カジシンエッセイ

第71回「きのこ道楽」

2010.10.01

そろそろキノコ刈りの時期だなあ。夜風が頬にあたり肌寒さを感じると、わくわくするのです。
秋は、ほとんど仕事になりません。いや、仕事をやろうと思っても、頭の中では、キノコのことを考えているのです。
今ごろ、あの渓谷のあの倒木には、もうムキタケが付いている頃かなあ、とか、去年はあの山へは行けなかったなあ。あの山の斜面でびっしりとリンクをなすハエトリシメジは、誰にも知られず朽ち果ててしまったのかしら。なんと可哀想なことをしたのだろう、と。
そんな風にキノコのことを考えつつトイレに立ち、鏡の中の自分の顔を見ると、本当に哀れな顔をしていて、我ながら愕然とするのです。
これはいけない!精神衛生上、よろしくない。
そんな結論を出して、秋はいつでもキノコ採りに出勤できるように、仕事を前倒しにしてでも進めておくのです。
そんな私は、キノコ研究が趣味なのですか?と訊ねられますが、「ちがいます!」と断言します。

キノコは趣味ですが、研究はしません。とにかく、山に入ってキノコを探します。
それも、おいしそうな食べられるキノコばかり。
野蛮です。そして、根性がねじ曲がっています。
なぜかというと、キノコは魚釣りのように一度釣れたところに、また魚がやって来るということはありません。一度採ると、そこからキノコが消滅するのです。
だから、他人が山に入る前に、一刻も早くキノコを採り尽くしておく必要がある。
熊本ではキノコ採りというのはマイナーな趣味ですが、それでも他にキノコ採りがいないというわけではない。
噂話や世間話の中で、ちらとキノコという単語が聞こえてきたら、もう耳はダンボ状態であります。そして……。
ーどこそこの山に、いつの何時頃から、誰たちと、どんなキノコを採りに行く。そんな情報を仕入れたら、何食わぬ顔で立ち去り、作戦を練ります。その一日前、あるいは数時間前に、その場所に訪れ、採って採って採り尽くす。
その跡は、焦土と化したかのように、食菌はきれいさっぱりとありません。もちろん、不食のキノコや毒キノコ、食用でも老菌などは、残しておきますが。
一度など、登山口に戻ってくると、これからキノコを採りに山に入ろうとする子ども会の団体とすれ違いました。
私はキノコ籠いっぱいのキノコを採っておりましたが、リュックの中に隠しておいたので気がつかれなかった筈です。それから山中に入っても、キノコの山には毒キノコしかないと失望して戻ってくるんでありましょうな。
うひひひひ。
おっと、だから根性がねじ曲がっているのが自分で厭になるわけでもあります。もっとも、そこを直そうとも思いませんが。だから、絶対に私がふだんキノコ採りに行く場所は教えません。
ただ、例外的なことも、いくつかあります。日頃、私は顔写真を出さないし、テレビもお断りしていました。
しかし、秋のこの時期にキノコ採りの番組であれば出演をお受けすることにしました。何故かというと、お仕事をしながら趣味も満喫できるということで。わはは。いい加減!
ただし、場所は、どこだと特定できなようにお願いしています。どうしても場所が必要な場合は、“九州の真ん中あたり”という程度の表現にとどめておいて頂くことにしとります。今年も11月あたりに放送になるかと。(某国営放送ですが)
さて、脳天気、好き勝手に秋にはキノコ採りに出かけていて、適当な奴だなあと思われるかもしれませんが、神さまはちゃんと世の中のバランスをとっているんです。そのことは、書いておこう。
何の因果か、私の孫は食べものの好き嫌いはほとんどないんだが、唯一、嫌いなものがあります。
カンの鋭いあなたは、すでにおわかりでしょう。よりによって、料理の中に入っているキノコを選り分けて箸で取り出すくらい、キノコが大っ嫌いだと。
どうしてなのだ。キノコが嫌いな理由は何だと問い詰めるのだけれど、理由なんかない、嫌いなものは嫌いだ、と。
何を連想したかというと、あるフレーズです。
ー親の因果が子に報い、生まれ落ちたる、この……。
つまり祖父があまりにキノコを採り尽くすのを見かねた神さまが、「祖父の因果を孫に与えた」のだと。
大丈夫。私のキノコ佃煮を心待ちにしている人々が何人もいるのだから。
 

カテゴリー:食に夢中

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