若い人たちの話を聞いていて、驚いたことがある。やたらと、戦艦や巡洋艦、駆逐艦の名前に詳しいのだ。やがて、ツイッターなどの呟きから、その理由を知ることになった。
どうも戦艦をテーマにしたようなゲームが流行しているようなのだ。可愛い女の子のアニメに擬人化された旧日本海軍の戦艦、重巡洋艦(艦娘-かんむす-と呼ばれているらしい)を育てていき、最強艦隊を作るというのが目的なのか。
戦艦美少女たちはセーラー服っぽかったり、軍服っぽいコスチュームで、腕に砲台を装備したり、甲板を楯のようにつけたりとなかなかチャーミングなのだ。とりあえずパソコンで、知っている代表的な戦艦を画像検索してみた。戦艦武蔵、戦艦大和、戦艦長門……。
どれも、足がすらりと長く、胸のでっかい美少女に描かれていた。戦艦というのを忘れて、ぽかんと見入ってしまった。
そのとき、同時に思い出したことがある。私の母方の伯父のことだ。
私の中学時代「英語と数学は基礎が大事だから」と母に言われて、夏休みに伯父の家に勉強を習いにいったことがある。伯父夫婦は、熊本市の北部で貸本屋を営んでいた。朝の9時から夕方まで、伯父の家で商売道具の貸本に漬かるようにして過ごした。伯父は頭も鼻髭も総白髪で痩せていた。貸本屋の店の奥に座り、鼻眼鏡をして読書に耽っていた。そんな伯父を見て、こんな年寄りに英語や数学がわかるのだろうか、訝しんだものだった。ましてや、ランニングにステテコ姿でいたのだから。伯父は新聞のチラシの裏に英語と数字の問題を書き、私に渡す。その問題を解いて伯父に返す。問題集のような洒落たものではなかった。間違った答えのとき、叔父は怒りもせずに淡々と、どのように解答を導くかを教えてくれた。英語もペラペラ話したし、代数も魔法のように解を導いた。だが、奇妙に思ったのは「X」を「エッキス」と発音し、「Z」を「ジー」と発音したことだ。私が「エックス」と「ゼット」だと抗議すると、動揺もせず「学校で習ったことを優先しなさい」と言った。絶対に感情を見せず、静かにうなずく人だった。午前中、勉強をやると、午後は貸本をひたすら読んだ。源氏鶏太も海野十三も伯父の貸本屋で憶えた。疲れると店の隅でいつの間にか午睡していたことがある。それでも伯父は私が目を覚ますまで、揺り起こすことも怒ることもなく、ほっておいてくれたのだ。タバコも喫わないし、酒も飲まない人だった。
家で、母から聞かされた。なぜ、伯父が英語や数学に明るいのかと質問をしたときだ。「海軍の軍人さんだったからよ。軍服できりっとしていた。中佐だったから。すごく頭が良かったの」その伯父が駆逐艦「秋月」の艦長であったことを知ったのだった。だが、私の中での”絶対に怒らない””口数の少ない””優しい目をしている”伯父と、駆逐艦艦長であったという伯父が、どうしても結びつかなかった。別人ではないかと思ったほどだ。
中二のときだったと思う。私は伯父に「海軍で戦争へ行ったんだよね。伯父さんは」と尋ねた。伯父は、遠くを見る目で「ああ」と答えた。
それ以上は何も話すことはなかった。
大学の頃、伯父が艦長をやっていた「秋月」について書かれたものを目にした。
1943年10月エンガノ岬沖海戦で「秋月」は空母「瑞鶴」を護衛中、艦中央で火災が発生。総員退去命令後、沈没。「秋月」乗員183名が戦死している。米軍証言では、空母「瑞鶴」に命中する筈だった魚雷を「秋月」が楯になった、と証言している。その瞬間の真実が何かは不明だが、乗員を多数戦死させたことは伯父の中で、それほどの重さを持っていることを知った。
私が社会人になって伯父の通夜に出たとき、伯父の部下だった方々が多数集まってこられた。そのとき、私は中学時代から接した伯父の、軍人としての姿を初めて耳にすることになった。艦長としての判断力の機敏さ。適確さ。そして責任感。
総員退避命令後、伯父は一人艦長室に残ろうとしたのだという。それを部下の方が殴り倒し、気絶させてから運び出されたのだと聞いた。
他にも、驚くべきエピソードをいくつも聞いた。そして、そのどれも私が知っている穏和な伯父とは、別の人だった。生存している部下の方たちから慕われ続けていることが、そのときの私には何より嬉しかった。
百か日の法事のとき、伯母から「好きな本があったら形見に持っていっていいよ」と言われて伯父の本棚を覗いた。伯父が私が貸本屋に通っていたときに何を読んでいたか興味があったからだ。
書棚にはインド哲学の本がずらりと並んでいた。同時に私に戦争について伯父が安易に語らなかった理由がわかった気がした。
もし「秋月」が美少女に擬人化されたらどんなものになるのだろう。そして、それを伯父が見たら、どんな感想を漏らすのだろう?
そんなことを、ふと考えてしまった。
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第110回 新年の目標
年が明けると、自分の今年の目標を立てないといけないな、と思います。小学校の頃から身についた習慣ですかね。
一年の計を立てないと後ろめたい気がします。だからといって、その計を一年立派にやり通したという満足感よりも、年末に、今年はあれも達成できなかった。これも守らなかった、という反省ばかりが湧くのはなぜでしょう。小学校の頃は予習・復習は必ずやるし、毎日、日記はつけますみたいな目標でした。日記とかは必ず三日坊主になっていましたっけ。
高校の頃になると、ずるいもので、建前の目標と本当の目標の二本立てを作っていたような気がします。苦手な科目を制覇する!とか学年何位以内の成績になると親向けの目標を作る一方で、自分の目標は今年は何冊の本を読破するぞ!映画は五十本は必ず観るぞ!そんな感じ。苦手な科目の参考書は開きもしないのに、自分が読んだ本と観た映画のタイトルは手帳に丁寧に書き込んで、加えて自分が評論家にでもなった気分で、「今ひとつ結末にひねりが足りない」とか「登場人物に魅力が欠ける」「展開が安易な気がする」と余白にコメントしている始末。そういうことをやっていたのでバチが当たって、今では読者の方が「カジオは結末にひねりが足りない」とか「展開が安易だ」とか呟いておられるのではないかと怖くなったりするのです。
社会に出ると、仕事の上でも「年間目標」の数字が重くのしかかり、胃が痛くなることばかりでした。
そんな時代は、とにかく自分が何をどこまでやれるのか、ひたすら走り続けているだけでした。だから年の初めに目標を立てようというより、歳の瀬の除夜の鐘を聞く頃に「ああ、何とか今年もやり過ごすことができたのか」と呟くのが精一杯だったような気がします。
そのうちに、時は流れ流れて専業作家宣言をして、年金生活者になったわけです。そうなると、今年の目標は「まだ書いていないあの話を書きたいな」とか「途中まで書いたままになっているあの話を完結させたいな」といったことをぼんやり考えるくらいになって、それだけなら、呑気なものだなと。目標を達成できなくても、まあ、なんてことないや、と考えておりました。
しかし、数年前から、目標を設定せざるをえない状況が、闇夜の刺客のように訪れていたわけです。
一度、このコラムでも書きましたが、脳梗塞の症状を起こして入院したことがありました。それで病院で全身をチェックしてもらったわけですが、要注意のポイントが出てくるわ、出てくるわ。まぁ、正直、腹回りと体重が気になってはいたのですが。そう。成人病注意報の数値であったわけです。
それから、新たな年の初めの目標が突きつけられることになりました。体重はもとより腹囲、悪玉コレステロールの数値、中性脂肪、血圧。
全てを正常範囲の数値に戻すための目標ができたわけです。そのためには、食事、運動の両面から努力しなくてはなりません。一日一万二千歩以上歩いて、腹八分のバランスの取れた食事。塩分を摂りすぎないように。
運動を続けたおかげで、境界型だった糖尿病の数値も正常になり、体重も目標体重に。血圧も、やや低めかなというところまで改善できたのであります。
来年は、もうこの目標も必要ないかな、と思っていたら、ある晩秋の日に、ちと変調を感じてしまいました。滑舌が以上に悪くなってしまって、まっすぐ歩けずに左に左に傾いて歩いてしまいます。で、病院へ。
MRIを撮ってもらったら医師から言われました。「脳が壊れています」
私の中でその言葉はけっこうショックでした。そのまま入院させられてしまいました。軽い脳梗塞をまたしても起こしてしまっていたのです。入院させられて脳の機能の検査を受けたのですが、そのときは、脳の詰まっていたところは、すでに正常に戻っていたようでした。だから、機能に問題なし。すぐに退院できました。
退院してから、何に気をつけるべきかというと、「血液さらさらの薬を忘れずに飲んでください」だけです。血圧の薬も今はなし。
つまり、年の初めに誓ったりする目標は何もないのです。そして、今のところ、何の後遺症らしきものもなし。
そうか。人間の脳は十パーセントも普段は使っていないと言われているしなぁ。私なんか、人様よりもっと脳を使っていなかっただろうから、七十パーセント、八十パーセント脳が壊れたとしても、もともと使っていなかったところだから、影響なかったのかもしれないなあ。
いや、待てよ。と、思っています。脳が壊れたおかげで脳がフル稼働を始めて、ひょっとしたら大傑作が書ける脳になっていたりすればいいなあ。
ということで、今年はじめの目標は単純に「大傑作を書いちゃうこと」です。
あ、一つだけ脳の後遺症かなと感じていることがあります。人には口にしてもいいことと、言ってはいけないことがあると思うのですが。どうも言ってはいけないことが、最近タガが外れて流れ出すという、制御の効かない状態に陥ってるなと自分で思うのです。これは後遺症じゃないかなあ。ま、いいか。
今年もよろしくお願いします。
第109回 嫌いというより生理的にダメ。
人は、これだけは絶対にダメという嫌いな生き物がいるようです。質問すると、どんな方にも、必ず、あれだけはダメという答えがあります。蛇やムカデという生き物がダメというのはわかります。毒があって咬まれたり刺されたりすれば人命に関わるという危険と隣り合わせの生き物であれば、なるほど納得できます。大昔からの祖先の記憶が刷り込まれた結果なのだろうな、と推測してしまいます。蛾が嫌いだ、というのもわかります。毒蛾の可能性が祖先の遺伝子に刷り込まれたのかな、と。
で、いろんな方に私はよく尋ねるようになりました。いつの頃からかなあ。
「あなたにとって、ダメ!!という生き物は何ですか?」と。
けっこう蛇や蜂、ムカデ、クモ、蛾というの多いですね。そしてなぜ、嫌いになったのか?とお尋ねすると、「生まれたときから、大嫌い」とか、「理由なんてありません。嫌いだからダメ。ダメだから嫌いです」と。
「あのときからダメになりました」という方もおられました。その方は、ダニがダメだということでした。大人になって、ある体験をしてからダニがダメになったということがわかったので、先天的ではないようです。
この方は狩猟が趣味で、ある島で猪を獲ったそうです。そのまま、自分の自動車の後部に獲物を積んでフェリーに乗り、車を離れての客室へ。港に着くと、客室から愛車に移動して下船しました。それから帰路についたのですが、途中で異変に気がついたそうです。
なんと、自動車の床が真っ黒になっていた!しかも、その床が、ぞわぞわと動いていたそうです。慌てて自動車を道路の脇に駐めて確認しました。
それから、その正体がわかって悲鳴をあげたそうです。
自動車の床の上で動く黒い粒は無数のダニだったそうです。
ダニは猪に寄生していたのですが、死後、自動車の荷台に置かれた猪の死体は体温を失い、どんどん冷たくなっていった。すると、寄生していたダニたちは一斉に死体から逃げ出した。それが、自動車の床の上で黒い絨毯と化したのだそうです。それ以来、ダニと聞いただけで全身が震え上がるようになったそうです。
わかります。同じ経験をしたら、私も気が狂いそうになったでしょう。
カマキリが嫌いだという学生時代の友人がいました。彼の場合も、ダニが嫌いだという方に一脈通じる気がします。彼は自分の部屋で孵化寸前のカマキリの卵を破いてみたのだそうです。カマキリも無数の子が一斉に誕生するそうですが、次の瞬間、自分の部屋がチビカマキリの大群に占領されてしまったそうで、以降、カマキリが生理的にダメとのこと。
女性で、虫がダメという方がおられました。中学の頃までは虫愛でる姫で、虫なんかちっとも怖くなかったそうです。ところが、ある時点で突然虫がダメになったと。虫の中でも特にゴキブリがダメだと。もう、ゴキブリと口にするだけで気色悪いそうです。だから、ゴキブリと言えない。「ゴ」あるいは「G」としか言えないと。ゴジラか!それまでは、台所をカサコソ這い回るのを見ても何ともなかったそうです。噛みつくわけでもなく刺すわけでもない。小さくて素早いカナブンくらいにしか思っていなかったそうです。さすがに、食べ物に乗ったり、ゴミ箱に寄るのを見ると、不潔だな、駆除する必要があるなと思ったらしい。それでもゴキブリなどハエ叩きで駆除できると考えたそうで。ある夜、台所の灯りをつけたら、数匹ガサゴソ動いていたそうです。で、一斉にハエ叩きで駆除するつもりで台所に飛び込んだのですが、その方はゴキブリの生命力を過小評価していた。ハエ叩きで絶命させたと思った次の瞬間に信じられないことが。
その方はゴキブリに飛翔力があると知らなかった。
そのゴキブリは羽ばたきながら一直線に顔に飛んできて頬っぺたにとまったそうです。
それ以来、「ゴ」「G」としか呼べないことになってしまった。よくぞ、あの時自分は発狂しなかったものだと述懐しておられました。
では…?と私に尋ねられます。そんなのいないの?ダメな生き物は?と。
私が嫌いなもの。
ナメクジです。幼い頃からダメなんです。触れるのは全くダメ。見ても嫌い。これこそ自分でも不思議です。なぜなのだろう。子どもの頃に、履いた靴の中で妙な感覚があり、見たらナメクジだったという記憶はあるのですが。これだけ周囲の人のダメな生き物を聞いてきたら、ナメクジ嫌いという奴が一人くらいいてもおかしくはないって気はしています。そして自分でもナメクジ嫌いのままで構わないし、ナメクジ嫌いをなおすつもりは全くありません。
「サラマンダー殲滅」という小説の中で飛びナメという吸血ナメクジを登場させましたが、そんな生き物を想像する自分も、よくわかります。どうも気色悪い回で、すいません。
では、いい年をお迎えくださいますように。
第108回 新しいエマノン出ます
今月、エマノンの新作本を出します。
『おもいでエマノン』でスタートして『さすらいエマノン』『かりそめエマノン』『まろうどエマノン』『ゆきずりエマノン』に続く6冊目になるのですが、今回はイメージが変わったかもしれません。
6冊目のエマノン本のタイトルは『うたかたエマノン』です。
どこがこれまでのエマノンと違うかというと、今回の『うたかたエマノン』は初の長編なのです。雑誌「読楽」で1年に渡って連載させていただきました。
これまでのエマノンの活躍の場は主に短編でした。50枚から80枚くらいの長さ。『かりそめエマノン』と『まろうどエマノン』は200枚の中編となっておりますが。ですから500枚近いエマノンなんて初めての経験でありました。
それから、もう一つ。
エマノンシリーズでは主人公のエマノンにいくつかのお約束があります。
いつもジーンズを履いていてセーター姿。自分の記憶の重さから逃れるために、両切りの紙巻きタバコを吸う習慣がある。長い髪で、化粧っ気がないの美少女。そばかすも魅力的です。彼女は地球に生命が発生してから現代に至るまでの、生命体の全ての代の記憶を引き継いでいます。でも、今のエマノンになったのはいつの時代からなのだろう。もちろん人間に進化した後だろうけれども?
『うたかたエマノン』は、これまでのエマノンシリーズの中では舞台が一番古く、19世紀末です。そのとき登場するエマノンは、まだ自分のことはエマノンとは名乗っていませんし、タバコも吸っていません。ジーンズも履いていなかった頃のことです。
実は、この物語を思いついたのはずいぶん前です。いつ頃かというと……20世紀。だから、デュアル文庫で『おもいでエマノン』が2000年に復刊されたとき、巻末の鶴田謙二さんとの対談で、この『うたかたエマノン』の構想をちらりと口を滑らせているんです。
「ラフカディオ・ハーンとポール・ゴーギャンが、エマノンと一緒にゾンビ狩りをする話を書こうと思っているんですが。後は舞台となるマルチニーク島へ取材に行くだけです」
私は、そう言い切っています。
そのまま宿題を済ませていない子供状態で十数年が経過しました。書いていない理由は、
「まだ、マルチニーク島に取材に行けていない」
その間にも、鶴田謙二さんはコミック版を描かれていて、私は短編のエマノンを思い出したように書いておりました。
長編エマノンに手を付けないまま。
気がつけば、マルチニーク島に行かないまま還暦も過ぎてしまいました。こりゃあ、さすがにまずいな。読者の方に約束したのに嘘をついたような状態だ。
で、ある瞬間に、物の怪が落ちたように踏ん切りが付きました。
今、マルチニークを訪ねて取材しても、19世紀のマルチニークとは全く違うんだ。タイムマシーンで行かない限り真実はわからない。だったら、宇宙を舞台する話も、戦国時代のお話も、19世紀末のマルチニーク島の話も同じではないか?全て想像力で解決するしかないのではないか?
そう自分に言い聞かせたら、長編エマノンが書ける気がしてきたのです。代わりに、マルチニーク島の歴史やら風土がわかる資料、観光本(これがほとんど、ない)を探し、ハーンの西インド滞在時の著書やらゴーギャンの手紙集やらを読み漁りました。
読めば読むほど、もやもやとしていた19世紀のマルチニーク島が形になってきました。いや、本当のマルチニーク島がどうだかわかりませんが、私の夢想マルチニーク島です。変な生き物が蠢き、割と軽いノリのキャラになってしまったハーンやゴーギャンでも構わないのだ、と。
開き直ったわけですね。
おかげで、吹っ切れた途端、最後までぶっ飛ばし書き進めることができました。
もちろん、ホラ八百のお話であります。それでも虚構なりに、かつての首都サン・ピエールが活火山モン・ペレーの大噴火で壊滅する前の地形や都市の状況は再現したつもりでいます。
その中で、どうしても確認しておきたいことが発生。この時代のマルチニーク島の特産品ラム酒についてです。世界各地のさとうきび特産の場所ではラム酒が作られているそうで、中でも、マルチニーク島のラム酒は逸品らしい。ハーンも大好きだったのだと。これだけは確認しなくては、と捜しましたが、熊本には売っていない。味が正確に描写できないではないか!
すると、その話をしたバー「てれすこ」の古田マスターが手に入れてくれました。これには感動しました。もちろん、マルチニーク島の白ラム酒。その味の素晴らしさは、ぜひ本編をお読みくださいませ。
よろしくお願いします。(平伏)
※「うたかたエマノン」は徳間書店より11月中旬より発売予定です。また、12月に「おもいでエマノン」、平成14年1月に「さすらいエマノン」、2月に「まろうどエマノン」(「かりそめエマノン」と合本)、3月に「ゆきずりエマノン」が徳間文庫で復刊の予定です。こちらも、よろしくお願いします。
第107回 今年も来るぞ、キノコの季節
昔からホラー時代劇に定番として登場するものに、「妖刀」という存在があります。妖気を帯びた魔剣のことで、村雨丸とかありますよね。八犬伝などに登場するやつです。他にもさまざまな力を持つ呪われた刀を描いた小説とかありますね。「妖刀人斬り丸」とかいったら、いかにもな刀のようですね。あまりに多くの人を斬り続けてきたか、あるいは呪われた刀鍛冶が作り上げたかわからないけれど、手に入れた侍が鞘から抜くと「水も滴る氷の刃」で、「血が欲しい~血が欲しい~」と啜り泣く。侍は魅入られたように夜毎に辻に立ち、罪なき人々を試し斬りする……といった話。
こうなると、悪いのはその呪われた力を持つ妖刀で、夜毎に人を斬り続ける侍は刀に操られているに過ぎない存在なのです。だから、人が刀を選ぶのではなく、刀が人を誘い寄せるというイメージかな。
なぜ、最初にそんなことから書き始めたかというと、梅雨時にちょっとした出会いがありまして。
出会いといっても人ではない。所用で人吉に泊まりがけで出かけました。用事は夕方だったのでそれまでの時間潰しに旅館を出て散歩に出かけました。あてもなく青井神社から人吉城址をまわり商店街へ。それから駅の近くへ戻るというルート。
そこで、鎌や包丁を売ってある店の前に来てしまいました。古い店構えでしたが、気になるものを感じて足を止めました。
そのとき、何を感じていたか。
そういえば去年キノコを採るときに悔しい思いをしたよなぁ。ふと、そんな記憶がよぎったのです。
ここで、誤解がないよう記しておきますが、私の趣味はキノコ採りです。おいしいキノコを求めて、どこまでも出かけます。世の中は金本位制で動いておりますが、私の頭の中はキノコ本位制で活動しているようなのです。だから、生活の中で行動を決めるときは、「それはキノコ採りに行く障害にならないか?」「キノコ採りの時期に仕事を入れていないか?」と考えながら決めていることが多い。山歩きのコースを提案するときも、「よりキノコに出会える可能性が高いコース」を選ぶことにしています。まぁ、年中キノコに恵まれるわけではないので、このように偏った判断は秋口になされることが多いですね。春先や、夏、冬にはあまりございません。
そんなキノコ本位制脳ですから、このときも、キノコに結びつけた思考をしていたわけです。昨年の五家荘の山中でのできごと。
キノコは土から生えていたり、倒木から姿を見せていたりというイメージが多いのですが、必ずしもそうではありません。立ち木から発生することもけっこうあるのです。
それもおいしいキノコ。ヌメリスギタケモドキとか、ムキタケ、ヒラタケ、ナメコ。
閃光のように記憶が蘇ります。五家荘の山中で這いずるようにして斜面を登ります。キノコがあるのは、登山道とは限らないのです。むしろ、人目が届かないような場所にひっそりと生えていたりするのです。
残念な思い出はナメコ。それがブナの立ち木に鈴なりに発生していたのです。ところが手を伸ばして届く高さは限られています。仲間と行っていれば肩車をし合ってでもできるのですが、一人だとなんともならない。ジャンプをしても届かないし、登れるような樹でもない。
それから半年、そのときの悔しさが頭から離れません。なんとか、あの手の届かなかったナメコたちを取る方法があるはずなのだが、と。あの採れなかったナメコたちはあれからどうなったのだろう。朽ち果てたのだろうなぁ。なんと口惜しい。
よもや、この店でにそんな道具があれば……。
中に入ると店内は人の気配なし。鎌や鋸や包丁専門のお店のようだが。
「何か、お探しですか?」とおじさんが出てきました。実は山でキノコを採るときに、高いところにあって届かないキノコを採りたくて、よさそうなのがないかなぁって探しにきました、と。
「作りましょうか」
ええーっ。おじさんは小さな刃を持ってきました。「これを、柄につける。山歩きの杖にもなるように、反対側には底に金具をつけましょう」
想像すると、なかなか良さそうだなぁ。なんと、この店は刃物鍛冶のお店だったのです。
注文して一週間すると我が家に、その特製のマイ・キノコ鎌が届きました。
細い柄なので杖になる。鎌の部分は鞘がつけられています。いかにも達人が使いそうな逸品でした。
鞘をそっと外してみると、研がれたばかりの鎌がギラギラと冷たく光っているのですよ。「キノコを採りたい。キノコを採りたい」と囁きかけてくるようです。まるで妖刀のように。
早く、このキノコ鎌に活躍してもらいたいと、胸をときめかせているわけです。あ、二度ほど試し斬りは済ませました。最初は、熊本城野鳥園の巨木に生えていたヤナギマツタケの群生。いい切れ味でした。
二度目は我が家の柿の木の高いところにへばりついていたヘクソカズラの蔓。こちらはマイ・キノコ鎌には不憫な使い方でしたが。しかし、恐ろしいほど切れました。
いよいよキノコの季節です。妖刀ならぬ妖キノコ鎌。充分に活躍していただきましょう。今年の収穫は30%増だ!
第106回 サイン会、怖い!
普段は仕事はひとり部屋に籠って、ひたすら頭を捻り、一字一字陣痛こそないものの、唸りそうになりながら書いています。
で、その間は誰とも会うことがないのです。自分の妄想というか、空想の中の人物に喋らせてカギカッコしているときに、思わず登場人物の科白を喋ってるくらいかなぁ。
今日この頃、用件のやり取りは、メールか、あるいはファックスだけで、事足りるのですよね。だから、外線の電話で見知らぬナンバーのときは出ないことにしている私は、一日誰とも言葉を交わさないことがあったりするんですね。
完全に“ヒッキー”に分類されるタイプだな。
喋るのは昼飯どきに定食屋で注文する品を言うときくらいです。あとは黙したまま。
だから職場の人間関係の悩みなぞは存在しません。しかし、昔はけっこう人との交際の仕方とか頭を悩ませていたから、今の方が気楽だろうなと思えるのです。
十人の人がいたら、十のキャラクターが存在するわけですから、一人ずつどのように接したらいいのかを考えなけりゃいかんわけですよ。そして、付き合いやすい方は、ほんのひとつまみで、何を考えているかわからない方やら、気難しい方やらに出会うと途方に暮れていたものです。そんな苦労からは解放されているから、今の環境には感謝するべきかもしれませんね。
そんなときに、ときどきとんでもない依頼があったりするわけです。
たとえばサイン会。
七月は、なんと三件のサイン会をやってしまいました。
自分の本の営業活動なのだから、依頼があったらありがたく二つ返事で引き受けなければならないことは重々承知しております。
理屈ではわかっているのですが、承諾の返事をした後に、だんだん心がおもーくなっていくのがわかるのです。
かつて、専業作家になる以前は一日平均十人以上と会話をしていました。しかし、パーティなどの催しに出ると短時間で数十人と言葉を交わさなければならないことも。そのときどういう状況になったかというと、「人酔い」を起こしてました。パーティ会場を見回しただけで気持ち悪くなる。宴が始まって次々に話さねばならぬ相手の前に立ち、この人は誰?名前は何?どこのどんな人だった?と頭の中を必死でフル回転させなければならない。何か話題にしてはいけないタブーあったっけ。そんなことを考えて思い出せないうちに次の相手が目の前に立つ。違う相手と勘違いして話していて会話が噛み合ず、別れた後で気がついたことも一度や二度ではありません。ほとんど頭の中が真っ白でパーティ終了を迎えたものです。そのときの疲労感たるや半端なものではありません。
ぼんやりと、その頃から自分なりに気がついている法則があります。それは「一日に十人以上の方と言葉を交わすと疲労する」ということです。
一日に二会場でサイン会をやるという事態も七月には予定されていました。
そんなに人が集まるわけないじゃないか!
そんな脅えもあります。
誰もいないサイン会場で頬杖をついて時間を潰している姿を想像してしまいました。何やってるんだ!誰も集まってないじゃないか、という視線で嘲笑っていく買い物客の視線。そこまで、想像が膨らみます。
そして逆のパターンも考えてしまいます。
サインしてもサインしても列がなかなか終わらない。しかも中には変なお客さんがいるのではないかという妄想。「梶尾さんの小説はちっとも面白くないですよ。今日は文句を言ってやろうと並びました!金返せ!」と、紙袋の中からアーミー・ナイフを取り出して……。なんて事態も想像します。脂汗が出てきます。
他にも様々な妄想が拡散していき、サイン会の当日の予定時間前には立ち上がりたくもないほどの状態になるのです。加えて、腹が痛くなり何度もトイレに通いたくなる……。極度の緊張状態になります。
ただ、数十年の間、サービス業に従事していたので、おかしくなくても作り笑いだけは出来るようになっています。それが唯一の武器ですが。
先日は、何人のお客様にサインさせていただいたかなぁ。
幸いなことに会が始まると、視野が狭くなって、ひたすら終わりまでがんばりました。この短時間で何ヶ月分の会話をしたことになるのかなあ、と。ミネラルウォーターが用意してあるわけもわかりました。喉がカラカラになるのです。サインしながらおいでいただいた方と話しているのですが、何を話したか、全く記憶していません。
無事に会が終わって帰宅したら爆睡しました。全く夢も見ない。そう。数ヶ月にわたって話す会話量を一日でこなしたのですから臨界超過だったのかもしれません。
今回は、一日に二カ所。それもあってか、今でも一人で仕事場で書いているときフラッシュのように、そのときの光景が見えたりするのです。何度やっても慣れないなあ。
せめて、忙しいところ時間を作りサイン会に足を運んで頂いた方が喜んで頂けることを願うばかりです。
第105回 夏だから、こんな話も
みなさんもご承知の通り、私はUFOやら超能力やら、全く信じない人間なのですが、なぜか、論理的に説明のつかない出来事に遭遇することがあるようなのです。 以前にも、このコラムに書きましたよね。小学生の頃、一升瓶の蓋が宙をクルクル舞った後に、元の一升瓶にピタリと収まったこととか。
劇的ではないけれど、自分で体験しておきながら、どうしても説明のできないことが、日々の生活の些細な場面であるのです。
夏の暑苦しい時期だし、怖い話ではありませんが、ご紹介しておこうと思います。
まず、花岡山の話。
私が住んでいるのは、熊本市は西寄りの熊本駅の近く。「つばき時跳び」の主な舞台となった花岡山の中腹です。そこから毎朝5時前後に山頂まで散歩するのが日課になっています。
日によって、コースを変えます。車道を歩いたり、直登で石段を昇ったり。山頂に着いたら、花を眺めたり、下界を見下ろしたりしてのんびり時間を過ごします。
この一日をどう過ごそう。書きかけているあれの描写はこんな感じにしよう。こんなエピソードも挟んでおいたほうが後で活きるんじゃないか。山頂へ歩いている時間は、イメージトレーニングの時間でもあるわけです。
いろんなコースで、その日の気まぐれで足を延ばすところも変えたりします。
で、花岡山の西斜面には巨大な赤鳥居があります。この下に八枚石と呼ばれる巨石があり、その下にお稲荷さんが祀られています。
そのお稲荷さんの由来も一応記します。
400年前に大阪で住まいを失くした兄弟狐が近江の長浜へ来た時に侍が決闘している場面に出くわしました。そこで2人の仲裁に入り、仲直りさせた加藤清正を目撃します。狐たちは清正の行動に感銘を受け、清正の跡をつけて肥後の国までついて来たんです。2匹は八枚石が大阪の石山城に似ていたので、花岡山を住処にしました。そこへ、清正が熊本城を築城するために石を切り出しに来ました。切り出し作業の途中、清正がうたた寝をしていると、この兄弟が夢に現れ「清正公を慕って肥後までやってきた兄弟狐です。ここには我々が住んでおりますので、八枚石の切り出しだけはご勘弁を」と。清正が八枚石は見逃すと約束すると、兄弟狐は喜び願い出ました。「では弟を熊本城の守りにしましょう」と。兄は清藤大明神として花岡山に残り、弟は緋衣大明神として熊本城に移ったという伝説があります。緋衣大明神は、熊本城稲荷神社に祀られております。
兄さんの清藤大明神のところへも八枚石の横の鉄階段を伝って、時々下ります。しかし、木の葉が散っていたり蜘蛛の巣が張っていたり。初午の頃はきれいに清掃されていますが、それ以外は……。
どうしても見るに見かねて、箒で、社のまわりを清掃。それから帰ろうとした時のこと。
まだ、夜明けだから周囲に人の気配はありません。犬や猫がいないこともわかっていました。
帰ろうと鉄階段に近づいた時、何かが背後からやって来る気配。背中がゾッとして慌てて振り向いたけれど、何もいない。また、鉄階段を昇り始めたとき、はっきりと聞こえました。私のすぐ後ろに何かがいるんです。そして……。何か喉を鳴らしながら……。
はあっ。はあっ。はあっ。はあっ。
私は、猛スピードで階段を駆け昇りました。そのまま仏舎利塔近くまで走り、息を整えましたが、その頃には、正体の分からない気配は消えていました。
あの時の気配がいったい何だったのか、未だにわかりません。それから懲りもせずに何度か清藤大明神のところまで行ったり、掃除したりもしたのですが、以後はそんな体験は全くないんです。あの、はあっ、はあっ、はあっ、という声とも荒い息ともつかぬものの正体はなんだったのか。清藤大明神とも違う気がしてならないのですが……。
それから、もう一つ。
これも、真っ暗な朝の時間帯の話。
私は、我が家の仏間で一人寝起きしています。ちなみに、仏間は仏壇のある壁以外は、全て奥張りになっています。外に面している襖はありません。襖を閉じてしまえば、外部の光は全く入らない。
そんな部屋に、朝の散歩から帰ってくると……。真っ黒な仏間の壁面の天井近くに……直径30センチほどの円形状の光体がいるのです。初め、外の光が何かに反射して壁に映っているのだと考えました。しかし、外はまだ暗い。差し込む光はないし、仏間の四方は閉じています。反射光じゃない。試しに光体の上に手をかざします。光源が別にあるなら光体に影ができるはず。ところが……影は……できない。一見ただの反射光が実は全く性質の異なる光体と知り、手で光体に触れようとしたら……。
光体は慌てて天井裏に逃げていった!!
家族に話しましたが、誰も信用しない。眼底検査をしろという奴まで……。
光体は、その後、同じ時間帯に3度出現しています。最後の時は家人を慌てて呼びに行き、なんとか間に合って目撃させました。ご先祖様、という説やら、私がどこからか低級霊を連れてきているという説まで飛び交いましたが、オチを期待された方は、残念。未だに説明はつかないままです。ひょっとしたら?とのご意見を待ってます。
第104回 ハリーハウゼンの事
私が大好きだった映画人の一人が、レイ・ハリーハウゼンでした。今回は彼について。
子どもの頃、私が衝撃を受けた映画が数本あります。いずれも小学校に入る前に、観て、心に深く刻み込まれました。その一本が「原子怪獣現わる」です。北極の氷の底で眠っていた恐竜タイプの怪獣が原爆実験によって目覚め、ニューヨークを襲う。
この映画は、日本のゴジラにも影響を与えたと思えてならないのです。ただし、ゴジラは着ぐるみで、中に人が入って怪獣を演じるのですが、原子怪獣はまさにトカゲあるいは恐竜の動きが忠実に再現されていました。その中で強烈なシーン。
原子怪獣がニューヨークの街に上陸してすぐのこと。暴れるのを阻止せんと警官が怪獣を拳銃で撃つのですが、怒った怪獣は、その警官を・・・喰ってしまう。
子どもの私は恐怖で泣き出してしまいました。
数年後、私が強烈な映画だなと思える作品が、ある共通項を持っていることにぼんやりと気がついていました。巨大タコがサンフランシスコを襲う「水爆と深海の怪物」や、空飛ぶ円盤やロボットが侵略する「空飛ぶ円盤地球を襲撃す」なども小学校低学年の頃に観ることが出来ました。そして、映画館で貰う映画チラシを読んで、これらの映画がハリーハウゼンによって作られたものだということを知ったのです。
私がいかにハリーハウゼンが好きかというと、彼の作品はDVDで全て集めたほどです。それから、熊本大学で映画に関する講義をやっているのですが、その一コマで必ずハリーハウゼンの作品について話すことにしています。奇しくも、今年も講義の中でハリーハウゼンの話をしようと準備していた5月7日、彼の訃報が飛び込んで来ました。
残念でなりません。しばらく放心状態に陥ったほどです。
幼い日に、なぜあれほどハリーハウゼン映画に心酔したのかというと、異形のもの(怪物や宇宙人やら)が他の俳優たちと一緒に写っていたからです。それが不自然ではなく、現実の一場面として。
今でこそCGによるSFXで、どんな映像でもアリ!の時代になりましたが、当時、非現実的なビジュアルを作り出すのが、いかに困難で手間がかかることであったか。その時代、ハリーハウゼンは人形アニメの手法で怪獣を動かしていたのですね。そして人物の映像と合成する。これをダイナメーションと呼んでいたのです。
映画フィルムは1秒に24コマが必要。だから、人形を24回動かしてやっと1秒のフィルムになる。それも怪物が数体だったり手足の多い怪物だったら、その手間は……。
ハリーハウゼンは、それでもこの面倒くさい作業が好きで好きでたまらなかった。
彼は1920年生まれですが、13才の時に「キングコング」を映画館で観て、映画マジックの虜になったようです。それで「キングコング」を作ったオブライエンを訪ねて、自分の作った怪物人形などを見てもらっていた、という……今でいうおたくの先祖ですね。それからオブライエンに声をかけて貰い最初に作ったのが「猿人ジョーヤング」だそうです。この映画もキングコングっぽい。
もう一人、レイという同じ名前を持つ人物がいます。SF作家のレイ・ブラッドベリです。2人は高校時代からの大親友。
2人の関係が私は大好きです。2人は“恐竜大好き”同士で知り合ったらしい。だから「俺たちは大人になっても、恐竜大好きなまんまでいような」なんて約束を交わしていたらしい。だからブラッドベリはSF作家になったので2人の約束は、ともに守られたことになる。
で、「原子怪獣現わる」は、原作がブラッドベリの「霧笛」という短編なのです。生き残りの恐竜が、霧の中に浮かぶ灯台を仲間と思い込み、抱きつこうとして壊してしまう……といった話が怪獣映画になったんですが、お互い、この映画が完成するまでそのことを知らなかったそうです。完成の時に、それを知ってどんなに喜び合ったことか。
それからも2人のレイは親友同士。ブラッドベリも、ハリーハウゼンの新作を楽しみにしていたそうです。
ただ、その後はあまりSF映画は撮っていません。どちらかと言えば、ファンタジーっぽいのが多いかな。「シンドバット7回目の航海」や「アルゴ探検隊」などが大好きです。でも嬉しいことに必ず、怪物を出してくれるのです。その頃の作品で印象に残っているには「アルゴ探検隊」での骸骨集団と主人公のチャンバラ戦と、「シンドバット7回目の航海」での一つ目巨人とドラゴンの死闘シーンですね。
これらの映像を思い出すと、どんなにCGの特殊効果が進歩しても、その基盤は、ハリーハウゼンの功績の上にあるんだと信じます。
そうそう。ハリーハウゼンがアカデミー賞で功労賞を受けた時、プレゼンターはブラッドベリだったなぁ。昨年ブラッドベリが亡くなった時、まずそのことを思い出しました。そして残ったハリーハウゼン、淋しいだろうなぁ、と。
だから虹の向こうで、今頃は2人が抱き合って喜んでいて欲しいと願っているのです。
第103回 制作現場でお邪魔ムシ!
三年ぶりに上京して参りました。
いくつか仕事の打ち合わせもあり、また、美味しいものを食べるというお楽しみもあるのですが、今回の目的は、テレビドラマの制作現場を訪れるというものです。
お知らせしておくと、私の長編「ダブルトーン(平凡社)」が放映されることになりました。6月29日のスタートで毎週土曜日23時15分から。NHK-BSプレミアムの連ドラです。
二人の女性が同じ記憶を共有するという設定なので、主人公は二人いるわけです。
そのあたりが、混乱しないかな?
映像的に表現できるのだろうか?と案じたのですが、山本あかりさんの脚本を読ませて頂き、「なるほど」と感心しました。「うまく書き分けてある!」これなら、いいかも。
小説の中では舞台は全編熊本市なのですが、制作上の都合で、東京都及び近郊の都市で撮るんだそうです、と担当の編集さんに知らされました。
それを聞いて、「制作現場を見たい」という欲望がムラムラと沸き立ってきたわけです。
「あのー。ぼくもドラマの制作現場を見学に行っていいですかね?」
なにせ、私は生まれついての映像好き。年間に二百五十本以上の映画を、まるで呼吸するように観る人間なのです。だから、自分の小説が視覚的に表現される現場には、何が何でも行っておきたいと願うのは、当然でしょう。
担当の編集さんは、「あー。じゃあ、作者がそういう意向だということを伝えてみますね」
すると、ドラマ制作の香盤表(なんと言えばいいのか、建築関係で呼ぶところの工程表と言うか。誰が何日に出演しているかも一目で分かりますし、いつが制作作業が休みなのかもわかる表)が送られてきましたよ。
仕事の段取りをいろいろとこねくり回して、いざ上京ということになりましたが、すでに製作期間に入っているので、見学に行けたのは、終わりがけでありました。
ロケ現場は町田市の住宅街。
主人公の一人が、熊本では水前寺界隈で生活しているのですが、その住宅街をイメージしているようです。
現場にたどり着くのが、大変。なるほど、その住宅街の雰囲気は、熊本市の住宅街でありました。
町田は、初めて行くところではありますが、やたら遠い。都内から一時間半はかかったのではありますまいか。しかし……確かに地方都市の匂いがある街でした。そこに感心。
プロデューサーの方もシナリオライターの方も、私を待っていてくれました。感激。
そして驚いたこと。プロデューサーの志岐さんは佐世保出身。シナリオライターの山本あかりさんは長崎の離島出身。主演の中越典子さんは佐賀出身。私は熊本出身。
おお、九州出身者が勢揃いではありませんか。いやあ、主演の中越典子さんのきれいなこと。顔が小さくて、お人形さんみたいで、とても私と同じ人間とは信じられませんでした。
「原作も読みました。後半はずっとはらはらどきどきしました。すごく面白かったですよ」
そう中越典子さんに言って頂き、舞い上がりました。いったいなんて答えたのか?
頭が真っ白になってしまい、その部分だけは、爺は、記憶喪失じゃぞ。
カメラの後ろに行ったり、モニターを覗き込んだり。クルーの方々には邪魔だったろうなあ。そして、「あれ、お上りの原作者だから、邪魔になっても我慢してね」とプロデューサーから釘を刺されていたのではありますまいか。
休憩に入って、シナリオライターの山本あかりさんともお話しするタイミングがありました。私が、シナリオを読んで感心した旨をお伝えする。台詞も原作から変更が加わっている。わかりやすい、というか。
「女性のシナリオライターを探されたようですね」と、山本さん。
なるほどと、膝を叩きました。主人公たちは女性で、作者は男。で、どんな気持ちで女性の心を描いたのかというと、これは想像です。火星の表面や宇宙空間を描いたりするのも、想像ですが、女性心理を描くのと同じレベルの心理実験です。
だから、女性のシナリオになったのは、描写に嘘がないようにという配慮でしょう。
さて、いくつか原作とドラマは異なる点があるようですが、それは本を読んでドラマを見て確かめて頂くことをお勧めします。
いやぁ、楽しい現場でした。どのような作品に仕上がっているのか?
今からわくわく。楽しみでなりません。
第102回 飛行機、恐い!
ときおり眠れないことがあります。余程楽しいことがあったり、妙な不安感につきまとわれたり、あるいは誤って濃いコーヒーを飲んでしまったりというケースかな。
そんなときは、布団の中でまんじりともせず過ごすのですが、翌日の予定を考えると何とか睡眠を取っておいた方がいい。で、どうやって眠るか。いわゆる就眠儀式というもの。
羊を一匹二匹と数えるのは有名ですが、私にはあまり効果がない。声を出さずに頭の中で「あー」と叫び続けるといいと聞き、試してみたのですが、私には効果がなかったな。でも、大丈夫。私には、とっておきの方法があります。
それは、空想飛行です。
まず、頭の中で自分が今、草原に立っているのだと想像します。それから、これも想像ですが両手を広げて全速力で走り始めます。滑走をしばらく続けると身体が離陸。そのまま上昇を続けながら、時には旋回しつつ下界を見下ろしていると、いつの間にか、眠りの中に入っている。
これが、今、一番、効果あるかな。
こう書けば、私のことを皆さん飛行機が大好きな人間だと思われるんじゃないかな?
ところが、さにあらず。いつの頃からか、飛行機が大嫌い!という人になっていました。できるだけ乗りたくない。幼い頃はチラシ撒きのセスナに同乗したことがあったし、楽しかった記憶があるのですが。
高校から大学に入る頃にかけて飛行機に乗れなくなったのではないかな。
まず、あんな金属の塊が空中を飛ぶというのは万物の法則に反しているのではありませんか。翼を持ち、一定の速度があれば飛行するのかもしれませんが、それは全ての機器類が正常に作動していての話です。いつ、トラブルで止まってもおかしくない。とすれば落ちる他ないじゃないですか。そんな危ないものには乗れません。
ところが就眠儀式の空想飛行は、ちっとも怖くないのです。映画でもテーマパークでも飛行場面は大好き。実際に飛んでいる訳じゃない、と自分に言い聞かせているから。想像世界の飛行は、「これは夢だから」と自分に言い聞かせている自分がいます。
さて、現実の飛行機に乗る時。一番怖いのは離陸の時。叫び出したくなります。そのとき、一瞬にして、自分の乗っている機が空中分解を起こして墜落する場面が、微に入り細にわたって脳裏に浮かぶのです。そして、過去に見た映画の無数の墜落シーンがパノラマのように蘇ります。この飛行機から、もし無事に降りれたときには白髪になってるにちがいない、と考えていたりします。
だから、できるだけ飛行機には乗りません。熊本から移動するのに、名古屋辺りまでは新幹線を使っています。でも、東京まで旅するときは、時間の都合で、やはり飛行機。
一つだけ、方法はあります。空港で、ぐでんぐでんに酔っぱらって飛行機に乗れば、恐怖から逃れることができます。しかし、その後、仕事が待っていることを考えると飲めないから、やはり恐怖と戦うしかないか。
それでもいろいろと試してはみました。ヘッドフォンをつけて音楽を大音響でがんがん鳴らして聴く。やはり気流の変化で揺れるあの怖さは克服できませんでした。ダイ・ハードという映画でブルース・ウィリスは高所恐怖症という設定のスーパーヒーローでした。で、飛行機嫌いで、仕方なく乗るときは、「靴を脱ぐ」
効果あるんだろうか?と試してみたのですが、結果は“?”でした。よく意味がわからない。
「何度も乗っていれば、そのうちに慣れて、何とも思わなくなりますよ!」と言われたけど、何度乗っても怖いものは怖い。人は歩行する以上の速度で移動することを続けていたら、いつか感覚が異常になるというのが持論ですが、これは恐怖症が生み出した理論ですね。
一つだけ恐れを緩和する方法がある様な気がします。まだ試していないのですが。
離陸の時に、キャビンアテンダントのお姉さんが私の手を握っていいてくれるというサービスをやってくれたら、「今なら墜落してもいい」と思えるのではないかと。
そう思いませんか?飛行機恐怖症克服!
ただ、どうやって試せばいいか、検討もつきません。
このような恐怖症は、私だけなのかなあ。
そう考えていたら、結構たくさんいらっしゃる。
海外旅行には行かない、という方の理由が、「飛行機が怖いから」
あ、私と同じだ!と膝を叩きました。その割には、どこそこの国を巡りましたという方が多いなあ。
ブラッドベリという作家さんは、とうとう来日されませんでしたが、理由はやはり飛行機嫌い。「火星年代記」やら「ウは宇宙船のウ」やら名作ばかりのSF作家さんと私も同じだ!!とうれしくなります。
さて、もうすぐ上京の予定があるので、今からおろおろしているのですが、他に飛行機恐怖症を克服できる方法をご存知ありませんか?