カジシンエッセイ

第36回「アリンコ包囲網」

2007.11.01

発端は、近所の蕎麦屋で昼飯を食べているときだった。
何やら首筋を這いまわっている気がする。いわゆる蟻走感というやつである。
何かがいる。虫のようなものが。
首に手を当ててみる。
手の中にいたのは、小さなアリンコだった。
もう秋である。それに、こんな街中の蕎麦屋に出現するなんて。
アリンコだったことで、とりあえずホッとする。ひょっとしたら、何かの禁断症状かと思ったから。更年期障害の症状の一つとしても蟻走感があるわけだし。ある種の知覚神経障害を起こしていたらと思ったのは事実。
それが、本当にアリンコだったこと。
よかった、よかった。何も薬物は使っていないからからナァ。

で、せっかく、この世に生を受けたのだから、と潰すにしのびず、テーブルの端にアリンコを放してやった。
そのまま仕事に戻って、執筆を続ける。
そして、夕方。左腕でまたしても蟻走感が。
あわてて、見る。
なんとアリンコがまたしても!
私の仕事場はマンションの三階にある。これまで蟻が現れたことはない。
何故だ?
アリンコを、よく観察する。さっき、蕎麦屋で首筋を這っていた蟻と同じように見えて仕方がない。
これは偶然だろうか?
私を慕って、蕎麦屋から私の服にくっついて仕事場までやってきたというのだろうか。
真実はわからなかったが、アリンコは潰さずに、ベランダへ放してやった
さっさと家へ帰れよ、と。
その翌日。
仕事をしていると、またしても首筋に蟻走感が!
手をあててみる。
なんと!
またしても同じアリンコ。形もサイズも、前日のアリンコとまったく同じ。
ということは、前日ベランダに放したアリンコ?
やはり、慕われている!
これほど執念深いとは。アリの深情けだ。
怖くなり、慌てて今度は隣の部屋のベランダに放してやる。その位置からは飛び越えてはこられない筈だ。
何故、ここ迄しつこくつきまとわれるのかが、わからない。
机に戻って、ふと思った。これまでのアリンコは、実在したのだろうか?
ひょっとして、蟻走感だけが本物で、逃してやったアリンコたちは幻覚ではなかったのだろうか?
そんな思いに駆られて、不安を抱えたまま自宅へ帰る。
これで、明日またあのアリンコが出てきたらどうしましょ。
夕食どきのことである。
「変なことがあるのよね」
家人が言う。
「何でしょうか?」と訊ねる。
「朝、掃除していたら、お父さんが寝ていた場所に、蟻がいっぱいいたんだよねぇ」
げえっ。
もちろん、アリンコの話は一言もしていない。何やらアリンコに呪われているのではないか‥‥。
ぞっと、寒気がしてきた。偶然ではなかったのだ。何故かわからないが、私はアリンコ包囲網の中にいたらしい。
ただ、これまで見ていたアリンコが幻覚でなかったことだけは確認できた。
ただ、正体のわからない何かの意志を感じつつ。
それ以来、アリンコにまつわる現象はぴたりと止んでいる。
何故かということはわからない。いろいろと、想像はするのだが。
たとえば、アリンコが喜ぶ“性フェロモン”を私は分泌するような体質になっていたのかもしれない、と。あるいは、糖尿病体質になって私の出す排出物(汗やら何やら)に惹かれて寄ってきたというのだろうか?(これは、厭な可能性である)
原因は謎のままである。それ以上、アリンコ現象が続いているわけではないから、よしとすることにしよう。
願わくば、逃してやったアリンコさんたちが、きれいな女の人になって戻ってきて「命を助けてくれた恩返しをさせてください」と言ってくれないかなあ、‥‥ってことだけである。

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