赤鼻のトナカイたちのソリに乗って空中を飛んでいたのは、赤い服を着て髭をはやした肥った老人に見える。
サンタクロースと思うかもしれないが、実はちがう。
北欧にはオーガという、妖怪というか化け物がいる。ノルウェーやデンマーク、アイスランドにもいるが微妙に大きさや性格が違う。そして、サンタクロースの故郷であるフィンランドにもオーガがいた。毛むくじゃらで大男で、人間の子供の肉が大好きなオーガだった。
で、そのオーガが森に迷い込んだ人間の子どもを襲って食べようとしたときのこと。
逃げる子どもを追っていたとき崖から足を踏み外し、下へ真っ逆さま。気がつくとベッドの上に。
なんと、助けられて介抱されていたのだ。
命の恩人はサンタクロースだった。「やあ、気がついたか。心配したぞ」と。
オーガは感謝し、お礼を言い、なにか自分にできることはないかと。
だがサンタは首をふった。
「その気持だけで十分だよ。でも、もう子どもを襲ったりしちゃいけないよ。子どもは宝だからね」
その言葉で、助けてくれたのが、かの有名なサンタクロースだとオーガはやっと気がついたのだった。
サンタの教え通り、オーガはそれから子どもを襲わない日々を送っていた。すると、ある日、オーガの家のドアをノックする者がいる。サンタ工場の妖精だった。
実はサンタが急に倒れたとのことだ。クリスマス前の多忙期で無理がたたったらしい。
オーガが駈けつけると、サンタクロースは虫の息だった。オーガがサンタの手をとるとやっとサンタはやっとのことで目を開いた。
「おお。オーガか。頼みがある。クリスマスに私の仕事を代わりにやってくれんか。一夜だけのことだ。世界の子どもたちに私のふりをしてクリスマスプレゼント配ってくれ」
「そりゃ、だめだ。子どもを見たらオラぁ喰わずにはおれんだよ」
「そこをなんとか頼む。私はお前の命を助けたろう。子どもたちは皆、眠っている。そっとプレゼントを置いてくるだけだから」
それがサンタの最後の言葉となった。亡くなってしまったのだ。仕方なくオーガはサンタの赤い服を来て大袋にクリスマスプレゼントを詰め込む。
仲間のオーガたちは、それを見て大笑い。「似合わぬことをしないほうがいいぜ」と。
空飛ぶトナカイに乗り込み、オーガはクリスマスの夜空に飛び出したのだった。子どもを見なきゃ大丈夫だ。と、自分に言い聞かせて。
数万軒の家を訪ね、プレゼントを置くと、少しづつ自信もついていった。よし!使命を完遂できる!と。
そして明け方も近くなった頃に訪れた家でのこと。部屋に忍びこみベッドの横にプレゼントを置こうとした瞬間、明かりがついた。
「やあ、サンタのおじさん。本当にいたんだ」
オーガは仰天。見ると目を輝かせ、まるまると太った、なんとも美味しそうな子どもがオーガを見ている。
まさか、こんな事態は予想外だった。
子どもははしゃぎ声をあげ、ベッドを飛び出しオーガに抱きついてきた。そして、「サンタのおじさん毛深いんだね。牙まであるんだ。、これで友だちにサンタのおじさんは本当にいるって威張れるよ。みんな信じなかったから」とオーガの肩に這い登ってきた。その子の腕がオーガの口元に来たとき思わずペロリと舐める。美味しそうな匂いがオーガの鼻腔をついた。自然とよだれが出てくる。
もうたまらん、とオーガが子どもの腕に牙をたてようとするとサンタのいまわの際の言葉が蘇る。
「サンタのイメージを守っておくれよ(ガクッ)」
もうたまらん。我慢できぬとオーガは外に飛び出した。そして、ソリに飛び乗りフィンランドへ。
オーガはサンタの墓前で邪念を抱いたことを懺悔し報告する。と、サンタの幻が出現した。
「愚か者。まだ心の修行が足りん。クリスマスは来年もその次もずっとあるのだ。心を磨いて真のサンタに近づいてくれ」
オーガはサンタの叱責に深く反省した。心がまだ未熟なのか。まだ一年ある。誘惑に負けぬ自分になってサンタの恩に応えなくては。
それからのオーガは日々座禅を組み、滝に打たれて、真のサンタになるべく修行に励んだ。そして次のクリスマス。
「これで子どもを食べたいという欲求を抑えられるぞ!」とオーガは拳を握る。オーガの精神は精神は新たな高みにたっしたのだった。
すると、何と赤鼻の空飛ぶトナカイたちがいない。どうしたのだ。
周りにいた仲間のオーガたちはデヘデヘと笑いを浮かべて言った。「うまそうなんで俺たちが喰っちまったよ」と。
だから、その年から空飛ぶソリがなくなった。この世の子どもたちにサンタのプレゼントは届けたくとも届かなくなったのである。本当に残念。
これが、サンタの真実。
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第180回 松茸大作戦
私はキノコが大好きだ。形といい味といい、相性がいいというか、非の打ちどころがない。おまけに、日本人としての私に季節の移ろいを感じさせてくれる。春にはハルシメジ、夏にはヤナギマツタケやタマゴタケ、涼しい夜明けを迎えるようになるとハタケシメジが顔を見せるようになる。そして、いよいよ季節は秋。キノコ本格的シーズンを迎えようとしていた。
ムキタケやクリタケ、そしてナメコなど秋の美味しいキノコは枚挙にいとまがない。もう何年、秋のキノコ狩りを続けてきたのだろう。おかげで、どの山の渓谷のどの辺りに、湿度がどのくらいで気温がどの程度かというところで出かけると、お目当てのキノコが発生しているはず、ということもわかるようになった。
だが、やはりそれだけの経験を積んでも、採れないキノコがある。
松茸だ。
松茸だけは別格のキノコだと思う。芳ばしさもだが、ホイル焼きして日本酒に浸してもうまいし、松茸ご飯は極上だ。そして松茸の佃煮を茶漬にする。これはまさに日本に生まれてよかったと感謝する瞬間だ。松茸の天ぷらは贅沢極まりないと思うが、美味優先であれば挙げな
いわけにはいかない。
ただし、高価だ。
なかなか採れないということもあるし、人工的に栽培できない、ということもある。海外産松茸もあるが、香りがまったくなかったり、色も白っぽくて、とても同じ品種とは思えない。松茸とは別のキノコではないかと疑ってしまう。
時期も限られているのはもちろんだが、発生する松林の環境も関係するらしい。ある成長期の松林に発生しやすく、松林が一定の成長レベルを超えると、もう松茸は出なくなると聞いた。知人に松茸の発生する林を案内すると言われ連れて行ってもらった。急斜面の松林だった。そのあたりに松茸は毎年出るのだという。だが、私の目は節穴だったようだ。「ほら、ここに」と知人は私の目の前の地面に手を伸ばすと、ひょいと何かをつまみあげる。それは松茸。私には見えなかった。そんな捜しづらいキノコでもある。
ある日、キノコ犬の話を聞いた。フランスでは昔は豚を放ち、トリュフという地下のキノコを探させたようだが、今は訓練した犬にトリュフを探させるらしい。トリュフだけでなく、松茸も探すとい
う。これだ!
私は犬を買い、松茸の香料を嗅がせて日々訓練した。立派なキノコ犬だ。これで高価で珍味の松茸が食べ放題!だ。「さぁ、キノコの時期だ。これまでの訓練の成果を見せるのだ。」
ワンと、自信に満ちた声で鳴くと猛スピードで走り出す。その後を必死で追う。キノコ犬が一目散に駆け込んだ先は……。
全国チェーンの弁当屋の店先だった。その弁当屋の店頭では“秋の松茸ご飯キャンペーン”の旗がはためいてた。
へなへなと全身から力が抜けてしまった。
そんな話をすると、友人の生物学者が「いい案がある。松茸にも、ひょっとして使えるかもしれんな」
どうするんだ?と尋ねると友人は言った。「キノコは生物学上は真菌類という分類になる。で、私の研究は生命共鳴現象というものだ。遺伝子的に近縁の生命のDNAを組み合わせると互いを呼び合うようになる。高等生物ではだめだが、カビや菌の実験では成功している。で、キノコは真菌類だが実は人間にも関係のある真菌類があるんだ」「それはなんだい?」「タムシや水虫などの疥癬菌も真菌類なんだ。松茸のDNAを疥癬菌DNAと融合させ、君の足や股間に塗る。すると、
共鳴現象を起こし、松茸が探しやすくなるはずだ」「なるほど。でも痒いんじゃないか?」「いや、松茸を選ぶか、インキンタムシを選ぶかの問題だ。後でタムシチンキを塗ればいい。どうする?」
なるほど。「松茸を採りたい」
そして友人の生物学者は私に松茸DNAの疥癬菌を塗った。
何も起こらなかった。
そして秋。「凄い!」奇跡が起こった。生命共鳴現象だ。
もうどこにも松茸を探しに行く必要などなかった。
我が家の周りに、ぼこぼこと松茸が生え始めたのだ。
共鳴現象とはそういうことだ。松茸疥癬菌が松茸を呼び寄せている。これほど凄まじいい効果があったとは。
家の周りに密生する松茸をすべて採れば、どれだけの末端価格になるだろう。数十万円……いや数百万円。近所の連中が生えた松茸を採ろうとする。私は慌てて裸足で外に駆け出した。「皆、採るな!これは、すべて私の松茸だ」
これほどの強烈な生命共鳴現象が起こるとは、と思ったときは遅かった。
予想を遥かに超えた疥癬菌が、私の股間と足の先で爆発的に活動を開始した。
最初の一本の松茸を握ったときは、すでに私はその痒さに悶絶していた。
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第179回 背後で響くもの
背後から「もしもし」と声をかけられた。振り返ると、男が立っていて私を見ていた。
「なんですか?」
「ご機嫌よさそうですね。鼻唄を口ずさんでおられる」
そう言われて、自分が鼻唄をうなっていたことに気が付いた。指摘されなければわからない。「あなたは?」と尋ねると男は微笑んだ。名刺をくれた。
それには〈人生に深みと感動を/企画〉の肩書。
変な名前の会社だなあ。そう思いつつ名刺を眺めていたら、男が言った。
「あなたにピッタリの商品をわたしどもの会社で用意しました。その商品のモニターになって頂けませんか。もちろん、無料です。耳で聞くだけ。人生に深みが生まれ、より深い感動を日々味わうことができます」
人生に深みと、感動……そして無料。断る理由は何もない。心の底で無料より高いものはないとかすかに感じたが。「では、お願いしましょうか」
「きっと満足されますよ」
男はイヤホンと腕に巻くベルトをくれた。
「お楽しみください。ベルトが感情を測定し、イヤホンに伝えてくれます。では、感想はまた」
男は去ってしまった。どんな音がイヤホンから流れるのかも教えてくれずに。ベルトを腕に巻いてイヤホンを聞けばいいのか?
イヤホンを耳に着けたが何も変化がない。ベルトを巻いた腕を振ってみる。こちらも変わらない。
歩き始めた。軽やかな行進曲が聞こえてきた。どこで鳴っているんだ?イヤホンだ。なるほど、歩くステップも軽やかだ。朝らしく気持ちいい。
いつもこのあたりで通勤に向かうきれいな女性と会うんだよな。毎朝のお楽しみだ。すると予想通りだった。いつもの可愛い女性が歩いて来る。私の心臓は少しときめいている。
すると、イヤホンのメロディが変わった。これは……この曲は知っている。ダスティ・スプリングフィールドの「この胸のときめき」だ。彼女はそんな私に注意を向けることもなく信号機を渡って見えなくなった。
もうすぐ、私の会社だ。いやだなあ。また課長に嫌味を言われるんだろうな。ノルマ果たしてないし。すると耳からメロディが。違う曲だ。今の気分そのものだ。何という曲だろう。
腕に目をやる。ベルトに文字が流れていた。「暗い日曜日」あ。ベルトに出てくるのは曲名なのか。ほんとに、暗い。足が重くなってしまった。会社に足を踏み入れようとするときまた曲が変わる。ベルトの表示は「亡き王女のためのパバーヌ」鎮魂曲じゃないか。
男がモニターとして私にくれたのは、バック・グラウンド・ミュージック装置なのだ。私の感情を腕のベルトが読み取り、その気持に一番適した音楽を再生するのだ。生活しつつBGMが流れてくる。
生の映画音楽と思えばいいか。映画も音楽が流れていないときいないときはあまり感じないが、楽しい場面で明るい曲が流れるとウキウキするし、怖い場面ではおどろおどろしい曲が流れてドキドキさせられる。
それを実生活でやる装置が開発されたとは。
それにしても気が滅入る。
そうか。このベルトを外せばいいんだ。と思って腕から取ろうとすると、ピタリと喰い付いて取れない!イヤホンも耳から外れない。
とほほだよ。どうしよう……。途方に暮れているとまたしてもメロディが。
森田童子の曲で「僕たちの失敗」が聞こえ始めていた。まさにぴったりではないか。
どうしよう。このまま会社に行くとどうなるのか。
突然曲が変わる。不安を煽るようなメロディだ。これは……「スター・ウォーズ」のダース・ベィダーのテーマではないか。
遠くから課長が歩いてくるのが見えた。だから、こんなメロディが聞こえるのか!ということは、この状態で仕事を始めたら、どんなBGMが流れてくるのだろう。
葬送行進曲?鎮魂曲?いや、ジョーズのテーマかもしれない。
これは緊急事態だと自分に言い聞かせた。こんな状態では仕事になったものではない。
今日は仕事をさぼろう。
慌てて木陰に身を隠し、課長をやり過ごすと一目散に、その場から走り去った。
会社から遠ざかるにつれて、聞こえるメロディも軽やかなうきうきしたものになる。ベルトの曲名はクライスラーの「朝の歓び」だった。そうだよ、これでいい。
これまでは気がつかなかったがBGMではっきりわかった。私にとって会社は大きなストレスなのだ。どうすればいい?
結論は一つだ。今までBGMなしでなんとかやってこれたのだ。このイヤホンとベルトさえなければ元の生活のリズムに。
「いかがですか?人生に深みと感動が感じられたのではありませんか?」
と突然現れたのはあの男だった。
「モニターはやめだ。元の人生に戻してくれ」
すると男は申し訳なさそうな顔をした。
「すいません。一度装着すると、まる一年はそのベルトとイヤホン、はずせないんです」
「えっ。じゃ、これから私の生活はどうなるんだ」
「実は新製品があるんです。この眼鏡を掛けて生活して見られませんか?世の中の真実が見えて、生活が楽しくなりますよ」
と、男は有無を言わせず眼鏡を私の顔に押しつけた。これも……取れない!!なんだこれは」
近くの自動車の窓ガラスを見る。おかしな眼鏡の私が写っていた。でも変だ。私の目の大きさが「点」になっている。ここ、れ、は!と思うと顔から幾つもの縦線が伸びた。さらに、頭の上に漫画文字が「ガビーン!」と浮かんだ。
「はい。BGMに加えて見るものにコミック表現効果を加えるんです。これでいっそう、あなたの日々の暮らしは奥深いものに」
男の頭上には「ニタ。ニタ」というコミック文字が浮かんでいた。
第178回 父のAI
日常では、あまり面と向かって父と話すことはなかった。ただ、私が子供の頃から父は何かあると呼びつけて口うるさく叱った。
私もいい年齢になり家族を持って両親宅の近所に住むようになったが、母から時々連絡があり説教されにいく。
内容は、孫がちっとも会いに来ないのは躾ができてないからだとか、言われなくてもときどきは庭の手入れに来たらどうだとか、よくもまあ重箱の隅をつつくような小言を繰り出してくる。母は元気が一番と、父のことは見て見ぬふりだ。
そんな父に変調が始まったのは、私を呼びつけて例によって文句を言っているときだった。ふと気がついた。私に小言を言うのだが、このとき何度も同じことを言う。「父さん、変だよ。さっきも同じことを言ったよ」と指摘すると怒り出した。帰り際に母にそのことを告げると、母は父を騙し騙し医者に連れて行ったようだ。母から電話がかかってきた。「初期の認知症だって。進行を遅らせる薬をもらってきて飲んではいるけど、進行を遅らせるだけで治ることはないんだって」
だからといって、私に説教をする習慣はなくならなかった。そして、症状はますますひどくなっていく。私を叱っている途中で、私の何に対して文句を言っているのか、自分でもわけがわからなくなり、それでまた癇癪を起こすという悪循環に陥ってしまいそうだった。
薬だけでは、とても解決できない。
父の主治医に母を連れて相談に出かけた。
「進行するともっとわけが分からなくなり、お父さんは自分自身にも腹を立てるようになると思います」「そうですか。いずれ、父は父でなくなるのですね」すると、主治医はある提案を持ちかけてきた。
「私の友人に人工知能の開発をやっているものがいるのですが、彼に聞いた話がお父さんに役立つのではないかと思います」
「どうするんです」
「お父さんの脳はどんどん萎縮していくと思います。そうなったときのためにAIつまり人工知能にお父さんの判断や思考を学習させ、お父さんが見聞きすることとお父さんの思考を論理を記憶させ、学習させます。お父さんの脳とAIを直結させるんです。そしてお父さんの思考をバックアップして保存します。すると、認知症が進行してもお父さんの脳に直結したAIがお父さんの思考を補佐するんです。いかがですか」
母親を見ると判断がつかないようだ。「手術は難しいですか?父とAIを直結するのは」
「いえ。簡単になってますよ。首のところに繋げるようにするだけのようですから。それで脳の働きをAIが読み取るのだと聞いています」
これ以上、ほっておいたら父の痴呆は進行し、壊れていくだけのように思えた。
「お願いします。それで話を進めてください」
その頃は父も足が不自由になり寝たきりの生活になっているのも幸いした。麻酔を与え、父が眠っている間に首筋にコードを取り付けてAIに繋ぐことになった。父が怒ることも想定したが「これは物忘れしないようにする機械だからね」と母が説明するとAIをおとなしく受け入れたようだた。
AIには前もって私や母が、父の行動や知識についてわかるだけ教え込んでいた。だから、父がなにか話そうとして、話に詰まるとAIが補佐して欠落した知識を埋めてやる。そして父の話がスムーズに修整される。それが父のストレスを緩和しているようだった。
父の痴呆状態が劇的に治癒しているように見えるのは、母にとっても私にとっても嬉しいことだった。そのせいだろうか。ストレスが減ったのか?父が小言を言う頻度も減ったように思えた。いや、認知症状態が治っているわけではなく、父が忘れている部分をAIが補っているだけなのだが。
そう。父は常に呆けているわけではなく、まだら模様のように頭がはっきりしたり、呆けたりを繰り返す。はっきりしたときの父からAIは情報として取り込んでいることもわかった。
一度、近くで落雷があり、わが家が停電したことがあった。真っ暗な中、母に呼ばれて駆けつけ、父が大丈夫か話しかけて父の本当の容態を知ったのだ。父は会話をするにもあらゆる面で認知症が進行していた。私の呼びかけに答えられないほど。
もちろん、AIが止まってしまっていたからわかったのだが。
その父が、心臓の急変であっけなくこの世を去ってしまった。母が気づいて救急車を呼んだときは、すでに手遅れの状態だった。
父を送るすべての行事が終わったあとに残されたものは、父の受け答えをずっと補助してきたAIだけだった。
人工知能を開発した父の主治医の友人に連絡をとると、すぐに引き取りに来てくれた。
「お父様の思考をかなりこのAIは学習しましたね。最後はお父様に代わってほとんどのことを答えていたようです。元気なときのお父様で最後までおられたでしょう」
そう言われてみればその通りだ。
「では、データすべて消去しておきますね」
「待ってください。その補助装置としてのAIはどうなるのですか?他の方に使われるのですか?」と母が真剣に尋ねる。
母に呼ばれて実家に行く。座敷にはロボットが座り、その頭には見慣れたAIがある。AIは聞き覚えのある口調で私に小言を言う。庭の手入れ、孫の躾……。
お茶を持ってきた母は、その様子を見て嬉しそうだった。「まるでまだお父様元気なようで」
私は肩をすくめる。これはこれで母にとっては幸福な結末かもしれないと。
第177回 年金を掴みとれ!
田中源助とその妻トメは手続きのために夫婦揃って、老体に鞭打って会場へやってきた。
この日をどれだけ待ったことか。
若い頃は夫婦して一所懸命頑張った。仕事に打ち込み定年を迎えたら年金でささやかに暮らし、若い頃にはやれなかった趣味三昧で生きていこうかと。子供の成長で学費もかかり生活を切り詰めたが、老後のことを考えて年金だけは払い続けてきた。
「こんなに年金って天引きされるんだ」
給与明細を見て溜息をついたことも、はっきり覚えている。
「昔は60歳から年金貰えたらしいよ」
そんな事実を知る。夢のようだ、と思う。いつしか、年金を受け取る年齢は65歳からに変化していた。消費税が上がるたびに年金は安全、安心、と聞かされていたので、騙されたような気分だった。
60歳を過ぎて定年を迎えた源助は、新たな職を探さねばならなかった。退職金は貰ったが雀の涙だ。すぐに使い果たしてしまう。再就職先の給与は安かった。いや、職を手にしただけでもマシだと思うしかない。65歳になったら年金で暮らす。妻も自分も時間がなくてやれなかった趣味を楽しもう。夫婦揃って同じ趣味なのは良かった。趣味に打ち込めなくても、それに関して話題も生まれる。趣味の方向が違っていたら、夫婦間の会話さえなくなっていたかもしれない。
安い給与だが2人とも節約して過ごし、ギリギリの生活を送ることができた。
そして、65歳を迎えた。なんと、年金基金が破綻しかけていて、貰える年金は減額されている。源助は目を疑った。この日のために2人とも我慢してきたのに。
とても年金だけでは生活できない。生活保護を受けたほうがマシかも知れない。餓死しろということか。これまでの仕事を続けながら年金で暮らすか、と考えていたら、手続きの途中に言われたのが「他に仕事をやって給与を貰っていたら、年金は減額になります」
源助は唖然となった。そうなったら、趣味どころか、食べていけない。
「それから、これは提案ですが、もし年金の受け取りを70歳からになされば、毎回の受取額は、これだけに増額になります。ただし、70歳までは自力で稼いでいただくことになりますが。見たところ、まだお元気そうですし、ご夫婦で頑張れるのではありませんか?」
それから、担当者は70歳からの受給で毎回貰える額を提示した。なるほど、これなら苦労せずに毎月を暮らせる額だ。
ただし、贅沢をしなければ。
夫婦は顔を見合わせた。趣味だけで生きる生活はしばらくお預けだ。2人は頷き合い、手と手を重ねて言った。
「がんばろう」
2人は70歳になって年金受給の手続きに行った。
5年前の同じ担当者が机の前に待っていた。
「やあ、5年間よくやられましたね。ただ、ちょっと申し上げにくいことがあります。あれからの5年間でいろいろと状況も変化しています。5年前に提示した年金支給額ですが、少々減額されることになりました。いや、皆、同じ条件なんですよ全国民」
受給額が下がっている。夫婦2人でも食っていくのが難しい。
「これは詐欺じゃないか。何のために5年間耐えてきたと思う。その間に消費税まで上げやがって。100年大丈夫です。面倒見ます。というのは大嘘だったのか!」
「まあ、まあ、怒らないでください。世界は常に変化しています。できないこと、どうしようもないことが世の中にはあるんですよ」
「どうやって我々は老後を暮らせというんだ。生きていても地獄なだけじゃないか」
「あの……、実は1つ提案があるのですが」
「まさか、受給を75歳にすれば、増額になりますというんじゃなかろうな。もう、足腰も衰えている。誰も使ってくれないし、働かせてくれないよ」
担当者は首を横に振りニヤリと笑った。
「そんなことではありません。年金を自分の力で勝ちとっていただくんです」
「どういう意味だかわからんが」
「パーティで100円勝ち抜きゲームがあるのはご存知ですね」
「ああ知ってる。手に全員100円持って、隣の人とじゃんけんして勝ったら100円玉を受け取っていく。50人のパーティだと、最後の勝者は5000円を手にすることになる…という」
「そうです。それを年金でやるんです。この奥が年金バトル・ロワイヤルゲームの会場になっているんです。その部屋では罪に問われることなく殺し合いができるんです。負けたら”事故死”扱い。3人殺せば3倍の年金が受け取れます」
なるほど年寄りが減れば社会保障費も節約になると考えたのか……。こいつ等!
「どうなさいます。お断りになるも自由です。ただしその場合の年金額ですが……」
源助とトメは顔を見合わせて答えた。
「やるよ。武器は何が使えるんだ?ナイフでも拳銃でも構わないよ」
「ほほう。それは頼もしい。何人分の年金を望んでおられますか?」
源助は驚いていた。彼とトメの趣味はサバイバル・ゲームなのだ。心いくまで武器を握り戦闘体験をしたいと思っていたのだが、これほど早くやれるなんて。しかも、実戦で。
源助は漏らす。
「わし、ワクワクしてくるぞ」
第176回 盂蘭盆の子
先祖の霊を敬い祀る行事が盆だ。盆には亡くなった家族が戻ってきて数日を過ごすのだと言い伝えられている。盆は新暦で迎える地方と、旧暦の七月十五日前後にやる地方とがある。私の本家は、七月の盂蘭盆(うらぼん)だ。子供の頃からどもその時期になると私は両親とともに本家を訪ね、数日を過ごした。他の親族たちも集まり、夜は宴会となった記憶がある。十三日の宴が始まる前には玄関先で迎え火を焚き祖先の霊を迎えた。この三日間は父は休みをとり本家でゆったりと過ごした。毎日宴会が続き、それは十五日の夜の送り火まで続いた。父の兄妹たちも家族連れで集っていたので、本家は祭りのような賑やかさだった。
それが盂蘭盆に関する私の思い出だ。私は昼間は従兄弟たちと一緒にセミやカブトムシを探しに山に出かけたり、川へ鮒をすくいに行ったものだ。だから、本家に集まる全員を見知っていたはずなのだが。
思い出すと、どうしても引っ掛かることがあった。
謎の女の子のことだ。
初めて気がついたのは小学生になって初めての盂蘭盆のとき。それ以前にも実家の盂蘭盆には行っていたのだが気がつかなかっただけなのかもしれない。
玄関先に皆が集まっていた夕暮れ。迎え火を焚くために叔父の一人がマッチを擦ろうとしていた。私はその横にしゃがみこみ、点火されるのを待っている。
二つ歳上の従兄弟も腕組みをしてしゃがみこんでいた。その隣に、その子がいた。
女の子だった。やっと歩けるようになったくらいの子だった。見知らぬ子だった。どこの子だろう。今までどうして気がつかなかったのだろう。あとで迎え火が終わったら確認してみなければ。そして、迎え火が終わり、家の中に入る。そのとき、あの女の子の姿はどこにもなかったのだ。私は女の子のことは誰にも尋ねなかった。ひょっとしたら自分の目の錯覚だったのではないかと思ったから。
翌年、同じように親戚一同が盂蘭盆のとき本家へ集った。そして同じように迎え火を焚こうというとき。
その女の子は現れた。一年経っているから、私は背が伸びていた。しかし現れた謎の女の子はよちよち歩きのまま、全く成長していなかった。一年前と同じ水玉の服と短パン姿のまま。一番背が伸びる時期なのに。女の子は私を見ていた。そして私と目が合うと嬉しそうに微笑んだのだ。私も思わず微笑みを返していた。女の子が誰なのか知りもしないのに。女の子が目の錯覚などではないことを確信できたからでもあったろう。だが、迎え火が終わり皆が家の中に戻ると、その年も嘘のようにその女の子の姿は消えていた。その年、母親に尋ねてみた。
「やっと歩けるくらいの女の子いたよね。どこに行ったの?」と。
母親は不思議そうだった。「そんな小さな女の子は、いないよ。何か勘違いしているのかね」ショックだった。私は実在しない女の子を見ていたのだ。それから、私は迎え火を焚くときに会う女の子のことは、口にしなくなった。しかし、翌年も、その翌年も女の子は出現した。私を見るといつも笑いかけてきて。思わず私も笑顔を返したものだ。
その次の年の迎え火の前に思いついたことことがあった。迎え火とは亡くなった家族を迎える行事ではないか。女の子が生者であるとは限らない。迎え火の前にすでに帰ってきている祖先の一人ではないのか?
私は、祖父に尋ねてみた。「この家で生まれてすぐ亡くなった子って今までいなかったの?おじいちゃんの妹とか」
祖父は不思議そうだった。それから、よく考えて答えてくれた。「おじいちゃんの代まで考えてみたが、幼い頃亡くなった子どものことなど聞いたことないよ。何故だね?」理由について、私は答えなかった。
その年の迎え火のときに、初めて女の子は現れなかった。
小学校を卒業すると、盂蘭盆に本家を訪れる習慣もなくなった。
高校へ進み、大学へ行くために親元を離れた。大学を出ると故郷の会社を選び入った。やはり、育った土地で暮らすのが落ち着く。
七月に入ると、ふと子どもの頃迎え火のときに見た、幼い女の子のことを思い出した。いったいあれは誰だったのか。
勤めで知り合った女性と私は結婚した。もう立派な社会人だ。親はずっと私が結婚しないのではないか、と心配していたようだ。決まった女性と交際するような縁がなかったからだ。だが、妻とは仕事先で出会ってから嘘のようにとんとん拍子で話が進んだのだ。結婚して、挨拶に妻を本家に連れて行ったときのことだった。「ここに来たことあるわ」と本家の玄関前で妻は言った。「家で遊んでいたとき、気がつくといつもこの場所にいた。皆で火を焚いていた」まさか……あのときの女の子は……!「目の前にいた子が誰かはわからないけれど、あなたに会ったとき懐かしい気がして」彼女が初めて笑いかけた表情に惹かれた理由が私にはそのとき、はっきりとわかっていた。「そうよ。みるみる成長していなくなったけど、笑顔の素敵なあの男の子はあなただったのね!」
第175回 サタンの下請け
サタン様が上空を仰ぎ気配を感じたようなので、あわてて出掛ける用意をすると同時に、出勤となった。次元の裂け目を飛び越えると薄暗い部屋だ。部屋の中には床に五芒星が描かれ、その中央に男がひとり立っている。サタン様が男の前に立つ。男は恐怖と戦っているように見える。俺たちは物陰に隠れて様子をうかがう。男は悪魔の契約を望んだのだ。
「私を呼び出したのは、何やら願いがあるのだな。何でもかなえてやるぞ。ただし、お前が死んだら魂はいただくぞ」
サタン様はいつもと同じセリフを伝える。
「はい。魂は自由にしてかまいません」
「そうか。では、願いを言ってみろ。金か?女か?権力か?」
俺たち小悪魔はサタン様の下請けをしているのだ。サタン様を呼び出してどんな願いを言うのか見当もつかないが、その願いをいちいちサタン様がかなえて回っていたら身が持たないではないか。だから、サタン様は俺たち小悪魔の下請けに課題を消化させるのだ。
これから、サタン様を呼んだ男がどんな願いを口にするのだろうか。
大金持ちにして欲しい!といったシンプルな願いであれば楽勝だ。男の銀行口座の数字をちょちょいと書き換えてやればいい。現金でなければ駄目というのであれば、俺たちは急いで”本物のお札”を刷る。偽札をつくるんじゃあ、ない。本物のお札だ。誤解しないように。それで、願った本人は満足するだろうか?一時的には満足するだろうが、その後虚しさを感じても知ったことではない。
絶世の美女を好きになってしまった。愛を告白したが、一発でフラレてしまった。彼女も自分のことを愛するようにして欲しい。
そんなのも簡単なものだ。惚れ薬を作って美女にかけてやる。願った男のDNAをブレンドした惚れ薬だ。効果は抜群だ。
そんなことを願って大丈夫ななのだろうかと思う。美女もいずれは老いさらばえる。体型も変化するだろう。男が愛想を尽かしても、かつての美女からつきまとわれるだろう。それでも、いい。そう男は言う。
あとは知ったことではない。
権力が欲しいという抽象的な願いをする者もいた。某国の大統領にしてやったのだが、本人は嬉しいのだろうか?某国の国民たちからは蛇や毒虫並みに嫌われていることもわかりそうなものだが、それでも権力にしがみつきたいのだろうか?
サタン様は願いをかなえた代償の魂だけ貰えばいいのだ。願った男が後悔しても、契約は契約だ。約束を守ったのだから契約の報酬は頂くことになっている。
魂をサタン様が、どうされるのかというと……喰ってしまうのだ。魂を手に入れたサタン様は、魂を軽く炙る。それから特製のタレを塗って、細くちぎって獄乱酒のアテにするのだ。大半はサタン様が喰ってしまうのだが、焦げすぎたところや、あまり好まれない部位のおこぼれは俺たちにまわってくる。それがサタン様の下請けの報酬というわけだ。一番美味しいところは、サタン様が味わうわけだが、それでもお裾分けの魂の屑は途方もなく美味い。恍惚となるほどの味だ。だから、サタン様の下請け仕事はやめられない。しかし、人間たちは魂がこれほどの珍味、美味とは知らないのだろうな。悪魔が契約で代償に死後の魂を求めていると聞いて、変なものを欲しがるのだな、くらいにしか思わないのだろう。
それに、嫌われる者や、欲深な者ほど、魂の味がいいということもあるのだから、文句はない。だから強欲で反吐の出そうな人格の人は願いのかなえ甲斐があるというものだ。
おや、サタン様のお出かけだ。俺たちも、また、ひと働きしないとな。今度も、強欲で、簡単な願いであることを祈ろう。
あれ、サタン様が腕組みをして、眉間に皺を寄せているぞ。いったいなにごとだ?
こんなことは、今までなかったというのに。
いったい、どんな奴だ。サタン様を呼び出して困らせるような願いをしている奴とは。
よほどの強欲の者たちだろうな。では、とびっきり珍味の魂なのだろうて。
どれどれ。
ありゃあ、サタン様の影に隠れて見えなかったが、呼び出したのはまだ幼い子どもではないか。何を願ったんだ?サンタクロースに本当に来て欲しいとか、オモチャとお菓子が欲しいときに、いくつも、とかいう願いなのか?
しかし、なんと清々しい澄んだ目をした子どもなのだ。
で、サタン様への願いは「地球上のすべての人たちを幸福にして、穏やかで平和な日々を送れるようにして下さい」
それがお前の望みだって?
地球上の、すべての人!確かにそりゃあ手が足りないよ。サタン様と俺たちだけでその願いをかなえるには、どれくらい時間がかかるんだよ!
この子が元気なうちに願いをかなえられればいいのだが。こんな難題とは……!!できるんだろうか。
第174回 今日は何の日?
結婚前の妻がそんな話題ばかり持ち出してきても、何も気にならなかった。惚れた弱みと言えばいいのか。何を言っても、それは彼女を魅力的に思わせることでしかなかった。
そして妻になった彼女が問いかけてくる。
「明日は何の日か知ってる?」何の日だったろう?
「私が、あなたと初めて話をした日よ」少し驚いた。結婚記念日とかは覚えているが、妻と初めて話をした日なんて覚えている筈がない。昔はそんなことをちゃんと記憶しておいてくれる妻が愛おしく思えたものだった。彼女は紙袋を差し出した。中には菓子を詰め合わせたものが。聞けば、私はそのときキャンディを一個、隣の席にいた彼女にあげたのだそうだ。それから話すようになった、と。私はよく覚えていない。好意があったから、そんなことをしたのだろう。
別のある日の朝、「今日は何の日?」と尋ねられる。初デートの日だったろうか?いやちがう。わからない。そう答える。
「初めて、あなたと手をつないで歩いた日よ」今はもう手をつないで歩いたりはしない。遠い昔、そんなことがあったかもしれない。彼女は日記でもつけているのだろうか。新しい手袋をプレゼントしてくれた。「あの日、私は手袋をプレゼントした。覚えていないでしょう。あなたの手が冷たかったから」
少しづつ、そんな妻の性癖が気になり始めていた。
いつもの夕食とは違うメニューが出てきたこともある。いつもは酒と刺し身の晩酌メニューなのに、その日はオムライス。
「なんで、こんなメニューを?」
「あなたに、昔、大好物は何?と尋ねたとき、オムライスかな、って答えたの。それが今日だったの。だから喜んでもらえるように記念のオムライス」と得意そうに言った。
確かに昔は、オムライスが好きだった時期もある。しかし、舌も嗜好も昔とは違うのだ。しかたなくオムライスを食べたが、うまいものではなかった。
変わったのは私だけではない。
妻も変わった。一番変わったのは見かけだろうか。昔はほっそりタイプの清楚な美人だった気もするのだが、今は、陸に上がったトドだ。しかも、毎日「今日は何の日?」と尋ねてくる。
何の日でもいいじゃないか。
今の私の願いは妻に話しかけられることなく、静かに日々を送りたいだけなのだ。一人っきりで干渉されることなく。しかし、今のままでは、とても無理かな。
そう考えている私に、妻は尋ねてくるのだ。
「今日は何の日か覚えてる?」と。
私の静かな時を邪魔しないでくれ。ただ、 ただ、安寧のときが欲しいのだ。
本来なら、黙ってろ!と叫べば黙ったのかもしれない。しかし、今は静かになっても明日になれば、今までと同じように懲りもせずに、私に尋ねるのだ。
「今日は何の日か知ってる?」
毎日が何かの記念日なのだろう。もう沢山だ。世の中だって記念日が多すぎる。わが家の記念日まで加えたら……。
勘弁してくれ。
そのときの私は、この世界を、もう少し平和で人類が仲良く過ごせるようにする方法について考えていた。そして、その真理へあと一歩のところへ辿り着こうとしていた。
「ねえ、ねえ。今日が何の日か知ってる?」
私の脳内で、全世界が平和に至る方法がガラガラと音を立てて崩れていった。
見ると、妻が私の左袖を引っ張っているのだった。
瞬間的に私は妻に強烈な殺意を抱いていた。
反射的に妻に飛びかかると、彼女の太い首を力いっぱい締め上げていた。もう少しで世界平和の方法にたどり着けるのを邪魔しやがって。
はっと我に返ると妻は動かなくなっていた。生者らしい反応は何もなかった。
私は妻を殺してしまったのだ。
後悔はしなかった。いつか、こうなるだろうという予感があった。だが、このまま捕まる訳にはいかない。それに、妻が死んだ今、私には自由の日々が待っているのだから。
そうだ。死体を隠そう。もうすぐ夕暮れだ。庭に穴を掘り埋めてしまおう。誰かに尋ねられたら、妻は今、旅行中だと言えばいい。誰にもばれる筈がない。夜明けまでに穴を掘れば、埋めてしまうことができる筈だ。階下に死体を運び、リビングから庭に出て作業を済ませよう。
妻の死体は予想以上に重かった。シャベルはテラスにあった筈だ。階段を脂汗を垂らしながら下りていく。妻を引きずりつつ。
やっとリビングに下りたときだった。
「おめでとう!」と声がかかり、クラッカーが鳴り、煌々と部屋に明かりがつく。何ごとだ。知人・親戚たちが、私と妻の死体を囲んでいた。………今日は何の日?
「ハッピー・バースディ!!」と叫びかけた声が途中で途切れる。
思いだした。私の誕生日だったのだ。そして、妻はサプライスを仕掛けていたのだ。
皆の笑顔が凍りついたままになっていた。
第173回 嘘つき村のエイプリル・フール
太郎が花子から聞かさせたこと。「明日はエイプリル・フールよ。太郎は嘘ついたことある?」
「いいや。ない」と正直者の太郎は答えた。花子は馬鹿にしたように笑った。
「じゃあ、せいぜい嘘をつく練習をすることね」
太郎はエイプリル・フールとはどんな日なのか調べた。年に一度だけ嘘をついても許される日のことだった。嘘をつくのは悪いことだと思う。花子はいつも嘘をついていることを思いだした。太郎の隣村に住んでいるのだが、その花子の住む村は嘘つき村といって住民全員が嘘つきなのだ。
太郎が住んでいるのは正直村なので、嘘などついたことはない。
よく村はずれに行くと旅人に尋ねられることがある。「この村は嘘つき村ですか?」と。太郎は「いいえ、ちがいます」と答える。すると旅人は納得して頷いている。そこに花子がやってくると彼女にも尋ねている。「この村は嘘つき村ですか?」「はい、そうです」と花子は平気で嘘をつく。
どうも太郎の村と花子の村が嘘つき村かそうでないかはクイズの問題にもなっているようだ。
夜が明けて翌日になった。太郎はわくわくして村の外に出てみる。旅人に「この村は嘘つき村ですか?」と尋ねられたら「そうですよ」と答えてやろうと。なにせ、エイプリル・フールなのだから。嘘をついても誰に叱られることがない。しかし、誰もやって来ない。
花子が嘘つき村から、にたにた笑いながらやってきた。そして太郎に声をかける。
「私をだます話を思いついたの?」
う・う・う…そう言われると太郎は何も出てこない。嘘をつき慣れないから嘘がが出てこない。しかも花子は嘘つきの達人である。そんな花子から、早く嘘をつきなさいと言われても、直ぐにバレてしまいそうではないか。
おまけに太郎はいつも花子に騙され続けているのだ。嘘つきのキャリアが違いすぎる。花子が嘘をつくとわかっていても、巧妙すぎて嘘が見抜けず騙されてしまう。
「今日は、狼が出没しているんだって。もうすぐ襲いに来るって話よ。私もちらっと狼の姿を見たから」と太郎を脅してくる。まさに”狼が来る”でそんな嘘をついてると誰も信用しなくなる、という典型的なやつだ。そう思って太郎は花子に言う。
「そんなの嘘だとすぐにわかる。下手な嘘はやめろよ」
すると、花子はしらばっくれることなく嘘を認める。
「さすが太郎君ね。すぐに嘘を見抜いて頭いいのね。噂どおりだわ」
そう続けられるとさすがに太郎も悪い気はしない。「そんな気がしただけだ。噂どおりって何だよ」
「いや、太郎君は頭よくって素敵って皆、村の女の子が噂してるわ。一番きれいな少女いるでしょ。あの子も頭のいい太郎くんが大好きだって。声かけたらきっと大喜びよ」「そうだったのかあ!あの子が!!」
太郎が少女にその気になって声をかけたら、頬を叩かれて凄い剣幕で罵られて、初めて騙されていたと気づく。
また騙されたと太郎は悔しがる。どこに花子の騙しのポイントがあるか、見破らなければならないと思ってはいるのだが、花子のほうが一枚上手のようだ。
今日も太郎は考えたが、嘘が思いつけなかった。悔しくて、太郎は花子に言った。
「今日みたいなエイプリル・フールは嘘つきの花子はとんでもない嘘をつこうとしているんだろう?」花子は首を横に振る。
「とんでもないわ。実は今朝、長老が言ったの。世の中はエイプリル・フールは嘘をついてもいい日だが、我々の村では本当のことしか言わない日にする。嘘をついちゃなんねえぞ、って」
「じゃあ、今日は嘘つき村は嘘をつけないのか!」と太郎は驚く。花子は頷く。すると、太郎は嘘つき村のきれいな少女のことを思い出した。あの子も今日は嘘をつかないんだなあ。ふと、花子は言う。「あの美少女のこと好きでしょ」「いいや」と太郎は平気で嘘をつく。「ふうん。まあ、いいわ。でも、あの子は内心は太郎君のこと好きみたいよ。で、あの娘は険ヶ岳の中腹の泉にいる銀色イモリの黒焼きが食べたいと寝言のようにいつも言ってる。太郎君がプレゼントしたら、あの娘は太郎君に首ったけになるわ」「ほんとか?」「ほんとよ」
険ヶ岳をよじ登り、七難八苦の目に遭って太郎は銀色イモリを捕まえて黒焼きにした。元は銀色だったかわからなくなったが、それでも喜んでくれればと、やっと持ち帰り、嘘つき村の美少女に黒焼きイモリを差し出すと、美少女はまたしても怒り狂い、棒で太郎をひっぱたいた。「私がイモリ大嫌いなの承知でこんな嫌がらせをしたのね!」
ほうほうの体で逃げ帰った太郎は花子に文句を言う。「よくも、騙したな。今日は、嘘をついちゃいけないと長老に言われているだろ」
すると花子はペロリと舌を出して言う。
「あー、あれは嘘よ。だって、本当のエイプリル・フールよ4月1日。明日なのよ。騙される太郎君が悪いのよ」
太郎はもう何がなんだかわからない。