年末年始にかけて、何かとパーティの案内をいただくことが多くなります。以前は、出席しないと義理を欠くかな、と参加したりもしていたのですが、だんだん自分の本質がわかってきました。
私はパーティ嫌いなのです。
ひょっとしたら、パーティ嫌い以前に、対人恐怖症の傾向があるのかもしれません。だから、特に立食パーティなどになると、いろんな人が会場を回遊していて怖いのです。
初めてお会いする方と言葉を交わす。それから、宜しくお願いします等の挨拶をするのですが、相手のことを何も知らないので、それ以上何を話していいのか、わからなくなってしまいます。
そのとき願っているのは、「早く、この人どこかに立ち去ってくれないかな」です。その方からすれば、私などそわそわと落ち着きのない目をしたアブナイ男だと思われたに違いありません。
服装や話し方から、この方はどんなことをやっている方かなと想像してみたりはするのですが、それが当たっているのかどうか尋ねてみる勇気はありません。下手に尋ねてみて、外れていたら失礼になる気がしますし。それで、考え過ぎて失語症状態になってしまっているのです。
その方が立ち去っても次の方が近寄ってこられます。その方はにこやかな笑みを浮かべて親しげに話しかけてこられます。何度かお会いしたことがある方のようです。
「やあ、カジオさん。お元気でしたか」と。それで、慌てて私も作り笑いを浮かべます。
「ええ、おかげさまで」
そこで私も気がつきます。そうだ。この方とは、どこかで会ったことがある!
だが、どこで会ったのか?何をしている方なのか?名前も思い出せない。
これだけ親しげに接してこられるのに、「どなたですか?」とは口が裂けても言えません。そんなことを尋ねたら深く傷つけてしまうに違いありません。だから、私も久しぶりなふりをして、実は思い出せていないことがバレないように会話を繰り出すしかありません。相手の固有名詞がわからないから、必死で誤魔化しつつ。「寒くなりましたね。お山は氷河でしょう」とか、「少しお痩せになりましたか?」(と言えば大抵喜ぶ)「お変わりありませんね。いつもお若くて」(これもほとんど喜ぶ)と言葉を交わしている間に、その返事をヒントに、誰だっけ?と、つきとめようとしています。そんなときの掌は脂汗だらけです。お相手を全然別の方と勘違いして話していて赤面。そんな前科もあるものですから。
どなたかがやって来て、その方に話しかけられたら、これぞチャンスとばかり、その場をさっさと逃げ出すことにしています。
もうひとつパーティの嫌なこと。私の大嫌いな人も来ていることがあるのです。私が嫌いだから、そいつも私のことが嫌いならいいのに、鈍感だから気がついていないんですね。
で、チラと視界の隅でそいつが来ていることに気づきます。必死で私に気づかないでと願い、もう一度チラと見ると、私の方をじーっと見ているんです。さっさと向こうへ行ってくれと願うと、何と、つかつかとこちらへ近づいて来るんです。だから、頼むから私に話しかけてこないで欲しい。そう切に思うと、私に話しかけてくるんです。
悪夢です。
死んだふりしようかと思いますよ。
対人恐怖症で、パーティ嫌いと書きましたが、もう一つ、私自身の致命的な弱点に気がつきました。これも、対人恐怖症と関連があるかとは思うのですが。
私の日常生活に関係しています。私が一日の中で言葉を交わすのは、家族を除いて多くても三、四人です。あとは、日がな部屋に籠って、ときどき独り言を漏らしながら原稿に向かうか、本を読んでいるか、です。つまり、一日に人と言葉を交わすのは三、四人。
パーティで五人以上、それも日頃顔を合わせていない人と話をしなければならなくなると、精神的に自分が追い詰められていくのがわかります。私が不器用だということですね。だんだん心が疲労していく。そして私の容量を超えてしまうと、混乱が発生します。
自分では必死に会話を受け応えしようとしているのですが、意味不明になってしまっていくのがわかります。それだけじゃない。滑舌も悪くなっていきます。
これは、私の脳の熱暴走状態だと思います。オーバーヒートしているということですよね。回復するには、しばらく放置しておくしかないようです。
それだけで終わるならいいのですが、翌日あたりから、悪い癖が起こります。
パーティへ出席した自分を責めるのです。なぜ、あんなことを言ったんだ、とか、非常識だぞ、と自分を叱り始めるのです。
そのあと、どんよりと自己嫌悪に。そして、パーティなんて、行かなきゃよかった、という後悔に。
そんなわけで、パーティ恐怖症はいつまでも治りません。もし、誰かに引っ張り出されてオタオタしている私を見かけたら、生暖かく見守って頂ければと願う次第です。
投稿者: アドパスカル
第120回 カンメラのこと
「ワケのシンノス」を書いたときに、祖母から他にもいろんなことを教わっていたことを思い出しました。新鮮なハモをすり身にして生で美味しく食べる方法や、火鉢で作るさまざまなおかず。羽魚の刺身が残ったものや尾の身クジラを味醂醤油で焼いたり。おはじきやお手玉、綾取り、折り紙といったインドア系の遊びを全て習得できたのは祖母のおかげです。
私は小学校に入る前まで、体が弱くて週のうちに五日は何らかの病気で床に臥せっておりました。
家の中で出来ることといえば、本を読むか、祖母に遊びを教えてもらうかのどちらかです。インドア系の”女の子”の遊びを覚えるしかなかったのです。あっ、そう言えば、小学校に入る頃は花札を覚えて、祖母とやってました。花札といっても絵合わせですが、猪鹿蝶とか、桜月一杯で鉄砲とか、松桐坊主とか、言っていました。役もポイントも全て祖母から教わったのですね。
小学校に入ると、おかげで学校を休まなくてすむくらいに体力が養われてきました。
小学校時代の冬に、祖母が教えてくれたのがカンメラの作り方です。
祖母は、おたまに白砂糖、赤砂糖、黒糖を入れて水に浸したものを火鉢の五徳の上に乗せました。その様子を、私はじっと見ておりました。いったい祖母が何を作り始めたのかよくわかりません。だんだんと水温が上昇して沸騰し始めます。それでも構わず棒でかき回し続けます。いつまでそうやるのかわからずにひたすら見守っていると、ある瞬間に祖母はおたまを火鉢から下ろして用意していた白い粉に棒を浸けると、それで真剣な表情でかき混ぜ始めました。
どのくらいかき回したものか。突然、祖母はぴたっと動きを止め、おたまの中を凝視しました。そのときの仰天は幼な心にはっきりと焼き付いています。おたまの中の黒っぽい液体は焦茶色に変わり、それから奇跡のようにみるみる膨れ上がったのです。
「これがカンメラたい!」
祖母は得意そうにおたまを熱して、”カンメラ”をはずし、私にくれました。口に含むと甘い歯ごたえが。美味しい……。砂糖とも違う。他のお菓子にも似ていない。
ぼくもカンメラを作りたい。
それから祖母に作り方を教わり私のカンメラ作りのスタートです。学校から帰ると火鉢の前でカンメラ作りを繰り返し繰り返し。
祖母に作り方を教えてもらいマスターできたはずなのに、実に難しい。
早すぎると膨れない。膨れたと思い喜んだ瞬間に陥没してしまう。遅れると真っ黒に焦げてしまいます。温度に関係しているのはわかるけれど、それだけでは条件の全てとは言えない。祖母が最後にカンメラを膨らませるために使う粉は重層だとわかったのですが、その量が少ないと膨れないし多すぎると苦い。
カンメラ作りを成功させるというのは、さまざまな条件をクリアして初めて成し遂げられる神業だと知ったのでした。つまり、祖母こそが”神っ!”だったわけです。
祖母と街に出かけたとき、祖母は金物屋に寄り、何やら買ってきました。銅の杓子のようなもの。まさか。
「これはカンメラ焼き器。正式のものだから、これで作りなさい」
それから、材料も変わりました。キザラを使ったり、水の量を加減したり。祖母にコツを尋ねました「どうやればうまくカンメラが焼けるの?コツがあるの?」
すると祖母の答えは「うまく作れると信じることだろうね。そんな気持ちが伝わったら、うまく作れる」
何に伝わるのだろう?カンメラの神様に?不思議なことに、それから私はカンメラがうまく作れるようになったような気がします。本物のカンメラ焼き器を買ってもらえたからでしょうか?
大人になってカンメラのことは忘れてしまいました。実はカルメ焼きというのが正式で、ポルトガル語のカラメルから来たのだということも知ったのですが、カンメラ焼き器は行方不明になり、祖母もいなくなってしまったのです。
なぜか数年前から、このカンメラ焼きのことが突然思い出されるようになりました。が、金物屋を覗いてみても見つかりません。古道具屋を尋ねてみると「ああ、昔はありましたなあ」と懐かしいという返事ばかり。
昭和の時代の霧の向うのことの出来事のようでした。
ところが先日、雲仙の普賢岳登山の帰りに島原の古民家カフェに寄ったときのこと。
このカフェは金物屋でもあるのです。それも郷愁の香り漂う品々が揃う。店の片隅にあったのです。カンメラ焼き器が。
慌てて買い求めました。懐かしいなあ。
そして孫の目の前で数十年ぶりにカンメラを焼いてみせました。キザラ糖と重層を使って。
昔とった杵柄といいますか、カンメラは奇跡的にうまく焼けました。祖母の面影がよぎったほどです。
孫は、カンメラ焼きにかなり感銘を受けたようで、私に”神を見た!”ようなのです。歴史は繰り返すのですね!
あれから、時々、我が家に来て、カンメラ焼き器をアウトドア用バーナーに乗せ挑戦していますが、なかなかうまくできない。
実は私も孫がいないとき、カンメラ作りを幾度かやってみましたが、どうしたものか、うまく出来ないのです。おかしいなあ。腕が鈍ったかな?
さて、夏休みの終わりにカンメラ作りに挑戦していた孫に尋ねられました。「どうやったらうまくできるの?」もちろん私はそんなこと内緒で、こう答えました。「うまく作れると信じることだよ。その気持ちが伝わったらうまく作れる」とね。
第119回 好評なので不思議スポット
「数ヶ月前の祖母山の話。本当ですか?面白かったけれど、少し恐かった」と、このコラムを読んだ方から感想をいただききました。
ありがとうございます。
あれは、嘘っぱちのフィクションです。
このコラムは自由に何でも書いていいということになっているので、時には、あんな小噺を書いたりしています。頭から信用したりしないようにお願いいたします。
もちろん、その方には申し上げましたよ。あれは、でっち上げのフィクションですって。その方は、「あんな、ちょっと怖ぁーって話は大好きなんですよ。嘘だろうとホントだろうと構いませんから、あんなのをお願いします」と仰言られました。
そのとき、ふと思い出したことをつい口にしてしまいました。「あのう。田原坂の不思議な話とか聞いたことありますか?」
すると「田原坂って心霊スポットだって聞いたことはあるけれど、詳しくは知りません。カジオさんは、ご存知ですか?」
「いや、そんなに怖ぁーって話がお好きならと、ふと思いついて言ってみただけです。でも。あそこも色々聞くんですよね」 すると、「うわぁ、知りたいです」」と。 じゃあ、今回は私の耳に入ってきた田原坂のお話を書きましょう。
田原坂は西南戦争のときの激戦の地です。明治十年に西郷隆盛が起こした士族の反乱で、官軍と薩軍の攻防戦の舞台です。熊本市北区になります。いかに激戦だったのかは、当時に作られた俗曲「田原坂」でもわかります。
ー雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
ー右手(めで)に血刀左手(ゆんで)に手綱、馬上ゆたかな美少年
西南戦争の古戦場として国指定史跡になっているほどです。
で、いつの頃からだろう。四十数年前からこの田原坂あたりで、不思議な出来事が起こるという噂を聞くようになりました。私は、臆病なので、田原坂に肝試しに行ってみようとは思わないのですが、話だけは集まってくるのです。
最初に聞いたのは、こんな話。田原坂へ真夜中、興味半分で出かけた男女が、農道を走っていると前方で人の気配がする。それでブレーキを踏んだら、目の前に髪を振り乱した侍が現れ、道の真ん中で両手を広げたそうです。そんな馬鹿な?!と自分の目を疑っていると、侍姿の刀を手に持った男たちが目の前を横切って行った。最後の一人が横切ると、目の前の侍もいなくなっていた、と。帰ったら女性たちは高熱が出て、数日間起き上がれなかった、と。
その話を聞いて興味を持った少年少女たちが、そんなの怖くないもんね、と、真夜中に田原坂に向かった。で、四、五人が自動車を止めて、田原坂の周辺を歩き回って肝試しをしたらしい。すると、地響きみたいに大勢が歩いているような音が聞こえたらしい。それで、皆が恐怖に駆られ逃げようとしたら、一人だけいない。辺りを捜すと、その若者は細い道でうずくまって掌を合わせていたんだって。慌てて皆で自動車まで引きずって戻ると猛スピードで逃げ帰ったそうな。失踪した若者に、「なんで、あんなとこにいたんだ?何をしてたんだ?」と尋ねても、本人は何をしていたのか、何を見たのか、記憶が全くなかったそうです。で、その若者はその後、何もなかったそうですが、車を運転していた男性は体調を崩してしまったらしい。皆の前に再び現れたときは、何があったかわかりませんが、話をしても半馬鹿状態になっていたとのこと。それを聞いた他の若者たちが肝試しに……と、話がリンクしていきますが、似たようなのが多く、省略。
それから、当時、田原坂公園に電話ボックスがあったのですが、これにまつわる話も多かったなぁ。この電話ボックスは屋根に馬に乗った少年の像がある特殊なものでした。で、この電話ボックス、入るときは問題ないのに、出ようとするとドアが開かなくなる。あるいは、公園で何かの視線を感じて、振り返ると少年の像がじっと睨んでいる、と。
そして、いつの間にか、電話ボックスは消えてしまったそうです。これは、別に霊的な理由からではなくて、携帯電話が普及して、利用されなくなったのでNTTが撤去したということだと思いますが。 集まってきた噂話が事実かどうか、確認のしようがありません。戦没者が一万四千名の激戦のあった所ですから、どんな都市伝説が発生しても不思議ではありません。むしろ、都市伝説の成り立ちがわかるサンプルになる場所のような気がします。これらは伝聞の伝聞でこちらに伝わってきたものがほとんどですが、直接、私の先輩が体験した話をご紹介しておきます。
その先輩の話、「友人が電話してきて、誰にも相談しようがないから、と。じゃあ来い、というとやって来た。どうした?と尋ねたら、田原坂に行ったら憑かれた、と。どうあるんだ?と問うと(肩の方を指差し)ここらにドヨーンっといるんだ、と。憑いている、と。そんな馬鹿なこと!と思って、言ってやった。オイ。こいつに憑くくらいな俺に憑いてみろ!と。そしたら、肩の上から、どーんと次の週間憑かれた。友人は、わあ、ありがとう。おかげで軽くなった、と、さっさと帰ってしまった。その後、帰れとか、離れろとか頼んだけれど、効果はなくて、結局、専門の人に浄霊してもらった。除霊だと、すぐに寄ってくるから、浄霊でないといかん、と言われてね」
この先輩は、霊とか非科学的なこととか、全く縁がない硬派なので、すごく記憶に焼き付いています。田原坂の謎も案外根が深いかもしれません。
第118回 ワケノシンノス
前にゴホンガゼを食べた話をご紹介したのですが、けっこう興味を持っていただいたようです。お会いする方から「食べてみたいと思いましたよ」「次の食べに行くときは誘ってください」「お取り寄せはできないのでしょうか?」等尋ねられたものです。季節が決まってるし、日持ちしませんからお取り寄せはできないでしょう。残念です。
で、思ったこと。
私の読者の方はいやしんぼで喰い意地の張った人が多いんだなあ、と。もとい!私の読者の方はグルメの方が多いんだなあ。好奇心の強い美食の方が。
てっきり忘れていたのですが、「梶尾さんはヒトデだけじゃなくて、イソギンチャクも食べるんですね」と言われました。はい、はい、はい。幼い頃からイソギンチャクは食べていますよ。
「どうやって食べるんですか?どんな味ですか?」
では、今回は、イソギンチャクグルメをご紹介しましょう。
私のお祖母さんは十九世紀の最後の年に生まれた明治女なのですが、それはそれはグルメでありました。幼稚園に入る前はお祖母さんに連れられて近くの八百屋や魚屋に行ったものです。魚を買うと自分で捌いていましたね。身は刺身。ワタや骨は煮付け、あら炊き。お頭は吸い物。もう何も捨てるところがないように利用していました。あの凶暴そうなハモも、身を骨切りして湯引き、あと半分の身を摺り鉢でペースト状にして、それに、味醂、塩を加えたものを梅干し醤油で食べていました。あんな珍味は、もう食べられないかなあ。その摺身が残ったら、箸に巻いて火鉢の炭で焼きながらいただくという贅沢も経験しました。
正月明けの頃だと思います。お祖母さんに連れられて魚屋へ。とにかく指先まで感覚が無くなるほどの寒さでした。店頭の金だらいの中にわけのわからないヌルヌルした丸いものが入れられていたのです。いったい何なのだろう?私が興味を持っているとわかったのか、お祖母さんはそれを買い求めました。
その夜の味噌汁にはネギとコリコリしたわからないものが入っていました。ひょっとしたら!
「これは魚屋で買ったやつ?」
「そうだよ。うまいだろう。中はカニ味噌みたいで」
確かに、体験したことのない味でした。魚ともエビカニとも違う。お祖母さんは教えてくれました。
「これはワギャーたい」
「ワギャー?」
不思議な響きの食べ物だなあ。いや生き物か。すると、お祖母さんは解説してくれました。「海水浴に行ったら海の中で花みたいにひらひらしているのがいるだろう。それがワギャー。イソギンチャクともいうなあ」イソギンチャクなら私も知っていました。
「でも、丸くて小さかった。イソギンチャクの形じゃなかった」
「海の中ではイソギンチャクの花が開いた形だけれど、触ったり刺激したりすると丸く縮んでしまうんだ。そう。ワケノシンノスという人もいるなあ。ワギャーのことを」
「それなあに」と尋ねるとお祖母さんは嬉しそうに声を上げて笑うのでした。
イソギンチャクを使って作ってもらったものは、味噌炒めと唐揚げ。どちらも美味しい。クセのない旨味があるのです。
翌年の冬にイソギンチャクの調理法を台所でじっと見て覚えました。とにかく砂を吐かせるために縦割りしてよく洗え!でした。
しばらくして、イソギンチャクは我が家の食卓に並ばなくなりました。
「どうしてイソギンチャクの味噌汁を作らないの?」理由は、魚屋に入って来ないからでした。
成長してから、イソギンチャクの味噌汁の話をすると皆が、びっくりします。「えっ?イソギンチャクって喰えるの?」どうも、我が家だけの食文化だった気がしはじめました。もう、あの味は食べられないのだろうか?手が凍るほどの寒い季節が来ると思い出すのです。ワギャーのことを。
高校時代の友人から「玉名地区の市場に、イソギンチャクのワケノシンノスが出てたって」と情報があり、ときめきました。しかし、そのときは話はそのままになってしまいました。
そしてイソギンチャクとは、とんでもない場所で会うことになります。
柳川へ出かけたときのこと。
柳川下りをしていて、ウナギを食べようと船を降りました。すると目の前に魚屋が数件。並んでいるのは有明海の珍海産物。エイリアンみたいな牙のあるワラスボという魚。メカジャ(シャミセンガイ)、そしてイソギンチャクが……。
ワケノシンノスと書いてある。早速買い求めましたが、けっこう高い。記憶ではもっと小さかったよね。お店の方に尋ねると、「寒い時期は小さくて美味しい」とのこと。どんなイソギンチャクでもいいわけでなく、イシワケイソギンチャクという種類だけを食べるのだそうです。
そのとき、同時になぜイソギンチャクがワケノシンノスと呼ばれ、お祖母さんが嬉しそうに笑ったのか、理由を知りました。
ワケノシンノスは若者の尻の肛門という意味だったのです。なるほど似ている。
自分で調理しました。懐かしかったなあ。これがソウルフードなんだろうな。
ちなみにイソギンチャクは、柳川からネット通販で買えますよ。食べたいなと思った方のために!
第117回 祖母山のできごと
今年の盆休みの予定は何も決めていなかったのだが、山歩きをする友人が声をかけてくれた。
「祖母山の日の出を見ようということになったのだが、お前もどうだ」と。
八月十三日の午後から、五カ所の北谷登山口から登り始めよう、ということだった。千間平から三県境、国見峠を越えて山頂へ至るコースだ。
標高は一七五七メートルある。日本百名山にも名を連ねている。五月のツクシアケボノや六月下旬のオオヤマレンゲの時期には一人で登ったりしていたが、夏にはあまり登った記憶がない。山の名は神武天皇の祖母である豊玉姫が祀られていることに由来するらしい。
「下界は暑いだろう。九合目小屋でゆっくり酒でも飲みながら馬鹿話でもやろうぜ、ということになったんだ。一緒にどうだ。納涼登山だな」
悪いアイデアではないように思えた。むさ苦しい男たちばかりなのは仕方ないが、楽しいときを過ごせそうな気がした。晴れた夜空を眺めれば、満天の星にも出会えそうだった。
九合目にある小屋は、トイレ付きだし、予約すればビールも用意しておいてくれる。宿泊費二千円で十分楽しめるに違いない。
「わかった。ぼくも連れて行ってくれよ」
熊本市を朝の十時に出発して、のんびり登ろう。一旦山頂まで行って九合目小屋まで下ってきてから、ぼちぼち宴会をやろう。メンバーは六名ほどだからにぎやかになるぞ、ということだった。登山口までも友人が乗せていってくれる。
…ところが、予想外の出来事が。行く日の朝、上司から連絡があった。得意先でクレームが発生したという。処理にあたってくれと。
仕事だから仕方がない。緊急を要する事案だった。うまくいけば午前中にはクレーム処理は終わりそうだと踏んだ。
友人に連絡した。「先に行っておいてくれ。終わり次第追いかけるから」
ところが、予想外に時間を取られ、解放されたのは夕方近くだった。慌てて自分の車で祖母山北谷登山口を目指そうと思った。もう皆は山小屋に着いている頃かと時計を見て思う。すると友人から電話が。
「もう、宴会始めるよ。早く来い。それから、山に入る前に刺身を買ってきてくれ。皆、刺身を食べたがっている」
「わかった。もう、こちらを出るから」
山の上で刺身を食べるなんて、と首をひねった。酒さえあれば肴はなんでもいいだろうに。しかし、魚屋に行って刺身を多めに用意してもらった。
市内を出るまでに故郷への帰省ラッシュに巻き込まれ、登山口に到着したのは夜の六時を回っていた。
歩き始めた。山小屋まで三時間か。最初はまだ明るかった。しかし、日没とともに辺りは暗くなる。七時半を過ぎた頃、千間平の広場に着いたが、もう真っ暗だ。曇っていたので星も見えない。ヘッドランプを頭に付けて歩くことにした。少なくとも道を見失うことはないだろう。だが、ライトの光量が少ない。不安にかられながらも、歩き続ける。すると電池が切れかけていたらしい。ついてない。数分で目の前が真っ暗になってしまった。あと一時間半は暗い中を歩かねばならない。心細いが、ひたすら前進するしかない。
三県境から国観峠を過ぎた。何度も登った山だから暗くても道はわかる。樹々の中を黙々と歩く。そのとき、気配を感じた。いったい、何の気配だろう。ひたひたと、すぐ後をついてくる。立ち止まって振り返った。何もいない。音もない。気のせいだろうか。再び歩き始めた。気配を再び感じた。確かに何かがいる。姿は見えないが。また立ち止まる。
がさりと草を踏む音が聞こえて音が止まった。確かに聞こえた。気のせいじゃない。
急ぎ足で進む。尾いてくる。気配が。ひたひたひた。右後方だったり、左前方に回り込むようだったり。
獣だろうか?犬?まさか狼?人ではないと思えた。とにかく執拗だ。いったい何の用があるのだ。もしかして襲おうとしているのか?
立ち止まる。息が切れたからだ。気配も止まった。低い唸り声のようなものが聞こえた。物の怪なのか?
何度か夜の山道を歩いたことはあったが、こんなことはなかった。何故に今日は…。
ふと思い当たった。奴らは刺身を狙っているのだ。そして何とか奪おうと隙をうかがっている。山小屋まであと三十分はかかる。殺気があった。飛びかかってきそうな気配もあった。こいつ等手段を選ばない。
リュックから刺身を出して、できるだけ遠くに投げた。背に腹は代えられない。
はっきりとわかった。いくつかの気配が刺身を追っていく。激しく奪い合う音と呻きと唸りが聞こえた。
鳥肌が立ち、登山道を無我夢中で走るように登った。奴らはいったい何だったのか。もう尾いて来ない。気配は消えた。
やっと、九合目山小屋に着いた。中に入ると山仲間がいい機嫌で酒を酌み交わしていた。こちらのパニック状態も知らずに「遅かったな」と。山道での出来事を話した。正体のわからない連中のことを。だから電話で頼まれた刺身を持って来れなかったと。すると刺身を頼んだ男が不思議そうに言った。
「何を言ってる。携帯電話は圏外だぞ、ここは。刺身を頼むどころか電話なんか、かけられないよ」
とすると、あの電話は……。
第116回 ゴホンガゼ食べた!
そのときは謎だったことが、数年の後のある瞬間に、なるほどそうかとわかることがあります。
若い頃に天草の御所浦に行ったときのこと。港の近くに魚屋さんがありました。で、お店の外にドラム缶があって水が張られており、何だろう。魚か貝の生け簀なのかと覗きこんだら、魚も貝もいない。ただ、中にはビッシリとヒトデが?
なぜ、ドラム缶の海水の中にこれだけの数のヒトデがいるのだろう?
謎でありました。
穫れた魚に混じって網の中に入っていたのだろうか?だったら、すぐに海に戻せばいいことではないか?
ひょっとしたら、このヒトデは何かに利用されるのではなかろうか。肥料として農地に撒かれるのだろうか?いや、他の道具として使うのかもしれない。表面はゴリゴリしているようだから御所浦の方たちはヒトデを軽石代わりにお風呂で使っているのだろうか?
御所浦には、そのとき化石を掘りに行ったのでした。宿で美味しいお刺身を頂いた記憶しかありません。しかし、ドラム缶の中の無数のヒトデの印象は強烈に心に焼きついています。それからすぐに海上タクシーに乗り込んだから、謎は解けずじまいになってしまいました。なぜあのとき魚屋さんに「このドラム缶にあんなにたくさんのヒトデを入れているんですか?」と尋ねなかったのか。心に妙に引っ掛かっていました。
天草の御所浦は島なのです。おいそれとは行けません。
それから、どれほどの時間が経過したことになるのか。
テレビのチャンネルを切り替えていたとき、目に飛び込んできた映像。
ヒトデを食べていた!
すぐに、カメラは切り替わってしまいましたが、間違いない。場所は国内。どこかの磯でヒトデを茹でて食す風景が。しかも、天草でした。
御所浦の魚屋で見たドラム缶の中のヒトデの謎が一瞬で結びつきました。
あの無数のヒトデは食用で、販売用だったのか!
同時に脳裏に浮かんだのは、天草の人々が食卓で一家揃ってヒトデを持ちながら笑っている場面でした。不気味だ、という思いより、どんな味だろう?という疑問。
それから、天草に足を延ばすたびに生け簀のある活魚専門店を覗き、ヒトデがないものか探しました。
ありません。それでも天草では質問します。
「ヒトデとか、食べないんですか?」
「聞かないね」と返事が。天草ならどこでも食べるというものではないようです。あのテレビで一瞬見たのは、天草のどのあたりなのだろう。御所浦出身の方にお会いしたときに尋ねました。「ヒトデ食べていました?」
「いや。食べませんでした。でも、そんな話聞いたことはありますよ」と、あやふやな返事。
その頃は、インターネットですぐ調べることができる時代じゃなかったからなぁ。
それからまた時間が過ぎます。
栖本町に神社や妖怪あぶらすましの出現場所を見に行ったとき。「ヒトデとか食べますか?」「ああ、ゴホンガゼなら、ここいらは大潮のとき、獲って食べる人はいるよ」
聞きなれない名が飛び出しました。どうもゴホンガゼがヒトデのことらしい。「今、そのヒトデ……ゴホン何とかは食べられますか?」
「うーん。この時期は食べないよ。桜が咲いて、梅雨前までだろう」と謎の言葉。
絞りこみました。天草でも上天草の東海岸を中心としたエリアだけの食文化のようでした。食べる季節も決まっていて、3月下旬から6月上旬。なぜ、限られた土地でしか食べないんだ。不味いのか?
それから、私の想像の中だけでヒトデ料理は成長していきました。いや、想像というより妄想ですが。
その頃架空の天草の島を舞台にした「壱里島奇譚」という小説を書いたのですが、この中でイソギンチャクの味噌汁とヒトデ料理の描写も入れました。つまり想像で書いたんです。
食べ過ぎると頭が痛くなる。ほろ苦い。いろんな情報が入ってきます。
そして、今年ついに、天草の某旅館で食べることが出来ました。その日は入荷していたとのこと!
テーブルの上に茹でたてのヒトデが。裏の皮の下に黒っぽい黄色の粒がびっしり付いています。「そこを食べてください。ヒトデの卵ですから」
食べました。体内は卵だけしかないんです。ウニがほろほろとした感じというか、蟹の味噌にも似ている。
長年の謎が解き明かされた瞬間でした。
どんなヒトデでも良いわけではなく、そのエリアで、食べられるのは「キヒトデ」という種類だそうです。淡白です。ここで、ふと気が付きました。
焼酎にぴったり!白岳のロックにぴったり。こんなに相性が良いとは。
ガゼとは、ウニのことらしい。5本足のウニでゴホンガゼ。なるほど。
「これを名物にすれば観光客を集めることができるのではありませんか?」
「昔ほど獲れないんですよ、残念ながら。今年は特に」
「そうですか。ヒトデ不足なんですね」と思わず口にしたら、宿の方に異様にうけてました。
第115回 ネット音痴です
最近、”炎上”という表現を目にするようになりました。ネットには疎い私ですが、ネット内でよく使われていることがわかりました。それは、ブログやSNSなどの場で書き込まれた意見に対して、非難や抗議の書き込みが集中する現象のようです。あまりに抗議が多すぎて収拾しようがない様子が、激しく燃え盛るようなので、”炎上”と呼ぶようですね。
炎上には、幾つものパターンがあるようだということが、だんだんわかるようになりました。社会通念からかけ離れた言動をブログで自慢したりするとみるみる”炎上”するようですね。それから筆者の専門外の分野について、したり顔文章で述べたりする方のページも”炎上”していくケースが多いようです。また、政治的なもの、人種差別に抵触するもの、宗教的なものに関して発言されているページで”炎上”現象が起きやすいということもわかりました。そのような意見を書いておられた方に共通しているのは、「まさか、こんなに批判を受けてしまうとは」と、びっくりしておられる方が多いということです。ツイッターなどで「缶ビール飲んだけど、足がないから運転して帰ったヨ」などの呟きを見ると、誰かが書いていましたが「ツイッターは馬鹿発見器」というのは名言だな、と思います。しかも”炎上”の経過を眺めていると、”炎上”の当時者は、本名を暴き立てられ、退学、退職させられる経過が素早くて、愕然とします。これは、ネット社会ならではの現象なのでしょう。ネットがまだ普及していない時代であれば「大多数の批判意見の集中」は、まず活字で世の中に流れ、数ヶ月にわたって五月雨式にゆっくりと批判意見が返ってきたのではありますまいか。そして、拡散する前に次の話題へ移ってしまい消滅するケースも多かったかもしれません。今では”炎上”の話題はあっという間にネット上を駆け巡り、関係のない人々まで『どこかで”炎上”しているページがあるらしいぞ』と知り、その話題のページに訪れる。それからコメントに加わり、益々、火に油を注ぐ状況が作り出される。それまでのタイムラグはだいたい長くて数時間のようです。それから、そのページは書かれた方の謝罪か、あるいはブログやSNSからの撤退、閉鎖、放置という結果になって、やっと”鎮火”するということになるようです。
私の事で恐縮ですが、やはり無意識のうちに書いてしまった表現が、某地方紙に載って抗議のお手紙を頂いたことがあります。それは、ある映画評のコラムの中で、作品に登場する決断力のない男性のことを、「?の腐ったような奴」と書いてしまったのです。すると数通の抗議の手紙。くださったのは達筆の女性の方ばかりでした。私は女性を侮辱したつもりもなく書いてしまったので、傷つけてしまったら申し訳ないと謝罪の手紙を出したことを記憶しています。そして、表現には気をつけないといろんな受け取り方をする方がいるのだからと肝に銘じたものです。現代なら、”炎上”ものだったのでは、とよく連想するのです。
時は流れ、抗議のお手紙を頂いて十数年が経過して、目を疑う表現を目にしました。それは”腐女子”という人々の存在です。
まさか?いったいどんな人々?
婦女子ではなく、腐女子?
よく、わからない。ずぶずぶと融けていく発酵人間みたいな連想。こんな表現、OK?
しかし、いろいろ調べてみてわかりました。美少年同士が愛しあう世界をフィクションとして描いたもの。アニメやコミックやらも。それをBL(ボーイズラブ)というらしいんですが、そんな作品群を愛してやまない女性たちがいて、そんな女性たちは自分たちのことを自虐的に”腐女子”と呼んでいることを知りました。「こんな作品が好きな私たちって腐ってるかも」ということのようですね。
世の中はいろんな進歩を遂げているんですねぇ。だから、腐女子たちが、自分たちのことを腐女子としてブログやSNSで公言しても”炎上”することはなく………。
ところが、驚いたのは、中国でBL小説を書いてネット発表をしていた若い女性が二十名も、最近逮捕されたというんですね。「耽美小説網」というページの関係者たちですが、「同性愛等の淫乱な内容を掲載した」という理由だそうです。写真で見る限り、どこにでもいそうな内気そうなお姉さんたちが逮捕されている。日本でBLを読む男って限られていると思うし、女性の妄想の世界が描かれている。だから風紀を乱すことには繋がらないと思うんですが。
中国はネット炎上より、当局による逮捕が先というのは怖いですねぇ。
腐女子逮捕に前後して、中国ではタイムトラベルのフィクッションも、「真面目な歴史を浅はかに扱う」という理由で禁止の流れがあるとのこと。
タイムトラベル話も禁止されるなんて、ネット炎上も怖いけれど、こちらも怖いなあ。
第114回 夢のSTAP細胞
1月末のことです。聞きなれないSTAP細胞という言葉を耳にしたのは。STAP細胞というのは、刺激惹起性多能性獲得細胞の英語の頭文字をとったものでした。動物の体細胞に刺激を与えて万能細胞化する、という研究結果が発表されたというニュースでした。
私は科学に疎いので、報道が加熱しているのを見て、これは凄い大発見なのだと受け取っていましたが、具体的にSTAP細胞がどう凄いのかはピンと来ないままでありました。これまで聞かされていたIPS細胞発見にも匹敵するできごとという印象です。報道でも、この発見はノーベル賞も夢ではないのではないかという煽りっぷりでした。
発見者は、理化学研究所チーム、ハーバード大のチャールズ・バカンテ教授、山梨大学の若山教授たち、ということになっています。
中でもマスコミの報道の中心となったのは、理化学研究所のチームリーダーであった小保方晴子さんでした。STAP細胞といえば小保方さん、というセット報道になっていたのでは?たしかに意外でした。「世紀の大発見」の中心にいるのが、このように若くて魅力的な女性だったということが。それからは、STAP細胞がどのような細胞か?という報道よりも、世紀の大発見をした小保方さんとは、どんな経歴でどのような女性かという報道ばかりが膨張していきました。
リケジョ(理系女子)と持て囃され、彼女の趣味や生活まで取り上げられました。研究実験の時は割烹着を身につけている。ムーミンが大好き。いつも笑顔を絶やさない様子に、私も小保方さんのファンになってしまいました。
ところが、3月の中旬になって、STAP細胞の報道に”あれれ?”の変化が現れたのです。若山教授が論文取り下げを他の研究者たちに呼びかけた時期からの急展開でした。それからSTAP細胞の真実より優先して、報道の矢面に立っていた小保方さんの粗探しが目立つようになりました。写真の使い回しや、論文内のコピペ疑惑やら。
報道の全てが、ワイドショー化しているなと思えてなりませんでした。ニュースのネタになりそうだと興味を惹きそうな部分だけを抽出して、持ち上げるだけ持ち上げて奈落に突き落とすような。あたかも小保方さん一人が捏造犯人のような扱いで。
でも、小保方さんファンとなった私は、まだSTAP細胞の真実は見えてない気がしてならないのです。
そんなある日。
朝方のことですが、仕事場のゴミを捨てに降りると、階段横に女性がうずくまっていました。近づくと女性は意識がないようです。
これは放っとけないと私は女性の肩を揺すりました。
「あのー。もし。大丈夫ですか?」
しかし、返事がありません。そこで、気が付きました。顔色こそ蒼ざめているけれど、若くて魅力的なこの女性は、小保方さんなのだと。
救急車を呼ぶべきなのだろうか?よりによってなぜこのような場所に彼女がうずくまっていたのかわかりません。しかし、このまま放っておくわけにはいきません。私は、彼女を仕事場に連れ帰りました。
酷い熱でしたが、私は必死で介抱しました。やがて、彼女はやっと意識を取り戻すことができました。
それから、私は小保方さんが元気を取り戻すことを祈りながら世話を続けました。そして、やっと立ち上がることができるほどに元気になったのです。
「あなたが私のことを助けてくれたのですね。ありがとうございます」
「いえ、いえ。気になさることはありませんよ。私は当然のことをやったまでですから」
「しかし、それでは私の気が済みません。何かお礼をしないと」
そう言うと、彼女は割烹着をどこからともなく取り出すと身に着けました。それからキッチンに立って何やら作り始めました。
しばらくして、彼女はお椀を私に差し出したのです。
「お味噌汁を作りました。召し上がってみていただけませんか?」
それは本当にいい香りでした。私には断る理由がありません。
「ありがとうございます。いただきます」
ひとくち食べると、何とも言えず美味しい。こんな美味しい味噌汁は食べたことがありません。そこで、よく見ると、味噌汁の実は見たことのない緑色の丸いものでした。それがいくつも入っている。そして、生きているかのように汁の中を動いているのです。その緑の丸いものが美味しいのだとわかりました。
「この、入っているものは何ですか?」
私が尋ねると小保方さんはニッコリ笑って、
「STAP細胞です。いかがですか?」
「えっ。STAP細胞ですか。やっぱりできていたんですねぇ。美味しいなあ」
そう言ったら、これは”夢”なんだ、と気が付き目が覚めました。
幸せな夢を見たなあ。
第113回 ゴミ戦争がやってくる!
いつの頃からでしょうね。私の住んでいる町のゴミ出しルールがこれほど厳密になったのは。昔は、おおらかでした。ゴミ収集日に家庭ゴミを一緒くたにして透明なビニール袋に詰めて、朝から収集場所に出しておくというものだったなあ。
その頃から、朝のゴミ出し担当は我が家では私でした。だから、資源物の空き瓶や缶の日は何曜日?古新聞や雑誌はいつ?くらいの分別は認識しておりました。いつの頃からかなあ、ゴミ出しルールがパズル化し始めたのは?
ゴミ袋が有料化し始めたあたりからのような気がします。確か、理由はゴミ処理のコストを下げなくてはならないと行政あたりが言い出したからではなかったかなあ。
そう。ゴミの種類によってゴミを出す日が分れるようになりました。全部燃えるゴミと思っていたらプラスチックは違います、とか。ペットボトルだけは別の日に、とか。紙類だから燃えるゴミの日に出してもいいだろう、と思っていると、名刺サイズより大きい大きい紙は、紙類の収集日にまとめて出さなくてはならない、と。しかも、その頃からゴミで出せないものも出現するようになりました。大型ゴミです。大型ゴミとは45 この頃から、燃えるゴミは有料のゴミ袋に。埋め立てゴミは、埋め立て有料ゴミ袋に。
そして行政から家庭にゴミカレンダーが送られてきます。で、ゴミを出せる日は決まっているのです。埋め立て有料ゴミは2週に1回。そして、ペットボトルも空き缶、空き瓶も隔週。しかも、自宅から離れた収集場所へ運ばなければなりません。
なんとか、そんなゴミ出しルールを覚えたのですが、それでも判断に困ってしまうことはしょっちゅう。ペットボトルに蓋やラベルをつけたまま出して、近所の人に注意されたり。庭の木の葉をいつ出すべきかと悩んだり、古いビデオテープは、どの日に出せばいいんだ?といった具合。まさにパズルなんです。いや、今では、ちゃんとわかるようになりましたよ。
ゴミ収集日には行政の収集車がやってくるのですが、これが結構厳密で、規定の有料ゴミ袋入っていないと「ルール違反です」のシールを貼って持って行ってくれない。だから、ゴミ収集車がちゃんと持って行ってくれると、「ああ、あの判断で正しかったんだ」とほっとする小心者の私なのであります。この「ルール違反です」シールは、違反状況もチェックされていて、ゴミ出し日が違う!とか大型ゴミだ!とか書かれている。普通の神経なら置いていかれたゴミを出した方は「間違っていたのか」とそのゴミを引き取る筈ですが、そのまま放置される非常識な方もいます。他にも非常識な人といえば、宅配ピザの箱をむき出しのまま、ポーンと置き去りにしていたり。町内の方が、ゴミ収集所で指導しておられる姿を見かけたりもするのですが、それでも四六時中見張っているわけにもいかないので、夜明け前とかにルール無視のゴミが置き去りにされているのを見かけます。それも有料シールが必要な大型ゴミだったり。確信犯だな、と思ったり。
まあ、このゴミ処理に付いてのコストは上がり続けるでしょうね。とすると、住民のゴミ処理費用も負担が大きくなって行くんだろうな。人間は生きていく上で必然的にゴミを生産してしまう。最終的にはどうなるんでしょう。これからは、ゴミ本位制の社会というのもアリかなと夢想してしまいます。その社会での地位は、どれだけのゴミを処分できるかの資格によって決まる、といったもの。セレブでないとゴミが出せない。一般人のゴミの廃棄量は決まっていて。捨てたければゴミ廃棄権を売買する、みたいになったらどうだろう。貧しい人は家庭ゴミが捨てられず家の中はゴミだらけに。仕方ないから夜中にゴミを持ち出し、他人の家に放り込んで来る。ゴミ防衛のため、ゴミを放り込みに来たものに対しては、銃器を使って投棄を止めさせることも許されるようになる。……ゴミ戦争の世界ですね。ゴミを棄てるか殺られるか!怖そうだなあ。
焼却できるゴミの総量が家庭毎に規定されても、優先的に焼却できる事情も出てくるんではないかな。例えば不幸があった場合、遺体を焼く権利は与えられるとか。
そんなときは棺桶を二重底にして、そこにゴミを詰める空間を確保して、その空間のゴミ焼却権を売買する……みたいな状況も発生したら、怖いなあ。いや、もちろん、想像上のお遊びです。私の住まいの周りの状況を参考にはしましたが。
同じ熊本の田舎町でバーベキューに参加したとき。何でもかんでも同じゴミ袋の中にゴミを放り込んでいるのを目撃しました。
「えーっ。分別しないでいいのですか?」と驚いて尋ねると、「いやあ、こちらは分別かと何も言われませんよ」との返事。
そうか。所変わればルールも変わるのか。いいなあ。と思いましたが、いづれ、ここも私の町のようなゴミ分別ルールが始まると思いますよ。
第112回 ショートショートを書いてきた…。
長編小説を書いていて、その合間にショートショートを書かなければならなくなると、思考のモードを慌てて切り替えなくてはならず、焦ってしまいます。それまで、物語のリズムの中で登場人物たちの性格を表現するような会話を考えつつ進めていて、ふと引き受けていたショートショートの納期を思い出し、慌てて手を付けるわけです。小説を書くことを生業としていると、ショートショートの注文を受けたときから、頭の中で予備スイッチが入ります。机に向かって書き始めると、すらすら話が出てくるのですか。と、よく質問を受けるのですが、そんなことはありません。もしも机に向かっただけでアイデアが次々に湧いてくる方がいたのであれば、私はその方が羨ましくて仕方ありません。予備スイッチが入るといっても、すぐに必死でショートショートのアイデアを考えるというわけではなく、しかし、心の深いところでもやもやと燻り続けることになります。良くしたもので納期が近づくと、いくつかのアイデアが脳裏に生まれている。もちろん、ぼんやりとしたアイデアだけなので、これを膨らませてショートショートに加工しなければならないわけですが。
私にとっては、SFとの出会いとショートショートとの出会いはほぼ同時期です。どちらも小学六年から中一にかけてでした。で、ショートショートは星新一さんの「人造美人」あたりでした。小学生高学年にとって、星新一さんのショートショートは本当にびっくりでした。何より、数ページのお話の中に奇想天外が詰まっている。宇宙人や未来の機械や不思議な出来事が書かれている。吸い込まれるように読み進めていると、あと数行で話が終わろうとするときに、予想もできなかった、驚きの落とし穴が仕掛けられているのですから。
その頃、私は毎月SFマガジンを買って読んでいたのですが、掲載されていたのは海外の名作短編が多かった。ロバート・シェクリーやらフレデリック・ブラウンやらクラークにハインライン。そして星新一さんとこれらの作品群の共通点に気がつきました。言われてみて初めて、成る程!と思える奇抜な発想と、その奇抜さの物語の果てに待ち受けている予想もできないオチです。海外のSF名作短編をわかりやすい言葉で短いページ数にまとめると星新一さんのショートショートになるのではないか。かくして、私はSF短編と星ショートショートの面白さにのめり込んでいったわけです。さて、この頃は今で言う厨二病まっただ中にあったわけです。面白いマンガに出会い、熱中すると、このくらいのマンガなら自分にも描けるのではないか!そう思い込んで、Gペンやら黒インクやら模造紙やらを買ってきてマンガを描き始めたものです。このときは、とりあえず8ページのマンガを描き上げ、あまりの才能の欠落っぷりに絶望して、マンガ道具全てを捨ててしまいましたが。厨二病はマンガだけでなく、小説でも発病したわけで。ただ、通常の海外短編は量も結構ある。原稿用紙数10枚の短編を描く根性も自信もない。しかし、名作海外SF短編(!?)なら自分にも書けるのではないかという思い込みが、私の脳裏で沸々と煮えたぎっていたのでありました。ただ、途中まで書いていて、中学生だから途中で書くことに退屈してしまうのではないか?という恐れが生じ。ならば、どうすればいい?と、いうことで、名作海外SF短編(!?)を書くことを一時棚上げして、「ショートショートなら短いから僕にも書けるにちがいない」と挑戦したのです。書いた。書いた。良くもこんなに書けたものだと自分で感心するほど。ショートショートは数枚から15枚くらいの長さですが、そのようなルールはおかまいなし。原稿用紙1枚もないようなものから、2~3枚のものまで、何作書き散らかしたかわからないほど書きました。今思えば、よくもあれだけのショートショートを書いたな、という感想。だからといって傑作を書いたわけではなく、量を書いたということ。数年前に、その頃書いたショートショートが机の隅から出てきたことがありましたが、熊本弁は混ざるは、1人称が突然途中で3人称に変わるは、誤字と脱字だらけだし。ひどいものです。しかしひたすら書き続けたことが効を奏したのでしょう。好きこそものの上手なれと言いますか。なんとなくショートショートの書き方は獲得した気分になっていたのです。ただ、普通の短編とショートショートは大きく違う。ショートショートはプロット優先で結末になだれ込むものだという気がします。だから、どの結末を選択するかで、途中の経過でひたすら注意を払った書き方をします。
短編「美亜へ贈る真珠」以降はあまりショートショートを書かなくなったなぁ。今回は久々にショートショートを書いているわけですが、しばらく書いていないから、登場人物に妙に心理描写を入れたり、短編の書き方になってしまう。スイッチが切り替わっていないんだなぁ。
私、飛行機が大嫌いだと、このコラムでも書きましたよね。これから墜落しようとする飛行機の中にいる自分を想像すると嫌なんだよね。そう言ったら、家内が「墜落すると思ったら、残り時間でペンと原稿用紙を取り出してショートショートを書きなさい!遺作のショートショートなら、ひょっとして高く買ってくれるかもしれないし」と。次、飛行機に乗るときまでには、ショートショートの書き方のコツを思い出して、頭の切り替えができるようになっておかなくてはなぁ。