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News - 2026.06.01

第260回 悲しき雨音

 彼は、その部屋で今年から暮らし始めた。平凡は部屋だが、静かだ。それに昼間は明るい。彼の趣味は二十一世紀になってほぼ使われなくなったモールス信号の解読だ。すべての通信機が使用不能になったときに使われるくらいだと知っているが、それでもモールス信号に彼はロマンを感じてしまう。そのロマンのために彼はモールス信号を暗記する。
 その彼が、夜、眠ろうとする。灯りを消した。雨音が、かすかに聞こえた。梅雨の季節。
 だが、部屋の中にいて、外の雨音が聞こえてくるというのは少し不思議だ。
 彼はそう考えると、屋根にあたる雨音が気になり始めた。ふと、あることに気がついたのは、モールス信号に対して人一倍、興味を持っているからだろうか。
――トン・トン・トン
――ツー・ツー・ツー
――トン・トン・トン
 彼は頭を振る。自分の耳がおかしいのだろうか?いや、ちがう。偶然でもない。このリズム。聞き覚えある。彼は、かえって目が冴える。本当なら規則的な音で深い睡眠に没入する筈が。
 気になった理由を彼は悟る。これは一番有名なモールス信号。彼でなくても誰でも知っている。
 トン・トン・トンはS
 ツー・ツー・ツーはO
 つまりS・O・S
 何がS・O・Sなのだ。助けを求めているという意味だと、彼は思う。
 いや、いや、と彼は首を振る。これは雨音にすぎない。規則的な雨音が生んだ妄想だ。
 誰も、こんな話、信じてはくれない。
 彼は灯をつけ正座した。すると、SOSの雨音のリズムが変った。何だっけ、このリズム。
 助けを求めているのは、いったい誰だ。耳をすませた。わかった。
 キ・コ・エ・ル・カ?
「聞こえる」
 思わず、彼は返事を口にした。
 ヨカッタ
「えー」と彼は思わず漏らす。
 彼の背筋が冷たくなる。雨との会話が奇妙な形で成立しているからだ。だが驚きは、それだけでは終らない。
 意外な言葉が雨から続く。
 ニゲロ
「え…え…?!」
 ニゲロ
 コノアメカラ ニゲロ
 意味が分からない。外は不規則な雨音が続く。彼は自分の耳を疑う。
「これは、梅雨の長雨にすぎないんだろう」
 不規則な雨音だけの筈なのに、唐突にモールス信号が混じる。彼は、それに雨の必死さを感じる。やはり変だ。
 サイショハ ワタシタチノトキトオナジダ
 ハジメハ フツウノアメダッタ
 彼は嫌な予感がする。雨は何を言いだす。
 ダガ スコシヅツ アメガカワッタ
 ぽたり。
 天井がある筈なのに、ぽたりと、彼の腕に落ちてきた。彼は自分の腕を見る。
 濡れていた。水滴で。窓も閉まっているというのに。
 ソシテ キヅイタトキニハ
 ぽたり。次の一滴が彼の頬にあたる。そしてぽたり。その音が彼の耳にはやけに大きくなっている。
 モドレナク ナッテイル
「何に戻れない。何を言っているんだ」
 彼の声は大きくなっている。
 ダカラハジメ二 SOS ヲダシタ
 アレハ キミガ キズクタメノ SOS
 そこで、彼は気づく。あれは彼が発信すべきSOSだったのだと。それを知らせる…。
 ダレカニ トドクノヲ イノッテ
 ソシテ キミガ コタエタ
 彼の心臓は、激しく鳴り始める。雨は今は静かに、単調に、降り続く。
 コタエタ トキニ ツナガッタ
 繋がった?何が?彼は窓の外を見る。
 コチラ ト ソチラ ガ
 彼は理解する。雨が伝えたかったことを。何を言いたかったのかを。
 ダカラ ニゲロト イッタ
 SOSは救いを求める信号ではなかった。誰もが気づく筈の意味あるリズム。
 それは繋がるための“回線”だったのだ。彼は、伝えようとする誰かが誰なのか、まだ理解できていなかった。そして、これからも理解できないだろう。
 雨音が、少しだけやさしくなったように彼には思えた。すべてを諦めたように。
 マニアワナイ オソスギタ
 ぽたり。
 次の瞬間、私の手の輪郭が崩れた。彼の腕から水が滲み出す。
 キミモ コチラニクル
 ああ…と彼は呟く。視界が閉ざされる。
 ぽたり。
 彼は頭を上げる。雨音が変っていた。新しいリズム。すべてが蒼い視界。このリズムは次の誰かに向けた信号だと気づく。
 彼は必死に意識を保ちながら、最後の力で音を刻もうとする。
 これは、誰かを救おうとする信号だ。
――トン・トン・トン
――ツー・ツー・ツー
――トン・トン・トン
 そうか、どこかの誰か。
 決して答えないでくれ。そう彼は願う。

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