カジシンエッセイ

第65回「小説のネタ」

2010.04.01

小説のネタは、どこから探すのですか、という質問は珍しくありません。
そういうときは、どんな小説のネタについてですか?と訊ねかえすこともあります。
別に、小説のネタを探す場所というのは、ありませんし、思いつく経過が、その作品によって、まったく異なるからです。
短編であれば苦労せずに書き始めたこともあります。たとえば昨年の暮れに、編集さんとメールのやりとりをしたとき。
-新年号の40枚くらいの短編お願いします。正月号だから、おめでたい感じのお話だといいのですが。
-わかりました。おめでたい感じですね。考えてみます。
それで、おめでたいんであれば、福の神かなぁ、という連想が浮かび、福の神の対極として貧乏神が浮かびます。
その頃、巷は、新型インフルエンザ騒ぎで、誰もがナーバスになっていた時期だったのですが。
で、まあ、三題噺でインフルエンザ、福の神、お正月をくっつけてみようというのが「福の神いんへるの」という作品でした。
三つの題材がメールを送った瞬間に、するするするっと、自動的にくっついて一つのお話になってしまいました。
まさにラッキー。なんの苦労もなしに。
こんなことは、なかなかない。棚からボタ餅が落ちてきたようなものです。だからといって、傑作ができるわけではありませんが。
さて、長編では、こんなふうにいく筈もない。

最近二冊の本を書きました。
一冊は、同一テーマの連作で「メモリーラボへようこそ」(平凡社)です。
こちらは、まずメモリーラボという記憶移植の研究所の設定からスタートしています。そして、メモリーラボという基本設定に至るまでに、初出発表の雑誌の読者層を思い描きました。高い年齢層によく読まれているらしい。そんな読者に喜ばれる話ってどんなんだろうと思い描きました。
若いときに、あんなことをやっておけばよかった。こんなことをやりたかったのに。
そんなことを考えるのではなかろうか。
それは、つまり、実体験を"おもいで"として心に持ちたかったということではないのだろうか。何も楽しいおもいでのない人って、それは淋しいことにちがいないから。
もし、そんな人に"おもいで"を与えることができたら。
それが、妄想を膨らませながら、たどり着いたアイデアだったのです。だから、基本アイデアにたどり着いたら、いくつものバリエーションが溢れ出てきました。
この本には二作品しか載っていませんが、同時に、物語があと二作品浮かんだ程ですから。
もう一作「ボクハ・ココニ・イマス 消失刑」(光文社刊)は、仕事の合間に町に出かけた体験が、原点になっています。
そのとき号外を配っていて、その号外を貰おうと思って近づいていくと、こちらに渡してくれずにくるりと踵を返して他の人に配り始める。
呆れて通りに戻ると、テレビのインタビューをやっていました。そのインタビューが、丁度終わり、記者が次にこちらに近づいてくるので、あ!インタビューされるんだ!と思ったら、前を通り過ぎて、私の背後を歩いていた人にマイクを向けた!
人々に、私は見えないのか?
どうして私だけ無視するんだ!
何か、人と違うんだろうか?
そのとき思いついたのが、この本のタイトルにもなった消失刑です。
町を自由に歩き回れるけれど、他の人々には見えないし、話しかけることもできない刑罰があったらすごいだろうな、と思い、小説になるのではなかろうか?と。
これは、実体験から思いついた小説のネタです。
しかし、これだけでは長編小説にはなりません。こんな刑罰は存在しないわけだから、それをいかにも、まことしやかに語るためにはどうするかを考えるのに、それからかなりの時間を必要としました。
具体的な刑罰の条件付け。物語としての面白さを加えるための予想しづらい障害づくりとプロットとしての山場。
で、娯楽小説だから、登場人物の彩りも考えて。で、ハッピーエンド至上主義の私としては、どのような結論を選ぶべきなのか?
そんなこんなを、表にしてから書き始めました。だから、小説家というより、工程表通りに進める筆の土建屋に近いかなと思ったりもするのです。
次の長編は、また違った組み立て方をやろうと思ってますが。

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