満月の夜になると、獣に変身する人間がいるというのは伝説ではない。本当のことだ。私もその中の一人。おかげでまともな人間生活が送れずに悩んでいた。いや、私が狼男というわけではない。念のために。そこで、名医がいるとの噂を耳にしてここにやってきた。その名も“大神クリニック“。こちらの先生もかつて私と似たような悩みを抱えていて、治療法がないから自分で治せるようにしよう、と医者の道を志したと聞く。病院名からもわかる通り、先生も人狼なのだ。満月の夜になると狼男に変身するという。だから満月の日は休診ということになる。
「先生は狼男ですか?」と真っ先に尋ねたのだが、先生は否定することもなく「ええ、その通りです。世の中には、私のような変身症で悩んでおられる方がいかに多いか。でももう悩まれることはありません。そんな変身症の方々のお役に立ちたいとクリニックを立ち上げたのですから」と言ってくれた。先生の言葉を信じてみようと思った。
「どんな症状でお悩みですか?」
私が症状を伝えると、先生は「なあるほど」と膝を叩き「ではグループ療法が一番いいかも知れませんね」と。
グループ療法の部屋に入ると、すでに十数人を超える男女が椅子に座っていた。程なく先生が現れ椅子に腰を下ろし、愛猫を撫でながら、口を開いた。
「まずお一人づつ症状を話してください。みなさんの話を聞けば悩みが自分だけではないのだとおわかり頂けるかと思います」
最初は男が話し始めた。「私は麺類を食べることができない。麺類を口にすると頭に角が生えて、手足に蹄が生えてきて、牛男になってしまいます。凶暴性はないのですが、人間に戻るまで涎を垂らして怠惰になってしまいます」
満月の夜とは関係ないらしい。先生が男にラーメンを与えると、実は見るだけで我慢できなくなるらしく、みるみる食べてしまう。すると頭から角が生え、四つん這いの人牛と化した。私はあんぐりと口を開いた。これは予言する妖怪“件(くだん)“ではないか。
次は大男だ。「私は酒を飲むと変身します。酒席で何度失敗したことか…」先生が彼に差し出したのはコップ酒だ。「やめてください。我慢できない」大男は自分の手を手錠で拘束した。彼の口に酒が注がれると、なんと男の全身に縞ができ、耳が立ち、大トラ男に変身したのだった。大トラになった彼は泣き叫ぶ。彼は泣上戸でもあるようだった。先生の膝にいた猫が驚いていた。
各人は自分の番になると、自分の変身後の姿について語り始めた。私は世の中にはこんなにいろんなものに変身する人がいるのだと知り、安心すると同時に呆れ返ってしまった。私は変身するのは狼男くらいかと勝手に思い込んでしまっていたようだ。りんごを見るとヘビに変身する男もいた。イブに禁断の果実を食べさせた先祖の呪いなのだろうか。
次の女性は走り始めるとウマに変身してしまうという。だから走れないのが悩みだとか。しかし、他の人たちからは「今はウマ娘はブームじゃないですか!」としきりに羨ましがられた。満月を見ると変身するのは、犬に変身する男くらいでヒツジやウサギに変身する女性は何が原因かわからないという。狼男に変身する人以外にも、いろんな変身の条件があるものだ。一つ共通点に気づいたのは次の男の話からだった。
「私はドラゴンに変身するんです」と。ドラゴンなんて架空の動物ではないか。実存しない動物に変身できるわけがない。そう思った。「私はヌンチャクに手にすると」バッグから男はヌンチャクを取り出し上半身を脱いで手に持った。すると顔がみるみる変貌していく。眉が濃くなり、眼がぎらつき、むきむきの筋肉が浮かび上がってくる。「ドラゴンに変身するのです」そしてヌンチャクを振り回すと甲高い奇声をあげた。
“アチョー!!
“部屋の隅に逃げていた猫が驚き飛び上がる。
まるでブルース・リーだ。まさに男はドラゴンに変身していた。
彼らに共通していたのは、彼らが変身するのはどうも十二支に関係する動物だということだ。
さて今度は私の番だ。私は立ち上がった。「私は満月の夜にネズミになるんです。ただし姿がネズミになるだけで人を襲ったりすることはありません。しかし、みなさんの話を聞いていて、それぞれさまざまな悩みを持っておられるんだなと驚きました」
満月ではなかったので私はネズミに変身することなく自分の症状を伝えることができた。自分だけが変身の悩みを抱えているわけではないことがわかっただけで心穏やかになった。
そこで先生が皆に言った。
「他の方の話を聞かれて、どう感じられましたか?正直な話、私は自分の経験や知識からみなさんの症状を治す方法を見つけてはいません。しかし、あとはみなさんの心の持ち方です。同病の方の存在を考えれば、気の持ち方も楽になるはずです。それからこの悩みは人間だけではありません。獣の中にも条件が揃えば人間に変身するものもいるはずです。」ということで、この日のグループ療法の会は解散になった。帰ろうとすると、一人の女性が私を追いかけてきた。
「ネズミに変身するんですね。私、漫画映画でも遊園地でもネズミの大ファンなんですよ。もっと親しくなりたいわ」
よく見ると、とても魅力的な若い娘だ。はて、彼女はさっきのグループにいたっけ?思い出せない。彼女は変身するとどうなるんだっけ?いや、彼女は自分のことを話していないのでは?彼女の正体は誰なのだろう。
しかし、彼女の態度が猫っかぶりで猫撫で声を使っているようにしか思えない。彼女が私なんかになんの興味があるんだろう?彼女が私に近づく理由はなんなのだ。気にはなるが、美人だし、まあいいか。
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第234回 女神降臨
よく百円ショップを利用する。必要なものができたときは、とりあえず飛び込むし、必要がなくても、暇なときは百円ショップに寄って時間潰しをする。掘り出し物もよく見つけたりする。小物を入れる缶ケースや、木の蓋のついたガラス容器。ちょっとしたサコッシュも。迷ったら、とりあえず買う。買っても後悔しないのが百円ショップのいいところかな。
その日も別に欲しいものがあったわけではなく、ふらりと百円ショップに入ったのだった。そこで「伸びる靴ひも」なる変なアイテムを見つけた。一瞬迷ったものの、一応買っておこうとレジへ向かった。
この日は客が少ない。だからかもしれないがレジは二つしか使われていなかった。今は、セルフレジも多いのだが、やはり人が対応してくれた方がいい。男性のレジと女性のレジがあったのだが、女性のレジを選んだ。別に理由はないのだが、やはり女性に対応してもらった方がソフトな感じがするというだけのこと。
商品と代金を差し出したときだった。目の前のレジの女性の全身が白く輝いた。なにごとかと立ちすくむ。
確か目の前にいたのはメガネをかけ事務用の前掛けを着た、どこにでもいるおばちゃんだったはずだ。しかし、今そこにいるのはなんともおごそかな、輝く白衣をまとった女性だった。あんぐりと口を開き、全身がフリーズしてしまった。いったい何が起こったのだ。
白衣の女性はやさしく微笑んで言った。その声は慈愛に満ちていた。
「いつも百円ショップをご利用下さり、ありがとうございます」
「あなたは……?!」
「私は百円ショップの女神です。あなたがいつも百円ショップをご利用されているのがわかって、あまりの嬉しさに姿を現してしまいました。いつも、ありがとうございます」
「女神……なんであなたがレジにいるんですか?」
「はい。いま人手不足で募集してもなかなかバイト希望者が集まらないんですよ。その苦境を見かねて、私もレジを手伝っているんですけど」
そうか。どこも人手不足とは聞いていたが女神が手伝わねばならないほどバイトは集まらないんだなあ。
「わかりました。女神さまも大変なんですね」
「ええ。お気遣いありがとうございます。私は、いつも百円ショップをご利用いただくあなたの姿を見て、何かお礼を差し上げなくてはと我慢できなくなりました。女神として、あなたの願いをかなえてあげたい。この百円ショップにあるものなら、なんでいいので欲しいものを願ってください。あなたに差し上げましょう」と女神は表情を輝かせながら言う。しかし、なんでも欲しいものと言っても、願うほどのものはない。どれも自分の小銭で買えるのだから。
女神にニコニコしながら言われても困ってしまう。「いや、欲しいものができたら自分で買いますから」
すると女神は両手で顔を覆い首を振った。
「なんという正直で欲のない人でしょう?こんなに無欲な人は初めてです」と買い被られてしまった。いや、欲しいものがないと言うわけではないのだが、切望しても手の届かないものが、百円ショップにはないというだけのことだ。もし湖の女神なら「あなたは正直ものです。湖に落とした斧でなく、金の斧も銀の斧もあげましょう」と言ってくれるところだ。そっちの方が金の斧と銀の斧を貴金属店に買い取ってもらえるから、いいかもしれないな、とぼんやり考えていたら、女神はとんでもないことを言い始めた。
「欲しいものがあれば自分で買うと言い張るのを見て、あなたに何が足りないかがわかりました。人間は生まれつき欲を持っている存在です。あなたには、その“欲“が欠落しているのですね。だから欲しいものは自分で買うなどと言ってしまうのです。あなたは正直ものだから、あなたに欠けている“欲“を授けましょう。なんでも欲しくなる“物欲“。地位を望む“名誉欲“。美味しいものを食べたがる“食欲“。疲れたときに休息するための“睡眠欲“。そして…それらすべての欲望をあなたに」
とんでもないことだ。そんなものを与えられたら、自分が何をしでかすことになるかわかったもんじゃない。いや、もはや心を欲望の塊に支配されたケダモノのようになってしまいかねない。
どうも、この女神はおかしい。もっとも、女神でなんでもできるなら、この百円ショップも自分が人の姿に化けて手伝うようなことをせず、アルバイト希望者が増えるようにできないものなのか?人の願いをかなえることができる女神なら、当然そのくらいまず最初にやれるはずだろう。
「せっかくの申し出ですが、私は私の無欲さが気に入っています。ですから、私に欠けている欲望をくださらなくてもけっこうです。それよりも、この百円ショップですが、レジを担当される前に店内の床の汚れや埃、塵、ゴミの散り具合を女神さまの能力でどうにかされませんか?そしてレジ担当者を女神の能力で集められてはいかがですか?」
女神は哀しそうな表情だ。「残念ながら店のことは私自身にはできません。でもあなたの力を借りれば店をきれいにできますが」「私の力を…?」「そう。ショージキ者の貴方の」「いいですよ」と言うと女神は杖をひとふり。
私は変身させられた。
いま、私は電気ショージキとして店の床をきれいに掃除してまわっているのだが…。これでいいのか?
第233回 花咲か爺さんの陰で
三月の下旬。サクラの蕾も膨らみ始めていた。来週には咲き乱れて、この公園も凄いことになるのだろうな、と散歩していたときだった。
一人の老人が恨めしそうにサクラの木を眺めていた。
老人は痩せて貧相だ。おまけにゲジゲジ眉のギョロ目。いかにも欲が深くて意地が悪そうだった。
どうもこの人は見覚えがある気がする。だが会ったことはないような。なぜだろう?思わず声をかけた。
「あなたはひょっとして……」そこから先が言葉に詰まって出てこない。
誰だったろう…。
「わかりましたか!?」と老人は目を輝かせた。
有名人だろうか?
「そう。私は花咲か爺さんの隣に住んでいた通称“いじわる爺さん“ですよ。そのような目で世の中の人からは見られている。ちがうんです。これには大きな陰謀が隠されている」
「ええっ!」
「サクラが咲き乱れる時期が来ると、辛い思い出が蘇る。私の話を聞いてくださいな」
いじわる爺さんは、腰を下ろすと天を見上げてとつとつと話し始めた。
「うちで畑をやってましてね。種を蒔いていると、必ず白い犬がやってきて掘り返すんですよ。二度三度と繰り返すので追い払った。その犬がいつの間にか隣の老夫婦の家に住みついたんです。まあ、それでもこちらに悪ささえしなければよいか、と思ってました。その頃、近くに盗賊が出るという噂があり、物騒なので家の近くの松の木の下にやっと貯めた財産を埋めて隠したんですよ。それを隣の白犬が見ていたんでしょうね。気がついたときには、隣の爺さんをその松の木まで連れて行って掘らせていた。隣の爺さん大喜びですよ。犬が教える場所を掘ったら金目のものが出てきたんですから。そりゃ、うちのものだと主張したが土の中にあるものは誰のものでもないはずだ、と。そう言われたらこちらはぐうの音も出ません。おかげで私は無一文です」
「隣の爺さんに頼み込んで白犬を借り出して『あれはうちの財産だったんだ。どうして隣の爺さんに』と愚痴ると、なんと人間の言葉で私に言ったんですよ。『ふ・ふ・ふ…実はわしは犬じゃない。こいぬ座プロキオンから地球を侵略しにきているエイリアンだ。犬の姿は、怪しまれないように地球征服活動をするため。その間の暇つぶしにやっただけだ』」
「地球征服とは大変だ!私の財産どころではない。私はそのとき手に持っていた鍬で反射的に犬に化けたそいつを殴り殺しました。私は地球を救ったんです。だが、そのことを隣の爺さんに伝えても信じてもらえません。そして私の目を盗んでエイリアン犬を埋葬していたのです。しかしあいつは黙って死んでいるような生やさしい奴じゃなかった。自分はまだ死んではいない。征服するどころか、いっそ地球を滅ぼしてやる!そう私の夢枕で宣言するのです。もう、犬の体はいらない。これからは好きなように隣の爺さんの肉体を操ると。隣の爺さんは憑かれたように松の木を切り倒し、犬エイリアンの命ずるままに臼を作り始めました。つくと金銀が生まれてくる臼です。それで爺さんばかりか他の人々をも惑わそうとしていたのです。私はなんとか隣の爺さんを欺き、跡形もないように臼を燃やしたのです」
「これで一件落着と思ったのですが、隣の爺さんは燃やした臼の灰を持ち出しました。まだエイリアン犬に操られていたのです。その灰には人々を幻覚に陥れる力がありました。灰を吸うと、どうも人々の脳は美しいものを見たと錯覚して、自分では何も判断ができなくなり、犬エイリアンの傀儡となってしまうらしいのですよ。その灰を老人は蒔いて回りました。人々の目がどろんと濁っていたから、美しく咲いたサクラの花でも見えたのでしょう。それは仮想現実のサクラです。私は鼻口を布で覆い、その様子を見届けました。これではいけない。私は密かに人心を惑わす幻覚灰の解毒剤の開発に着手しておりました。しかしそれが完成したときはすでに遅く、エイリアン犬の奴隷と化した自称“花咲か爺さん“に殿さままでも枯れた松にサクラが咲く幻覚を見せられていたのです」
「私は殿さまの前に飛び出し、幻覚灰の解毒灰を天よご照覧あれ!とまき散らしました。殿さまの視界は奪ってしまったものの、無事に幻覚からお救いすることができました。私はこうしてエイリアン犬の恐怖と陰謀を阻止したのに、殿さまのお怒りも誤解も解けず、ついこの間まで牢で服役しておったのです。やっと解放され、本物のサクラが咲くこの公園にやってきました。ここでは、もうすぐ天然の美しいサクラを見ることができるんですね。私は世の中では欲の深いいじわる爺さんということになってしまいました。なにそれでも構いませんよ。なにが真実か皆が知らなくても、世の中の陰謀を私が防ぐことができた、そう考えれば満足なのですよ」
そうだったのか。世の中は陽と陰でできている。なにが真実なのか?それは大事なことだが、真実のわかる人間がどれだけいるというのか。
さっき恨めしそうに見えた老人の表情が、私には実は世界を救った満足の表情に見えるようになったのは皮肉なことだ。
すると、近くのサクラの木の下に老婆たちの姿が見える。目が合うと老婆たちは私に近づいてきた。そして語りかける。
「舌切り雀の真実を知りたくありませんか?どうやって世界を守ったか」
「どうやってヘンゼルとグレーテルの不良兄妹を躾けることができたのか、詳しくお話しできますよ。この火傷ももうすぐ治ります」
第232回 死神 vs 生神さま
世の中は、さまざまな偶然で出来ている。
たとえば、私。数日まではそこいらのどこにでもいる平凡なサラリーマンだった。
その朝、通勤していると目の前で女の子が自動車にはねられ十メートルほども飛ばされて道路に叩きつけられた。
救急車を呼べ!息がないぞ!と騒ぐ人々を尻目に私は横たわった女の子を抱きかかえた。
なるほど顔に血の気がなく息をしていない。
私が「しっかりしなさい」と揺すると、なんと!女の子は呻き声をあげた。
顔に血の気が戻っていく。一時的に仮死状態だったのだろう。
皆が私を指差して「この人のおかげで生き返ったぞ!」まったく外傷もないようだ。よかった!と私が言った瞬間だった。
私の背後に閃光が走り雷鳴が轟いた。空は晴れているのに私の後ろの樟の巨木に雷が落ちたのだ。
青天の霹靂が文字通りに現実に起こるとは。これほどの偶然を私は知らない。
偶然がいくつ同時に起これば奇跡と呼ばれることになるのか。女の子は立ち上がり、私に礼を言った。
そして周囲の人々は平伏して私に“神さま“と祈りはじめた。そう呼ばれて悪い気はしない。
「神さま」だけじゃない「生き神さま」と。
そして「何かお言葉を」
私は軽くため息をつき、何と言うべきか考えた。
思いつかないが神さまといえば聖書だろう。聖書に書いてあるのは‥愛という単語だったかなあ。
確か、神は愛であると言ったな。「愛‥‥」と言うと怒涛のように叫びが湧き上がった。
「生き神さまがお言葉をのたまわれた」それで十分だったのか。私の背後でビートルズのオールユニードイズラブが流れていたような気がする。
愛こそ、すべて‥か。
それから私は生き神さまになった。その翌日の新聞にも私のことは載っている。私も生き神さまとして一躍有名になったようだ。
来客だ。玄関に出るとひょろりと背が高い陰気な男が立っていた。全身黒ずくめ。
「どちら様ですか?」
「死神と申します」
「死神って、あの死神ですか?」
「そうですが」
「なぜここへ?」
すると死神という男はじっと私を睨んで言った。
「あなたのことを新聞で読んだのですよ。誰も私のことは歓迎しないのに、あなたは新聞に載って褒め称えられているじゃありませんか。一度会っておかなくてはとお訪ねしたんですよ」
私は慌てて「いえ、私が生き神かどうか皆が言い出したことで本当かどうかもわからないのですよ。
私には神の自覚などないし、私なぞ無視されるのが一番かと思いますよ」
すると死神は大声で言った。
「いや、ここへ来てあなたを一目見たときからわかりました。どんなに否定しても嘘はつけません。あなたは生き神です」
そうか。死神に断定されるくらいだから、私は本当に生き神になったのかもしれない。
「はあ。わかりました。納得されたらお引き取りください」死神にいつまでもいてもらっては私も困る。
いや、本人は死神と言っているが本物かどうかもわからない。心を病んだ人かもしれないではないか。
「いや、私はあなたが生き神というのが許せないのです。だいたい、私のことは皆死神と呼び捨てにするのに、あなたのことは生き神さま、と“さま“付けするんですか」
「それは私が言い出したことではないからなあ」
「しかも、生き神は皆で敬うのに。私のことなぞ名前を聞いただけで慄えあがる。何という不公平。しかも、私が死神であなたが生き神。名前は正反対の意味なのに言葉のニュアンスはまるで違う。不公平すぎる」
「でも死神さんは、自分が死神だと確信しておられるんですね。なぜですか?」
「私はなぜか、これから死ぬ人の周りに引き寄せられてしまう。なぜ引き寄せられるかわからないが、その人に一定以上近づくと必ずその人はすぐ死んでしまう。だから気づいたのですよ。私が死神であるということにね」
「どのくらい死神をやっているですか?」
「さあ、とにかく物心ついてからずっとですからねえ」
この世は人で溢れている。引き寄せられて人が死ぬくらいでは間に合わないのではないか?
「死神って、あなた一人なんですか?事故や戦争で大量に死者が出るときはあなた一人で大丈夫なのですか?」
「いや、ひょっとしたら実は死神というのは私だけではないと考えるようになってはいたのですがね。死神という職業があるのではないか、と」
「なるほど。じゃあ生き神というのも私の他に何人もいるのだ、と考えてもおかしくはないわけですね。で、どうしようと思うんですか?」
「ふふふ、おわかりですか!」と死神が薄笑いする。嫌な予感だ。死神は死ぬ人の周りに引き寄せられると言っていた。
私の前にいるということは……私も。
そのとき。「待て!待て!待て!」と大声で男が飛び込んできた。
すると死神がへなへなへなと私の前で倒れ込んだ。助かった。これで死神の餌食にならずに済む。
しかし彼は?「あなたは何者ですか。死神から私を助けてくれてありがとう。あなたは何者ですか?」
男は自分の胸を叩いて得意そうに言った。
「名乗るほどでもありませんが、実は私もやはり神なんです。でもこんな場所に引き寄せられるんです。ええ。失う神と書いて失神というんですよ」

第231回 おさご幻奇譚
皆さま、明けましておめでとうございます。今回は、ショートショートではございません。実は今月から熊本日日新聞で新しい連載小説を始めます。その紹介をさせて頂こうというわがママなコラムに致しました。
タイトルは「おさご幻奇譚 むかし山都町で」です。ひょっとしたら時代小説じゃないのか?と思われた方、まさにご賢察!そのとおりです。
私、これまでいろいろと書いてまいりましたが、時代小説を長編で書くのは初めての挑戦になります。「つばき時跳び」という作品は主人公のつばきという女性が江戸時代の人物という設定ですが、タイムトラベルして現代にやってくるという物語で、前半が現代、後半に江戸時代という半分時代劇半分SFという構造にしており、話を通してみるとタイムトラベルSFというべき話かなと思っているのです。
さて、つばきという女性はフィクションですが「おさご幻奇譚」の主人公おさごは実存した女性なのです。
「おさご幻奇譚」は、このカジシンエッセイの第81回で取り上げた『仏原騒動』の物語です。
延宝2年、西暦1687年のこと。
山都町の清和文楽館の近くの仏原で起こった事件。かつてここに結城半太夫、十太夫という地侍の兄弟がいた。その年の正月に夢枕で半太夫にお告げがあった。それによると、高千穂神社に天下を取ることのできる巻物がある。その巻物を持ち帰るべし、と。早速、高千穂の神社より巻物を持ち帰り、巻物を壁にかけ、仲間を集めて騒ぎ始めたところ、その知らせを聞い矢部の惣庄屋が、これは一揆の企みかと武装して結城家を取り囲み、半太夫、十太夫は斬り合いの後に死亡。そしてこの騒ぎに加わったものたちは取り調べのうえ、ことごとく打首になったと伝わっています。
私がはじめに知った情報はそのくらい。それ以上のことがわからず、自分なりに『仏原騒動』について調べ始めたのですが、なかなか詳しい資料にたどり着けませんでした。調べていくうちに事件は、結城半太夫、十太夫だけではなく実は五人兄妹によるものらしいことがわかってきました。その頃になっておさごという妹の存在も知りました。
『仏原騒動』のいろいろな資料をつき合わせていくと、それぞれ書かれている内容が異なることもわかってきました。兄妹たちが“八福輪“という宗教を信じる狂人たちだと書かれているものもあり、愛藤寺城大将の結城弥兵次の一族であり末裔であるという記述もありました。結城弥兵次は小西行長の流れだから、隠れキリシタンであったという説になります。
騒動の元となった高千穂三田井宮(高千穂神社)から持ってきた巻物は源頼朝ゆかりのものであるという説や、義経が使った『六稲三略(ろくとうさんりゃく)』というものでこの巻物のとおりにすればどういうやり方をしても勝つという兵法巻物である、という説。
こりゃ真実は言ったもの勝ちということじゃないか、というのが正直なところです。
自分なりに現地に足を運んでみました。山都町の仏原騒動跡。国道218号の清和文楽館から少し馬見原寄りで国道から中に入ったところ、石段の上にぽつんと枯れたススキに囲まれて石碑がありました。
これだけでは、いったいどのような事件だったのか現在では想像することもできません。人が訪れた形跡もほとんど感じることができませんでした。それから、問題の兵法の巻物を手に入れたという高千穂神社にも足を運んでみました。仏原から高千穂まで、自動車を使い日向往還ルートを走っても25キロあります。往復で50キロ。現在のように道路が整備されていない山道を半太夫はお告げを信じて往復できたのでしょうか?兵法書がどこに置かれていたかも知っていたのか?
さまざまな疑問が湧き起こりました。
もちろん、神社にも問い合わせました。宝暦二年に巻物が盗難にあった記録があるのかどうか?
高千穂神社には、そのような記録はないという返事でした。そして、仏原騒動のことは初耳ということで。まあ、代が替わるに従い失われる記録もあるのでしょうね。
ただ、調べていてわかることは、この仏原騒動について山都町の方たちもほとんどご存知ないということ。ご存じの方でも、あまりよい印象を持っておられないということ。
とすれば、この話を読んでみたいと思って頂くには、どのような語りをやっていけばいいのか?それが、まず最大の問題ですね。
宝暦という時代の山都町の地侍たちの暮らしはどうだったのか?できる限りリアルに調べていきたい。そんな悩み。
県立図書館の丸山学芸委員にご相談申し上げると、なんと、懇切な新資料をたくさんご紹介頂きました。ありがたいことです。
とりあえず連載をスタートさせますが、調べていて興味が湧いたのはやはり妹のおさごです。後に処刑されていますが、彼女には「幻術を使った」という言い伝えがあります。「おさごは断崖絶壁の中途で機を織って見せた」「水の上を歩いてみせた」とも。
仏原騒動を語る上で主軸になる人物は、おさご以外にはない。と今は考えています。そして負のイメージを持つこの事件が、山都町の方々に誇りを持って語り継いでいく出来事になれば、と願っていますし、それが私のこの小説を書く使命になると信じています。
よろしく、連載おつきあい下さい。

第230回 ピエロの日
帰宅すると封筒がきていた。赤と白と黄色の奇妙な模様が描かれた封筒で、嫌な予感がする。
開けると予感は的中した。
抽選に当たった成人はその地域で六ヶ月間ピエロにならなくてはならない。これは法で定められたことだ。法が制定された当初は騒がれたが、今はもう理由が云々されることはない。既成の法があるという認識だけだ。
そして何ということだ。私が“公共道化師従事者“に指名されてしまうとは。拒否することはできるが、拒否者の氏名は報道され、皆に知れわたる。そしてピエロを拒否した反社会人物として世間から白い目で見られることになる。挙句、一家心中に追い込まれた例も知っている。「お父さん、荷物が届いたよ」と息子が教えてくれた。けっこう大きな箱だ。開けてみると、私の体型に合わせたピエロの服が入っていた。帽子もあるし、私の足の倍はあろうとかいうドタ靴も入っていた。そしてドーランなどピエロのメイク用品も一式。もちろんピエロ期間中も、私の私生活はこれまで通りだ。しかし人前ではピエロの格好で過ごさなくてはならない。事務職であればいいのだが、私は営業職だ。それをピエロ姿でやらねばならないとは。そのことを前もって会社の上司に報告すると「たいへんだね。無事に務めあげてくれ。兵役に行くと思って」と激励してくれた。妻も「大丈夫?」と心配してくれた。ただ「公共道化師報酬」が出るのが慰めだが、額は微々たるものだ。これは地域社会への奉仕と自分に言い聞かせるしかなかった。
さて、私の「ピエロの日」がやってきた。服を着て顔に化粧をして、つけ鼻をする。帽子をかぶって鏡の前に立つと、立派なピエロだ。妻が私を見てぷっと吹き出し、申し訳ないと思ったのか顔を覆った。そして言った「お義母さんが見えましたよ」心配で駆けつけてくれたようだ。母は私を見て言葉も出ない。顔を伏せ肩を震わせている。泣いているのか?あまりの哀れさに。違った。母は泣いて肩を震わせているのではなく、笑いを堪えていたのだった。それから息をヒィヒィ押し殺して私に言った。「無事に、立派に、半年お務めしなさい」もう私に逃げ道はないようだ。
出勤のため玄関を出ると、そこは人の山だった。一目だけでも私を見ようと広報を見て集まってきていたのだ。皆が私にスマートフォンを向ける。新人のピエロをS N Sに載せようというつもりらしい。カメラの音と歓声。
役所の担当者が近付き、いくつかの確認事項を読みあげ、感謝を伝えて去っていった。
それから私は電車に乗り職場へと向かう。電車に乗ると、乗客たちが歓声をあげた。「ご苦労さまです」と。「どうぞ使ってください」と席を一列空けられた。仕方なく座るとここでもスマートフォンで撮られ始める。一人だけ幼児が大声をあげて泣き出した。「怖いよー。あの人怖いよー」と。きっと“道化恐怖症“の子どもなのだろう。申し訳ないと思う。そういえば、ホラー映画でもピエロが登場する作品は多いものな。そして会社へ。ピエロ姿を見て女性社員が大興奮。「ほんとだったんだー」近づいてこない人と、駈け寄る人。人の反応は二極に分かれていた。そして上司は前日までは「立派に務めろよ」と言っていたくせに、腹を抱えて笑い転げていた。それまで言っていたことと、反応がまるで違うのだ。同僚からも私がいないところで上司が、あそこ迄不様にやれるのかね、と嘲笑っていたと聞いた。どうして、そんな抽選に当たったのか。得意先への営業ももちろんピエロ姿だった。得意先の私への反応がそれまではややツッケンどんだったのが、ピエロ姿だと逆に丁寧になったのは意外だった。
それも最初の頃だけ。なぜ期間が六ヶ月かという理由もぼんやりとわかったような気がした。周囲の人々も私のピエロ姿に馴れて来たようなのだ。私も顔のメイクを変えてみるようになった。口角を下げて書いてみたり、びっくり目にしてみたり。服も他の縞々模様にしてみたり。私自身もピエロ姿が当然だと思うようになり、通勤電車に乗っても何も感じなくなる。もちろん、いくつかのできごとが私がピエロ姿になってから起こった。たとえば妻の反応。私が外出しようと誘っても何かと理由をつけて断ってくる。やはり、こんな姿の私とどこかへ行くということが妻には耐えられないことなのか。それを妻に尋ねてみたいのだが、尋ねるのが怖い自分もいる。
小学校から帰って来た息子が泣きながら言った。いじめられたらしい。「ピエロの子ならピエロの子らしくもっと面白いことやってみろ。ピエロの父親は家でもピエロなのか」と。
ピエロの日がスタートしたときは、息子も小学校では得意そうだったというのに。世の中は、そんなものらしい。普通の自分とピエロになった自分。わからなかったことが見えてくるシステムではあるなあ。ふとそう思う。そして、その期限まで残りが少なくなってきた。ピエロは涙を顔に書き込むのが多いとか。滑稽な外見でも悲しみを内面に秘めているということなのだろう。私の顔に描く涙がだんだん大きくなっていったある日、見知らぬ男が私に近づき話しかけてきた。「私、公共道化師事務局のものです。道化師従事ご苦労様です。もうすぐ任期が終了ですが、少しシステムが変わりました。これからは抽選ではなく前任者が後任の道化師を指名できるようになりました。ですから次はどなたを指名されます?」
そう言われて考え込む。やはり、口では上手いことを言って悪口を言ってた上司なのかなあ。
いや‥‥いや‥‥いや。
それは‥‥‥、お前だあ!!
第229回 守ろう、食文化
突然の異動辞令だった。赴任先は初めて聞く地名の地方都市だ。単身なので、何も調べることなく移動先の支社に向かった。
支社は支社長と二人だけ。本社が送り込んでくれたメンバーということで、大歓迎を受けた。聞けば、支社長は現地の方とのことだった。穏やかな雰囲気で安心した。しかし、街を歩いてみると、何か違う気がする。その正体がわからないのがもどかしいのだが。それを除けば平凡な日本の地方都市だと思う。この違和感はなんだろう。
支社長が声をかけてくれた。最初の日だし帰りに一杯やらないか!と。もちろん断るわけにはいかない。行きつけの店ということだった。やってきたのはいかにもサラリーマン居酒屋という雰囲気の店だ。「まっしぐら」という店名。いい匂いのたち込める店内。支社長が「ビールと、適当に焼いてね」と言うと、すぐに串が出てきた。コップを合わせて乾杯すると支社長が喉を鳴らす。「おー、まずコバンか。王道だな」と串を手にした。私も串を取り口に入れる。甘い醤油味のジューシーさだ。しかし、なぜ、コバンというんだ。焼き鳥にも呼び名はいろいろある。胎内のタマゴをチョウチンと呼ぶし、肛門をボンジリと呼ぶ。「次は、ババとカリマシタです」変な部位の名だなと思って齧る。独特の食感だ。うまい。夢中で食すと支社長が満足そうに頷いた。
「うまいだろう。ここの独特の食文化だからね。この美味しさがわかれば、立派なこの土地の人間だよ」
私も同意した。「ここだけの味かあ。この土地で仕事できるようになってよかったです。こんなに美味しい焼き鳥は初めてですよ」
支社長は大きく笑った。
「こりゃあ、傑作だ。この串は、焼き鳥なんかじゃないよ。外の看板見なかったのか?居酒屋焼きネコまっしぐら、とあったろう」
「焼きネコ?焼き鳥じゃなくて?」
支社長は得意そうだ。な、なんてことだ。猫は大好きなのに。まさか串になって食べさせられるなんて。信じられない。なんと残酷残虐な土地なんだ。それで、この土地に来て感じていた違和感の正体がわかった。
この土地は港町にも関わらず、猫を一匹も見かけないのだ。猫たちはどうしたのだ。食われてしまったのか。
「へぇ次の串は、またたび焼きです」
新しい串がさらに置かれた。なるほど、焼き鳥の串の名にしては変な名前の部位と思った。猫にちなんだ串のネーミングだったのか。コバンは猫に小判。ババはネコババ。カリマシタは“猫の手を借りたい“からか。呆れた。そして猫好きな私は吐き気‥‥、を催すかと思ったのだが‥‥、うまい‥‥なんということだ、私は焼き猫の美味しさの虜になってしまったようだ。目の前のまたたび焼きに口内でじゅるっと唾液が溢れてきた。串を手に取り咥える。やはり美味い。私の舌が素直に反応する。噛みごたえが‥‥。自分の残酷さに呆れた。
「ねっ!この土地は最高だ。よそでは焼きネコは食べられないからね」と支社長は得意そうだった。
すると居酒屋の店主の顔が曇った。「ありがとうございます。でも、この店もやめなくてはならないようなんです」
「なんでこんな美味しい焼きネコ屋を閉めるんだ。なんとか続けてくれ」
「へぇ。実はこの都市の猫はほぼ食い尽くされましてね。材料が手に入らないんです。仕事を続けようにも、このままでは焼き鳥屋に商売替えしなくっちゃならないかと悩んでいたところなんです」
「それはいかん。この土地の焼きネコ文化は守らねばならん。そうだ。新しい猫の肉が手に入れば焼きネコは存続できるんだね」
「そりゃあ、もちろんです。けど、誰が猫を調達するんですか」
「そりゃあ、私たちだ。近くの山に猫たちがいっぱい生息していると聞いたことがある。そこで捕獲してこよう。君も、一緒に今度の休日に」
と、支社長は私の肩をポンと叩いた。私は「あ、はあ」と生返事するしかなかった。「しかし‥‥」と心配そうな焼きネコ屋の店主。
で、次の休日に私は近くの山まで、支社長のお伴ということになった。そこで、山に住む猫たちを狩って店に提供しようというのだ。支社長はニッカポッカを履いて猟銃を持ちハンター帽をかぶって万全のスタイルで現れた。私はといえば猫を狩るなんて生理的に駄目なのだが、これも業務命令の一環だと自分に言い聞かせて渋々ついていく。
「猫を狩ったら焼きネコ屋の親父、喜ぶだろうな。なかなか客に出さない貴重な部位を食べさせてくれるかもしれないぞ」と上機嫌でいた。
さて、山には入ったものの、話とは大違い。肝心の猫の姿は、まったく見当たらなかった。このままでは獲物はゼロだ、と支社長は山の奥へ奥へと入っていく。すぐに猫果が得られるものと考えていたらしい。やがて頭上にあったお日様も傾き始めた。昼過ぎだ。
「腹空きましたね」と弱音を漏らす。すると樹々の向こうに古めかしい屋敷が。レストランと文字が見える。
「腹が減っては戦はできぬ。ここで食事だ」と支社長。
中へ入ると誰も出てこない。ただ貼り紙が。「ここで着ているものをすべて脱いでください」
二人とも変だと思いつつ素っ裸になって次の扉を開く。ここにも貼り紙が。「全身にこのツボの中のクリームを塗ってください」支社長は疑うことなく全身にクリームを塗っている。この話は聞いたことがある。知ってるぞ。宮沢賢治の‥‥。そうだ、ここは山猫軒だ‥‥。この土地は弱肉強食の食文化でもあるのか?周りを猫たちの鳴き声が迫ってくる。
ここでは捕食者の頂点を人と猫が競い合っているのか!
私たちの悲鳴は猫の鳴き声で消え去ってしまった。
第228回 新しい家族
この日が来るとは覚悟していたものの、不治の病にかかり和江が亡くなって一週間が経つ。残された愛しい娘の悲しみは想像以上のものだった。私にしても妻の和江のいない喪失感から立ち直ることはできそうになかった。これからの日々をどう過ごせばいいのだろう。
祭壇の前で娘と二人、うなだれていたときだった。玄関でチャイムが鳴った。来客か。重い足取りで玄関に向かう。ドアの向こうに立っていたのは、信じられないことに、妻だった。「和江!」そして娘も「ママ!」
和江は、白い封筒を私に差し出し微笑んだ。手紙を読んで驚く。和江は自分の死期を知り、なんとか私や幼い娘を悲しませたくないと方法を模索したのだ。そしてたどり着いたのが、これ。自分そのものと言えるクローンを作り出すことだった。そして立ち振る舞いも自分そっくりの存在に教育して、死後に送り出すように準備していたようだ。亡くなった和江本人ではないかもしれないが、外見はまさに和江だ。「あなた、よろしくお願いします」とクローンの和江は頭を下げた。思いがけない母親の生還に娘は狂喜した。無理もない。私でさえ信じられないくらい嬉しいのだから。こんな奇跡があるだろうか?和江クローンに娘はよくなついた。和江からしっかり教えられていたのか、私の世話も雑務もすべてうまくやってくれる。妻の祭壇の世話もこなしてくれて、正直、奇妙な気持ちだ。だが、話していて、どこかが違うという違和感を拭えない。違和感の正体はわからないのだが。
それから数日経ったある日。チャイムが鳴った。和江が出ていくと玄関でフリーズしている。どうしたのだろうと見ると、和江の向こうに、もう一人の和江がいた。その和江も、私を見つけて微笑んできた。新しい和江も白い封筒を差し出した。受け取って開封してみた。妻の見慣れた筆跡だ。生前、彼女が書いたものに間違いない。手紙には、こうあった。クローンを作って送り出した後、どうしても気になり始めた。先に送り出したクローンは自分に似てはいたがどこか不完全な気がしてならない、と。だから、より自分自身に近いクローンを作ることにした。娘のためにも私のためにも、それが最善の方法と信じているから、とあった。じゃあ最初の和江のクローンはどうすればいいんだよ。よく見れば、今回来てくれた和江の方が確かに世話がよく行き届くような気もする。さて、前の和江を追い出すわけにもいかないし。前の和江には娘の世話に専念してもらえばいいか。最初のクローン和江も、今度のクローン和江も、まるで懐かしい家族同士のように互いを受け入れて生活するようになった。娘も二人の母親に最初は戸惑ったものの、すぐに慣れて、楽しそうに過ごすようになった。妻が二人になったからには、これまで以上に頑張らなきゃいけないな、と自分に言い聞かせた。それにしても、科学はどこまで進歩するものなのか。同じ和江でも今度の和江は料理上手だ。
我が家は和やかな日々が続くようになったある日。会社から帰宅して驚いた。なんと和江が三人に増えていたのだった。娘が言った。「新しいママが来たよ」新顔の和江も手紙を持参していた。それによると、前の二人の妻で不満はないのだが、心配なのは娘の教育のことだという。そういえば、小学校の娘の成績まで私の目は届いていなかった。新しい和江は子供の教育に特化して培養されているらしい。なるほど。娘は新しいママに勉強を習っている。「とても教え方がうまいの。わかりやすくて」しかし、三人女性が寄ればかしましい、とはよく言ったものものだ。同じ顔の三人がぺちゃくちゃしゃべっている。仲が良いのはいいことだが。娘はにこにこしながら三人の母親のおしゃべりを聞いている。しかし……。私一人の稼ぎで、これだけの人数を食べさせていけるだろうか?少し不安になった。
数日後、また新しい和江がやってきた。もう、驚くことはなかった。いや半ば呆れたものだ。新しい和江が持ってきた手紙には、こうあった。専業主婦だった自分には夢があったのだ、と。それは実業家としての自分の夢。それをこのクローンに現実化してもらいたい。このクローンなら大家族を助けることができると信じている、と。手紙の通り、新しい和江は外に出ると事業を興し、すぐに大金を稼ぐようになった。和江には、そんな商才もあったのかと舌を巻いた。おかげで経済的な心配は消え去った。これなら余裕だなと思っていたら、またしても新しい和江がやってきた。金の余裕ができて我が家の土地を買い足したら、その新しい和江は土地を庭園にと作り替え、植物たちの世話を始め、庭は美しい花々で満たされた。
五人の妻たちは我が家のさまざまなことをテキパキとこなしていく。娘も淋しがることもない。でも、はたしてこれでいいのだろうか?
そんな私の背中を誰かが優しく撫でた。新しい和江がやって来たのだ。持って来た手紙にはこうあった。いつも、あなたのそばにいたい。そのための新しい私を行かせます、と。私はクローン和江を見つめた。私の中にさまざまな想いが溢れ出てくる。そのときの想いを実現化させることにした。私は尋ねた。「クローンが欲しい時はどこに行けばいいんだい?」そう。私も私のクローンを作ろうと考えていた。全部で五体。そして五人のクローン和江それぞれに一体づつ贈ろう、と。一家を支える主人であるクローン。私の趣味の釣り好きのクローン。娘の教育に熱心なクローン。家事にも能力を活かすクローン。そして、サラリーマンの私の代わりに会社に通勤するクローンだ。これで、すべてうまくいく。和江たちにも微妙に適性の違いがあるかもしれない。カップルとして最良の相性であることを祈ろう。
私か?私はもちろん私のことを慕ってくれる和江に、これから寄り添い続けてやるつもりだ。それが正しいことかどうかはわからないが。

第227回 特殊な人生?それとも…
どのような選択基準かよく知らないが、私が選ばれたのには、それなりの理由があったのだろうと思う。志願したわけではないが、深宇宙探査訓練コースに在籍するものであれば、誰がいつ調査航宙指令を受けても不思議ではない。人類がまだ足を踏み入れたことのない星域への単独調査。数十光年の彼方へ赴き、調査完了次第、地球に帰還する。
ミッション完了までにどれくらいの年月が必要になるかはわからない。命があるうちに地球に還りつけるものかどうかも。
私が家族もなく天涯孤独の身であることも基準に入っていたのだろう。恋人がいないことも確認されていた。地球に思いを残す人がいないというのは重要なファクターだろうな。結婚も興味がなかった。あんな同じ日常生活を平々凡々と繰り返すくらいなら、宇宙での人生を選び波乱万丈に過ごすのだ。それで私が選ばれたのかもしれない。本当は機械だけで目的地まで飛び、調査後データやサンプルを携えて帰還させればいいのだが、生身の人間を送る必要があるらしい。その理由はよくわからないが。
私が正式に指令を受けるということになり、さまざまなミッションに応じた教育が施された。私にとっては難しい内容ではなかった。目的の星系に到着して、いくつかの装置を動かすだけの“簡単なお仕事“なのだ。ただ、冷凍睡眠装置などSFのようなものはないから、たった一人で宇宙船内で過ごさなければならない。自分の生存に必要な食料も宇宙船内で育てる。宇宙船が正常に航宙しているかの機器類のメンテナンス。目的を果たすまでの膨大な時間。目的を果たし地球へ帰還する段になれば、それは私にとって“余生“ということになるのか。地球へ帰りついても先の人生は何もない。私の人生に意義があるとすれば“人類のまだ知らない真実を、人類の代表としての生身の人間が探究できたことの意義か。
それはそれでよし、と考えてしまう私は正常なのだろうか?それでも変わり者に分類されるのだろうか?
さまざまな追加訓練の合間に、想定外のプログラムが入れられていた。元々トラブル対処用に会話AIを乗せるという話は聞いていたが、深くは考えていなかった。箱に話しかけると答えてくれるようなものを想像していたら…。
目の前に現れたのは自走式の新型AIだった。肌色の人の姿をしているが、顔はのっぺらぼうで男か女かの区別もない。違和感だけを受けた。「航宙期間ご一緒させていただきます。よろしくお願いします」とAIは言った。男の声でも女の声でもない。人間が話すような抑揚もなかった。関係者が言った。「この航宙期間、人間は誰とも対話せずに過ごすことはできません。タイムラグが生じるので地球の誰とも話せません。そんなとき、あなたのパートナーとして、このAIが相手をします。会話を進めると、このAIは学習してあなたにより寄り添える存在になっていきます」「航宙は私だけで十分です。どうしてもこの人型AIを乗せなければなりませんか?」「決定事項ですので」
割り切ることにした。なに、使わなければいいんだ。乗せていくだけで。
そして私が乗った宇宙船は出発した。私は船内で予定通りの業務をこなす。航宙記録を地球へ送信して一日終了となる。もっとも昼夜の区別はないのだが。誰とも会話せずとも、苦にはならない。人型AIの出番はなく送信室の隅に鎮座しているだけ。無用の長物だ。話しかけなければ、何も反応しないのだ。このまま目的の星域に到達できるだろう。そう考えていた。
月を過ぎた頃に、それは起こった。農業用水製造機から水が出なくなった。確かに製造されているはずの水が農地に放出されないのだ。私が持つ知識の全てを動員しても解決策がない。最後の手段と人型AIに解決法を尋ねてみた。すると思いもよらぬ解決法を提案してきた。
「壁に穴を開けてください」その通りにした。なぜか壁から用水が吹き出した。私は人型AIに礼を言うしなかなった。人型AIは言った。「あなたはよくやりましたよ。残りの可能性を提案しただけで」なかなか、AIもいい奴じゃないか。それから少しだけ人型AIに話しかけるようになった。AIの応答モードも学習して変化すると言っていたな。しばらくするとAIとの会話も以前のように面倒?になりAIに話しかけられても「ああ」とか「うん」とかしか答えなくなった。するとAIも「忙しいんですね」「すみません」としか言わなくなった。数十年経つと「俺の人生いったい何だったんだろうな」と無意識に呟いてしまっていた。「誰の人生も似たようなものです。悩まないでください」と珍しくAIは私を励まそうとしてくれた。しかし私は「AIの分際で何を知ったふうに言いやがる。引っ込んでろ」と思わず言ってしまった。それを最後に人型AIは口を閉ざして何も言わなくなった。こちらも、それで何の支障もない。目的の星域に到着し、私はすべての調査を終えた。航宙の目的を果たしたのだ。それは言いかえれば私の人生の目標を達成したということでもある。地球ではどうか知らないが、ここでは誰に評価されるわけでもない。
人型AIでもいいから、このときだけは褒めてもらいたかった。「おい、AI」だが人型AIは一言も喋らない。壊れたのか。あまりにも永く話しかけていなかったので会話機能がイカれている。人間とは身勝手だ。私はAIの褒め言葉を一言でも聞きたかった。AIのプログラムを点検していると、突然話し始めた。ただし、今度はやたらお喋りになって。
「よう、やりましたな。すごいね。…」
帰途の宇宙船の中で、AIはずっと喋り通しだ。私はAIのお喋りに相槌ばかり。こんなにAIってお喋りだったのか?「私の人生はいったい何だったんだろう?」と無意識に呟くと、それに人型AIが即座に「照合しました」と言った。
「AIとあなたの関係性は、人間の結婚生活に類似点が多いようです」
それからというもの、相も変わらず再びAIはずっと喋り続けている。
これが結婚生活ねえ。

第226回 今年の盆も蒸し暑い
「この蒸し暑さは夕立ち前ということでしょうか」縁側でタバコを喫っていると花江がそう言った。
「それからお父さん。用意はいいですか。もう、そろそろみんなやってくる頃ですよ」
腕時計を見ると、わが家の恒例の時間だ。今日は盆なのだ。この日は子供たちや孫たちまでわが家に集まってくる。いつもは静かなのだが、今日と正月だけはわが家は笑い声で包まれることになる。老妻の花江も楽しみなのだろう。心なしか声が弾んでいるように思える。
そうか、そういえばあれは昨年のお盆の時だったな。そう思うと感慨深い。
花江は実はすでに亡くなっていた。昨年が十七回忌だったのだが、それから私は一人暮らしだった。よほど淋しそうに見えたのだろう。昨年の盆前に長男の敏一夫妻が訪ねて来て提案した。「お父さん。実は科学が発達してお母さんそっくりの生体AIが作れるようになっているんだ。一緒に暮らしてみない?ほぼ見た目も言うこともお母さんそっくりにできるんだよ」
「母さんそっくりでも、母さんじゃないんだろ。そんな気持ちの悪いものとは暮らせないよ」
「お母さんの体細胞を使ってる最先端のクローンだよ。嫌なときは返品すればいいんだし」
そして断わる心の余裕もなく、花江が昨年の盆からわが家にやってきた。すべて子供たちの手配で。心配は無用だった。まるで花江は生き返ったかのようだ。ロボットでもない。受け応えも花江その人だった。息子の敏一から釘を刺された。
「お母さんそっくりだけれど、自分が死んだという記憶は持っていないんだ。だからお母さんが死んだということには触れないでね。お父さんと結婚して、ずっとそのまま一緒に暮らして来ているって刷り込まれた記憶だから」
「ああ。わかった。しかし、これ以上一緒に暮らせない。無理だと思ったら、そう伝えるから、すぐ返品してくれよ」
「もちろんだよ。お父さんのための生体AIなんだから」
それから生前の花江のような彼女との生活がスタートした。よくしたものだ。花江は十七年間いなかったわけだが、見た目も十七年の経過を感じるものだった。まったく不自然ではない。それまでの心の虚さを十分に埋めてくれるのだ。あまりに花江は自然すぎた。彼女が生体AIだと思いだせることは何もなかった。彼女は急な病で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだが、そのことさえ考えなければ、そのままの花江だった。そして彼女には、息子が言った通り病で倒れた記憶も存在しないようだった。
花江が亡くなってよく考えたことがあった。自分は生前の彼女にどう接していただろう。わがままも言った。思いやりもなかった。もっとやさしくしてやればよかった。彼女の喜ぶことをどうしてしてやれなかったのか。そんなことを庭を見渡せる椅子に座り、あてもなく想いを巡らせていたものだ。もっと、花江のことを考えて暮らしていけなかったのか。
だから、花江そっくりの彼女が家にやって来てから、違和感どころか、すぐに花江その人と思い込むようになっていた。そして、花江に対する言葉遣いも丁寧に変えたつもりだった。もう、二度と後悔しないように。「今夜の食事の片付けは私がやっておく。花江はゆっくりとしていなさい」すると「十分やさしくして頂いてますよ。これ以上あなたに気を遣わせてしまってはいけませんわ」「なんの、なんの」そんな接し方に変わっていた。
我に返った。居間で賑やかな声が弾みだした。孫の可愛い声も交じる。子供たちも揃ったようだ。それに花江の声も混っていた。花江が亡くなっていたときの話題は誰もする筈がない。なごやかだ。このような日々がいつまで続くのだろうか?
「お父さんの好きな水羊羹を買って来ました。あとで皆で食べましょう」
そう言ったのは次男の嫁だった。私なんかに、そんなに気を遣っていてくれるとは。涙もろくなった私は、手の甲で涙を拭いて部屋を出た。
洗面所で顔を洗って気持ちを落ち着かせた。
「あれ、お義父さん、姿が見えませんね。お出かけですか?」
「いや、さっきまで縁側で庭を眺めていたから、もうすぐ来ると思いますよ」
「そうですか。お義母さんのことを大事にされてますか?」
「いや。ほんとによくして貰っていて、ときどき手を合わせたくなるくらいですよ」と花江が言うのが聞こえた。思わず咳払いをしようかとしたが、止めた。すると、長男の敏一が声をひそめて小声で言った。それは、花江に向けられたもののようだ。
「で、父さんは前と変わりない?」
「前と同じですよ。でも、さっきも言ったけれど、ずいぶんやさしくなられたと思いますよ」
私は、そうだろう、と頷いた。
「父さんは母さんが死んでいたと思っているんだ。そしてそれは母さんには内緒だと思っている」
「はいはい。わかってますよ」
「父さんは生体AIだから母さんの記憶している父さんのこと以外は知らないんだ。忘れないでね」「はいはい」
何だって?花江ではなく、私が生体AIで生き返ったというのか?そして考えた。そういえば花江と結婚する前の記憶が私には全くないことに気がついた。私の気配に廊下に飛び出した敏一が言った。「父さん!」
私はどんな顔で何といえばいいのか?
