カジシンエッセイ

第117回 祖母山のできごと

2014.08.01

 今年の盆休みの予定は何も決めていなかったのだが、山歩きをする友人が声をかけてくれた。
「祖母山の日の出を見ようということになったのだが、お前もどうだ」と。
 八月十三日の午後から、五カ所の北谷登山口から登り始めよう、ということだった。千間平から三県境、国見峠を越えて山頂へ至るコースだ。
 標高は一七五七メートルある。日本百名山にも名を連ねている。五月のツクシアケボノや六月下旬のオオヤマレンゲの時期には一人で登ったりしていたが、夏にはあまり登った記憶がない。山の名は神武天皇の祖母である豊玉姫が祀られていることに由来するらしい。
「下界は暑いだろう。九合目小屋でゆっくり酒でも飲みながら馬鹿話でもやろうぜ、ということになったんだ。一緒にどうだ。納涼登山だな」
 悪いアイデアではないように思えた。むさ苦しい男たちばかりなのは仕方ないが、楽しいときを過ごせそうな気がした。晴れた夜空を眺めれば、満天の星にも出会えそうだった。
 九合目にある小屋は、トイレ付きだし、予約すればビールも用意しておいてくれる。宿泊費二千円で十分楽しめるに違いない。
「わかった。ぼくも連れて行ってくれよ」
 熊本市を朝の十時に出発して、のんびり登ろう。一旦山頂まで行って九合目小屋まで下ってきてから、ぼちぼち宴会をやろう。メンバーは六名ほどだからにぎやかになるぞ、ということだった。登山口までも友人が乗せていってくれる。
 ...ところが、予想外の出来事が。行く日の朝、上司から連絡があった。得意先でクレームが発生したという。処理にあたってくれと。
 仕事だから仕方がない。緊急を要する事案だった。うまくいけば午前中にはクレーム処理は終わりそうだと踏んだ。
 友人に連絡した。「先に行っておいてくれ。終わり次第追いかけるから」
 ところが、予想外に時間を取られ、解放されたのは夕方近くだった。慌てて自分の車で祖母山北谷登山口を目指そうと思った。もう皆は山小屋に着いている頃かと時計を見て思う。すると友人から電話が。
「もう、宴会始めるよ。早く来い。それから、山に入る前に刺身を買ってきてくれ。皆、刺身を食べたがっている」
「わかった。もう、こちらを出るから」
 山の上で刺身を食べるなんて、と首をひねった。酒さえあれば肴はなんでもいいだろうに。しかし、魚屋に行って刺身を多めに用意してもらった。
 市内を出るまでに故郷への帰省ラッシュに巻き込まれ、登山口に到着したのは夜の六時を回っていた。
 歩き始めた。山小屋まで三時間か。最初はまだ明るかった。しかし、日没とともに辺りは暗くなる。七時半を過ぎた頃、千間平の広場に着いたが、もう真っ暗だ。曇っていたので星も見えない。ヘッドランプを頭に付けて歩くことにした。少なくとも道を見失うことはないだろう。だが、ライトの光量が少ない。不安にかられながらも、歩き続ける。すると電池が切れかけていたらしい。ついてない。数分で目の前が真っ暗になってしまった。あと一時間半は暗い中を歩かねばならない。心細いが、ひたすら前進するしかない。
 三県境から国観峠を過ぎた。何度も登った山だから暗くても道はわかる。樹々の中を黙々と歩く。そのとき、気配を感じた。いったい、何の気配だろう。ひたひたと、すぐ後をついてくる。立ち止まって振り返った。何もいない。音もない。気のせいだろうか。再び歩き始めた。気配を再び感じた。確かに何かがいる。姿は見えないが。また立ち止まる。
 がさりと草を踏む音が聞こえて音が止まった。確かに聞こえた。気のせいじゃない。
 急ぎ足で進む。尾いてくる。気配が。ひたひたひた。右後方だったり、左前方に回り込むようだったり。
 獣だろうか?犬?まさか狼?人ではないと思えた。とにかく執拗だ。いったい何の用があるのだ。もしかして襲おうとしているのか?
 立ち止まる。息が切れたからだ。気配も止まった。低い唸り声のようなものが聞こえた。物の怪なのか?
 何度か夜の山道を歩いたことはあったが、こんなことはなかった。何故に今日は...。
 ふと思い当たった。奴らは刺身を狙っているのだ。そして何とか奪おうと隙をうかがっている。山小屋まであと三十分はかかる。殺気があった。飛びかかってきそうな気配もあった。こいつ等手段を選ばない。
 リュックから刺身を出して、できるだけ遠くに投げた。背に腹は代えられない。
 はっきりとわかった。いくつかの気配が刺身を追っていく。激しく奪い合う音と呻きと唸りが聞こえた。
 鳥肌が立ち、登山道を無我夢中で走るように登った。奴らはいったい何だったのか。もう尾いて来ない。気配は消えた。
 やっと、九合目山小屋に着いた。中に入ると山仲間がいい機嫌で酒を酌み交わしていた。こちらのパニック状態も知らずに「遅かったな」と。山道での出来事を話した。正体のわからない連中のことを。だから電話で頼まれた刺身を持って来れなかったと。すると刺身を頼んだ男が不思議そうに言った。
「何を言ってる。携帯電話は圏外だぞ、ここは。刺身を頼むどころか電話なんか、かけられないよ」
 とすると、あの電話は......。

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