夫である小田正史の遺骨を熊本市内に妻の栞理が運びこんだときに、すぐに望んでいた奇跡が起こった。助手席に生前とまったく変わらない正史が黄泉がえって座っていた。正史は小田家代々の墓がある球磨郡湯前町に葬られていた。実は、正史は死刑囚だった。生前、勤務していた熊本市で正史の勤務先の社長と上司、それに同僚を殺害した罪で逮捕され、死刑の判決を受けた。正史は一貫して無罪を主張したが、証拠は正史に不利なものばかりが残されていた。そして刑は執行された。
唯一、正史の無実を信じていたのが妻の栞理だけだった。正史は嘘をつく人ではないと栞理は知っていた。だから無実を訴え続けたのだが。栞理の悲嘆に暮れる日々が続いた。
そして、今年の夏頃から熊本市で黄泉がえり現象が頻発している。亡くなった者の形見と亡くなった者を強く愛する人がいれば、死者が還ってくるということだ。栞理はすぐに愛する夫を黄泉がえらせることを考えた。死刑を受けた者は、二度、刑を執行されることはないと聞いたし。
そして栞理の思惑どおりに正史は黄泉がえった。正史の生前の最後の記憶は絞首刑を受けるものだった。そして栞理に事情を聞くと、正史は栞理に驚くべき宣言をしたのだった。
「真犯人を探す。私を無実の罪に追いやった奴を」
正史は、真犯人が誰か知らないのだ。他に別の犯人がいるとは、ずっと正史が言い続けてきたきたことだ。殺人現場で落ちていたナイフを拾ったばっかりに、犯人にされてしまった。
「真実がわからなければ、誰の協力も得られなければ、私は自分ひとりだけでも犯人を探し出す」
栞理にとっては正史が生き還るだけで十分だった。このまま自分と静かに暮らしてくれるだけでいいのに。しかし、犯人にされた正史は気がすまないのだろう。
死刑になった男が黄泉がえり、新犯人探しをする!
誰がこんな状況を予測しただろう?栞理は正史に協力するしかなかった。
「事件の現場に連れて行って欲しい。また、新しい視点で経過を推理できるかもしれない」
そう頼まれて栞理は断りきれなかった。熊本市花畑町にあったマルカケ商事に向かって車を走らせた。マルカケ商事は、今もあった。正史は会社に入って受付で言う。「私は、もともとこちらに勤めていた小田正史です。無実の罪で死刑になりましたが、黄泉がえり、真犯人を探しています。社内をもう一度私に検証させてください」受付嬢は悲鳴をあげて、奥へ走っていった。昔の同僚も正史の顔を見て驚いていた。
奥へ行くと、社内はみな悲鳴をあげる。今の社長は死んだ社長の奥さんだった。「というわけで、真犯人は別にいるのです」と正史が言うと「話はわかりました」と社長は言った。「実は、うちの夫も先週黄泉がえったの。あなた!小田さんよ」
顔を出したのは死んだはずの社長だった。驚いた正史は歓びを隠せなかった。
「社長が亡くなられた後、犯人にされて死刑になりました。社長の口から、私が犯人じゃない、と言ってください。そして真犯人が誰か教えてください」と正史は頼む。
社長は困ったような表情で答えた。「実は私は背後から刺し殺されたから、犯人の顔を見ていないのだよ」
なんという話だろう。これでは正史の無実を証明することは出来ない。しかし、被害者はあと二人。その二人は真実を知っているのではないか?そう正史が思ったときだった。「あっ!南山さん。あなたも生き返っていたのですか?」南山は正史の上司だ。やはり、ナイフで刺殺されていた。
「おお。小田くんか。私は死んでいたのだね」「そうです。私は社長と南山課長そして北川くんを殺した疑いをかけられて死刑になったんです」
「なんと悲惨な結末だったのだ。私は娘が黄泉がえらせてくれたらしい。私は社長をお護りしようとしたが間に合わなかった」
そこで笑い声がして振り向くと正史の同僚の北川がいた。彼も血みどろで死んでいたのだ。やはり黄泉がえっていたようだ。
「ああ、北川くん。君たちを殺した真犯人を教えてくれ。私が犯人にされて死刑になってしまったのだ」
だが、北川は恨みがましい目で正史を睨みつけた。
「南山課長は俺が会社の金を使い込んだと社長にちくったんだ。それで、南山課長から社長命令だとクビを言い渡された。だから社長室に飛び込んで、ナイフで社長を刺したんだ。そしたら南山課長が社長室に飛び込んできて揉み合いになった。南山課長を何度も刺したんだが、課長は俺のナイフを奪い取り……俺は刺されてしまった。その後は、どうなったかなんて知らないさ」そして北川は、隠し持っていた包丁で襲いかかってきた。
「くらえ。みんな、黄泉がえりやがって!」
正史は課長や社長と三人がかりで北川を取り押さえた。「警察に連絡しよう」
この後、司法がどのような判断を下すかは誰にもわからない。すると、立ちすくんでいた栞理が呆れて呟いた。「やっぱり正史さんは無実だったのね。でも北川を黄泉がえらせた人は誰なのかしら。それが、一番の謎だわ」 (了)
作者より……あまりにも酷い話で、これを本編から外したのも、なるほど、と納得されたことと思います。いや、こんな風に話を作る人間の頭の中は妄想が渦巻いているのですよ。すみません!!
カテゴリー: カジシンエッセイ
第167回 鬼童岳の霧女
九州脊梁の北東部にある鬼童岳に登ったときのこと。鬼童岳は、まずなだらかな草原から杣道へと入る。しばらくダラダラ登り続けると、足元はガレ場へと突然に変わる。それから胸を突くような急斜面となり、それが八合目の山小屋の手前まで続くことになる。少し登れば右へと曲がり、そのまま山道を進むと今度は左に折れる。ひたすら荒い息を吐きながら一歩づつ足を動かしていくしかない。
その日は生憎の天気だった。
登山口に着いたときに、曇っているなとは思ったものの何とか行けるのではないか、と判断して歩き始めた。ポツリ……。すぐに頬に冷たいものがあたる。大降りにならない予感があったので、登山道の脇でリュックから雨具を取り出して急いで身につける。
人気のある山ではないので、私以外に登山者の姿はないようだった。
あたりを急速に霧が覆い始める。濃いミルクの中にいるようで、数十センチ先は何も見えない。かろうじて、足元の石くれを見て、進む方向を判断するしかない。石段を一歩づつ登っていく。しばらく前進すると、右へ曲がる場所に。そこでU字型に曲がる。一人で登っているから、足を進めることだけに神経を集中させて、他のことまで気が回らなかった。
しまった。スタート時間を覚えておくべきだった。どこまで登っているのか見当だけでもつけられたのに。
ゆっくりと登る。それから方向を変える。ジグザグというたどり方をしているのだろう。どこまで来ているのか?半分ほど登ったろうか?心細い気持ちになった。
孤独の山歩きとはこんなものだ、と自分に言い聞かせる。真っ白い風景の中で立ち止まり、ペットボトルの水を飲んだ。
そのとき気配を感じた。人だ。他にも私同様登山者がいて登ってきているのだ。
少しほっとして、その場に立ち尽くした。声がする。若い女性の声だ。笑い声があがる。どんな人だろう。
「やだぁ、本当ですか?」
「そうよ。でも山歩きって楽しいでしょ」
明るい声にほっとした。どんな関係の女性たちなのだろう。
「人生って、山登りに似てると思わない。ほら今日みたいに。周りを見ても真っ白で、何をしてたか、どんなところにいるのかもわからない。でも、できることといったら、前にひたすら進むしかないのよね。これって人生そのものじゃない」
「先輩、かっこいい!」
そうか。職場の先輩、後輩という関係か。先輩は山好きみたいだな。そして二人が霧の中から姿を現す。あんなかっこいい科白が吐けるなんて、どんな女性だろう?
「こんにちは」と私が言うと、二人も立ち止まり「こんにちは」と会釈を返してきた。二人とも若くて美人だ。
「あっ。せっかくだから先輩、お願いしましょう。先輩と二人の記念写真を」「いいですよ」と私は答えて若い子のカメラを受け取り、二人に向かって「はい、チーズ」と声をかけながらシャッターを押した。私に礼を言った二人は「もうすぐ山小屋よ」と再び登り始める。しばらくの休息の後、私も登り始めた。引き返そうか迷ったが、彼女たちに元気をもらったようだ。この小雨だ。また八合目小屋で彼女たちも休憩するだろう。私も山小屋まではがんばろう。
八合目小屋の手前で雨がひどくなった。途中、他の登山者に合うことはなかった。小屋の戸を開けると声がした。「戸は閉めてください」男の声だ。ここで食事にしょう。座ってお茶を飲み、おにぎりを食べた。管理人の男が、掃除を終え「おつかれさまでした」と声をかけてきた。山小屋は彼だけのようだ。世間話をしながら話は途中で会った二人の女性のことになった。そして言った。「かっこいいことを言うんですよ。人生は山歩きに似ているなんてね」管理人の男は大きく目を見開いた。「出ましたか」「え?」「霧女って呼んでます。登山道が霧に包まれると、その女たちが出るんですよ。別に悪さをするわけじゃない。ただ、ひょっとして私が知っている女たちの誰かなのかもしれないって、いつも思いますよ。私もよく言ってたんです。女の子を山に連れて行くとき。霧の日の山歩きって、人生に似ている。今まで何をどう歩いてきたか、振り向いても見えないけれど、前に足を踏み出すしかないって。その女たち、誰なんでしょう。いや、人からは聞くけど私は会ったことがない」若い女性たちは霧女という幽霊ということなのか?
結局、山小屋に若い女性たちは姿を見せなかった。
私はもう山頂を目指す気もなく、小屋を出て一目散に登山口を下り始めた。もちろん、途中誰一人会うこともなかった。足元に注意しながら登山口に戻ると、雨具を着た老人が一人、登山用の杖を補充しに来ているのが見えた。鬼童岳森林を守る会の腕章をしていた。「おや、こんな日に登られましたか?」「ええ、若い女性たちも登っていました。霧女だったそうですが」と私は苦笑した。老人は不思議そうに首を傾げた。「若い女性立ち……。見かけませんなあ」「いや山小屋の管理人さんから聞いたのですが」すると老人は信じられないようすで眉をひそめた。「山小屋は閉鎖されていますよ。中に入れない筈です。管理人は恋人とその友人をあの山小屋で殺して、自分も自殺したんですよ。以来、あの山小屋は閉じたままになっている筈です」ぞくっとして私は自分の車に戻ろうとした。しかし「本当に山小屋にいたんです」と振り返ると、老人の姿はかき消え、どこにもなかった。老人が持っていた杖が登山口に転がっているだけだった。
第166回 しんえんくん
ぼくは、かつて勇者だった。
勇者というもの、悪い怪物と戦い、退治して美しいお姫さまとめでたく結ばれるものだと思っていた。
だから、山を越え、遥か遠いところへ怪物を求めて旅を続けていた。
ある山を過ぎ岩場にさしかかったとき、驚くようなものを見つけた。岩場の岩と岩の間に何やら真っ黒いものが見える。何だかよくわからずに確認しようと近づいてみる。地面に穴が空いているのだろうか?
穴などという生易しいものではないことは、すぐにわかった。
底も見えない真っ黒い空間が、そこにはあった。直径が2メートルほどの丸い亀裂といえばいいのか。なぜ、こんな岩場に底が見えないほどの深い亀裂があるのだろう。
横に看板が立っていた。
それにはこう書かれていた。
ー怪物を倒そうとするものは、自らが怪物とならぬよう気をつけよ。ー
怪物を倒すものって、勇者のことではないのかな?なぜ、こんな看板が。誰が、この看板を立てているのだろう。看板のずっと下を見ると、最後にニーチェと書いてある。あっ、ニーチェさんがこの看板を立てたのか。しかし、なんのために?この真っ黒いそこの見えぬ穴には何か秘密があるのだろうか?
気になって穴の底をずっと凝視してみた。一所懸命見つめる。しかし闇が彼方まで広がっているだけだ。意味があるのだろうか?ふと、思いつきで「おーい!誰かいるのかぁ?」と叫んでみた。そして「おーい、出てこーい」
仕方ない。何もわからない、と穴から離れようとしたときに、看板の文に続きがあることに気づいた。
「深淵を覗くとき、深淵もまた、こちらを覗いているのだ」
そして、もう一度、真っ黒い闇の穴の中を覗き込んだとき、ぶるっと震えがして覗くのをやめた。
本当だ。この底がない闇を深淵というのか。たしかに、何かがこちらを覗いていたぞ。あれが深淵だったのか?
こんなところは気色悪くて長居は無用だ。
立ち去ろうとしたときだった。後ろからなにかが尾いてくる気配がした。振り返って思わずワッと叫んでしまった。この、真っ黒い巨大なものはなんだ!なぜ尾いてくるのだ。「何者だ!」
「わ、私はあなたが今覗いていた深淵です」
「なぜ僕に尾いてくる。お前はただの深い穴じゃないか」
「ええ、私はニーチェという哲学者によって存在が許されるようになったのです。でも誰も私を見ても、ただの穴としか見てくれません。私が私を覗いている人を見ていることを認めたのは、あなたが初めてです。あまりの嬉しさにあなたの後を尾いて来てしまったのです。旅のお供をしていいですか?」
腰につけたきび団子をやると、深淵は大喜びだった。そして彼を”しんえんくん”と名付けて怪物退治の旅を続けた。
怪物が現れ苦戦していると、怪物の背後から忍び寄り、一気に飲み込んでくれた。少し卑怯だったかもしれないが、悲鳴をあげながら深淵に落ちていく怪物を見て胸をなでおろしたものだった。やがて、怪物を倒し尽くし、苦労をともにした”しんえん”とぼくは楽しい日々を送ったのだった。一緒に釣りをしたり、女の子の集まりそうなところに行って声をかけたり。いつもぼくは”しんえん”と過ごした。
あまりにいつも一緒にいるので、だんだんおたがい遠慮がなくなってきてしまう。喧嘩もしてしまう。
「この間、声かけた女の子が怖がったのは”しんえん”のせいだぞ。お前がいなければぼくにはいい感じだったのに」
「そんなことないよ。勇者だった。怪物をやっつけたって自慢ばかりだから、女の子はハナについたのさ」
「なにを勝手なことを。もう”しんえん”の顔も見たくないよ」
「そりゃ、こちらの科白だ」「絶交だな」「ああ、絶交だ」
ぼくと”しんえん”がつきあうのをやめたのは、そんな他愛もない行き違いからだった。
それからぼくの人生は、いろんなできごとがあった。勇者だった経験を活かし、戦士トレーナーをやったり、”勇者塾”を開いたりした。いろんな人々と知り合い、裏切ったり裏切られたりしたもした。そして年老いて、ぼくは一人ぼっちの暮らしに戻った。
ある日、ぼんやりと縁側で過ごしていると、庭先に黒いものが現れた。「まさか……」
まさかではない。年老いた”しんえんくん”だった。”しんえんくん”も苦労したのだろう。これも縁だろう。もう思い残すことはない。”しんえんくん”の中に飛び込み、自分の人生に決着をつけてもいいのかも。「よく訪ねてきてくれたなあ」というと彼はこう答えた。
「ああ、君のこと忘れられなかった。ぼくのことわかるのは、君が心の中に深淵を抱えているからだ。ぼくが頼れるのは君しかいないじゃないか」言うが早いか、”しんえんくん”はぼくにジャンプした。そしてぼくの心の底にある深淵に入ると限りなく落下していったのだ。悲鳴一つあげず。
ひとり残ったぼくは縁側で涙を流し続けた。
第165回 売れる本を書きたい!
仕事は、文筆業だ。
いわゆるもの書きというやつ。
これまでに、いろんなジャンルのものを書き、本として出版してきた。小説も書いたし、エッセイも書いた。しかし、私が書く本はなぜかベストセラーに縁がない。
私の本は、そんなにつまらないのだろうか?といつも自問する日々だ。
「いや、最近は皆が本を買わなくなっているんだよ」
そう知人友人は慰めようとしてくれる。しかし、「いま話題の本」というのはどんなときにもある。
売れるべき本は売れてベストセラーになっている。単に、私の書く本が売れていないだけなのだ。私の本が売れていないのは、皆が、そして誰もが、読みたい!思える本を書いてないからにちがいない。
売れる本とは、誰もが読みたいと思い、読んだ人がその本のことを話題にする。すると普段は本を買ったりしない人まで話題に乗り遅れないようにと買い求めることになる。そんな本のことなのだ。
どうすれば、そんな本が書けるのか?皆が読みたい本とは何か?それを知ることだ。
いま売れている本を真似ても駄目だ。
売れる本に共通していることが一つある。それは、これまでなかった独創性に溢れていることだ。
売れる本を書きたい!
その一念で必死に考えた。すると、ぼんやりと道が見えたような気がする。やはり、自分の強みに関係あるものの方がいいのではないか。たとえば、仕事以外の趣味は山歩きだ。そのテーマを本にすれば売れるかもしれない。しかも世の中には登山ブームが訪れていた。そのことを知り合いの編集さんに話してみた。
「山歩きの本ですか。いいですね。しかしね、深田久弥の日本百名山という古典的な名著があります。それに花の百名山や温泉グルメ登山本といろいろ既に出ています。今から山に関する本を出そうとすれば、よほど切り口が新鮮でないと無理です」
「最近はテレビでもやっていますよね。百名山を一筆書きで登るとか、三百名山を何日間で踏破するとか。これはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を彷彿とさせますよね。これは人気ですよね。登山者の方もヒーローですよね。で、知名度抜群です。本を出せばベストセラーですけれど、加えて講演会をやれば大人気で必ず会場は満員。それどころか、チケットがとれない騒ぎと聞きましたよ」
「うまくいけば、さて、そんな具合のヒットになります。さあ、山歩きの本をどんな切り口で書かれますか」
ぐっと押し黙り考えた。うまく出版できたらベストセラーは約束されるらしい。
私も百名山を…と言いかけて、すぐに、どんな観点で?二番煎じでは?と指摘されて頭を掻きむしる。
「年寄りの百名山というのはどうです。私もこのように総白髪だから」
「それじゃ弱い。いま山を登る人たちはほとんど年寄りです。みんなが、オオッと思う付加価値がないと」
そうか。やはり、それだけでは駄目か。しかも、自分で日本の百名山を征服したわけでもないのに。そのとき、ふっと霊感が。
「年寄りの中でも、皆が驚くこと。年寄りは登りながら、自分は何歳までこうして登れるのだろう、と心配しているはずです。だからこういうのはどうですか。八十歳から登る百名山。これから取材して、八十歳から書き始めます!」
編集さんが目を丸くした。それは凄い!絶対に売れます!ぜひ書いてください。
企画が通った。
それから取材にいそしんだ。百名山のすべてを歩いた。
八十歳になり、もう一度歩こうとするが、これだけ身体がきしむとは思わなかった。両手に杖を持ち、助手にロープで身体を引いてもらい、何度も休み休み、ひたすら歩き続けた。
医者から何度も登山中止の勧告を受けた。それでも執念で百名山を制覇した。
ひたすら売れる本を書きたかったからだ。もう二度と山には登れないだろう。それは覚悟した。
肉体の限界を既に超えてしまっていたから。それでも、必死に指だけは動かして書き続けた。
「八十歳からの百名山」
原稿を眺める。自分ながら傑作の予感があった。すべての年寄りの登山家たちに希望を与えるだろう。
原稿を持って編集さんに会う。
得意げに渡す。
「これで、どうです。ベストセラー間違いなし。これで講演依頼も殺到するでしょうねぇ。私も人気者になる予感がします」
すると、編集さんは原稿の束を受け取ろうとしない。どうしたというのだ。
編集さんは言いづらそうに言った。
「実は、他社で似た本が来週出るんです。タイトルは『九十歳の百名山征服』というんですよ」
第164回 一人おいての男
こんにちは。は?私が誰かわからないって。え、覚えておられない。私を?
やはり、そうですか。私はとにかく人の記憶に残らない男なんですよ。ほら、何も顔の特徴がないでしょう。それに太ってもいないし痩せてもいない。背も低からず高からず。
だから、自分でも自分のことを「一人おいての男」と名乗っているんです。
あなたも、私の顔をほうぼうで見かけている筈なんです。でも、目に入っても覚えていない。頭の中から記憶がするりと抜け落ちてしまう。
どこで会っているかって?
ほら、どんな雑誌や記念誌にも、私の写真は載っているんですよ。ただね、写真は私一人で写っているわけではない。数人で写っていることが多いですね。そして写真の下に説明書きがあります。それを読めば、なるほどと思いますよ。例えば4人で写っていたとします。左から誰山彼平さん。彼野誰男さん。一人おいて、曽礼誰太さん。そんな感じで載っているのを見た記憶はありませんか。
そうなんです。その三番目の「一人おいて」が私なんです。あなたも本を持っておられますね。その中に人物の集合写真があったら見てください。ほらそのパーティの写真。数人で乾杯している。そこにもあるでしょう、説明書きが。
「一人おいて」って。
それ私。実物と見較べたらいい。私でしょ。
そんなに驚かないでください。あなたも言われる迄は、わからなかった筈ですから。
実は、私は誰よりもたくさん雑誌や新聞の写真に載っているんですよ。
群衆を写した写真が載っていたりするでしょう。それには「一人おいて」の但し書きは付いていませんが、必ず私も写り込んでいますから。探してみてください。その雑誌に他の写真が載っているページ、あるでしょう。
師走の朝市の様子を写した写真がありますね。それにも写っているはずです。朝市の雑踏をよく見てください。ほら、私の顔と見較べて。
“ウォーリーを探せ”というパズル本がありますよね。メガネを掛けたひょろりとした若者、ウォーリー君は、ぎっしり描き込まれた人々の中に紛れ込んでいるから、彼を探しだせという指令を上手くこさなければならない。それに似てますね。
ひょっとすると私は、現実世界のウォーリーみたいな存在かもしれない。
そうです。私の顔をじっと見て、それから探す。私の顔は覚えにくいから、何度も見て探してください。
わかりましたか?
そうです。なぜか私はブレてないから、はっきり写るんですよ。なのに、なぜか私の顔は記憶していない。理由はわかります。みんな写真を見ているけれど、私を視てはいないからですよ。
これで、次回から見たときは私が、ここにも載っているってわかるようになる筈ですよ。いや、そんな必要も、もうないのかな。
え、なんで、今になってあなたにそんな事実を教えたかって?
実は、長年「一人おいての男」の役割を演じてきたのですがね。私も年老いてきて、他の人同様に皺がいくつも目立つようになりました。すると、通りを歩いたり店に寄ったりしたときに、妙な目で見られるようになってきたのです。人は私の顔をじっと見て呟くんです。
あなた、どこかで会いましたかね?
初めて会った気がしないのですが。
うーん。思い出せない。ここまで出かかっているのに、まどろっこしい。
慌ててその場を立ち去ります。私は「一人おいての男」であって、決して正体を明かさない存在なのです。
そして私は「一人おいての男」として、さまざまな人が集まる場所を転々としてきました。人から覚えられるようになったら、私は「一人おいての男」の役割を果たすことができなくなります。
そう。私はもう「一人おいての男」の定年を迎えようとしています。とすれば、役割の有効期限を迎える前に、新しい「一人おいての男」の候補を探さなければならないのです。
「一人おいての男」になって数十年。目立たない私にとっては、それなりに満足のいく仕事を得ることができたと思います。一生独身でしたが、それは私には苦になりませんでした。
よくぞ私を「一人おいての男」に選んでいただいたと思います。
そして今、ほっと胸をなでおろしています。私の後継者にぴったりのあなたを見つけたのですから。
だって、あなたは誰にも愛されず、誰にも必要とされず、だれにも顔を憶えてもらえない。個性がないし、目立たない。こんなに「一人おいての男」の適正を持った人はこれまでいなかった。
今日、すっかりあなたを見過ごしてしまいそうになったほどですから。これまでのあなたは自分の人生を嘆いていた筈です。でもこれからは、光栄だと思いませんか。「一人おいての男」を継ぐなんて。誇るべき人生になるんです。
ほら、ポンと肩を叩いたら、あなたはこれから立派な「一人おいての男」だ。
やっと私も呪縛から解放される……。
第162回 少女漫画は突然に
私が結婚について真剣に考えるようになったのは30歳に手が届くような年齢を迎えてからのこと。
それまではお気楽に趣味の世界で生きてきたけれど、ある日突然このままではいけないと考えるようになった。いずれ私も高齢者になる時が来る。そのとき一人でいたら話し相手もなく淋しい思いをするのではないか。
だが私は交際している男性もない。もちろん、これまで交際したこともない。男とつきあうなんて面倒と思っていた。そうも言ってはいられないということなのだ。
どうやれば結婚相手の男性と知り合えるのか。
ネットの出会い系も嫌だった。事件に関わるニュースをよく目にしていたし。もちろん街で気に入った男性に声をかけるなんて、はしたないし。私は容貌は劣っていないと思うけど。
「ちゃんとした結婚相談所に紹介してもらうのがいいわよ」と同い年で主婦をしている友人が言った。その言葉に従う。しかし、どんな結婚相談所へ行けばいいのかしら。
さまざまな紹介所の案内を比較していて、目に留まったのがここだ。
「あなたの人生の記念すべき場面を忘れられないものに!ベスト・パートナーのことはおまかせー当紹介所には”出会い演出一級設計士”が在籍しています」
出会い演出一級設計士……そんな資格は聞いたことがない。しかし、そこに惹かれた。
訪ねるとシステムと料金の説明を受けた。高いのか安いのかわからない。「どんな風に出会い演出を設計されるのですか?」
「それは、あなたのデータを分析してからです。お一人づつ内容はちがいます」と質問表を渡された。膨大な数の質問項目だった。
年収に始まり、好みのタイプ、趣味、食べもの、動物など諸々の好き嫌い。スポーツ。まだまだ質問は続く。どこの紹介所もこうなの?
「特にお好きな趣味は少女漫画ですか?」
「は、はい。いけませんか?」
「いえ、大丈夫です。それではときどき連絡をとらせていただきます。一番相性のいい素敵な人と知り合えますよ。あ、でも会費と紹介料の払込をお忘れにならないように」
すぐに振り込んで、しばらく経つが何の連絡もない。私はいつもどおりの生活を続けた。
ひょっとして、騙されたのだろうか?
そして連絡があった。紹介所の出会い演出一級設計士の男からだった。
「これから申し上げることを守ってください。いつもより15分遅れで出勤してください。ただし口にパンを咥えて」
「えー。会社に間に合いませんよ」
電話は切れた。私は仕方なく紹介所の言葉に従って出勤した。口にはパンを咥えて。
駆け足の出勤だった。「遅刻!遅刻!」
バス停近くの曲がり角で衝撃が。
尻餅をつくと、前でスーツ姿のイケメンも尻餅をついている。ぶつかったのだ。
私はかっとなって叫んだ。「何よ。ぼーっとして。会社に遅れちゃうわ」
すると向こうの男も「君の方こそ不注意だろう。あんなスピードじゃ、出合い頭にぶつかるじゃないか」
「何よ!」
「何だ」
「こんなことしてたら遅刻だわ」
と、その場はそれで別れてしまったが、思い出せば、なかなかハンサムな男性だったような気がする。でも、私に謝りもしないなんて許せないわ。
しかし、心の隅で、何か引っかかるものを感じていた。ひょっとして……これは出会いの演出では……?どこかであの場面は知っている気がする。
その日の午後、例の結婚相談所から連絡があった。
「次の守っていただきたいことです。こんな日は、図書館へ行って好きな本を借りてください。ぜひ。きっと、いいことがありますよ」
私は、その言葉を信じて近くの図書館に、その日の帰り道に寄った。
ふっ、とある予感がよぎったが、その考えをすぐに振り払った。そんなことが計算でできるものか、と。
そんな私の好きな少女マンガのような出来事が。考えてみれば、出合い頭にパンを咥えた主人公がイケメンとぶつかる少女マンガがどれだけあったことか。
そして、その日の図書館で、私は読みたかった「クロノス・ジョウンターの伝説」を借りることにした。梶尾真治の名作だ。こんな機会でないと読めないから。
探し続ける。そして、やっと見つけて指を伸ばす。すると同時に誰かの手がその本に触れた。
慌てて顔を上げると、向こうも私を見る。同時に一緒に声を上げた。
「あーっ。あなたは今朝私にぶつかった人!」
こんな偶然が起こる確率はどのくらいなのだろう。
おずおずとお互い言葉をかわすと、なかなか感じのいい人だということがわかった。それからどちらから誘うというわけでもなく、彼と私は付き合うことになった。
なんと彼の趣味も少女マンガを読むこと。
そして、例の紹介所に照会した。「この出会いは計算されていたのですか?」「それは企業秘密ということで。でも結果的によろしかったのなら、それでいいのでは」と答えが返ってきた。
私たちは結婚した。彼にあの紹介所を利用したのか聞こうかとも思うが、聞かないままだ。いい出会いの思い出だから、知らなくてもいい気もするし。
そして、私たちは子どもを授かり、今では成長して小学生だ。なるほど少女マンガ好きの二人に生まれた子だな、と思うのは、娘がバレエを習いたいといい出したことだ。まさに少女マンガらしい出来事は子にまで引き継がれるのか。今日、娘が言った。「私のトゥシューズに誰かが押しピンを入れていたのよ」
これも、どこかで聞いたような。
第161回 まぼろし!! 深夜テレビ劇場
映画が好きなので自分でもよく劇場で映画を観る。学生の頃は金がなかったから深夜テレビで放映される映画は貴重だった。一部がカットされていたり、吹き替えだったりはするのだが、放映されることでたくさんの名作映画の知識を得ることができた。この深夜テレビ劇場が当時の私にとってどれだけありがたい番組であったことか。今は映画専門チャンネルを持つ衛星放送局があるのだが、思えば地上波の深夜テレビ劇場は、なかなか味のある番組だ。どれだけ名作映画に触れたことになるのかな。おかげで私の映画知識をかなり広げることができた。友人や知り合いからもお薦め映画を尋ねられることが少なくない。映画のアマチュア・コンシェルジュというところか。これも深夜テレビ劇場に感謝するべきだろう。
でも、最近は夜更かしが苦手になったから、深夜テレビ劇場は見ていないなあ。
そんなとき、友人がわたしのところを尋ねてきた。それほど熱心に映画を観る奴じゃない印象がある。だが、このときの彼の話題は…。
「おまえ、昔からよく深夜テレビ劇場を見てたよなあ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「いや、最近は夜が早いからあまり見ていないんだ。でも、珍しいなあ。君が深夜テレビ劇場の話題を出すなんて」
「いや、人に話すほどじゃないが俺も映画は好きさ。で、このところ夜中によく目が覚めてね。テレビをつけると深夜テレビ劇場をやってる。先々週だったかな、何気に見始めたらモノクロのサスペンス映画でかなり古い。タイトルは良くわからない。途中から見たからね。ただ、出てる男優には見覚えがある。荒野の決闘とかに出演していたヘンリー・フォンダだった。で、あれはなんて映画だっけ?」
「それだけじゃわからない。もっと詳しく内容を教えてもらわないと」
「監督もわかるぞ。ヒッチコックだ。本人が傘をさしてヘンリー・フォンダの後ろに立っていたから」
「『見知らぬ男』はヘンリー・フォンダだけれど」と答えたが、ヒッチコックが映画の中でどんな登場の仕方をしたか覚えていない。ヒッチコックは必ず自作に顔を出す。
「いや、ちがう。『見知らぬ男』は俺も観ている。共演している女優はオードリーヘップバーンだった。間違いない」
もし、それが本当なら、世に知られていないヒッチコックの幻の映画というところだろうか?
「面白かったのかい?」
「ああ。むちゃくちゃ面白い。逆転に次ぐ逆転で、はらはらどきどきよ。最後にあっという仕掛けがあって、寝ぼけが吹っ飛んでしまったほどさ」
「で、タイトルはわからない?」
「わからない。ヒッチコックの作品リストを見ても載っていない」
「お手上げだ。すごい体験ができたんだなあ。なぜか世の中に知られていない名作が深夜に放送されていたということか。その事情も気になるなあ。ごめん、正直わからない」
「じゃ、もしかして、昨日の深夜テレビ劇場も観てないんだな。なんと昨夜は黒澤明をやったんだ。三船敏郎が滅法強い浪人で出てくるやつ。モノクロでね。観たことない作品。」
「それは三十郎シリーズだな。『用心棒』か『椿三十郎』じゃないのか?」
「いや、その二本は俺も観てる。あれは違う三十郎だよ。海辺の寒村に浪人が来るんだけど、網元と網子が争っている。そこで飯を馳走になり名を尋ねられて、浜辺の黒松を見て言うんだ。『名前は……黒松…三十郎だ。いや、そろそろ四十郎かな』って」
「敵役は、仲代達矢かい?」
「そう。波座士の銛使い役だよ。こいつがなかなかの策士でね」
知らない。そんな黒澤作品があったとは。
「仲代の彼女役が吉永小百合なんだ。最後に海の上での決闘になる。小舟同士でだんだん近づいていってね。バックでドンドコ太鼓が鳴ってて。こんな傑作を観てなかったんだなあって。しかしこっちもタイトルがわかないんだよ」
彼の話に背中が総毛立った。彼は黒澤明の知られざる作品を見たのだ。前にはヒッチコック、今度は黒澤明。映画通を自認する私を持ってしてもわからない未知の名作があったなんて。それも無名の監督たちではない。敬愛し、映像研究もしてきた著名作家の作品であればなおさら。
「いやあ、面白かった。悔やまれるのは、なぜ最初から観なかったかということだ。最初からあのパワーでやっているなら途方もない傑作に違いない。せめてタイトルだけでもわかったはずなんだ」「残念ながら役に立てそうにないよ。ヒッチコックや黒澤の映画で観ていない映画があったなんて。お恥ずかしい。折角、尋ねに来てくれたのにタイトルすら出てこないなんて」
私は手をついて自分を恥じて頭を下げた。すると、彼は慌てて手を振る。
「いやあタイトルなんて、どうでもいいんだ。おまえなら深夜テレビ劇場を観てたんじゃないかと思って。深夜テレビ劇場はラスト近くでコマーシャルが入るだろう。それが家の近くオープンする居酒屋のCMで、行きたいなと思ったんだけど、メモを書き忘れてるんだ。おまえなら店の名を覚えているかもしれないと思って。そうか、わからないんだな?深夜テレビ劇場、観てないのか」
ええっ?
よりによって私に尋ねたかったのは……?
それかよ!!!
第160回 貧乏神警報
どうも先週あたりから調子がおかしい。運転していてマイカーを壁にぶつけてしまう。自損だから保険が効かない。知り合いの不幸やら結婚式が続き、財布からお金が羽が生えたように飛んでいく。友人の保証人になっていたら友人は失踪、借金取りが押し寄せてきた。借金取りから逃げて、あるビルに隠れようとすると、老人から声をかけられた。
「どうなさいましたか?」
どうか匿ってくださいと訳を話す。ついでに、これまで自分の身に起ってきた不幸な出来事の数々も。
それを頷きながら聞いていた老人は、じっと私の顔を覗き込んだ。
「こりゃあ、おかしい。どうか部屋にお入りなされ」
言われるままに老人の後をついていく。そこは研究所のような部屋だった。老人は白衣を身に着けており私に椅子をすすめた。
老人は医者?それとも科学者?
「少し検査を致します。あなたの顔を見て非常に可能性が高いと思えましたので」
「何の検査ですか?」
「あなたが、借金取りに追われたり、やることなすこと金欠につながる理由を調べる検査ですよ。苦しんでいませんか?」
「苦しんでますよ。なぜ私だけが、と思います。真面目に生きている私はこんなに不幸なのに、知り合いのロクデナシたちはまともに働きもせず、人を苦しめて金持ちになったりしています。不公平な気持ちでいっぱいです」
「そうですか!では、顔を上に向けて」
言われた通りに顔を天井に向けると、素早く老人は鼻の穴に細い棒を突っ込んできた。
「ふあーっ。ふあーっ」と驚き叫ぶと老人は、
「すぐに済む。我慢じゃ」
老人は細い棒を鼻から抜くと台の上へ運び、試薬らしいものに浸したり、顕微鏡で観察したり。
「わかりました。間違いなかった。あなたは貧乏神に憑かれておりましたぞ」
「貧乏神に?」
「さよう。貧乏神に憑かれていたから、借金取りに追われたり、自損事故を起こしたりが続いていたのです」
「それが今の検査でわかったのですか?」
「そのとおり。貧乏神は何パターンもあるのですが、そのうちの一種ですな。貧乏神はウィルスでして、人のミームという思考の遺伝子に影響を与えるのですよ」
「そういうあなたは?」
「わしは人生の半分を貧乏神研究に捧げてきた。そして、ここは貧乏神研究所なのですよ。この世にはどんなに頑張っても貧乏から抜け出せない人々が山ほどいる。そんな人々を救い、何とか幸せになってもらう方法はないかと考え、この研究にいそしんできたのですよ。あなたがここに逃げ込んだのも何かの縁じゃったなあ」
それを聞いて目から鱗が落ちたような気分だった。貧乏神ウィルスに侵されていたとは。
「そうだったのですね。最近急に金運がなくなり、変だ、おかしい、と思っておりました」
「そうですなあ。実はあなたの貧乏神はA型で感染力が強い」
「えっ?貧乏神は感染するのですか?」
「もちろん。ここ最近、株価は下落するわ、仮想通貨も問題になるわ、何かおかしいと思いませんでしたかな?」なるほど。そう言われてみれば。
「貧乏神が大流行の兆しを見せているのですよ。しかも、流行っている貧乏神はA型だけではない。B型、C型も確認されている。A型を脱してもB型貧乏神、C型貧乏神が襲ってきますぞ。今や貧乏神警報を出すレベルだ」
なんと恐ろしいことを言い出すのだろう。
「貧乏神の感染爆発、これを世の中では不況と呼ぶのです。そして感染の規模が大きければ大恐慌になる」
「どうすれば貧乏神は退散してくれますかねえ。それよりもあなたは、感染しないのですか?」
「わしは大丈夫。あなたには特効薬をあげよう。そして他の型の貧乏神が感染らないように、ワクチンも射とう」
「じゃあ、あなたも」
「ああ、ワクチンを射てば感染しなくなる。なぜなら貧乏神はわしの体内で福の神に変わるからだ。だから、このビルも拾った宝くじが一等に当たり建てたほどだ。これも福の神のご利益」
「じゃあ、私もその特効薬をいただけて、ワクチンも射ってもらえるんですね。お高いんでしょうか?」
「いいや。支払いは幸運が舞い込んできて大金持ちになったときで結構だ。さあ、すぐに特効薬とワクチンを試すかね?」
「お願いします」と言いかけて、ちょっと考えた。これはなによりもいい機会じゃないか?
「悪いことばかりしてるのに大金持ちの奴がいっぱいいます。そいつらに貧乏神を感染してきますから、その後でワクチンと特効薬をお願いします」
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第159回 バレンタインの獣!
もうすぐバレンタインデーだな。女が好きな男を振り向かせるためにチョコレートを贈るんだっけ。なぜチョコレートを贈るのか知ってるかって?知ってるよ。
なぜかって?そんなに知りたいの?話してやらないこともない。そうか。じゃあ話してやろう。うん。昔はバレンタインデーなんかなくて、もちろんチョコレートを贈る習慣もなかったさ。
あるところに一人の少女がいた。きれいな少女というわけではなく、男とつきあってるわけでもなかった。好きな男はいた。でも、告白してもどうせ自分なぞ相手にしてもらえないと思い込んでいた。だから、好きな男の前でも知らんぷり。男はけっこうモテている様子だから、自分には縁のない人だな、と。でも、一度くらいはデートしてもらえたら、と思っていた程度のこと。
ある夕方、少女が家に帰っている途中、空から何かが落ちてくる光が見えた。その光はくるくる回りながら、少女の目の前の地面に激突。慌てて駆け寄ると地面には穴が空いていて、そこで鳥にも獣にも虫にも見える奇妙な黒く小さな生き物が動いていた。そして、かすかな声で助けを求めるように鳴いていた。このまま放っておけば死んでしまう。そう思った少女はそっと両掌で包むようにして家に運び、丁寧に介抱してやった。水を飲ませ、餌も与えた。なにを食べさせればいいかわからなかったから、自分が食べるのと同じものを与えた。それでもガタガタ震えていたので、寝るときは少女のベッドで一緒に休ませてやった。やがて元気になり、だんだん成長すると、黒い羽を持つ角の生えた人型の獣になった。そして、獣は人の言葉を覚え話し始めたのだった。
「いつも親切にしてくれてありがとう」と獣に言われて、少女は腰を抜かすほど驚いた。
「あなたは誰?獣なのに話せるの?」
「ええ。聞いて言葉を覚えました。私は空のずっと上、ヴァン・アレン帯に住んでいる生き物なのですが墜落してしまいました。助かったのはあなたのおかげです。もう大丈夫です。あなたに恩返しをしたいのですが、なにか望みはありませんか?」「わたしには別に望みなんてないわ」「でも好きな男がいるでしょう!私はあなたの心の中までわかるんです」
ずばり獣に心の中を見透かされてしまい、どぎまぎ。すると獣は、「その男にこれをプレゼントしなさい」
獣は大きく口を開き、喉の奥まで手を入れて、そこから小さな黒い粒を一粒づつ取り出す。そして一粒取り出すたびに、獣はうえええぇ、と漏らすのだ。八個ほどの黒く小さな塊を箱に並べると、なんとなくお洒落そうにも見えてくる。「チョコレートみたい!」と少女が言うと、獣は「そう。魔法のチョコですよ。好きな人に必ずあなたの目の前で食べてもらうこと」「汚くないの?」「きれいなものです」「でも渡せるかしら。渡せても目の前で食べてなんて言えないわ」「ほんとうに彼のことが好きでたまらないのなら、一度だけのことです。無理にでもお願いしなさい」
そして少女は男に、獣に言われたとおり勇気を出してチョコを差し出した。「ぜひ今、ここで食べてみてください」
不思議そうに男が一粒食べてみた。少女が男の様子を見ていると、みるみる男の目が潤んできて少女を見つめ始めた。それから「ああ、大好きだ。我慢できない!」と少女を抱きしめた。
それから……めくるめく愛の時間が流れ、男は少女の恋人になった。次の粒を食べさせると、男の愛はより深くなり……。
「ほんとに効果があったわ。あなた凄い」と少女は獣に礼を言う。
「天にいたときはキューピットという愛の天使だったんですよ。エヘン」と獣は胸を張る。
さて、その様子を見ていた隣の美女。美女なのに意中の男には振り向いてもらえない。なぜなら性格が悪いから。しかし、自分ではそのことに気づいていない。美女は隣の少女に頼んだ。「ねえ、あなたのバレンタインの獣(既にここで間違っている)を貸してよ。チョコを作らせるからさ」少女は、こんな性格の悪い美女に獣を貸したら獣がかわいそうと断った。
しかし、美女は少女の部屋に忍びこんで獣の首根っこをひっつかみ誘拐してきた。そして獣を小突いて「さあ、男をメロメロにするチョコを作れ。作れるんだろ。作らないと酷い目に遭わせるわよ。わかったか、バレンタイン!」
これ以上酷い目に遭いたくなかった獣は、「わかりました。ちょっと待ってください」獣は大股開きになり肛門の中に手を入れると、奥からけっこうなサイズの黒い粒を一個づつ取り出す。そして取り出すたびに獣は、うううう・ん、と呻くのだ。八粒の黒い塊はけっこう硬い。箱に並べるとなんとなくお洒落そうに見えてくる。「ほんと、チョコレートみたい!」と美女が言うと獣は、「これで勘弁してくださいよ」
さて、美女は意中の男性のところへこのチョコを持っていって言ったのだという。「これ、バレンタインのチョコよ。食べてみてね」それが二月十四日のことだったそうな。
それ以来、バレンタインデーには女から男へチョコレートが贈られるようになったそうだ。天から墜ちた天使は”悪魔”だということを知らないまま。はたして美女が贈ったチョコに効果があったかどうかは……。
知ったことかね。
第158回 Show guts!
そのことを聞いたのは大晦日の朝のことだ。同じ集落のケンジに呼ばれて島の神社に行くとタカヒロとユウタが待っていた。これで小学校の同級生は全員揃ったことになる。
「ゴロウ。急だけどさ、今夜”正月”を捕まえに行くぞ」すると後の二人も頷いた。
「正月って、明日になれば正月だろう?捕まえるってどういう意味だよ」
ケンジが言う。「なんにも知らないんだな。”正月”ってのは初日の出の前にやってくるものなんだ。正月神とか歳徳神とか言うんだが、そいつが来ないと正月にならないんだよ。去年兄ちゃんから教わったのさ」
「父さん、そんなこと言ってないぞ」
「ああ、大人は誰も何も言わない。兄ちゃんが言っていた。大人になると忘れてしまうんだってさ。昨日、兄ちゃんに尋ねたら、兄ちゃんはもう、言ったこと忘れてた。兄ちゃんは徳山さんところの大七さんから聞いたって言ってた」
「”正月”って捕まえられるのかい?」
「ああ、相性が合えば捕まえられるってさ」
「捕まえたらどうすんだよ」
「食うんだってさ。すると肝の座った本物の漢(おとこ)になれるんだってさあ」
「で、ケンジの兄ちゃんは捕まえたのか?」
ケンジは口ごもり、その後答えた。
「捕まえそこねたのかな。だから話さないのかもしれない。兄ちゃんは恥ずかしいのかも。逃しちゃって」
「初めて聞くよ。そんな話」
「小さい子には無理だって。ぼくらくらいの年齢でないと。危ない場所だし、もっと大人になれば忘れてしまうから」そうケンジは説明した。
「ユウタ、ゴロウ、どうする?」
「どこへ行けば”正月”を捕まえられるんだよ?」
「東の岬の右の方だってさ」
「東の岬の先端は奥の院だから、集落のみんなはあそこに初日の出を拝みに来るぞ。えらい人出だ」
「あそこじゃない。真東の石棚になってる場所。そこが”正月”が来るとこだって」
その石棚にたどり着くには獣道を辿らなくてはならないし、急坂になっていて危険だ。だから、普通、人は近づかない。なるほど、とゴロウは思った。昼でも行くのに勇気がいる。
「どうする。”正月”を捕まえに行くか?」
「みんなで捕まえるんだよね。行くよ」「根性見せるよ」「何時に”正月”は現れるんだ?」「日の出前だよ」「じゃあ、朝6時前には石棚で待機だな」「どうやって捕まえる?”正月”の大きさはどれくらいだ?」「知らないよ」「大きめの網を持っていけばいいよ。大は小を兼ねるって」
4人は初日の出を拝みに行くと言って、東の岬近くのバス停に集合した。バス道路から細い道を下る。下見をしていたケンジが先頭を歩いた。ゴロウは首に魚釣り用の竹籠を吊るしていた。それに”正月”を入れるつもりだ。
岬の方から大人たちの話し声が聞こえる。子どもたちは気配を消して下っていく。「着いた」
岩棚だった。3畳ほどの広さだった。下から潮騒が響く。海の果ては暗かった。夜明けは遠い。4人は腰を下ろし、ぼんやりと待つ。
「ほんとうにここでいいんだな!」「兄ちゃんはここだと言ってた。間違いない」「”正月”ってどんな姿してんだよ」「わかんないよ。見りゃ、これが”正月”だ!ってすぐにわかるってさ」「日本中が正月になるのに、どうしてここだけに見える”正月”が現れるんだ?」「知らないよ」
それからしばらく待つが”正月”の気配もない。
「ほんとうに”正月”っているのか?いないからケンジの兄ちゃん言わなくなったんじゃ?」
「いるよ。絶対にいるって。だから弟のタクミにも来年”正月”を見つけに来ればいいと教えたんだ」
岬の方では大人たちは酒盛りを始めたようだ。歌声も聞こえた。「やっぱりケンジは騙されたんじゃ?」とユウタが言いかけたとき、ゴロウは崖下から何かが登ってくる気配を感じた。
「来た!」
岩棚の周りの草が揺れ、黒い塊が飛び出した。ゴロウは両手でそれを捕まえた。しかし、ふわふわとしたものがゴロウの手から飛び出す。ゴロウにはわかった。「こいつが”正月”だ」タカヒロが大きな網をそいつにかぶせた。
「捕まえた!」「”正月”だ!”正月”を捕まえた!」網から飛び出そうと”正月”は暴れていた。残りの3人も加わってみんなで網を押さえた。ふわっとして、膨張したり縮んだり。「鳴いたぞ」「聞こえない」「”正月”か?」「間違いない。”正月”だ!」「ぼくもそう思う」「どうする?」「食うんだよ!漢になれるから」「生で?」「当たり前だ」
そうは言ったものの、4人は網を押さえたままじっとしているだけだ。海の果てが赤く染まっていた。しかし太陽は昇らない。明るくなれば”正月”がどんな姿かわかる。それから食べればいいのに!とゴロウは思った。しかし、太陽が姿は見せない。
岬の上では大人たちが騒ぎ始めていた。「どうした。初日が昇らないぞ」「正月にならないじゃないか!」
子どもたちは顔を見合わせていた。何がどうなってる。
ズン!と音がして、岩棚に誰か転がり落ちてきた。「ジイちゃん!」ケンジの祖父だった。4人の様子を見てジイちゃんは「やはりそうか」と。「”正月”を捕まえとりゃあ、初日は昇らんよなあ。ふと子供の頃を思い出して、そういうことかもと見に来たんじゃ。”正月”を離してやれ。もうお前たちは十分に漢だから。ええだろう。世界中を、正月にしてやらんと」
網から手を離すと、動いていたものは甲高い声を出して消えてしまった。
「さあ、岬に上がれ。いっしょに初日の出を見ようかね」そう言って子どもたちの頭を撫でる。
ケンジのジイちゃんは「なつかしいのう。子どもの頃のことを思い出せた」と岬へ上っていった。ゴロウたちが振り向くと、まさに初日が登ろうとしていた。
「”正月”を放してやったからだ。ぼくたち”正月”を捕まえたよな」
「ああ、捕まえた。逃してやったから、世の中に”正月”が戻ったんだ」
一度昇り始めた初日の速度は遅れを取り戻そうかという勢いだった。しばらく4人は立ちつくし、初日に目が釘付けになっていた。思い出したようにケンジが言う。
「お前たち”正月”を食ったのか?ぼくは一口だけ食ったぞ。網の中にいたときにな。だからぼくは漢だぞ。うまかった。お前たちも一口ずつ食えばよかったのに。肝(ガッツ)が座ったのに」
私にはそれが本当のことだというのはわかっていた。しばらくケンジの口から初日と同じ光が漏れていたからだ。しかし光はすぐに消えてしまい、いつの間にか気配もなくなってしまった。しかしあれが本物の”正月”だったのだ。
あれから4十年経った正月に4人は島に帰り酒を飲んだ。”正月”を捕まえたことを覚えているのは私だけのようだった。いや、私もずっと忘れていたのをさっき急に思い出した。なぜ思い出せたのだろう?ひょっとして”正月”を捕まえることのできる子どもの心に、思考が逆戻りしつつある、ということなのか?そう考えた一瞬後、その思いは彼方へ飛んでいってしまっていた。