「ただいま~」
ドアが開きハク夫が入ってくる。
「お帰んなさい。パパ、買ってきてくれた?」
迎えに出た妻のタケ子が言った。
「ああ、節分用の豆と鬼の面だよ」
「早く豆撒きやろうよ」と息子のシロ夫がはしゃぐ。するとハク夫の後ろに見知らぬ老人がいた。痩せて白い髭が生えている。
「あら。あなたお客さんを連れてきたの?」
老人は履物を脱ぎ、づかづかと上がりこむ。
「こほん。失礼する。私は節分道指南をやっておるもの。こちらの主人を商店街でお見かけしてのう。どうも節分の用意をしておられるご様子。これは捨て置けぬと、無理を言ってご一緒させて頂きました。私がぜひ正しい節分豆まき作法を伝授いたします。節分道の真髄を指南させてくだされ」
タケ子が呆れてハク夫を見ると「お断りしたが無理についてこられた」と肩をすくめた。
「じゃあ、急いで豆撒きしてお引き取り頂きましょう」とタケ子。
「もちろんですとも。正しい豆撒きを伝授したら、すぐに引きあげます。まだたくさんのご家庭が私の指導を待っておられるから」と、老人。コートを脱ぐと中からカミシモ姿が現れた。
「これが正装でしてな。いや、皆さまにここまでは要求しません。さて、豆を枡に入れなされ。なぜ豆を撒くか解るかの?魔を滅する!これが縮んで豆になったのじゃ」
老人が枡を出す。息子のシロ夫が、買ってきた殻入りピーナッツを出すと、老人は大きく目を剥いた。
「豆撒きに落花生とな。これは地下に出る実じゃ。豆じゃない」
「しかし、これしかないのです。撒いても剥いて食べられるから汚くないし」
情けないという様子で老人は首を振る。
「仕方ない。さあ、撒きましょうぞ」
ハク夫が鬼の面をかぶろうとすると、「何をなさる」と老人。
「はい。鬼の役ですから、面をかぶり逃げ回ります」
「邪気を払うが豆撒きの真髄。一家の家長が邪気を演じれば、鬼は喜ぶばかり。ご主人が豆を撒きなされ。鬼役は、お子や奥さんがなさればよろし。さあ、皆、鬼の面をかぶって」
仕方なくタケ子とシロ夫は鬼の面をつける。
老人は玄関の扉を大きく開け放つ。寒気が室内に流れ込む。寒いよぉ、とシロオが震えあがった。
「何をするんです」
「節分は立春の前日です。立春とは二十四節で一番寒い頃。これから寒さが反転して日々暖かくなっていくのです。邪気すなわち鬼がそこを狙って入ってくる。寒いのは、当然。邪気を追い出すのは玄関からと決まっておる。ましてや子どもは風の子です。心配はいらん。そして家の中に福を呼び寄せねばならん」
そう言って奥の部屋まで扉を開け放つと、寒風が玄関から吹き抜けていく。
「さあ、ご主人。豆を撒かれよ。掛け声は腹の底から、邪気を退散させる気持ちを込めて。あいや、鬼は外~と」
「鬼は外~」
「だめ、だめ、声に精気がありませんぞ。それじゃ、邪気を呼び寄せとる。そして、豆を放つ腕の位置。それでは邪気がヘラヘラ笑いをするでしょうぞ。言力を込めて唱え、豆を集中して放つ。それでこそ邪気にダメージを与える。この家にはおられない!そう邪気に思わせる気迫で。腕は水平に突き出すように。よろしいですか」
「は、はい」
「福を呼び込むときは愛しさを込めて。福の神は恥ずかしがり屋です。身をくねらせ、迷いつつ入ってくる。笑顔で優しく迎えるのです。その役は奥さんがよろしいかと」
「いえ、家内はそんな繊細なものではないので、鬼のほうが適役かと」
「あなた!!!何言っとるんじゃい」
「ほら、ほら、ほら」
「むう。では奥さんもお子さんも鬼の役で。福な役は、なしと」
「いそいでやりましょう」
「続けなされ」
「鬼は外~、鬼は外~」
「寒いよー、パパ、痛いよ」
「もう、いい加減にして。いつまでこんな訳のわからん爺ぃの言うことを聞いてるの?シロ夫が風邪をひいたらどうするの」
ついに怒り心頭に達したタケ子が老人の首根っこを掴んで外へ放り出す。
息子のシロ夫が老人に豆を投げつけて「鬼!」
タケ子も枡を投げつけて「鬼!」
老人は感極まったように「そう。その迫力ですぞ。極意をご家族掴まれましたぁ!」
ハク夫はオロオロするばかり。
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第146回 年男のモノローグ
私のことを知りたいのかい?もの好きだね。
仕事かい?”年男”ってやつをやってるんだが。
同僚は私の他に十一人いて、大昔からこの職に就いているんだ。といっても別に働いているわけではない。当番制だ。自分の番が廻ってきたときだけやればいいから気楽なものだ。
あ。ありがとう。飲まないんだ。
ふだんは、人間社会に紛れ込んでいる。人の姿に見えたり、姿そのものが周りから見えてなかったりと色々だ。姿が見えていても、あまり目立たないかもしれない。公園や家のベンチに座っているとあまり平凡すぎて誰も私に注意を向けることはない。
そんなとき何をしているかというと、まあ、何もやることがないからぼんやりしている。たまに気がつく人がいても、どこかのホームレスが世の中を悲観してしょげているんだろう。まあ、自分には関係ないことだと、そそくさ立ち去ってしまうのがオチだ。
実は、それが、”年男”の私。
ぼんやり見える私だが、同僚の仕事ぶりはうまくやっているか注意深く観察させてもらっている。しかしよく私のこと気がついたね。
私はトリ年の”年男”。
年男は当番の年になると大忙しだ。その年の正月は目がまわる程だ。年男がその一年の世の中のイメージを決定づけるのだから。
ネズミ年の年男は、子孫繁栄のイメージを世の中に撒き散らす。繁殖率が高いことで、そんな連想が働くのだろうね。ちょこまかと動くので行動力を示しているようでもあるし。
ウサギ年の年男は、見るからに優しそうだが、声をかけると言う言葉も穏やかだ。この男の担当年はそういう風に何事もなく過ぎていくのだろうなと思えたのだが、臆病な面は海外からわかるらしい。ウサギが優しいムードをつくろうとしている年は、海外が挑発してくることもよくわかるよ。
よくしたもので、翌年の年男はタツが引き受ける。タツになると、国には国防に積極的なムードが広がっていくからね。
だからといって、その年の年男のイメージで完全に一年の流れが決定づけられるということではないよ。ムードには染まるものの、気象条件や地殻条件で大きな変化が生じることだってある。
サル年だった去年がそうだ。サル年はシンボルカラーの赤ですべての運気を上向かせるということだったろう?確かに、そのような年明けで経済的に世の中は上向いていくムードに包まれていた。
だが、各地の天変地異までは予測がつかなかったはずだ。
サル年の年男は、「まあ、俺なりに盛り上げたつもりでいるよ。ただ、俺たちが世の中を動かしているわけじゃないからな。俺たち年男の役割ってムードメーカーなんだ、と思うよ。囃し立て屋というか。宮廷のハーレクインのようなものだよ」
そうかもしれない、と私も思ってるさ。
あくまで、年男の役割は人々の前に姿を表すことではない。世の中の人々は私のような年男のアバターの獣をイメージして一年を過ごすことになる。
実際の年男は、私みたいに冴えない貧相な中年男の姿をしているのだが、人々は年賀状に私たちの毎年のアバターを喜んで載せている。
もうわかるだろう。年男がどんな働きをするのかは。
今年も年明けと同時にすべての神社仏閣を駆け巡った。すべてのテレビやネット画面の中で目にも留まらぬ速さで動き回った。
そのような動きから連想するに、私に一番近いのはサンタクロースかもしれないな、と思ったりする。人々はサンタクロースを見たこともないのにイメージを作り上げている。いるのかいないのか?でも確かに幼い子供たちにとって、サンタクロースは存在してその役割を果たしているのさ。
年男の私もそんなものだろうと自分に言い聞かせている。
おっと、隣の席に座った縁だけで十分だ。
盃は気持ちだけ頂くよ。酒はご法度なんだ。
昔はよく飲んだよ。トリ年って酒年と書いていた程だからな。おかげで非番の年に飲んだくれて自分の番が巡ってきたとき、年男の役が果たせない泥酔状態だったというわけだ。
私の上司は怒りまくってな、私に禁酒命令を出しやがった。
で、それまでトリ年は酒年と書いていたのを、サンズイヘンを取り上げて、酉年にしちまった。
だから酉年は酒に縁のない、早起きの規則正しいイメージになってしまったというわけ。
少しはトリ年の年男の私のことをわかってもらえただろうか。
隣は水ばかり飲むやつだと不思議に思っただろうな。いや、どうでもいいよ。そんな冴えない親父がいたことを時々思い出してくれればね。おやおや注意して帰んなよ。あんたこそ酒年にふさわしい、立派な千鳥足になっているじゃないか。
第145回 復興城主になりました
さて、熊本地震から半年が過ぎました。夢を見たような気もしますが、解体されて更地になった我が家跡に立つと、夢じゃないよ、現実だったんだよ、と思い知らされます。
二回の震度七という烈震に見舞われた後は、しばらくアドレナリンの分泌が凄くて震災躁病状態が続きました。異様に早く依頼原稿を上げたり、変貌した街の様子を見に足が棒になるまで彷徨したり。
いやぁ、これほど様子が変わるとは。倒壊した家屋が道を塞いで通行不可能になっていたり。橋の外れてしまった川に、自動車が落ちないように黄色のテープが張り巡らされていたり。大渋滞の自動車の列を横目で見ながら歩きまわりました。歩いていても、道路が盛り上がっているのがわかるほどでしたからねぇ。
最初の地震のときは、なんとか頑張ろうと自分に言い聞かせて、しゃかりきになって作業に励んだのですが、二度目の地震で心が折れました。
もう、熊本は駄目かもしれない。本当、そう思いました。
そして足を向けたのが熊本城。
やはり、熊本城直下の商業施設、城彩苑(じょうさいえん)から上は入れませんでした。方々で石垣が崩壊しているのがわかりました。よもや……。
熊本城が見えました。満身創痍。
屋根瓦が落ち、土埃をまだ舞わせてはいるものの、熊本城はなんとか立っていました。
よかった。
心から、そう思ったものです。
熊本は、まだ、いける。
熊本城から、そんなメッセージを貰ったような気がしました。
もちろん、今だに城内には入れませんし、城の周囲を歩けば、崩落した石垣の山を方々に見ることができます。
熊本城が元通りの姿を取り戻せば、真に熊本が復興したと心から思える。皆が、そう思ったはずです。
そして、半年が経過した十一月一日から、熊本城の復興城主制度がスタートしました。これまでも、熊本城一口城主制度はあったのですが、今回は熊本城の再建に絞り込まれています。一人一口一万円以上。
もちろん、私は大喜び。
別にどんな特典があるというわけではありません。城主手形と熊本城ブックレットがもらえるくらいのことです。あ、それから書いてはありませんが、熊本城再建という「希望」を貰えます。
朝九時から城彩苑の湧々座にて受付するということで、初日に、朝から出かけました。九時前に到着というイメージで。ところが……仰天しました。九時前なのにもう数十人の列が出来ていました。九時五分にはもう手続きを終えて仕事場へ戻れると思っていたのに、大きな誤算です。なかなか列は進まない。テレビカメラが来ていて隠れるのに苦労しました。
待っている時間が長くなり、前後の人たちと世間話が始まりました。その話題は、「自分はあの時」という「我が家の被災自慢」。二度目の揺れのときに夫婦喧嘩をしていたのが、おかげで仲直りできたとか、揺れで土間まで飛ばされたとか、倒れてきた箪笥が、身を伏せた眼の前の壁で止まって潰されずに済んだ。もう、そんな話ばかり。我が家のぐうたら娘が避難所でテキパキ皆のために動いていて感動した、といった心温まるエピソードまで。水が不足して、インスタントラーメンをポリポリ齧ったとか、皆で笑いながら。おもしろおかしく。これが今の見知らぬ熊本人同士の話題なんだなあ。
みなさん、我が家が被災してのっぴきならない状況なのに、熊本城の復興城主にならんと我先に寄付の列に並ぶ。
熊本の新しいもの好きを「わさもん」といいます。わさもん、そして熊本城好きは熊本人の気質なのかなあ。あ、私も同じか。そんな熊本の人たち、私は大好きですよ。
と、振り返ると列はぐんぐん伸びて長蛇に。係の人に尋ねたら、なんと四百人は並んでいたとのこと。凄いぜ!
熊本城は、熊本のランドマークだ!と私は思っています。熊本城が復旧したときに、熊本が復興を完全に果たせたと実感できるだろうな、と思っています。
それが何年後になろうとも、必ず復元されて素晴らしい勇姿を取り戻すと信じつつ。
第144回 ポケモンGOで行こう
熊本地震復興シリーズ。今回は書くことはありません。わが家の解体が終わり地鎮祭も終了。猫たちと裏の借家で新居完成まで仮住まい。まあ、エピソードが諸々たまりましたら、次回書くことにしましょう。
それで、今回は目下の私の嵌まりものについて書きましょう。
今、ポケモンGOに入れ込んでいます。
ポケモンはポケットモンスターの略で子供向けのアニメ。正直、私はこのアニメには何の興味もありません。ピカチュウなるポケモンが人気があるなという程度の認識でした。
ある日、海外のトピックでポケモンGOなる携帯ゲームが発表され大評判になっていることが紹介されていました。大人たちがスマホを手に街中をうろつきまわる様子をテレビで見て、異様な感じを受けました。どうも画面の中には現実の風景とともに日本アニメのキャラクターがいるようなのです。
頭の中をいくつもの「?」が行列しました。
スマホゲームだろう?大の大人が揃いも揃って何をやっているんだ。嘆かわしい。
そのポケモンGOは海外で先に配信されたのですが、やがて日本でもスタートすることになりました。当然国内のフィーバーぶりもニュースになりました。スマホを覗き込んでいる大人たちが、一斉に同方向へ走り出す様は集団催眠のようでした。もう日本は終わりかな、と思いました。世も末だと。
そんなことは自分には無縁な話だと思っていたのですが。
山の仲間が登山口でポケモンGOをやり始めたときは、驚いて顎が外れるかと思いましたよ。スマホ握って「おっつ。新しいポケモンがいる!」と探し回る姿を見て、思いました。ポケモンどころか、こいつらは呆けもんだ!と。まさか、彼らまで汚染されるとは。わしは絶対にやらないぞ!心に決めました。
すると、東京から来た編集さんまで。
「やり始めたばかりですが、今、レベル3です。編集長はレベル7になったと言ってました。社内でもポケモン捕まえますよ」
私は、毎朝5時に起きて近くの花岡山という里山の頂上まで散歩します。そして、いつものように花岡山へ出かけたある朝のこと。
魔が差しました。ポケモンGOのアプリをインストールしてしまったのです。
画面の中で、私はポケモントレーナーになり、百数十種類に及ぶポケモンたちをコレクションする任務を与えられたのです。ゲームの中で、私は短パン金髪のうら若い女性となりました。町にポケストップという場所があり画面に表示されるので、そこでポケモン狩りに必要なボールや、ポケモンを逃しにくくする木の実、ポケモンの傷を癒やすキズぐすりを集めて準備を整えます。歩いていると近くにポケモンがいることをスマホが教えてくれるので、周辺を探し回らねばなりません。見たことのないポケモンは「近くにいるポケモン」欄にシルエットで表示されます。
ポケモンGOを始めた日の朝の散歩の歩数は1万歩を突破しました。いつもは6千歩くらいなのに。新たなポケモンを図鑑に入れると嬉しくてたまりません。
嵌まりました。
世の中では「もうポケモンGO飽きちゃいましたよ」という人続出ですが、私は病膏肓です。新たなポケモンを探して1日何キロもうろつきまわります。あまりに歩きすぎて夜中に足が攣る始末。
ポケモンを捕獲するボールをゲットするためにポケストップ巡りも欠かせません。このポケストップの場所も規則性があるのかないのか。お地蔵さんやらモニュメントやら看板やら。「こちらの部屋はポケストップみたいなんで失礼します」と、私の仕事場にスマホを手にした若い女性が次々に訪ねてくるという妄想まで。
近場では同じようなポケモンしかいないのでツイッターで検索する。すると、どこそこがポケモンの巣だ!いろいろ出るぞというつぶやきが。じっとしておれず、噂の公園や港へと出かけます。噂になるスポットだけあって、スマホを持ってうろついている人の多いこと。性別も年齢層もばらばら。そういえば、ポケモン呼び寄せ効果があるモジュールというアイテムをポケストップに仕掛けると、ポケモンよりもスマホを持ったむさ苦しいオヤジたちがワラワラと集まってきて、気色の悪い思いをしましたよ。
私のような年齢のものがやっていると、同類と思うわれるのかな?熊本港ではジャージ姿の無精髭男に「ラプラス出ますよ」と話しかけられました。嬉しいのか、やたら話しかけてくる。聞けば熊本市の反対側の公園と港の間を、毎日歩いてて往復している、と。無職ですか?食っていけるんですか?とは、とても聞けません。でも、風体の怪しいプレーヤーが多いなあ。
ツイッターでポケモンに関するつぶやきが増えたから、私の周辺の皆さんの話題にも出ますね。先日、長崎県立大で学術講演会をやりましたが、担当の教授さんから「キャンパスのポケストップによくカモネギが出るんですよ」と画面を見せられました。タハハ。
図鑑は110種類埋まりましたが、末永くやっていくつもりです。完璧な図鑑になるまで。
子供の頃から昆虫採集やキノコ採り、山菜採りが大好きだったから、その延長ですかね。
いや、男の子の心を持ったまま成長した人だったら、誰も没頭してしまう要素があると思いますよ。
歩きスマホだけは注意して。
第143回 震災ハイが鎮まって
震災直後に出たパワーは何だったのでしょう。あのような状態を、どうも震災ハイと呼ぶようです。とにかく、こんなときにへこたれてはいけないと、水を求め物資を探して駆けまわったことを思い出すと、まるで嘘のような気さえする今日この頃です。
ほとんど眠らずに片付けをやり、仕事場で書きまくりました。水か使えるようになってシャワーを浴びたとき、身体の方々に青あざができていたのに気づき、なぜこれで痛みを感じなかっただろうと不思議でした。
ハードボイルド小説を読んでいて、やたら血走った人物が出てくると、アドレナリンが匂うような気がする!と表現されたりします。どうも、震災当時の私もアドレナリンの分泌が増えていたようです。ほら、『アドレナリン』という映画があったではありませんか。アドレナリンを抑制して死に至らしめる毒を盛られた主人公のジェイソン・ステイサムは、助かるために興奮状態になって体内にアドレナリンを出しまくらなくてはならなくなるって話。
あれですよ。
アドレナリンは副腎皮質から分泌されるんですが、ストレスに晒されたときに出る。たとえば、戦争時とか、凄まじい恐怖に遭った時とか。もちろん、命の危険を感じる震災とかは、アドレナリンが出るには理想的な状況。
アドレナリンの影響を受けると、のべつ覚醒している状態で、瞳孔は開きっぱなし。戦場では大怪我をしても痛みをあまり感じなかったりするのもアドレナリン効果。火事場の馬鹿力もそう。瞬間的にふつうではとても持てない重いものが抱えられたりとか。火事場のアドレナリンですね。副作用としては消化管運動低下がありますが、これも思い当たります。4月24日の深夜のこと。熊本地震からちょうど一週間過ぎたくらいかな。突然きりきりと胃が痛み始めたのです。もう何とも辛抱たまらん状態で、どの病院に行くんのがいいか迷って、地域医療センターの救急外来に飛び込みました。それが午前3時。地震の後、まだ救急外来は対応していないと受付で言われたのですが、悶絶状態で苦しんでいるのを見かねて、救急外来の担当ではないお医者さんが診てくれたのです。
「胃癌か十二指腸癌ではないでしょうか?」
「とりあえず薬を出しておきます。家の被害はどうでしたか?」
「壊れています。娘の住まいで暮らしています」
「そうですか。痛みはそのストレスからかもしれません」
つまり、アドレナリンの典型的な効果が私に現れたようです。
震災から日が経つにつれて、あれほど復旧作業の合間に書けていた原稿の量が下がっていきました。それに比例して胃の痛みも鎮まっているのですが。
今は我が家は解体寸前で、しゃかりきに後片付けをやってるつもりです。
ゴミを分別し、運び出し、再利用できるものはそのように。
新居の建設中に仮住まいするところにも生活のための荷物を毎日、蟻さんのように運ばなければなりません。そこで不思議なこと。
なぜでしょう。
午前中4~5時間荷運びをすると、全く身体が動かなくなるのです。
午後は仕事をしなくては、と心の焦りはあるのですが、だめだなあ、ちっとも字数がこなせない。
震災ハイ効果がなくなったのでしょうか?
このように心理的、肉体的に、思いもかけなぬ影響を震災は与えたようです。
他にもいろいろな影響を聞きました。
本震直後に私たちは自家用車の中で寝泊まりしたのですが、同じ姿勢で長時間過ごし、足の血管の詰まりからエコノミー症候群になってしまった人も。おかげさまで私たちの車内生活は短期間だったので、あまり影響はありませんでした。
後々に知ったことですが、震災後は認知症が進行するということがわかったそうです。
急激な環境の変化。地震のときのショック。いろんな要素が絡み合ってのことのようでした。
私の母も百歳近くで、今はケアハウスにお世話になっています。母がいるのは仕事場の近くなので、ほぼ毎日、休み時間を取って会いに行くようにしています。ですから、その震災後の認知症進行の報道を見た日は、いつもより注意深く観察しました。
「調子はどう?」と尋ねると、母は言いました。
「最近は餡ものを食べてないから、食べたいよ」と。ほう、これだけはっきりしていれば、認知症は大丈夫かな。
「この間、伊勢から赤福買ってきてあげたでしょう」と言うと、母はすかさず「そうだったかなあ。歳とってボケたから、よう覚えとらん」と。
うん、うん。大丈夫。
第142回 年金生活者、家を建てる
まだ、我が家は解体に至っておりません。解体業者さんの順番がまわってこないもので。
仕事場の近くに駐車場を借りているのですが、その駐車場に附属の建物がありまして。地震の後は「ヤバいよ!これぇ」状態になり、近々取り壊しますの貼紙があったのですが、なかなか取り壊し作業が始まりません。やっと7月末から解体が始まったほど。事情を訊ねると、解体件数が多すぎて、なかなか順番が回ってこなかったと。
熊本市の状況はどこも似たようなものです。
地震後、市内のビルは方々で表面に足場が組まれ、カバーで覆われています。蛹が孵化する前の状態のように見えるので、私はこんなビルを繭ビルと呼んでいます。繭ビルが孵化したときが復興したときかな、というイメージでおりました。
それが、ちっとも減らない。
我が家までなかなか順番回ってこないはずだなあ。
中央のマスコミではあまり熊本地震について触れられなくなりましたが、実は復興はあまり進んでいないのですよね。ある一定の比率で、復興を目指していたお店が閉店の結論に至ったことを知って哀しい思いをしたりしています。かなり努力された挙句、諦められたと知ると残念でなりません。
公園に行ってもわかります。仕事場近くの公園は自動車の駐車が禁じられているのですが、自動車がびっしり。車中泊をしておられるのですね。「半壊ですが、人が生活できる家ではもうありません。半壊と大規模半壊で扱いがなぜこうも違うのでしょう」と、支援の格差を嘆いておられました。そこいらは、他でも感じています。避難所で他の避難者のプライバシーのことや気遣いでノイローゼになりそうだという話はたくさん聞きました。だからといって、自宅の軒先にビニールシートで生活空間を作って過ごしておられる方が良いのかいうと、そうではありません。避難所暮らしの方は、避難者リストに名前があるので支援物資の配給が受けらますが、自宅軒先避難ではリストに名前がないので全く物資に縁がない、ということになります。
地震直後は”少し傾いているな”程度に見えた家屋も、大雨のためか余震による衝撃の蓄積のためか、”うわぁ、もう倒れそうだよ”となっている場面も。
我が家は高台にあるのですが、住宅会社の方は、解体のための重機が家に近づくときに「崩れた石垣が道を阻んでいて近寄れません。道を通してもらうか、小さな重機で少しずつ解体するかですね」とおっしゃる。
公的なところに道を通して欲しいとお願いしたのですが、今だに崩れた石垣のところは片道に「通行止め」の立て看板が立っていますから。どっちにしても、解体遅れの事情はいろんなことが輻輳しての結果ですね。
今年の地震の結果は年内にリセットして、新しい年には、新しい家で家族揃って迎えることになればいいなあ、とぼんやり思っていましたが、この様子で行けば、まだ完成までに二転三転ありそうです。今は、来年の節分は新しい家で「鬼は外、福は内」とやれることを願っています。
震災の後の仕事量を振り返ると、よくあれだけこなしたものだと自分でも感心します。その勢いが、今、猛スピードで低下しつつあります。
きっと、震災などのデザスター状況には人間を躁状態に持ち込む何かがあるのかもしれません。
“震災ハイ”というべきか。
きっと脳内に天然の覚せい剤のようなものが分泌されていたのではないでしょうか。
だから、震災直後は、さまざまな決断が震災ハイの状態でなされたのではありますまいか。
半壊ながら、とても住めない我が家ですが、これを何とか修理して住もうではなくて、二階の傾きや、大黒柱に走った無数の亀裂を見て、もう新築しちゃう!と即断したのは、震災ハイの心理状態以外の何ものでもないでしょうなあ。
建築工事契約書を交わして、今、眺めると、はあ!と溜息が出ます。
昔からの言い伝えで、こんなのがあります。
一日だけ幸福になりたいなら髪を切りなさい。
一週間だけ幸福になりたいなら結婚しなさい。
一年間幸福になりたいなら家を建てなさい。
新しい家を建てても、幸福なのは一年ということですか。
仕事を減らして、ぼちぼち余生を過ごそうか、と考えていたのですが、どうもそういう訳にはいかなくなったなあ。天はまだ、私をゆっくりさせてはくれないようです。まだまだ働かなくてはいけません。よろしくお願いします。
あ、ちなみに、さっきの続き。
一生幸せになりたかったら釣りを覚えなさい、と続くのでした。
私は、山歩きとキノコ採りで十分幸せです。
第141回 まだまだ復興中!
まだまだ、まともな生活が送れない日々が続いています。そして、皆さまの励まし、ありがとうございます。先ず、御礼を申し上げて、それから、ご報告も。
このたび「怨讐星域」が、2016年度の星雲賞(日本長編部門)をいただくことができました。うれしいです。星雲賞はSFファンが選ぶ賞。批評家などではなくファンの皆さんに投票していただいた、支持された、ということが何よりうれしい。
ありがとうございました。
星雲賞は短編部門では何度かいただいているのですが、長編は初めて。うれしさひとしおであります。
ふと思い出しました。
実は1991年に熊本を台風19号が襲いました。ボウリングであればまさに、ストライクコース。しかも最大瞬間風速が50メートルを超えました。わが家は半壊。まるで、雨月物語の幽霊が出る廃屋のようになりました。忘れもしません。唖然としていた私のところに、「サラマンダー殲滅」で日本SF大賞が決まった旨の連絡が入ったのでした。
そして、今年。熊本地震で半壊したわが家で受けた、星雲賞長編部門受賞の連絡。
世の中には、不思議なバランスがあるのだろうかと思いました。天災に見舞われるたびに賞をいただくという、奇妙さ。
偶然でしょうか?
そう考えると、阿蘇山がカルデラ噴火して熊本市が溶岩に飲み込まれたら、私はノーベル文学賞をいただけるような気がしてなりません。
ま、それが、ご報告でした。
で、被災後の私にどんなことが起こったのかを記憶の糸を辿りつつ書いておこうと思います。
いろんな義援の品をいただきました。当初、いちばんありがたかったのは、ペットボトルのミネラルウォーターでした。生活水も必要ですが、米を炊くにも、ラーメンを作るにも、とにかくペットボトルの水。何が必要ですかと尋ねられたときには「水を送ってください」とお願いしていましたね。
で、渋滞に捕まらないように温泉に朝早くでかけたとき、体重計に乗ってびっくりしました。
さぞや痩せたかな、と思ったら体重が増えていたのです。なぜ?その頃、やっとコンビニが営業を始めていたのですが、ほしい食料はすぐに売り切れてしまいます。やっと手に入ったもの、送っていただいたものを食べて空腹をしのいでいたのですが、わかりました。パックに入ったご飯。インスタントうどん。インスタントラーメン。炊き出しのお握り。
みんな炭水化物じゃないか。炭水化物ばかり食べていたら、そりゃあ、肥るはずだよなあ、と納得。
半壊のわが家を建て替えるのに、まずとにかく被災して使えなくなった家財を捨てねばなりません。屋根から落ちて割れた瓦、部屋中に散乱した土壁、壊れた家具や電化製品。それらを、とりあえず庭に出してゴミ捨て場へ運ぶ。ほんとうは熊本市には決まったゴミだし日があるのですが、この頃だけは被災ゴミならいつでもゴミ置き場においていいということになりました。
それで、わが家のゴミをゴミ置き場に持ち込みます。で、日を追うごとにゴミ置き場は大変なことに。ゴミはどんどん増殖していきます。しかし、わが家界隈にはまったくゴミ収集車がやって来ない。ゴミ置き場は道路沿いですが、ゴミが溢れかえり、自動車が1台やっと通れるかどうかという道路事情に。そして、わが家の石塀沿いはゴミ置き場ではないのですが、どこかの誰かがそこにゴミを置いた途端に、ゴミで溢れかえってしまいました。つまり、わが家から四方八方がゴミだらけ。ゴミの量が多すぎて、処理場がパンク、処理施設そのものが被災と、踏んだり蹴ったり状態。途中にゴミは出すなという迷彩時期までありました。町内会長さんですかね、ボール紙に赤いフェルトペンで「ゴミ捨て禁止」と書いて掲示。誰も守らず「お願い。ゴミは出さないでください」と懇願の文面。それも効果なく「ゴミは出すな!」と怒りに変わる。悲痛さが伝わってきたのもです。
今、考えれば、まるで嘘のように思えます。しかし、あの時点ではゴミは今年中に消えないのではないか。そんなイメージさえありました。
避難所ぐらしをせずに済んだのが幸いといえば幸いです。その壮絶さは、友人から体験を聞かされてぞっとしたものです。それはそうでしょう。いろんな年齢の、いろんな立場の人がひとつ屋根の下で、最初は仕切りなく過ごしていたのですから。とんでもないストレスだったろうと思いますよ。私だったら耐え切れず、車上生活をしていただろうなあ。
さあ、そんなことを言っても始まらない。役所に行き、罹災証明をとり、それから半壊のわが家の再建に入ります。このエッセイが読まれるのは、解体が始まった時期ですね。
第140回 ただいま復興中!
早いものです。
震災が4月中旬でしたから、もう2ヶ月以上経過したのですね。
震災から数日のことを思い出そうとすると、あれは夢だったのではないかという想いになるほどです。
わが家の塀は崩れ、土壁は落ち、柱には亀裂が走り、家屋そのものが歪んだままです。そっと廊下にパチンコ玉を置いてもコロコロ転がり去ってしまします。もう、この家に住むのは無理か、と思いました。
一応、念の為に業者の方に元の状態に復元できるかどうか見積もりをお願いしました。
「柱を入れ替えて、家の歪みを修正して、土壁を塗り、畳を替えて、屋根瓦を積み直して、だいたい3,000万円というところでしょうか?」
目玉が飛び出しました。わが家は木造で、とにかく古い民家です。昔から幽霊が現れていたほど。シロアリに何ヶ所も侵食されていますし、台風のたびに、おろおろはらはらの家屋です。今回の地震の修繕を全て終えたところで、秋の台風でダメージを受けるリスクにも脅えなければならない。
3,000万円の被災か。へなへなと膝が崩れ落ちそうになりました。
頭が真っ白になり、とにかく、半壊したわが家の後片付けの日々を過ごしました。家財はほとんど泥まみれ。壁土が落ちたからでしょうねぇ。電気製品も壊れてしまっているなあ。昼は災害ゴミをまとめ、水を求め、夜は娘のところに行き、限られた食料で生活をするという日々でした。娘一家とともに、計6人が狭い場所で長いこと生活しましたよ。しかも、ガスが出ない。水道も出ない。風呂も入れない。サバイバルとは、こういうことなんだなあ、とがっくりきました。しかし、家族全員が無事ということで”どぎゃんかなる!”という妙な高揚感も生まれました。狭い空間で毎日過ごしていると「人間、贅沢しなければ、これで十分生きていけるんだ。これまでなんと便利な生活を享受していたんだろうなあ」と考えるようになります。
後片付けの日々は、自分の人生を振り返る機会になったなあと思います。
さて、私は60年以上をこの家で暮らしています。
だから、片付けていて、掘り出される(!)層で、いろいろな世代の自分自身と再会できるのです。書庫の奥からは小学校に入る頃買ったマンガ本が大量に出てきました。手塚治虫さんのマンガは当然記憶していましたが、三木一楽さん画のH・Gウェルズ「宇宙戦争」が出てきたのは驚きました。いかに、この話が好きだったのか。続いて出てきたのは小学2年生の夏休みに書いていた絵日記。
数十年前に時間旅行ですよ。小学2年生の頃、何をやっていたかと問われても何も思い出せない、浮かばない。ところが、自分の絵日記を読み直したら、書いたときの出来事がさっきあったことのように蘇ってきました。これはタイム・トラベルだな、と。そして、母の部屋の片付けを始めたら、今度は私の小学校の通信簿が出てきた。あわ、あわ、あわ。
こんな風だから、全く片付けが進まない。今は、「とにかく棄てる!迷ったら棄てる!断捨利!断捨利!」が合言葉です。
とにかく、自家用車で出かけたら大渋滞に捕まるので、1日にやれることがほとんどできなくなる。だから、出かけるときは歩くのが一番速い。渋滞している原因は、道路が方々で通行止めになっていることと、救急車輌、災害支援車輌が全国から集まってきていることでした。ほとんど動かなかったものなあ。家が倒壊したり地面に亀裂が入ったり液状化していたり。方々にコーンが立ち黄色いテープが貼られて、「近づくな。落下します。キケン!」と書かれています。仕事場に行くときも、いつものルートでは通行禁止だらけ。直進、通行止め、左折、通行止め、まるで、熊本市内があみだクジになっているようでしたよ。
この頃、一番印象に残っているのが、頭上で飛び交うヘリコプターの爆音です。自衛隊の救援活動とマスコミ。携帯電話で話していても、爆音で聞き取れなかったなあ。
風呂に入れなくて辛かったのですが、熊本市北区植木温泉の数カ所が被災者向けに入浴無償されているというので、朝4時からでかけていました。さすがにこの時間だと、渋滞に巻き込まれません。
そして私は、温泉の帰り、車に追突されましたよ。泣きっ面に蜂だなと思ったのですが、これは私に限ったことではないことを知りました。阪神淡路地震のときのデータからも、震災後は交通事故が1.3倍増えるのだそうですよ。そんな心理状態になるものらしい。
遅々とはしていますが、復興作業は継続中です。まだ、話は尽きません。
さて、わが家の運命は次回で。
第139回 エゴサーチは怖い!
さて、自分で小説を書いてみようと思ったのは、いつ頃からだろうと考えると、相当昔の事になります。
半世紀前。
こう書いてみると自分でも、ちょいビビリました。時の流れというのは速いものです。
読書好きの子どもだったのは病弱だったため。ほとんど外で遊ぶ習慣がなかったので、布団の中で本ばかり読んで過ごしました。
選り好みなしで小説を(もちろん児童書ですが)無差別絨毯爆撃状態で読んでいき、だんだんと自分の読書の傾向が定まった気がします。J・ヴェルヌやH・Gウェルズ、コナン・ドイルの小説の面白さに嵌まりましたね。やはり、傾向はSF寄りだったかなあ。「宇宙戦争」やら「失われた世界」「地底探検」などを狂ったように読みまくりました。このとき、自分が喜ぶジャンルは何か、わかったような気がします。小説以前に映画ゴジラ、手塚マンガが大好きでしたから、そちらの方面からも決まりでしょう。
それから星新一さんの作品やSFマガジンを読むようになりました。
その辺りからでしょうか。自分に妄想癖があることに気づいたのは。
いや、最初は、本の中で描写される奇想に単純に驚いておりました。それまで読んだことがなかった大人向けSF短編小説に接するようになってからのこと。すると、あるとき、自分の内部にアイデアのようなものが。
……これ!小説になるんじゃないのか?というより、こんな話は、まだ誰も書いてないんじゃないか?
そんな思い込みが生じました。
そうすると、次の思考に移ったわけです。
……ひょっとして、この話は私が書かなければ誰も書かずじまいになるんじゃないの?
自惚れもいい加減にしろ、というか、まさしくこれは中二病の典型的な症状だと思います。そんなことで、原稿用紙を買ってきて、次々と小説のようなものを書き始めました。長編にも挑戦しようとしましたが、なにぶん、持続力がなく飽きっぽいのですぐ中断!そんなら、短編で。
短編やらショートショートやらを書きちらしていました。
自分では、大傑作を書いたつもりでしたが数年後に読み返してみたとき、なんと酷いものを書いていたのかと愕然。それでも書き上げたときの私は「ふっ!また、大傑作を書いてしまった」と思っていたものです。アイデアは幼稚。地の文に熊本弁が混ざっていて、支離滅裂。もちろん、この原稿は消えてしまいました。恥のカタマリみたいなものですから。
その後、『宇宙塵』という同人誌に入り、九州SFクラブの『てんたくるす』というSFファン誌に加わったり。結果的に『宇宙塵』に書いた「美亜へ贈る真珠」という短編がSFマガジンに転載されて、商業誌デビューできたわけですが、この作品を書いたときも私は、こう思っていたわけです。
……大傑作を書いてしまった。発表と同時に古典だな!と。
ま、脳天気の極みです。これは、若い頃の私自身の思いあがりの成せる技ですね。
しばらく休筆した後、またしても、傑作の予感がするアイデアを次々に思いつきました。そして毎夜、そして毎朝、数枚づつ書いていったのです。
書きあげるたびに、……またしても、傑作を書いてしまった、と。
そう思いこむのは、創作に携わる人なら誰にでもあることのようですね。その時代は、読者からの反応をすぐに知ることができるわけではなかったからでしょう。
時が流れ、情報の革命が起こります。個人の意見がネットに発信される時代になりました。
モノを書くなら、ネットでエゴサーチしない方がいいですよ。そんな意見を頂きました。
エゴサーチ?なんですか?と問い返してみると、ネットで自分の名前や作品を検索してみることなのだそうな。なーるーほーどー。しかし、どうして、エゴサーチしないほうがいいんだろう?
そう言われると、やってみたくなる。穴があれば、覗きたくなる。紐があれば、引っぱってみたくなる。
ちら、と自分の名前で検索してみました。わ・わ・わ。出てくる。出てくる。なんと作品レビューみたいなものまで、いろんなユーザーが書き込んでいる。見ちゃいけないと言われたのを思い出しましたが、見てしまいます。褒めてある評は胸をなでおろしますが、そこまで書くか!という、けなした評もある。その頃の私には免疫がなかったから、硬直状態になりました。エゴサーチをやるなというアドバイスがよく理解できました。エゴサーチをやるのは、ゴルゴンに戦いを挑む兵士のようなものだな。見たら石になってしまう。
あれほど自分で面白い!傑作だ!と思って書いているものが、人によってはゴミ以下の評価しかない、とは。しばらくはショックで書けなくなったほどです。
どうやって自分の中で折り合いをつけたのやら。最近では、新作の読者の方の感想をリツイートできるほどには図太くなりましたよ。
百人の読者がいれば、百通りの感受性があるよな、と思えるようになれたからかな。
第138回 体験「平成28年熊本地震」!!
もう、改めて書くこともないでしょうが、私は熊本に住んでいるのです。で、4月14日から始まった「平成28年熊本地震」の被災地にいるわけです。皆さんから「大変ですね。いかがでした?」とご心配いただき、恐縮している次第です。このコラムを読まれる方も、そのときカジオはどうしていたんだ?!と思っておられるのではないかと、今回は、地震発生の様子などを。
最初の始まり。4月14日の午後9時過ぎ。
私は朝5時に起床し、花岡山を散歩する習慣があるので、午後10時には眠りにつきます。
それは、読書をしていて目が疲れてきたので、本を置いたときでした。
何が起こっているのだろう?全てが軋み、揺れているような。近くにあった携帯電話が緊張を煽るように「地震です!地震です!」と繰り返し始めて、やっとこの揺れが地震だとわかった次第。地震が起こってから警報がなるなんてこの役立たず!と一瞬思ったものの、あまりの凄まじさに頭は真っ白でした。飛び起きても体が動かない。何か倒れ、割れる音が。地鳴りのようでもあるし、家の軋む音のようでもある。災害マニュアルで地震の際は頑丈なものの下で身の安全を確保せよ!とありますが、とてもそんなこと咄嗟にできないとわかりました。
揺れが終わってもまだ足がふらついていました。家族全員の無事を確認して被害を調べました。台所では食器が割れて散乱し、座敷の壁は崩落していました。書庫の本棚は倒れるときに全ての本を吐き出していました。
テレビをつけると地震速報が。震源は熊本地方の益城。そして「震度7」と。耳を疑いましたよ。あれが震度7の揺れだったのか。
と呆れた瞬間、次の揺れが来ました。
「余震だ!」このときは震度6だったのです。
もう、家の中で安全な場所はないと思いました。「自動車に逃げるぞ」
その夜は暖かかったことが幸いでした。車中で緊張から開放されました。もう上から落ちてくるくるもののことを心配しないでいいんだ。明日は一刻も早く復旧作業だな、と。
翌朝は一日を地震処理にあてました。台所を片付け、割れた食器を袋に詰めます。本棚を起こしました。一日ですべての復旧ができたわけではありません。しかし、何とか寝泊まりするだけのスペースを確保しました。後の作業は明日に、と休みました。滅多にできる体験ではない。いい取材をさせてもらったと考えるべきかな、と思いつつ眠りの中へ。精も根も使い果たした気分でした。
それから数時間後。あの声と揺れに襲われました。午前1時25分。
前の地震よりヤバい。揺れが激しいし、時間も長い。家族全員、揺れがおさまったと同時に家を飛び出ました。
これこそが「平成28年熊本地震」の本震だったのです。
嘘だろう?もう地震は鎮まったんじゃなかったの?そんな筈はないよ。悪い夢かなあ。
外に出ると東の空が、地上から放たれた青くぼーっとした色に光っていたのです。いつもは見ることのない光景でした。今思えば、地震光というものだったのかもしれません。
車の中でエンジンをかけて暖をとりつつラジオをつけると、絶望的な情報が次々と伝えられてきました。
阿蘇大橋が崩壊しそうだ。
宇土庁舎が危険な状態にある。
情報の一つひとつが絶望的なものでした。このときツイッターや携帯電話は通じてました。と同時にSNSではデマも同時に流れました。熊本動物園からライオンが逃げ出した、写真付きで。どんな人たちでしょうね。こんなときデマを流す人たちって。
何度も突き上げてくる揺れに、現実感がなくなっていくのを感じました。これが現実ならば、もう熊本はおしまいかもしれないなあ、と思いました。
翌朝、日が昇り、変わり果てたわが家を見てしまいました。
昨日、あれだけ日がな片付けたのに。座敷の壁と老化は崩れ、石塀は倒れて、屋内は土埃だらけ。今回は屋根瓦までも。
三途の川の辺り、賽の河原で子どもが成仏するために必死で石を積み上げる。やっと、積み上がったと思うと、鬼がやってきて元の黙阿弥に壊してしまう。そんな目に合わされたような。
ぽっきり、心が折れ、それから片付けないままです。
かろうじて、電気は通じるようになりましたが、ガスなし、水なし。風呂もトイレも使えません。娘のところに身を寄せてます。
もう立ち上がれないかもしれない、と思いましたが、私のことを心配してたくさんの方から連絡をいただきました。小学校以来の幼なじみ。何年も会っていなかった友人。定年退職された昔の担当編集の方。遠方の作家の方。
ほんとうに勇気づけられました。
熊本を逃げ出さないの?と言う方もおられますが、ここは、私が生まれ育ち、一緒に泣き笑いした人たちがたくさんいる故郷です。
棄てるわけにはいきません。
「怨讐星域」という話の中で、滅びる地球に残る選択をした人々のことを描きましたが、あれと同じ心境です。熊本が大好きなのです。
励まされて、余震が続く中でも少しずつ勇気が蘇ってくるのを感じます。今は市電が走り始めたことを喜び、蛇口から流れる水に感動しています。熊本は滅びるわけじゃありません。
うちひしがれたのは私だけじゃない。皆と一緒にもう一度ガマだそう。そう思えるようになった自分のしたたかさを褒めたくなっているところです。なあに、カラ元気と作り笑いは、大の得意技ですから!