第77回 心見の場所

このコラムでも、前に書いたことがあると思うのだけれど、熊本と宮崎の県境に市房山という名峰があります。高さは一七二〇メートル。
 私は、熊本県側の水上村から登るのですが、けっこう登りごたえがある山です。
 で、ほうほうの体で山頂にたどり着き、もう少しだけ山頂の向こう側まで足を延ばすと不思議な巨石があります。
 なんと、岩が崖と崖に挟まれて宙に浮いたようになっているのです。岩の下には何も無いから、非常に不安定な感じです。
 崖の下からも、この宙に浮いた石を見ることができるし、崖の上に行けば、この石の上に乗ることが出来る。
 で、このチョック・ストーン(岩と岩に挟まれている石のこと)が、なんと呼ばれているかというと、「心見(こころみ)の橋」!
 言い伝えによると、心悪しき人が、この「心見の橋」を渡ろうとすると、下に落ちてしまうのだそうですよ。
 へぇ、面白いなあ、と。で、私は下から見上げた後に、この心見の橋にも乗ってみました。いろいろと思うところもありました。しかし、乗ってみてなんともなかったので、ある程度、反省していれば、心悪しき人の範疇には入らないのかと安心してしまいましたよ。なんだか、逆に免罪符を手に入れてしまった気分。
 という前置きで、他にもこのような人の心がわかるようなポイントはあるのかなあ、……とぼんやり考えておりました。そしたら、ありましたよ。
 それも、案外と近い場所に。なんと、仕事場の近所です。
 それが、どこかというと……信号なんです。ほら、赤、黄、青の。天然の奇景でなくて、すみません。
 この信号を渡ろうとすると、つい人は本性を現わしてしまうのですよ。
 場所は、市内中央部の交通センターと西辛島町方向へ続く、ビジネスホテル前の信号です。
 道幅は八メートルほど。
 歩行者用信号がありますが、それが、なかなか青にならない。
 で、通りを見ると、ほとんど車は走ってこない。
 そこで、その人の本質が露になるのです。通りの向こうに渡るのに、人はどれだけ待てるのか?
 右を見ても左を見ても、車はまったく走ってこない。走ればいっきに渡ってしまえる。
 ま、これが、街中での心見の橋なんですね。
けっこう、少学生たちは、辛抱強く、信号が青になるまで待っています。見ていて、いい子たちだなぁ、と、微笑ましくなります。
 だから、ここでの心見というのは、人はどこまでルール(法)を遵守するかということですね。
 ます、年齢や性別によって、信号無視をするパターンがあるか、ということですが、これは、あまり関係がないみたい。
 私も、しょっちゅう、この信号を利用するのですが、その待ち時間を人間観察の心見に利用しているので、あまりその時間が気にならなくなりました。
 ただ、私の姿が、信号待ちの場所で見えると、やはり他の信号待ちの人たちに影響を与えてしまうような。だから、待つときは、ビジネスホテルの出入口付近か交通センターの地下道入口あたりで待機すると、それぞれの正直な行動を見ることができるとことがわかります。
 まず、一人だけで信号待ちしていると、十秒ほど経っても信号が変わる気配がないと、左右を見てさっさと信号を無視して渡ってしまう人が多い。
 それから、二人信号待ちしている。それで、一人信号無視で渡り始めると、もう一人も、「あっ、渡っていいんだ」と後を追って渡ってしまうケースが多いなあ。
 赤信号、皆で渡れば怖くない。って誰かが言ってましたけれど、真理だということがわかるような気がします。スーツを着た初老の怖そうなおじさんが、案外辛抱強く、律儀に信号が変わるのを待っている姿を目にすると、こんな方たちが今まで日本を支えてきたのだなあと嬉しくなるのです。
 ほとんど同時に信号無視して渡り始める他人同士のおばちゃん二人が、おたがい照れ笑いを浮かべる姿は、もう無数に見たなあ。
 他にも心見の場所は、ないのかなあ。
 山奥深い泉のほとりで「白岳しろ」を泉に放り込んで、しばらく待つと水の中から女神が現れ、「今お前が落とした焼酎は、この吟麗しろ・銀しろか?」と訊ねてくるから、「いえ違います」
 すると、女神は「今お前が落とした焼酎は、この謹釀しろ・金しろか?」と訊ねてきたときも「いえ違います」
 すると女神は感心して「お前の心見をさせてもらったが、これほどの正直者は初めてだ。褒美に、金しろ、銀しろも遣わそう」

第76回 リターン・オブ・「私は見た!」

私の周囲に、陰謀論やら世の中の隠された真実やらUFOの目撃やらにやたら縁の深い奴がいる。
 彼についてのエピソードは、このブログの過去記事をご覧いただくといい。そこで、彼のUFO遭遇例やら宇宙人との第三種接近遭遇時の状況やらを記しておいた。と、同時にどのような気持ちで私が書いているのかというスタンスもおわかりいただける筈である。
 私が何度も眉に唾をつけて紹介しているだろうということは、即座におわかり頂けるだろう。
 ところが、そんな懐疑主義の私にも、信じられない出来事が起こったのである。
 前半は、その出来事について。
 

昨年の暮、鹿児島へキノコ採りへ出かけたときのこと。これは年最後のキノコ採りで忘年会も兼ねるので、お酒が入ることを考慮してJRで出かけるのだ。
 さて、熊本駅で特急つばめに乗り込むときのことだ。列車が構内に入ってきて停車する。そして、乗客たちが下車してくる。それを、これから乗車しようとしている私たちはホームで待つわけである。
 何番目に降りてきた客だったのかは、わからない。乗車口を見下ろしていた私の視線の前に、突然、若い女性の足が伸びた。すらりとした長い足で黒い網目のストッキングを履いていた。あまりにもカッコイイ見事な足なので、どんな女性か知りたくて思わず見上げたのだった。
 ところが……。
 見上げても見上げてもステキなお御足が続くばかり。上までたどり着かない。ああ、時間がない。それでも目の前には足が……。
 時間切れで、上にたどり着いたとき。その女性はすでに後ろ姿だった。顔はわからない。ただ、彼女はウェーブのかかった長い髪で、黒っぽい厚手のコートを着ていたことは覚えている。
 同行していた方に訪ねた。
 その女性ことを確認しておきたかった。私の目の錯覚ではなかったということを。
「ああ、僕もしっかり覚えていますよ。髪が長いきれいな女性でしょ。背が高くて、目鼻立ちがはっきりしていて。えっ、足ですか……。気づかなかったなあ。そこまで見ていません」
「いや、足が凄かったんですよ!顔は見ていない」と私は告げた。「視線がたどり着かなかったんですよ。見上げても、見上げても、お御足だけで」
 で、不思議なのは同行の方は上半身だけの目撃。私は足だけの目撃。こんなことってあるの?
 妖怪お御足に遭遇したということなのか。
 そんな出来事を「私は見た!」の彼に言った。すると……。彼は即座に指摘した。
「その女性はエイリアンです。まちがいありません。やつらは、人間そっくりに化けて、我々の間に潜り込んできているんです」
 例によって、そんな解釈である。某缶コーヒーのトミー・リー・ジョーンズ演ずるCMのようなことを。

 さて、その彼と飲む。例によって胡散臭い話が多い。焼酎がすすむごとに。
 例の波照間島の空港のトイレで作業着姿のエイリアンと遭遇した話題になった。そのときは彼は正月休みを利用して、波照間島まで足を延ばした。そして島巡りのドライブの途中で尿意を催し、波照間空港に飛び込んだ。そのとき、すれ違ったという。
「本当ですよ。アーモンドアイで小柄なエイリアンです。とにかくおしっこをこらえていたから、そのままトイレに駆け込んで、出てきたらもうどこにもいなかったんです」
 いつもならそこで私は、「お寿司屋のCM撮ってたの?」と彼をおちょくり、話題は途切れるのだが、その日はそうではなかった。
 実は、その席に同席していた方々がいる。某巨大通信産業の社員で、そのとき勤務地は南方で、しかもかつ、彼が波照間島を訪れていたとき、ご夫婦で彼を案内していたのだと。
 だから、彼はそのご夫婦に同意を求めたのだ。
「ねぇ。いましたよね。エイリアンが!」
 私としては興味津々。てっきり、その気まずそうな表情を浮かべるか、笑いを噛み殺すと思ったら。
 ご主人が口火を切る。
「ああ。空港のトイレから出てきたエイリアンですね。黄色い作業服の」
「あれは宇宙人だとすぐにわかりますよ」と奥さんも。
「ほら、本当だろ」と彼も得意そうに。
 え・え・え・えええええええええええええええええぇ。

「あのときは空港に寄った時間は、離発着がなかったんです。しかもお正月で、空港には誰もいなかったから。宇宙人以外には考えられませんよ」
 三人は、頷きあい、また詳しく記憶を反芻するように遠くを見る視線に戻ったのだ。
 何がホントなのか?

第75回 シラミ騒動

仕事をしていると、娘から連絡がある。
「たいへん。たいへん。」
 聞いて驚いた。孫の頭にシラミがいたというのだ。シラミなぞ、日本では絶滅したムシだと思っていたのだが……。
 最近、子供たちの間でシラミが流行しているという話を聞いて、孫の頭をチェックしたら……。
 

で、孫は、我が家に入り浸りである。だから、たいへん、たいへんだったのだ。
 孫は即座に丸坊主に。
 それから、文字通り“シラミ潰し”に駆除が始まった。衣服や寝具にいたるまで。仕事場から私も動員されて、コインランドリーで滅菌作業。
 娘がネットやらで調べた結果、シラミは成虫で四十度、十分で死ぬそうだ。タマゴもまとめて駆除するには、七十度の高熱乾燥が一番らしい。
 孫の後ろ姿は、まるでお味噌のコマーシャルに出てくるようである。
 そして、その表情たるや……。プライドのかけらまでもが粉々に打ち砕かれたように肩を落としていた。コインランドリーに一緒に行く時も、近所の様子を伺い、帽子を深くかぶり、人目をはばかってこそこそと、小走りにしていたほどだ。
 その後、薬局で、シラミ駆除のシャンプーを買ってきて、孫の頭を処置。
 それから、孫がいつも一緒に遊ぶ親友のお母さんに連絡をとっていた。ご用心を、と。
 あれほど学校に行きたがらずに、脚が痛いだの、熱があるだの、ぶつくさ言っていた孫だが、その日、意気揚々と学校から帰ってきたのだった。
 あまりに、嬉しそうなので、その理由を問うと、その理由がよくわかりました。
 なんと、学校に行ったら、孫の親友も、丸坊主頭になって登校してきたのだと。親友のお母さんも予防措置として頭を刈ってしまったらしい。友達同士が丸坊主になって二人はおおはしゃぎ。
 二人顔を見合わせて大喜びする様子が目に浮かぶではないですか。
 さて、これで一件落着であったかとというとそうではない。
 シラミ駆除のシャンプーは殺虫効果の大きいスミスリンLという商品なのだが、それにおまけで、金属製の目の小さなクシがついている。そのクシでシラミのチェックが出来る。
 娘は、家族にもシラミ感染者がいるかも知れないからと、家族のシラミ検疫をやると言い出した。
「そんなのいる筈ない!」「ぼくは厭だ!」
 しかし、一人づつ娘による検疫が始まったのだ。娘が髪の毛をクシで捌き、成虫やタマゴの存在を調べる。検疫を受ける家族は神妙な顔をして座っている。まるで「遊星よりの物体X」における宇宙侵略者の検査みたいである。
 私の母や息子たちが“シロ”の判定を受けて、次に私。
「いるわけないでしょう。この人生、一度もシラミに縁がなかったんだから」と言いつつ、娘の前に座る。長い長い沈黙の時間が続いて。
「いたあっ!」と娘。
「ウソ……ッ」
 とほほですよ。よりによって私の頭にシラミがいたなんて。成虫が二匹。
 それから私は、殺虫剤シャンプーで頭を洗われる。それでも完全ではないので、頭も丸坊主にしろと言い渡される。
「どれくらい短くすればいいんだ?」
「AB蔵くらいにすればいいよ」その頃、騒がれていたからなあ。
 外は、すでに木枯らしが吹いている時期でありました。よりによって、そんな時期に……。
 髪を切りに行かされました。
「思いっきりガリガリ坊主にしてください」
 びっくりして訊ねられました。
「え、どういう心境の変化ですか」
 もちろん、恥ずかしくてシラミがいたからなんて言えないではありませんか。
「いやあ、まあ、あの。いろいろ、あるんですよ」
「わかりました。いろいろあるんでしょう。お訊ねしない方がいいですかね」
 そうニヤリと笑われましたが、心中では、私の浮気がバレて、土下座の挙句、頭を丸めにきたんだと考えているに違いない。そう想像すると顔から火を吹くようです。
 頭を刈られながら、シラミで頭を坊主にするのと、どちらが恥ずかしいだろうか、と比較検討を続けておりました。
 さて、その後、帰宅すると、孫は私の頭を見て、お仲間が増えたと大喜びの様子でありましたよ。
 つつがなくという語源はツツガ虫に寄生をされずというところから来ているそうです。みなさまも、シラミなくお過ごしくださいますように。

第74回 こんなお仕事

「Aと話していて、いらつくことないか?この間、おれ、頭に来ちゃったよ」

「え、どうしたの。珍しいじゃないか」

「とにかく、Aと来たら無神経なんだよ。自分がやったことやら言ったことが、皆にどんな迷惑をかけているのか、わかっていない。気がついていないんだ。呆れると思わないか?」

「ま、まぁ。興奮しないで飲んで、飲んで」

「ねぇ、そう思わないか?あいつと話していて呆れたことないのか?皆呆れると思うぞ。結果的にAは、自分で自分の首を締めているんだ。あとで、皆、相手にしなくなるぞ」

「おまえとAは学生の頃からのつきあいなんだろう?
 だったら、お前の口で直接ガツンと言ってやりゃあいいじゃないか」

「そ、そ、そりゃあ駄目だあ。たしかに学生の頃からのつきあいだけれど、Aは今じゃうちの商売のお得意さんなんだよ。ガツンって言った日には、うちの仕事を切られちまうよ。言えるわけないよ」

「じゃあ仕方ないじゃねえか」

「しかし、あいつ、わかってねえんだから、誰かが言ってわからせてやらないといけない。
 誰かが俺の代わりにいってくれたらなあ」

「あ。それ職業として成立しないかなあ」

「どうするんだよ」

「注文が来たら、その人のとこ行って言うんだよ。鉢巻をしていて、それに<文句代行>って書いてある。
 走って行って『ちわー。Aさんですね。まいどぉ!文句代行業です。お伝えに参りましたぁ。
 あなたぁ、無神経だそうです。皆が迷惑している。そう伝えろってことだそうです。
 少しは反省しろー。
 以上です。どうも失礼いたしました。じゃあ文句お届けしたという印鑑、お願いしまーす』
 そんな感じかなあ」

「依頼人は誰だって、問い詰められたら?」

「そりゃあ、プロだから、依頼人の名は死んでも明かしちゃならないよなあ」

「ああ、わりといいかもしれないなあ。面と向かって文句が言えない人も多いだろうし、権力を傘に着ていたりすればなおさらだしなあ
 ニーズはあるかもしれないなあ」

「でも、いくら依頼人の名を明かさないと言っても、考えて見れば誰が依頼したか、すぐに思い当たるんじゃないか?よほど鈍いやつでなければ」

「だから、『世間では、あなたのことを皆、そうだって言ってますよ』と言添えるオプションサービスをつける」

「なるほど。じゃあ町内に暴力団が事務所を開いたときも、行ってくれるんだ。
 『おたくの組は、この町内で評判悪いですよ。教育上良くないから、町内から出て行け』って。
 行ってくれるかなあ」

「そりゃあケース毎に割増料金をもらわないといけないかもねえ。加えて入院費の実費とか。おれは、行かないけど」

「ご主人から、奥さんに、わしに代わって言ってくれ、という依頼とか、けっこう需要が多いような気がするけど、どうかなあ」

ああ、たしかに。しかし、これこそ、依頼したのが誰か一発でわかるんじゃないか?その後の報復が恐怖だろうから、誰も依頼してこない気もするなあ」

「最後に、『これを依頼したのは絶対にご主人ではありません』と言い添えては駄目かねえ」

 居酒屋のカウンターで飲んでいたら、こんな馬鹿話になりました。皆さんにも、思いっきり文句を言ってやりたいけれど言えない!てことありませんか?
 こんな仕事もアリだと思うのですが……。

第73回サンタを信じる年齢

私の幼い頃から、クリスマスという習慣は、ありましたな。幼稚園でクリスマスツリーの紙飾りのついたお菓子をもらった記憶もあります。
で、サンタクロースの話も知っておりました。サンタはソリに乗ってやってきて、煙突から室内に侵入……いや入ってこられる。
真っ赤な服を着ている。そして良い子にだけプレゼントを置いていく。
 今の情報とほとんど変わりません。
 ただ、子供心に心配はしておりました。我が家は典型的な日本家屋なので、五右衛門風呂に小さな煙突が一つあるだけ。そんなところから入ってはこれない。入ってきても、室内には入れない。焚き口も外にありましたから。じゃあ、どこから入ってくれるんだろう。
 そして、うまく室内に入ってこられたとして。プレゼントは靴下に入れていくということだけれども、子供の靴下の大きさなどタカがしれています。自分が欲しいものと靴下の大きさを比較して不安になっておりました。

われながら可愛いものです。たぶん幼稚園の頃までは確実にサンタクロースを信じていたようです。
 ただ、特殊な事情はありました。私の誕生日は、12月24日です。つまり、サンタのプレゼント、イコール誕生日プレゼントなわけで……。つまりプレゼントひとからげ!
 何と、不幸な星の下に自分は生まれたのだと嘆いておりましたよ。
 さて、孫がいるのですが、いつからサンタを信じなくなるのか、もの心つく頃から観察を続けています。
 小学校に入ってすぐの頃の反応。
「今度はサンタさんに、ゲームソフトで欲しいものがあるから、紙に書いて貼っておく」
 もう、それだけで「こいつは親へのアピールで、すでにサンタの存在を信じていないな」とわかります。家族のために、サンタを信じている子供を演じようとしているのが見え見えなのです。
 娘に孫が言っておりました。
「いま、サンタさんは考課しているところなのよ。いい子だったか、言うことをちゃんと聞いて守ったか、勉強をちゃんとやったか」
 それを横で聞いていて、思わず私も口を挟んだものです。
「そうだ。ママの言うとおりだ。
 実は、おじいちゃんのとこにもサンタさんからアンケートが来たんだ。お宅のお孫さんは、いい子でしたかって!
 ハイだったら、望みどおりの素敵なプレゼントをお孫さんに進呈します。
 イイエだったら……サンタが拐かすって。トナカイと一緒にソリをひかせる。
 ハイでもイイエでもない。どちらとも言えない……のときはコンビニの長靴入りのお菓子詰め合わせクラスのプレゼント。そう書いてあったなあ。
 実は、まだ返事を出してないんだ。どれに○を書いてだそうかなあ」
 孫は、口を尖らせて言いました。
「ちがうよー。クリスマスプレゼントはパパが夜中に持ってくるんだから、いいかげんなこと言わないで」
 なんと現実主義の子供だと呆れたのが2年前のこと。
 で、昨年はというと……。
 孫は、もっと狡猾に成長していたのであります。
 孫は、娘に「クリスマスはサンタさんに○○のゲームソフトが欲しいって伝えて」と言ったらしい。それまでは、旧作ソフトばかりで安上がりに済んでいたのが、新発売の高いゲームソフトになったそうです。
「知らないよ、私はサンタさんに連絡する方法も知らないし」と娘が答えると、孫は、なんともわざとらしく、天井に向かって大声で、
「クリスマスに発売される○○というゲームソフトが欲しいです。サンタさん、サンタさん。○○というゲームです」
 そう、何度も何度も連呼したそうです。おかげで、そのゲームソフト名はいやでも覚えてしまったと。
 サンタを信じていないくせに、その手段からして、孫は確信犯だと思います。
 私の幼い頃の、一番大きな靴下を探しまわった純心さは、今の子供たちには、もうないのだろうなあ。
 結局、孫のクリスマスプレゼントは私が買い与えたのですが。
 さて、今年のサンタプレゼント。孫はどんな手を考えているのでしょうか?

第72回ブヒブヒくん出没!

昨日まで、そんな馬鹿な!と思っていたことが、よもや現実に変わる。日常的な生活が、非日常的できごとで大きく変貌する。
 つい最近、私の身のまわりで起こったのであります。
「何で、こんなの学校で貰ってきたのだろう」と娘が言っていました。孫が娘に、貰ってきたプリントを見せたらしい。そのプリントには、イノシシの絵があり、イノシシの習性が書いてあります。
「何だか、イノシシが出たみたいだよ」と孫。そのときの家族を含めた反応は、へえ?まさかあ?というものでした。
 孫の通う小学校は街中だし、校区内には、熊本駅まで数百メートルの新幹線が走ろうとしているところなのですから。これまで、この界隈でイノシシが出現したということは聞いたこともない。
 

野生のイノシシに出遭ったこと二回あります。南外輪の俵山登山口近くで、北向山方面から走ってきた親子連れと遭遇。十数メートル離れていたし、あっという間に姿を消したので恐怖も感じなかったし、現実感もなかったなあ。やはり南阿蘇で、もう一回出遭った。冠ヶ岳に登り、次に地蔵峠まで歩いていたときのこと。平坦な細い道が続いていて、道の両脇は笹藪だった。五、六メートル先でがさがさと音がする。犬かなと思って立ち止まったら、藪の中から、真っ黒いものが現れた。犬じゃない。熊か?しかし、九州では、すでに野生の熊は絶滅している筈では?
 すると黒いものがゆっくり向きを変えて、そのシルエットでわかった。大イノシシだ。そのときは、何も持っていなかった。イノシシがこちらに突進してきたら、どうしよう。立ちすくむしかなかったなあ。その心理的時間の長かったこと。お互い、フリーズしていたのでは。再びイノシシが藪に消えたときは、腰から力が抜けましたよ。
 あのときの恐怖といったら。
 そんな記憶が蘇ったけれど、このあたりじゃあね。そう、タカをくくっておりました。
 その翌日。娘が家に帰ってくるなり「◯◯さん家の前にイノシシが出たって。今、町内の人たちが言っていた」
 〇〇さん家の位置は、我が家から直線で三十メートルくらいの距離でした。それまで、半信半疑だった家族は、一発で恐怖のどん底に叩き落されたのです。
 慌てて孫が学校から貰ってきた「イノシシの習性」に目を通します。
ー雑食性で、人間が食べるものは何でも食べる。
「じゃあ、生ゴミを出す日とか、危ないんじゃないかなあ?」
ーイノシシは夜行性です。
「酒飲んで遅く帰るとき危ないよ。酔っぱらって、イノシシの餌食よ」
 こんなところでも、非難の矛先は私に向けられます。関係ないだろう。
 そんなふうに家族が騒いでも、まだ私自身は半信半疑でした。こちらは、本物のイノシシと数メートルの接近遭遇を果たしているのですから。
 で、毎朝の習慣ですが、日の出前に、私は近くの花岡山に散歩に出かけるのです。イノシシが近くに出たからって、日課を取りやめたりしません。
 その数日後、花岡山へ出かけました。まだ暗い頃ですが、けっこう散歩客は多いのです。
 で、中腹まで登ったら、前方を歩いていた方がライトをこちらへ向けました。それは、毎朝、花岡山をボランティアで清掃しているオバさんでした。それから……。
「あ、すみません。ちょっとぴりぴりして。イノシシじゃないかと思って」
「いえ、大丈夫です。まだ捕まっていないんですよね」
「ええ。昨日の朝もイノシシ出たんですよ。山頂を清掃していたら叫び声がするから、なんだろうと思ったら、イノシシが階段をとことこ登ってきたんですよ。散歩していた人やらみんな大騒ぎ。警察にも連絡したみたいですよ」
 その前日も私は花岡山へ山歩に来ていたのだが。イノシシ出現の三十分程前だなあ。よく考えると、間一髪のニヤミスだったのか。
 家の近所に出たと聞いても、あまりピンと来なかったののに、毎朝の散歩先である花岡山山頂に出現したと聞いたら、怖ぞ気が襲ってきた。
 夜行性どころか、日の出前後の出没じゃないかあ。その日、帰りに薮がガサッというと身構えたり。(カラスでした)
 それからも散歩の習慣は何とか、おっかなびっくり続けてはいいますが。傘を開けば、イノシシくんはびっくりしてくれるそうで、ステッキがわりに持って行きます。ライトの持参で。まだ、捕まってないからね。
 そんな自分の中では、山頂で階段を駆け登るイノシシの姿を想像していたりもします。
 もし、遭遇していたら、怪物が出てくる話を書くときの参考になる気がするもので。

第71回「きのこ道楽」

そろそろキノコ刈りの時期だなあ。夜風が頬にあたり肌寒さを感じると、わくわくするのです。
秋は、ほとんど仕事になりません。いや、仕事をやろうと思っても、頭の中では、キノコのことを考えているのです。
今ごろ、あの渓谷のあの倒木には、もうムキタケが付いている頃かなあ、とか、去年はあの山へは行けなかったなあ。あの山の斜面でびっしりとリンクをなすハエトリシメジは、誰にも知られず朽ち果ててしまったのかしら。なんと可哀想なことをしたのだろう、と。
そんな風にキノコのことを考えつつトイレに立ち、鏡の中の自分の顔を見ると、本当に哀れな顔をしていて、我ながら愕然とするのです。
これはいけない!精神衛生上、よろしくない。
そんな結論を出して、秋はいつでもキノコ採りに出勤できるように、仕事を前倒しにしてでも進めておくのです。
そんな私は、キノコ研究が趣味なのですか?と訊ねられますが、「ちがいます!」と断言します。
キノコは趣味ですが、研究はしません。とにかく、山に入ってキノコを探します。
それも、おいしそうな食べられるキノコばかり。
野蛮です。そして、根性がねじ曲がっています。
なぜかというと、キノコは魚釣りのように一度釣れたところに、また魚がやって来るということはありません。一度採ると、そこからキノコが消滅するのです。
だから、他人が山に入る前に、一刻も早くキノコを採り尽くしておく必要がある。
熊本ではキノコ採りというのはマイナーな趣味ですが、それでも他にキノコ採りがいないというわけではない。
噂話や世間話の中で、ちらとキノコという単語が聞こえてきたら、もう耳はダンボ状態であります。そして……。
ーどこそこの山に、いつの何時頃から、誰たちと、どんなキノコを採りに行く。そんな情報を仕入れたら、何食わぬ顔で立ち去り、作戦を練ります。その一日前、あるいは数時間前に、その場所に訪れ、採って採って採り尽くす。
その跡は、焦土と化したかのように、食菌はきれいさっぱりとありません。もちろん、不食のキノコや毒キノコ、食用でも老菌などは、残しておきますが。
一度など、登山口に戻ってくると、これからキノコを採りに山に入ろうとする子ども会の団体とすれ違いました。
私はキノコ籠いっぱいのキノコを採っておりましたが、リュックの中に隠しておいたので気がつかれなかった筈です。それから山中に入っても、キノコの山には毒キノコしかないと失望して戻ってくるんでありましょうな。
うひひひひ。
おっと、だから根性がねじ曲がっているのが自分で厭になるわけでもあります。もっとも、そこを直そうとも思いませんが。だから、絶対に私がふだんキノコ採りに行く場所は教えません。
ただ、例外的なことも、いくつかあります。日頃、私は顔写真を出さないし、テレビもお断りしていました。
しかし、秋のこの時期にキノコ採りの番組であれば出演をお受けすることにしました。何故かというと、お仕事をしながら趣味も満喫できるということで。わはは。いい加減!
ただし、場所は、どこだと特定できなようにお願いしています。どうしても場所が必要な場合は、“九州の真ん中あたり”という程度の表現にとどめておいて頂くことにしとります。今年も11月あたりに放送になるかと。(某国営放送ですが)
さて、脳天気、好き勝手に秋にはキノコ採りに出かけていて、適当な奴だなあと思われるかもしれませんが、神さまはちゃんと世の中のバランスをとっているんです。そのことは、書いておこう。
何の因果か、私の孫は食べものの好き嫌いはほとんどないんだが、唯一、嫌いなものがあります。
カンの鋭いあなたは、すでにおわかりでしょう。よりによって、料理の中に入っているキノコを選り分けて箸で取り出すくらい、キノコが大っ嫌いだと。
どうしてなのだ。キノコが嫌いな理由は何だと問い詰めるのだけれど、理由なんかない、嫌いなものは嫌いだ、と。
何を連想したかというと、あるフレーズです。
ー親の因果が子に報い、生まれ落ちたる、この……。
つまり祖父があまりにキノコを採り尽くすのを見かねた神さまが、「祖父の因果を孫に与えた」のだと。
大丈夫。私のキノコ佃煮を心待ちにしている人々が何人もいるのだから。
 

第70回「パワースポット」

最近、ブームなんですかね。やたら「パワースポット」と安易に使っているパターンが多いなあ。旅行社の広告にも”パワースポットを訪ねる”とか”まだ知られていないパワースポット”と称している観光案内を見るようになりました。
で、「パワースポットとは、いったい何じゃ?」ということなので書いておきますが、パワースポットなる英語はないのです。和製英語。
地球のエネルギーが人間に対して癒やしを与えるような、大地のツボがあると。それを、ヒーリングスポットやら、パワースポットやらと呼んでいるわけです。
だから、科学的根拠は何もないわけです。割と、神社関係やら、巨石、湧水池とかがパワースポットとして口コミで拡がっていることが多いようですね。
パワーが本当にあるかといえば、眉に唾をつけた方がよろしい。疑似科学のジャンルですから。
本当にパワースポットの効果を広く知らせるなら、パワーを数値化して表示すべきでしょう。
 ○×神宮 90パワー
 △△岳の巨石 60パワー
そう書かれていれば、非常にわかりやすいと思います。でも現実的には、数値化を誰がどうやってやるんだ?ということですよね。そんな測定装置も存在しないから。
(でも、そんな測定装置をでっちあげて売り出したらヒット商品になるかも。磁器をパワーとするのか?正体不明の”マイナスイオン”を測定したことにするのか?電位差とか、ようわからん、でありますが)
口コミで伝わる間にわけのわからない都市伝説が拡がったりします。東京の某神宮の井戸の写真を携帯電話の待ち受け画面にすると、お金が飛び込んでくるとか。これ、知り合いに待ち受けにしている人がいたので効果を聞いてみました。
 「そうですねぇ。なんか、こざこざしたことで忙しくなってきた気がします」
 「で?お金の方は、どんどん入ってきていますか?」
すると、「ウームゥ」と腕組みをされていたので、そんなものでありましょう。
某に言わせると、「異教徒が待ち受け画面にしたら、ありとあらゆる不幸が次々に襲いかかってきた」ということです。異教徒を不幸に陥れるとは、度量が小さいなと、ちと呆れるのでありますが。
高圧電線の下に蛍光灯を持って行くと、電線につながなくても明るく灯るという現象があったりしますが、これは、高圧電線にパワーがあるからだということになっています。だからといって、高圧電線の下がパワースポットかというと……。高圧電線の下に住む人たちの発ガン率が以上に高くなるという説があります。パワーが人間のためになっているかどうかも、天然のパワースポットも検証する必要があるのではないかなあ。
そもそも神社というのも、ご利益のある神様を祀るところもあれば、荒ぶる神様がお怒りにならないように鎮めているところもあるんですよ。そこいらの区別がなくって、ただ単純にパワースポットと言っている気がするなあ。
パワースポットの測定が無理だったら、こういうのはいかが?
100人をアトランダムに選び、予備知識を与えずに次々にパワースポットと呼ばれる場所に連れて行き、アンケートをとる。
A地点では30人がパワーを感じ、70人は何も感じなかった。B地点では50人がパワーを感じた……とか。
これなら、数値化しやすいのではないでしょうか。
テレビの番組で、私は熊本と宮崎の県境にある白鳥山を「私のパワースポット」として案内しました。大好きな山で、登れば日頃の世間の澱を洗い流せ、心がスッキリするからです。だから、白鳥山は他の人にとっては、どう受けとられるか知りませんが、私にとってのパワースポットなのです。大好きな場所。
パワースポットってそんなものじゃないでしょうか?
もっと推し進めれば、私に一番効果のあるパワースポットは、源泉掛け流しの、「温泉」ということになるんですよね。
実にわかりやすい。
さて、長々と「パワースポット」のことを書いてきましたが、この度、祥伝社から「壱里島奇譚」(1,600円+税)を出しました。
この小説の中でも架空のパワースポットが、物語の鍵として登場します。舞台は天草下島の遙か西の孤島。その島で次々と不思議な出来事が連続するというお話でございます。ぜひ、お買い求め頂ければと願うばかり。
よろしくお願いします。

第69回「人吉ちゃんぽん紀行」

ちゃんぽんという麺料理には、目がないのですよ。
九州ではポピュラーでスタンダードな軽食なのだけれど、一応、説明しておきます。
スープの中に麺があり、その上に具が乗っている。具は、野菜と豚、海鮮を炒めたもの。それに生卵が乗っかっていたり、いなかったり。
一般的にちゃんぽんといえば、長崎が有名な気がするけれど、いやいや。熊本で育った私ではあるが、幼い頃から、ラーメンよりもちゃんぽんに親しんできたからなあ。(ちなみに、初ちゃんぽん体験は、記憶にないほど幼い頃だけれども、ラーメンの初体験はずっと遅く、中学一年です)
で、熊本には、中華で太平燕(タイピーエン)という麺料理があるけれど、これは、私の中の位置づけでいくと、“ちゃんぽん麺の代わりに春雨を使ったもの”ということになる。
腹一杯になるのがちゃんぽんで、ヘルシーなイメージがターピーエンという感じかなあ。
で、どちらが好きかと訊ねられたら、私自身の場合は、ちゃんぽん好きだと答えますね。

だから、「うまいラーメン屋がある」と聞いても、あまり反応しないのですが、「うまいちゃんぽん屋がある」と聞けば、もう居ても立ってもおられない状態に陥ってしまいます。
すぐにでも、確認せずにはいられない。
ちゃんぽんも、ラーメン同様にさまざまなスープがあるわけです。
トンコツ味のスープも当然あるし、醤油味もある。
百軒でちゃんぽんを供すれば、百のちゃんぽん味があるわけです。
具も、海鮮主体で海老やカニ、イカ、アサリが山盛りだったり、野菜主体だったり。
聞いたら、できるだけ早く味を確認しに出かけます。
推薦した方の価値観も、そのうち見極めることができるようになります。
Aという方が、「すごいちゃんぽん屋がある」というので飛んでいったら、ただ単に喰いきれないほどの量のちゃんぽんだったりということがある。味は…こんなものかのう、と。
Aという方は、とにかく満腹になることが、ちゃんぽんの価値を決めると考えている人であることを知りました。
Bという方が「県南で食べたちゃんぽんはうまかった。スープが絶妙。とにかく、客が多いかなりの人気店だ」と教えてくれます。
そこは醤油味でした。醤油味でもおいしければ私には“アリ”なのです。それに、Bさんの話どおり、とにかく人気店で、人が並んでおります。
でも、味覚って、ほんとに人様々なのだなあ。
残念なことに私には「辛かった」のです。つまり、肉体労働をやって塩分が不足がちの方には、丁度いい辛さだったのかもしれません。Bという方はスポーツマンでもありまして、どのような体調だったかわかりませんが、はっきりした味が好きなのだろうなと、思いました。
そうこうして、うまいもの探し行脚をしているうちに、味覚傾向が似ている人の存在もわかるようになりました。書評でも甲という方が推薦している本が面白くなく、乙という方が褒めていたら、まちがいないと思うようなものです。
そんなグルメの方が推していたら、無駄な労力を費やす必要がない!
で、私のちゃんぽんベストの店を探し出しました。
熊本市内からは、ちと遠い。
天草は下島。ここいらは、ちゃんぽん街道と呼ばれ、いろんなちゃんぽん屋があります。
その中でも私のベストは、苓北町の富岡港近くの「明月」というちゃんぽん屋。
見かけは何の変哲もない、フツーのちゃんぽん。ところが……口にスープを含んだら…。
まさに幻妙!トリガラベースであっさり気味なのに。やめられない止まらない。つゆ一滴残さず食べてしまいました。老夫婦お二人でやっておられて、売り切れると早々と店を閉めてしまわれる。メニューも、ちゃんぽんと、ちゃんぽん玉子入り。「玉子入れんで食べてほしかです」とのこと。
その話をしていたんですね。「明月を超えるちゃんぽん屋はないでしょう」と。
すると、知人がニヤリと笑って、「人吉に、おいしいとこあるんです。山道登って、こんなとこに~って民家がちゃんぽん屋。餃子も絶品。行きませんか?」
もちろん行きます。
当日は、梅雨まっただ中。その方の運転で人吉へ。豪雨だろうが、ものともせず。稲妻が光ろうが、でかい雨粒が窓を叩こうが、九州道をひた走る。高速道路を下りて、市内街中を抜け、球磨川沿いの細い道を走ると……ただでさえ細い道路の肩の部分が、滑落してましたよ。右下には濁流が……。危険の報酬だあ。
「帰りはちがう道で帰りましょう」そう脅え越え言ってしまうほど。
そして坂道を登り……。
「着きました」
そこが目的のちゃんぽん屋「ま心」でした。
その味たるや!
「うまあい」ちゃんぽんはトンコツとトリガラの併せ味。明月とは違うが、絶妙なスープ。そして餃子は野菜がふんわり。うむ。生命を賭して、ここまでやってきた価値がありました。
「天草に明月あれば、人吉にま心あり!」
さて、これからちゃんぽんの名店に遭遇するのは、いつのことか。楽しみでなりません。
情報求ム!であります。

第68回「びっくり味覚」

こんなことを考えるきっかけになったのは、”辛くない食べるラー油”体験をしてからのこと。
今、品薄で、なかなか手に入りにくいヒット商品になっているそうですね。”ラー油”といったら、使うのはせいぜい餃子を食べるときに、酢醤油に垂らして使うくらいで、家庭で使ってもほとんど減ることがなかったから、食べるラー油と聞いても、あんまりぴんと来なかった。
あるイタリアンレストランに行ったときのこと。友人たちとの会食のとき面白半分で、買ったばかりの”食べるラー油”を取り出した。このときはまだ比較的に手に入りやすかったのである。
「食べられるラー油ってどんな味なんだ」という話になり、「何でも合うらしい。不思議な調味料だって」ということで、「じゃあ、このカルボナーラにかけてみよう」と誰かが言い出す。
「うへぇ。それは止めようよ」という声もあったが、結局スパゲティにドパッとかけて食す。
皆が、「うまい」と絶句した。
これは、新しい天体を発見した驚きなのだ。
開高健大先生が、未知の珍味を体験したとき、”新しい天体”と例えたが、まさにコペルニクス的転回を伴った新しい天体なのだ。
ラー油は、中華料理のものでしかないという先入観があり、スパゲティはイタリア料理的存在であるという先入観がある。
それは普通の思考では結びつかないものだ。
まさに、奇跡のめぐりあいだ。
ダダイズムのことを、”手術台でコウモリ傘とミシンが出会ったような”と誰かが評した。
そんな比喩を聞いたときはピンと来なかった。ところが、生クリームやチーズとラー油の出会いは、それに匹敵したのだった。
それから、食べもので、何と何を食べると相性が悪いと考えるのは、自分の心の中にある先入観のせいではないかと考えるようになった。
―あのときの驚きに似ているよな。
 まだ、若い頃、友人の結婚式の披露宴に出たときのこと。
 フランス料理のフルコースだった。
 そのときの一品。
 メロンの上に生ハムが乗っていた。
 今でこそ、どこでも見ることがある前菜だが、初めて見たときは衝撃だった。
 果物は果物として食べるべきだろう。ハムは、いくら生ハムといっても、ハムとして食べるべきだろう。
メロンの上に生ハムなんて、食べ方としては邪道だ。
 しかし、口に入れると、………うまい!
 それからメロンと生ハムは、私の中で何も不自然さのない組み合わせになった。
 アボカドの熟したものをワサビ醤油で食べさせられたときも、口に入れるまでにはかなりの勇気が必要だったが、もうOKだ。
 だから、この食べ方は変だよな、と思いつつも、固定観念を離れて食べてしまうことが最近は多くなったなあ。
「炒飯を茶漬けにして食べるとうまいですよ。どれだけでも食える」
 そんなことを腕のいい料理人さんに聞いた。
 炒飯といえば、それだけで料理として完成しているではないか。
 それなのになぜ、お茶をかけて食す必要があるのだろうか?そんなことをやっても無意味ではないか?
 だが、考えていても答えは得られない。
 某中華料理屋にいったとき。
 試した。
 もちろん、炒飯を注文し、小さなカップに烏龍茶をひたひたにかけて、店の人に見つからないように慌てて食べた。
(小心者なので。茶碗に炒飯を入れ、熱いお茶をくれ!と叫んで炒飯茶漬けを作る勇気はない。そんなことを堂々とやれる勇気があったら、今頃もっと大人物になってますよ。私)
すると……。
うまい。
ウーロン茶に炒飯の油っこさが溶け、茶漬けのさらさら感を保ったまま旨みが残っている。
つまり、炒飯の長所と茶漬けの長所が残った併せ技になったと言える。
東京から来た叔母を中華に連れて行ったときにこの話をした。
すると叔母は「また、そんな嘘バナシをして私を騙そうとする」(私が架空の法螺話ばかり書いている関係上、私の話はまったく信用できないと思いこんでいる)「じゃあ、私の目の前で茶漬けにして食ってごらん。そしたら信用する」と。
たまたま、炒飯に玉子スープがついてきた。
それをとりあえずかけて食べてみせる。
すると……茶漬けとはまた異なる新しい天体が開けたのである。
「こ・これは、また旨い」
今では、食べものをできるだけ予想外の組み合わせで食べることに、何の抵抗も感じなくなってしまった。
そして、これからの時間で、どれだけの新しい天体の快感に出会えるか楽しみでならない。
アイスクリームに味噌かけたり醤油かけたりガラムマサラかけたり、塩かけたりという話を聞いたりもするが、今や何も驚かない。
むしろ試してみたい気持ち満々なのですよ。