしていたはず。レンガ造りの建物だったから神様は大丈夫だったのだろうか?画面で見る限り瓦礫しか見えないけれど。
 同時に、画面の中を無意識に探していました。ひょっとして…と。
 実はあのとき大通りから路地に入ってみたのです。細い通りの向こうに小さな広場があって、中央に水呑場兼井戸がありました。
 私は歩き疲れて、そこでひと休みしていると声をかけられました。
「日本の人ですか?」
 もちろん日本語で。見ると十二、三歳の女の子がバケツを持って立っていました。痩せているけど目が大きくて将来美人になるだろうな…という少女です。
 聞くと日本語を習っている、と、近くに日本人の女の人が住んでいて、教えてくれるのだと。だから日本語が流暢なのか。
 日本が大好きだから、日本に行きたい、と。そして日本で医学を勉強して医者になりたいと、言っていました。日本語を教えてくれる日本人も日本の医学は素晴らしいと言ったようです。
 この年齢で、自分がどの道に進むべきかを、しっかり見定めてその目標に向かって勉強していることを知り、素晴らしい子だなと、感激した次第です。
 カトマンズは、もっと上手なお医者さんをたくさん必要としているから。そんなことも言っていました。
 中継を見ながらその少女のことを思い出してしまいました。
 私がネパールを旅行したのは、十数年前のこと。画面の中を無意識に探したのは、ひょっとして救急医療チームのメンバーに、成長したあの少女がいるのではないか?そんな気がしてならなかったからです。いや、そうあって欲しい、と。
 ネパールの被災地の、一日も早い復興を心から祈念します。

第126回 『怨讐星域』が出るよ

 5月下旬なのですが、新刊が出ます。
 延べ9年かけてSFマガジンに連載した「怨讐星域」というシリーズで2千枚ほどになり、とても1冊には収まりきれないので3冊に分冊されることに。ただ今、著者校正の真っ最中なのですが、宣伝を兼ねて今月はこの話題でいってみようかと思った次第です。
 連載のお話を頂いたときに、世代を超えて憎みあう人々のことが、ふと頭をよぎりました。民族や宗教、領土のことで長くいがみ合うという歴史を、いくつも知っています。それらを題材にした文学や映画にいくつも触れてきました。果たして私たちには、民族としての生まれながら埋め込まれた恨みというものを拭い去ることはできないなのか、という疑問が浮かんできたのです。
 さて、現実の世界情勢の中でも、そのような例はたくさん見聞きしています。もし思考実験としてのSFという枠組みの中でこの素材を扱えば、どうなるのだろう。
 どのような形で展開するか、それからいろいろと検討しました。
 祖先が憎しみの原因を作り、その恨みが世代を超えるという年代記のようなものができないだろうか?
 現在の世界で見られる民族・宗教に関わる怨嗟とは全く異なる設定を考えてみることにしました。現実社会と離れることによって、少しでも生々しさを薄めるほうが、思考実験に没頭できるからです。
 基本設定を頭に入れておかれると、読み進める上で便利かと思いますので、簡単にご紹介しておこうかと思います。
 その時代、異常気象が連続するのですが、これは太陽のフレア化の予兆でした。どのようなことかというと、太陽系内のすべての天体は太陽の異常燃焼により数年後に燃え尽きてしまうと予測されたのです。それは地球滅亡、人類滅亡を意味していました。
 しかし、その時代の米国大統領は財閥の協力を得て、秘密裏に選民たちとともに世代宇宙船ノアズ・アーク号で地球から脱出します。
 残された人類は、自分たちを置き去りにしたノアズ・アーク号の人々を悪魔の一族として激しく恨むのですが、ここで奇跡的な出来事が起こります。
 残された人類は、転移装置を発明するのです。転移装置とは、一瞬にして物質をジャンプする装置です。どんな遠距離であろうと関係なく。
 さて、その頃、大多数の人類を見捨てて去った世代宇宙船ノアズ・アーク号の目的地が、170光年先の惑星であることが判明します。その惑星は分析の結果、地球に似た環境の星だったのです。
 地球にとどまっても滅亡を待つばかりの人々は、何の生存の保証もない遥か彼方、170光年先の惑星に転送を試みました。
 その結果、ほんの一掴みの人々が転送に成功。しかし、地球での技術は全てゼロの状態なので、未知の環境下で原始人同様の生活をスタートさせることになるのです。
 地球とその惑星の距離は170光年離れていますから、宇宙船が辿り着くまでに数百年が必要です。その間に転送装置でたどり着いた人々の末裔は、遥か未来にこの惑星に辿り着くことになる地球からの宇宙船の人々への恨みを語り継いでいきます。そして、何世代も後に宇宙船が現れたときに何が起きるか……という連作群というわけです。
 そんな恨みが集中する空間なので、タイトルは「怨讐星域」としました。字面を眺めていると、かなり重いかな、という気分になるのですが、これくらいやらないと深い恨みが伝わってこないと信じて決めました。
 全31話に渡る年代記の本作ですが、以上の基本設定を頭の隅においておかれるとよろしいかと思います。一話ごとにノアズ・アーク号の内部だったり、文明を発展させていく未知惑星の話だったりするので、連作集というよりは短篇集に近いのではないか、という気もしています。
 共通しているのは、各時代のそれぞれのエピソードの語り手となる人物たちが、その時代の状況ならではの心のもやもやを抱えているのだということ。
 だからサイエンスの物語というよりも、人間の物語になっているのかな、とも思います。そして、書き上げて思うのですが、この結末は正しいのだろうか、という反省があります。物語が終焉を迎える以上、何らかの物語としての着地点を示す必要がありました。私なりの結末は記しているのですが、この結末で読まれた方が納得されるかどうか。あり得ねえーなのか、カジオらしい、なのか。
 首を洗いながら校正作業を続けています。
 どうぞよろしくお願いします。(了)
『怨讐星域/ノアズ・アーク』『怨讐星域/ニューエデン』『怨讐星域/約束の地』(ハヤカワ文庫5月下旬発売)

第125回 コロンブスのタマゴご飯

 中華料理は大好きです。昼飯時に食欲がないとき。何を食べようか思いつかないとき。私は上熊本の高台にある竹林横の中華料理店をよく利用します。
 四川料理系のお店が多い熊本ですが、中でもここの麻婆豆腐は、絶品だと思います。山椒の辛さが心地いい。ご飯に自分の好みの量の麻婆豆腐を乗っけて食べると、至福です。
 さて、これからが本題。
 この中華料理店は、私の孫も大好きです。特に五目炒飯がお気に入り。確かに、美味しい。ある日2人でこの店に行き、いつものように私は麻婆豆腐とご飯、孫は五目炒飯をオーダーしました。で、私は白飯に麻婆豆腐を掛けて美味しく頂きました。
 このときまでは、この食べ方が一番美味しいと思っていました。すると孫が私が食べていた麻婆豆腐に手を延ばし、それを自分の五目炒飯に掛けたのです。「辛いよ。大丈夫?」と尋ねると、帰ってきた答えは、「うまーい!最高だよ」
 え・え・え?
 私も、孫の五目炒飯を貰い、麻婆豆腐を掛けてみると、確かにうまい。
 五目炒飯もとても美味しいのですが、麻婆豆腐の辛さと相まっての相乗効果。
 これまでになかった味を発見したのでした。
 それからは、家族でこの中華料理店で注文するのは決まって、五目炒飯と麻婆豆腐。
 東京から叔母が来熊したとき、この中華料理店に連れて行ったら「美味しい!」と感激してくれました。で、五目炒飯に麻婆豆腐を掛けて食べることを奨めると……。なんという食べ方をするのだ、叱声が。えっ?、どうして?
 叔母に言わせると、それは若いもんの食べ方だ!と。 
 なるほど油で炒めて高カロリーになった炒飯に、同じく高カロリーの麻婆豆腐なんて、とんでもない!と。
 じゃあ、と私は叔母に友人から教わった五目炒飯の茶漬けなる食べ方を教えました。これは、炒飯を茶碗につぎ、ウーロン茶を掛けて食べるもの。はじめて友人から聞いたときは眉唾ものだっただったのですが、試してみたら、これが、いけるんです。叔母は乗り気じゃなかったのですが、「騙されたと思って」と作ってあげましたよ。
 ところが一口食べただけで、叔母は大喜び。「こんな食べ方もあったんだねぇ」と。夏に、食欲がないときはいいかも、と褒められました。
 みなさんも、お試しあれ。
 さて、こんな掟破りな食べ方は、他にはないのか?そんな疑問が浮かびました。
 固定観念にとらわれて試していなかった食べ方が他にもたくさんあるのではないか?
 それでこのようなタイトルになったわけです。
 私は友人と世間話をするとき、麻婆豆腐かけ五目チャーハンの話をしてみるようになりました。すると、友人たちも「こんな食べ方もあるよ」と情報を教えてくれます。
 驚愕の食べ方。白飯のおかずに炒飯。
 そんなことを言った奴もいましたね。さすがに試してみようとは思いませんでしたが。どれだけご飯好きなんだ!と呆れました。
 割りと多かったのが、炒飯に付いてくるタマゴスープを炒飯に掛けて食べる、という方。これは、目の前に並べられただけで、自然にそのような発想が生まれたと思われます。
 中華系の話が終わると、「こんな食べ方を知ってる」という話がいろいろと出始めます。ご飯にマヨネーズと醤油掛けたマヨネーズご飯。味付け海苔も一緒によく登場しますね。そんな話題の延長で、バターご飯、マーガリンご飯。もう、聞いているだけで、いたたまれなくなります。温かい牛乳かけご飯の話しあたりでは「外国では米は野菜扱い」というのを、ふと思い出しました。
 話を振った側として、ちゃんと実験して味を確認して、証言を残す必要があるのでしょうが、そこまでの勇気を発揮できていません。ごめんなさい。
 その代わりに、最近聞いて試して美味しかったものを紹介しておきます。
 まず、栗ご飯にカレーを掛けて、というパターン。これは前日残った栗ご飯と、前々日の余って冷凍しておいたカレーの、奇跡の出逢いでした。栗ご飯は、ちと冷たいというのがベストなようです。
 そして、鯛めしにイクラの醤油漬けを掛けて食べるという……これは試す前から、うまいに決まってると確信できました。教えてくれた方は、これを「さくら飯」と名付けたと言っていました。
 粋ですね。でも、さくら飯って、具のない味付きご飯というイメージなのですが。
 ここで、最近教わった究極のタマゴご飯を紹介しておきます。
 新鮮なタマゴが手に入ったら、割って黄身と白身を分けるそうです。で、炊きたてのご飯に白身だけを入れ、ひたすらかき混ぜる。そして、白身がすっかりメレンゲになったら、上に黄身を乗せる。ほんのちょっと醤油を垂らし、黄身を少しづつ崩しながら食べる。
 聞いただけではピンとこなかったけれど、試したらマイルドな美味しさ。予想外な味。
 これぞ、タイトル通りの、「コロンブスのタマゴご飯」でしたよ。

第124回 もうすぐ山菜

 3月の声を聞いて、桜の開花はいつ頃だという話題が出るようになると、私の頭の中では山菜採りのスケジュールが組み立て始められます。花より団子といいますが、山にタラの芽を取りに行く時期は、桜前線の訪れと必ずリンクしています。ソメイヨシノが8分咲きになった陽気が、木の芽どきというか、タラの芽が山に姿を見せる最適のタイミングかと思います。冬場塞ぎこんでいたのに、急に自転車に乗って全速で走り回る知り合いを見かけるのも、この時期です。私を見かけると甲高い声とともに自転車を漕いで近づき話しかけてきます。厭だなあ、と思いますが、心の中では「そういう季節なのか。ということは、山はタラの芽の時期なのか」と同時に思っていたりします。私にとってはこの知り合いも春の風物詩なのかなぁ。まさに、私にとっては”花よりタラの芽”なのです。
 最初に山菜に興味を持ったのも、やはりタラの芽に出会ってからです。山歩きの途中で、藪の中でがさがさ動き回っている方に出会いました。何やら採っておられるようでした。私は好奇心が強い方だと思います。穴があれば覗いてみたくなり、ボタンがあれば押してみたくなる人間です。足を止めて藪の中におられる方に「何採ってるんですか?」と声をかけました。すると、一瞬、音が止み、無言のままこちらを睨むと、その男の人は背を向けて、いずこかへ行ってしまいました。私は、慌てて、藪の中に入ると確認しました。(我ながら、しつこい性格)そしてまっすぐに伸びた細い木の先端の芽がもぎ取られているのを発見したのです、
 何を採っていたのだろう?
 同じ特徴を持つ木がすぐ近くに見つかりました。その先端の芽が……。これに違いないといくつか採集して登山道に戻ると、他の登山者の方から声をかけられました。「ほう?タラの芽ですね?天ぷらに最高ですね。もう出ていましたか」と。
 食えるのか!いや、美味しいのかぁ!
 それが、タラの芽との最初の出会いです。今では、栽培もののタラの芽が居酒屋などに出回り、珍しくなくなりましたが、その頃はまだタラの芽など口にしたことはおろか、聞いたこともなかったのです。我が家に持ち帰り、揚げてもらったら、成る程!アスパラガスとも違う、納得の美味しさ。
 つまり、私が声をかけた山中の籔の方は、この味を教えたくなかったのか!
 山菜採りやキノコ狩りの方々は意地悪で根性がねじ曲がっていると学習したのもこのときです。私は、そうはなりたくないので、できるだけ愛想良くするように心がけています。
「ああ。タラの芽を採りに来られたのですか?残念ながら、ここいらは全て採り尽くしてしまいました」とか、「ここいらは、マムシが多いから気をつけてくださいね。さっきも数匹見かけたばかりですから」と、できるだけフレンドリーに伝えることにしています。真偽の程は二の次として。
 それから、春の楽しみとして、必ずタラの芽採りは欠かせないものとなりました。ただ、以前は荒れていた場所でも開発が進み、タラの芽がたくさんあった山林そのものが消失してしまったり、皆がタラの芽のおいしさに気づいたのか、一瞬出遅れただけで、全く見つからないという事態も珍しくなくなりました。だから、タラの芽の群生するスポットを見つけたら、人には内緒にして一人で採りに行くことに。
 ところで、タラの芽にもオスとメスがあることはご存知でしょうか?ちょっと目には、同じタラの芽にしか見えないのですが、刺が表面に多いのがオスで、刺がないのがメスです。一般的に喜んで食すのはメスの方ですね。オスは天ぷらに揚げても刺がチクチクですし、苦味も強いんです。
 で、ふと春にタラの芽採りに行くと口を滑らせて、相手からぜひ採りに連れて行ってくれと頼まれたときは……。
 できるだけ目的地への道を遠回りに。そして、ぐるぐると迂回しながら方向を誤らせるように連れて行きます。で、山に入ったら「この辺りにありますから、手分けして採りましょう」と言う。しばらくすると、道がわからなくなり途方に暮れるはずなので、笛を吹いて探してあげます。それから、オスのタラの芽をその方がたくさん採っておられることを確認して「今日のタラの芽採りは楽しかったですね」とお別れします。
 そんなタラの芽の時期がもうすぐ巡ってくるんですね。その時期は野藤の花や、ハルシメジ、コシアブラもありますから、一緒に天ぷらにすれば、野趣満点です。
 タラの芽の天ぷらを食しつつ、野山を巡ったその日の想い出に耽ると、私の心が、また一段と清らかになったと感じられるのです。
 楽しみだなあ!

第123回 クロノス・ジョウンター再び

 実は「クロノス・ジョウンター」という時間を超える装置、というより欠陥タイムマシーンについては、7年前のやはり2月に、こちらのカジシン・エッセイで書いております。そのときは「クロノス・ジョウンターの伝説」の新書版が発売されるのを記念してのエッセイでした。本来は中編1本で完結していた「クロノス・ジョウンターの伝説」が、なぜ本が出るたびに増殖し新作が加わっていったかという経緯を記したかと思います。そのときのターミネーターのような編集さんはもう定年を迎えておられますし、新書版も、品切れが続いておりました。
 しかし、演劇集団キャラメルボックスがほとんどの作品を舞台化していただいたおかげで、全国の高校、大学の演劇部、そして地方の劇団と様々な方たちによって上演が続いていることを知りました。その方たちからも問い合わせを頂いていました。
「クロノス・ジョウンターの伝説の原作本を手に入れたいのですが」
 申し訳ありません。私としては、ありがたくて頭が下がります。作者冥利につきると申し上げればいいのか。
 同時に、「クロノス・ジョウンターのような欠陥のあるタイムマシーンをどうして考えられたのですか?」とよく尋ねられます。
 はたと弱ってしまいます。いやぁ、欠陥がある方がタイムマシーンは面白いではありませんかと答えて、ふと思いあたります。
 私は昔から時間をテーマにしたSFが大好きだったのです。最初に接した時間テーマは、やはり代表的な誰でもご存知のH・Gウェルズの「タイムマシン」を映画化したもの。(原作を読んだのは中学生の時ですね。)そのとき、主人公はタイムマシンで80万年後の世界へ冒険に行くのですが、時間を超えることで生ずる矛盾については考えられていません。その後、時間旅行の話が大好きになって、いくつも読んだのですが、特に短編では、目からウロコが落ちるような話をいくつも読むことになりました。有名な「自分が生まれる前の時代に行って自分の父親を殺したらどうなる?」の解答もいくつも読みましたね。自分の父親を殺そうとするが、なぜか邪魔が入ってどうしても殺せないというもの。自分の父親を殺した瞬間に、自分が消滅してしまったり宇宙が消滅してしまうもの。自分の父親を殺して過去から帰ってきても何も変わっていない。自分にも変化が起きない。なぜなら、自分の本当の父親は母親の浮気相手だったから。父親殺しは、まだいろんなパターンがありました。
 短編のタイムマシンものは、過去へ飛んで矛盾を起こすものが多いようです。太陽系そのものが宇宙空間を猛スピードで動いているから、タイムマシンで過去に飛んだら宇宙空間に投げ出される…という話やら。無限増殖する自分や金といったアイデアもよく見ました。机の上にある金貨を持ってタイムマシンで1分前の過去に行くと、自分が持っているものと机の上にあるもので金貨は2倍になる。その2枚を持って、また1分前に飛べば3枚になる。こうやって金貨は無限に増えていく……というものです。それで大金持ちになれるかも、というところで意外な落とし穴が発見されて、主人公は虻蜂取らずになってしまうというパターンが多かったなあ。過去へ飛んだらタイムマシンの欠陥が見つかり、過去の自分と一緒にもっと過去の自分に文句を言いに行くという話は、まるで落語のようでした。そして、過去に行って過去のものに触れただけでバタフライ効果が起こるという話も、いろんなバリエーションがあります。過去の世界で小さな蝶を踏みつけただけで、その蝶が受粉するはずの花が実を結べない。そんな変化が連鎖して異常気象や生態系の崩壊まで招いてしまい、人類や地球の未来まで左右することになるというのが、アイデアの骨子です。このバタフライ効果について、なにか連想されませんでしたか?
 私は、すぐに”風が吹けば桶屋が儲かる”を連想しました。よく似ていると思いませんか?
 タイムマシンものは、奇想の泉でもあるなぁと。時間テーマについて考えていると、もっと変な時間の性質を創造してもいいのではないか、と思いついたのでしょう。クロノス・ジョウンターのお話を組み立てた時は。
 そんなことを懐かしく考えていたら、演劇集団キャラメルボックスさんが今年30周年を迎えられるとの報せが。そして、その記念公演で2月から大阪と東京で「クロノス」を上演されるとのことです。これは「吹原和彦の奇跡」を原作としたものですが、同時に成井豊さんも「クロノス・ジョウンターの伝説」の新作に挑戦されるとのこと。タイトルも「パスファインダー」と。楽しみです。
 また、2月にはこれまで手に入らなかった原作本も「クロノス・ジョウンターの伝説」が完全版として徳間文庫から発売されることになりました。
「手に入らないんです」とご迷惑をかけっぱなしでしたが、お待たせいたしました。
 併せて楽しんでいただきますよう伏してお願い申し上げます。

第122回 お年玉のことなど

 謹んで、新年のお慶びを申し上げます。
 本年も、どうぞよろしくお願いします。
 正月なので、年の初めにふさわしい縁起の良いことを書きたいのですが、アベノミックスの効果も感じられないままに年を越してしまいましたので、景気のいいニタニタできるような話も思いつきません。
 で、遠い昔、お正月というと何が楽しみだったろうか、と考えてみると、具体的にハッピーな思い出もないんですよね。女性だったら「きれいな服を着せてもらった」とか「羽子板をやった」という答えになるのでしょうか。男の子だったら凧揚げをしたとか、独楽回しをやったとかはないのか!と思われるかもしれませんが、病弱だったし、食べ物もすぐ腹を壊すからと制限されていたし。
 そうだなあ、唯一、楽しかったのは、お年玉を貰えたことかなあ。それまでは、欲しいものは買ってもらっていたから”お金”が何のためにあるかがわかりませんでした。お年玉で初めて”お金”の存在理由を学ぶことになったのです。袋の中には紙幣が入っていて、それで自分の欲しいものが買える。しかし、欲しくてもお金が不足していれば買えない。欲しいものを手に入れたければ、たくさんのお年玉が必要である。そんな学習。そして、これは目上から目下に贈る年一回の行事である。きれいな袋に入っていますが、これをポチ袋と呼びます。なぜポチ袋と呼ぶかというと「これっポチしか入っていなくて申し訳ないけれど」というところから来たポチ袋なのだということも知ったなあ。
 と言って、お金を貯めて何を買いたいというところまでは考えが及びません。しかし、お金の合計金額を確認するのは楽しかった。
 それから、中学に入り、お年玉で本を買い込み、コレクション化する日々。友人の中にも、それぞれの道を極めようとする者たちをたくさん見るようになったなあ。そんな連中がコレクターになっていったのだと思います。切手だったり、プラモデルだったり、映画関係資料だったり、コミック類だったり。いずれも、コレクターから進化を続け、あの頃はまだそんな言葉もなかった”おたく”に変貌して行ったのです。
 ふと思ったことがあるのですが、それぞれモノに対して執着するから”おたく”と呼ばれるのだから、私がお年玉を収集する時点で、モノに執着せず、お金に執着していたら。”お金おたく”という存在になっていたのでは?”お金持ち”というのは、”お金コレクター”ではないでしょうか。
 お金を使う楽しみではなく、ひたすら、お金をコレクションする楽しみだけを求めて。
 これこそ、お金おたくの王道ではありますまいか。
 本当のお金持ちは、お金持ちには見えない、ということをよく聞きますが、これは他のモノを収集している人たちにも共通している気がします。お金も収集品で、お金を運用するより、お金をコレクションしていることが、お金おたくは楽しくなっている筈です。そんな方は、収集したコレクションを残高確認で満足感を得ることが生きがいなのでしょうねぇ。
「今、どんな本が売れるのか」と出版関係の方に聞いたことがあるのですが、お金のことを書いた本が売れる傾向にあるということでした。
 どうやったらお金が集まってくるか?とか、お金持ちになる人の心の持ち方、とかいったものが評判ということでした。お金のことを口に出すのは賎しいと考えている人がいますが、そういう方でもお金のノウハウ本は買っているんですよ、と。
 そうか。子供の頃、お年玉でお金コレクターになりかけたのは、まんざら間違いではなかったのか。方向がずれて、本とコミックのコレクターになってしまっただけで。
 あのとき、お年玉を親が取り上げていなければ、立派なお金おたくになっていたかもしれません。それが良いか悪いかは別にして。
 今年、皆さんが、お金をたくさんコレクションできますように。……と書いて閉めようと思いましたが、やはりエゲツない気もします。

第121回 パーティ嫌い

 年末年始にかけて、何かとパーティの案内をいただくことが多くなります。以前は、出席しないと義理を欠くかな、と参加したりもしていたのですが、だんだん自分の本質がわかってきました。
 私はパーティ嫌いなのです。
 ひょっとしたら、パーティ嫌い以前に、対人恐怖症の傾向があるのかもしれません。だから、特に立食パーティなどになると、いろんな人が会場を回遊していて怖いのです。
 初めてお会いする方と言葉を交わす。それから、宜しくお願いします等の挨拶をするのですが、相手のことを何も知らないので、それ以上何を話していいのか、わからなくなってしまいます。
 そのとき願っているのは、「早く、この人どこかに立ち去ってくれないかな」です。その方からすれば、私などそわそわと落ち着きのない目をしたアブナイ男だと思われたに違いありません。
 服装や話し方から、この方はどんなことをやっている方かなと想像してみたりはするのですが、それが当たっているのかどうか尋ねてみる勇気はありません。下手に尋ねてみて、外れていたら失礼になる気がしますし。それで、考え過ぎて失語症状態になってしまっているのです。
 その方が立ち去っても次の方が近寄ってこられます。その方はにこやかな笑みを浮かべて親しげに話しかけてこられます。何度かお会いしたことがある方のようです。
「やあ、カジオさん。お元気でしたか」と。それで、慌てて私も作り笑いを浮かべます。
「ええ、おかげさまで」
 そこで私も気がつきます。そうだ。この方とは、どこかで会ったことがある!
 だが、どこで会ったのか?何をしている方なのか?名前も思い出せない。
 これだけ親しげに接してこられるのに、「どなたですか?」とは口が裂けても言えません。そんなことを尋ねたら深く傷つけてしまうに違いありません。だから、私も久しぶりなふりをして、実は思い出せていないことがバレないように会話を繰り出すしかありません。相手の固有名詞がわからないから、必死で誤魔化しつつ。「寒くなりましたね。お山は氷河でしょう」とか、「少しお痩せになりましたか?」(と言えば大抵喜ぶ)「お変わりありませんね。いつもお若くて」(これもほとんど喜ぶ)と言葉を交わしている間に、その返事をヒントに、誰だっけ?と、つきとめようとしています。そんなときの掌は脂汗だらけです。お相手を全然別の方と勘違いして話していて赤面。そんな前科もあるものですから。
 どなたかがやって来て、その方に話しかけられたら、これぞチャンスとばかり、その場をさっさと逃げ出すことにしています。
 もうひとつパーティの嫌なこと。私の大嫌いな人も来ていることがあるのです。私が嫌いだから、そいつも私のことが嫌いならいいのに、鈍感だから気がついていないんですね。
 で、チラと視界の隅でそいつが来ていることに気づきます。必死で私に気づかないでと願い、もう一度チラと見ると、私の方をじーっと見ているんです。さっさと向こうへ行ってくれと願うと、何と、つかつかとこちらへ近づいて来るんです。だから、頼むから私に話しかけてこないで欲しい。そう切に思うと、私に話しかけてくるんです。
 悪夢です。
 死んだふりしようかと思いますよ。
 対人恐怖症で、パーティ嫌いと書きましたが、もう一つ、私自身の致命的な弱点に気がつきました。これも、対人恐怖症と関連があるかとは思うのですが。
 私の日常生活に関係しています。私が一日の中で言葉を交わすのは、家族を除いて多くても三、四人です。あとは、日がな部屋に籠って、ときどき独り言を漏らしながら原稿に向かうか、本を読んでいるか、です。つまり、一日に人と言葉を交わすのは三、四人。
 パーティで五人以上、それも日頃顔を合わせていない人と話をしなければならなくなると、精神的に自分が追い詰められていくのがわかります。私が不器用だということですね。だんだん心が疲労していく。そして私の容量を超えてしまうと、混乱が発生します。
 自分では必死に会話を受け応えしようとしているのですが、意味不明になってしまっていくのがわかります。それだけじゃない。滑舌も悪くなっていきます。
 これは、私の脳の熱暴走状態だと思います。オーバーヒートしているということですよね。回復するには、しばらく放置しておくしかないようです。
 それだけで終わるならいいのですが、翌日あたりから、悪い癖が起こります。
 パーティへ出席した自分を責めるのです。なぜ、あんなことを言ったんだ、とか、非常識だぞ、と自分を叱り始めるのです。
 そのあと、どんよりと自己嫌悪に。そして、パーティなんて、行かなきゃよかった、という後悔に。
 そんなわけで、パーティ恐怖症はいつまでも治りません。もし、誰かに引っ張り出されてオタオタしている私を見かけたら、生暖かく見守って頂ければと願う次第です。

第120回 カンメラのこと

「ワケのシンノス」を書いたときに、祖母から他にもいろんなことを教わっていたことを思い出しました。新鮮なハモをすり身にして生で美味しく食べる方法や、火鉢で作るさまざまなおかず。羽魚の刺身が残ったものや尾の身クジラを味醂醤油で焼いたり。おはじきやお手玉、綾取り、折り紙といったインドア系の遊びを全て習得できたのは祖母のおかげです。
 私は小学校に入る前まで、体が弱くて週のうちに五日は何らかの病気で床に臥せっておりました。
 家の中で出来ることといえば、本を読むか、祖母に遊びを教えてもらうかのどちらかです。インドア系の”女の子”の遊びを覚えるしかなかったのです。あっ、そう言えば、小学校に入る頃は花札を覚えて、祖母とやってました。花札といっても絵合わせですが、猪鹿蝶とか、桜月一杯で鉄砲とか、松桐坊主とか、言っていました。役もポイントも全て祖母から教わったのですね。
 小学校に入ると、おかげで学校を休まなくてすむくらいに体力が養われてきました。
 小学校時代の冬に、祖母が教えてくれたのがカンメラの作り方です。
 祖母は、おたまに白砂糖、赤砂糖、黒糖を入れて水に浸したものを火鉢の五徳の上に乗せました。その様子を、私はじっと見ておりました。いったい祖母が何を作り始めたのかよくわかりません。だんだんと水温が上昇して沸騰し始めます。それでも構わず棒でかき回し続けます。いつまでそうやるのかわからずにひたすら見守っていると、ある瞬間に祖母はおたまを火鉢から下ろして用意していた白い粉に棒を浸けると、それで真剣な表情でかき混ぜ始めました。
 どのくらいかき回したものか。突然、祖母はぴたっと動きを止め、おたまの中を凝視しました。そのときの仰天は幼な心にはっきりと焼き付いています。おたまの中の黒っぽい液体は焦茶色に変わり、それから奇跡のようにみるみる膨れ上がったのです。
「これがカンメラたい!」
 祖母は得意そうにおたまを熱して、”カンメラ”をはずし、私にくれました。口に含むと甘い歯ごたえが。美味しい……。砂糖とも違う。他のお菓子にも似ていない。
 ぼくもカンメラを作りたい。
 それから祖母に作り方を教わり私のカンメラ作りのスタートです。学校から帰ると火鉢の前でカンメラ作りを繰り返し繰り返し。
 祖母に作り方を教えてもらいマスターできたはずなのに、実に難しい。
 早すぎると膨れない。膨れたと思い喜んだ瞬間に陥没してしまう。遅れると真っ黒に焦げてしまいます。温度に関係しているのはわかるけれど、それだけでは条件の全てとは言えない。祖母が最後にカンメラを膨らませるために使う粉は重層だとわかったのですが、その量が少ないと膨れないし多すぎると苦い。
 カンメラ作りを成功させるというのは、さまざまな条件をクリアして初めて成し遂げられる神業だと知ったのでした。つまり、祖母こそが”神っ!”だったわけです。
 祖母と街に出かけたとき、祖母は金物屋に寄り、何やら買ってきました。銅の杓子のようなもの。まさか。
「これはカンメラ焼き器。正式のものだから、これで作りなさい」
 それから、材料も変わりました。キザラを使ったり、水の量を加減したり。祖母にコツを尋ねました「どうやればうまくカンメラが焼けるの?コツがあるの?」
 すると祖母の答えは「うまく作れると信じることだろうね。そんな気持ちが伝わったら、うまく作れる」
 何に伝わるのだろう?カンメラの神様に?不思議なことに、それから私はカンメラがうまく作れるようになったような気がします。本物のカンメラ焼き器を買ってもらえたからでしょうか?
 大人になってカンメラのことは忘れてしまいました。実はカルメ焼きというのが正式で、ポルトガル語のカラメルから来たのだということも知ったのですが、カンメラ焼き器は行方不明になり、祖母もいなくなってしまったのです。
 なぜか数年前から、このカンメラ焼きのことが突然思い出されるようになりました。が、金物屋を覗いてみても見つかりません。古道具屋を尋ねてみると「ああ、昔はありましたなあ」と懐かしいという返事ばかり。
 昭和の時代の霧の向うのことの出来事のようでした。
 ところが先日、雲仙の普賢岳登山の帰りに島原の古民家カフェに寄ったときのこと。
 このカフェは金物屋でもあるのです。それも郷愁の香り漂う品々が揃う。店の片隅にあったのです。カンメラ焼き器が。
 慌てて買い求めました。懐かしいなあ。
 そして孫の目の前で数十年ぶりにカンメラを焼いてみせました。キザラ糖と重層を使って。
 昔とった杵柄といいますか、カンメラは奇跡的にうまく焼けました。祖母の面影がよぎったほどです。
 孫は、カンメラ焼きにかなり感銘を受けたようで、私に”神を見た!”ようなのです。歴史は繰り返すのですね!
 あれから、時々、我が家に来て、カンメラ焼き器をアウトドア用バーナーに乗せ挑戦していますが、なかなかうまくできない。
 実は私も孫がいないとき、カンメラ作りを幾度かやってみましたが、どうしたものか、うまく出来ないのです。おかしいなあ。腕が鈍ったかな?
 さて、夏休みの終わりにカンメラ作りに挑戦していた孫に尋ねられました。「どうやったらうまくできるの?」もちろん私はそんなこと内緒で、こう答えました。「うまく作れると信じることだよ。その気持ちが伝わったらうまく作れる」とね。

第119回 好評なので不思議スポット

「数ヶ月前の祖母山の話。本当ですか?面白かったけれど、少し恐かった」と、このコラムを読んだ方から感想をいただききました。
 ありがとうございます。
 あれは、嘘っぱちのフィクションです。
 このコラムは自由に何でも書いていいということになっているので、時には、あんな小噺を書いたりしています。頭から信用したりしないようにお願いいたします。
 もちろん、その方には申し上げましたよ。あれは、でっち上げのフィクションですって。その方は、「あんな、ちょっと怖ぁーって話は大好きなんですよ。嘘だろうとホントだろうと構いませんから、あんなのをお願いします」と仰言られました。
 そのとき、ふと思い出したことをつい口にしてしまいました。「あのう。田原坂の不思議な話とか聞いたことありますか?」
 すると「田原坂って心霊スポットだって聞いたことはあるけれど、詳しくは知りません。カジオさんは、ご存知ですか?」
「いや、そんなに怖ぁーって話がお好きならと、ふと思いついて言ってみただけです。でも。あそこも色々聞くんですよね」 すると、「うわぁ、知りたいです」」と。 じゃあ、今回は私の耳に入ってきた田原坂のお話を書きましょう。
 田原坂は西南戦争のときの激戦の地です。明治十年に西郷隆盛が起こした士族の反乱で、官軍と薩軍の攻防戦の舞台です。熊本市北区になります。いかに激戦だったのかは、当時に作られた俗曲「田原坂」でもわかります。
ー雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
ー右手(めで)に血刀左手(ゆんで)に手綱、馬上ゆたかな美少年
 西南戦争の古戦場として国指定史跡になっているほどです。
 で、いつの頃からだろう。四十数年前からこの田原坂あたりで、不思議な出来事が起こるという噂を聞くようになりました。私は、臆病なので、田原坂に肝試しに行ってみようとは思わないのですが、話だけは集まってくるのです。
 最初に聞いたのは、こんな話。田原坂へ真夜中、興味半分で出かけた男女が、農道を走っていると前方で人の気配がする。それでブレーキを踏んだら、目の前に髪を振り乱した侍が現れ、道の真ん中で両手を広げたそうです。そんな馬鹿な?!と自分の目を疑っていると、侍姿の刀を手に持った男たちが目の前を横切って行った。最後の一人が横切ると、目の前の侍もいなくなっていた、と。帰ったら女性たちは高熱が出て、数日間起き上がれなかった、と。
 その話を聞いて興味を持った少年少女たちが、そんなの怖くないもんね、と、真夜中に田原坂に向かった。で、四、五人が自動車を止めて、田原坂の周辺を歩き回って肝試しをしたらしい。すると、地響きみたいに大勢が歩いているような音が聞こえたらしい。それで、皆が恐怖に駆られ逃げようとしたら、一人だけいない。辺りを捜すと、その若者は細い道でうずくまって掌を合わせていたんだって。慌てて皆で自動車まで引きずって戻ると猛スピードで逃げ帰ったそうな。失踪した若者に、「なんで、あんなとこにいたんだ?何をしてたんだ?」と尋ねても、本人は何をしていたのか、何を見たのか、記憶が全くなかったそうです。で、その若者はその後、何もなかったそうですが、車を運転していた男性は体調を崩してしまったらしい。皆の前に再び現れたときは、何があったかわかりませんが、話をしても半馬鹿状態になっていたとのこと。それを聞いた他の若者たちが肝試しに……と、話がリンクしていきますが、似たようなのが多く、省略。
 それから、当時、田原坂公園に電話ボックスがあったのですが、これにまつわる話も多かったなぁ。この電話ボックスは屋根に馬に乗った少年の像がある特殊なものでした。で、この電話ボックス、入るときは問題ないのに、出ようとするとドアが開かなくなる。あるいは、公園で何かの視線を感じて、振り返ると少年の像がじっと睨んでいる、と。
 そして、いつの間にか、電話ボックスは消えてしまったそうです。これは、別に霊的な理由からではなくて、携帯電話が普及して、利用されなくなったのでNTTが撤去したということだと思いますが。 集まってきた噂話が事実かどうか、確認のしようがありません。戦没者が一万四千名の激戦のあった所ですから、どんな都市伝説が発生しても不思議ではありません。むしろ、都市伝説の成り立ちがわかるサンプルになる場所のような気がします。これらは伝聞の伝聞でこちらに伝わってきたものがほとんどですが、直接、私の先輩が体験した話をご紹介しておきます。
 その先輩の話、「友人が電話してきて、誰にも相談しようがないから、と。じゃあ来い、というとやって来た。どうした?と尋ねたら、田原坂に行ったら憑かれた、と。どうあるんだ?と問うと(肩の方を指差し)ここらにドヨーンっといるんだ、と。憑いている、と。そんな馬鹿なこと!と思って、言ってやった。オイ。こいつに憑くくらいな俺に憑いてみろ!と。そしたら、肩の上から、どーんと次の週間憑かれた。友人は、わあ、ありがとう。おかげで軽くなった、と、さっさと帰ってしまった。その後、帰れとか、離れろとか頼んだけれど、効果はなくて、結局、専門の人に浄霊してもらった。除霊だと、すぐに寄ってくるから、浄霊でないといかん、と言われてね」
 この先輩は、霊とか非科学的なこととか、全く縁がない硬派なので、すごく記憶に焼き付いています。田原坂の謎も案外根が深いかもしれません。

第118回 ワケノシンノス

 前にゴホンガゼを食べた話をご紹介したのですが、けっこう興味を持っていただいたようです。お会いする方から「食べてみたいと思いましたよ」「次の食べに行くときは誘ってください」「お取り寄せはできないのでしょうか?」等尋ねられたものです。季節が決まってるし、日持ちしませんからお取り寄せはできないでしょう。残念です。
 で、思ったこと。
 私の読者の方はいやしんぼで喰い意地の張った人が多いんだなあ、と。もとい!私の読者の方はグルメの方が多いんだなあ。好奇心の強い美食の方が。
 てっきり忘れていたのですが、「梶尾さんはヒトデだけじゃなくて、イソギンチャクも食べるんですね」と言われました。はい、はい、はい。幼い頃からイソギンチャクは食べていますよ。
「どうやって食べるんですか?どんな味ですか?」
 では、今回は、イソギンチャクグルメをご紹介しましょう。
 私のお祖母さんは十九世紀の最後の年に生まれた明治女なのですが、それはそれはグルメでありました。幼稚園に入る前はお祖母さんに連れられて近くの八百屋や魚屋に行ったものです。魚を買うと自分で捌いていましたね。身は刺身。ワタや骨は煮付け、あら炊き。お頭は吸い物。もう何も捨てるところがないように利用していました。あの凶暴そうなハモも、身を骨切りして湯引き、あと半分の身を摺り鉢でペースト状にして、それに、味醂、塩を加えたものを梅干し醤油で食べていました。あんな珍味は、もう食べられないかなあ。その摺身が残ったら、箸に巻いて火鉢の炭で焼きながらいただくという贅沢も経験しました。
 正月明けの頃だと思います。お祖母さんに連れられて魚屋へ。とにかく指先まで感覚が無くなるほどの寒さでした。店頭の金だらいの中にわけのわからないヌルヌルした丸いものが入れられていたのです。いったい何なのだろう?私が興味を持っているとわかったのか、お祖母さんはそれを買い求めました。
 その夜の味噌汁にはネギとコリコリしたわからないものが入っていました。ひょっとしたら!
「これは魚屋で買ったやつ?」
「そうだよ。うまいだろう。中はカニ味噌みたいで」
 確かに、体験したことのない味でした。魚ともエビカニとも違う。お祖母さんは教えてくれました。
「これはワギャーたい」
「ワギャー?」
 不思議な響きの食べ物だなあ。いや生き物か。すると、お祖母さんは解説してくれました。「海水浴に行ったら海の中で花みたいにひらひらしているのがいるだろう。それがワギャー。イソギンチャクともいうなあ」イソギンチャクなら私も知っていました。
「でも、丸くて小さかった。イソギンチャクの形じゃなかった」
「海の中ではイソギンチャクの花が開いた形だけれど、触ったり刺激したりすると丸く縮んでしまうんだ。そう。ワケノシンノスという人もいるなあ。ワギャーのことを」
「それなあに」と尋ねるとお祖母さんは嬉しそうに声を上げて笑うのでした。
 イソギンチャクを使って作ってもらったものは、味噌炒めと唐揚げ。どちらも美味しい。クセのない旨味があるのです。
 翌年の冬にイソギンチャクの調理法を台所でじっと見て覚えました。とにかく砂を吐かせるために縦割りしてよく洗え!でした。
 しばらくして、イソギンチャクは我が家の食卓に並ばなくなりました。
「どうしてイソギンチャクの味噌汁を作らないの?」理由は、魚屋に入って来ないからでした。
 成長してから、イソギンチャクの味噌汁の話をすると皆が、びっくりします。「えっ?イソギンチャクって喰えるの?」どうも、我が家だけの食文化だった気がしはじめました。もう、あの味は食べられないのだろうか?手が凍るほどの寒い季節が来ると思い出すのです。ワギャーのことを。
 高校時代の友人から「玉名地区の市場に、イソギンチャクのワケノシンノスが出てたって」と情報があり、ときめきました。しかし、そのときは話はそのままになってしまいました。
 そしてイソギンチャクとは、とんでもない場所で会うことになります。
 柳川へ出かけたときのこと。
 柳川下りをしていて、ウナギを食べようと船を降りました。すると目の前に魚屋が数件。並んでいるのは有明海の珍海産物。エイリアンみたいな牙のあるワラスボという魚。メカジャ(シャミセンガイ)、そしてイソギンチャクが……。
 ワケノシンノスと書いてある。早速買い求めましたが、けっこう高い。記憶ではもっと小さかったよね。お店の方に尋ねると、「寒い時期は小さくて美味しい」とのこと。どんなイソギンチャクでもいいわけでなく、イシワケイソギンチャクという種類だけを食べるのだそうです。
 そのとき、同時になぜイソギンチャクがワケノシンノスと呼ばれ、お祖母さんが嬉しそうに笑ったのか、理由を知りました。
 ワケノシンノスは若者の尻の肛門という意味だったのです。なるほど似ている。
 自分で調理しました。懐かしかったなあ。これがソウルフードなんだろうな。
 ちなみにイソギンチャクは、柳川からネット通販で買えますよ。食べたいなと思った方のために!