Column - 2025.11.01
第253回 願い茸
ある村に仲の良い若夫婦がいた。ヒデとアサだ。朝早くから日暮れまで野良仕事で楽しく働いた。時々、二人して村の市に顔を出し愛嬌を振りまいて作物を売っていた。笑顔の絶えない二人は、これ以上の幸せはないように見えた。
だが悲劇はある日突然にやってきた。村が大雨に襲われた。鉄砲水でアサが流れそうになったとき、アサを救うためにヒデが身代わりとなり亡くなってしまったのだ。
残されたアサの生活は一変した。アサの頬はげっそりと落ち、外にも出られず、日々泣いて暮らすようになった。そして、口を開けば自分の代わりに亡くなった夫のヒデのことばかり。「もう一度、会いたい。私が先に死ねばよかった」と。その様子に隣家の人々も声をかける。「何かわしたちに出来ることはないかねぇ」
するとアサは、つらそうに言った。「もう一度、アサに会いたいです」
隣人の家族は肩をすくめ、眉を寄せあった。
「こればかりはの。死んだ人を生き返らせる方法はないよ」
すると、隣人の妻がこう言った。
「願いをかなえる幻を見せるキノコがあるというよ。村はずれのナバナバ山には秋に何百種類というキノコが生えるけど、その中に願ったものの幻覚を見せてくれるキノコがある、と聞いたことがある。それを探したらどうだ」
アサはかすかな希望を抱いた瞳になった。
「それは、どんなキノコですか?」
「うん。聞いた話だ。死者を蘇らせるキノコじゃない。願う幻覚を見せてくれる願い茸だと。満月の夜、ナバナバ山のドンゾコ谷に一本だけ白く光るキノコが生えるという。それを採って、炙って、願いを唱えながら食べるんだ。一年に一本しか生えないという。見つけられたら、ええな。願いはヒデさんに会えることだな。ひょっとしたら会えるかもしれん。じゃが幻覚のヒデさんだけどな」「ありがとうございます」
キノコの季節、満月の夜、アサはドンゾコ谷へ行った。闇の中に一本だけ白く輝くキノコがあった。アサは歓び、そのキノコを採って持ち帰った。そして聞いたとおり、そのキノコを炙り、食べる。そして夫の名前を口にした。するとアサの周囲の風景が溶け始める。すると目の前に一人の男が立っていた。夫のヒデだった。ヒデはやさしい笑みでアサに言った。「やぁ。なつかしいなぁ。会いに来てくれたのか!」
アサは感動に胸を震わせた。だが、これは現実ではないことも承知していた。これは願い茸が見せる幻覚なのだ、と。しかし「そうよ。とても会いたかったから」と言う。ヒデは嬉しそうに微笑む。気がつくと、あたりは二人の働いていた畑になっているではないか。
「じゃあ、日が高いうちに野良仕事すませるか」とヒデ。「ええ」とアサは答え、かつてのように二人で畑仕事をこなす。あたり前と思っていた時間がこんなに充実した貴重なものだったのだとアサは実感していた。でもこれは願い茸の幻覚だ。現実ではない。するとヒデの表情が変る。
「このくらいかな、アサと過ごせるのは。アサを悲しませたくないが、本当にごめん」とヒデは頭を下げた。「あやまらないで。でも、あなたと一緒にいたい。ナバナバ山には色んなキノコがあるという。そこで苦しまずあなたの所に行ける毒キノコを探してみるわ」
「それは駄目だ」とヒデは言う。「アサは生きろ。私はアサの胸の中に残る。私がいた時のように畑仕事をして好きな唄を口ずさんでいたら、私をまだアサの心の中で感じれる筈だ」ヒデはアサの腕を離そうとした。消えかけながら。アサは必死でヒデの手を握った。
「お願いがあります。だったら、これからあなたが私の胸の中にいるって私に誓って。そして、そのことを私に感じさせていて」
「約束する。アサの胸の中にいると誓うよ」
次の瞬間、夫の姿はどこにもなかった。
それからのこと。村の人々は、彼女が少し変ったことに気がついた。朝から野菜を市に持ってくるとき、以前のような暗さは消えていた。夫を亡くしたときは蒼白かった顔色にも、少しばかり赤みが戻っているようだった。一人でいる彼女の背後に近付くと、彼女の鼻唄さえ聞こえていたほどだ。
隣人たちは、自分たちが願い茸の噂をアサに教えたことなど、もう忘れていた。
隣人たちも、その世代が変り、アサの若い頃のことを知る者もいなくなっていた。
「最近、アサさんはひとりごとが多いのね。隣で聞いて、びっくりしてしまうよ」
若い隣人がそう言うとアサは笑って答えた。
「ああ、昔のことを思い出して話していたのよ。忘れないように」
「誰と?」と尋ねると、女は自分の胸に手をあてて、少し微笑んでみせたという。
若い隣人は、くわしくはよくわからなかったが、一人暮らしのアサが幸せそうなら、それでいいのではないかと納得していたという。
それからアサは日常の生活を続けていた。
月は一つ、また一つと過ぎていきアサの髪に白いものが混じり始めた。夜になると縁側に座り、誰かと話しているかのように、ひとりごとを続けていたという。
隣人が蜜柑を届けると、女は「これはヒデが大好きだったもの」と喜び胸に抱きしめた。
年老いた女はあるとき体調を崩した。隣家の夫婦が介抱しようとしたが女はそれをはっきりと断った。「最後まで私はヒデと一緒にいれてよかった。あの人と寿命を共に終えられるなら幻覚でも本望ですよ」それが最期の言葉だった。遠くの夜空で星が流れた。
山へ入っていった隣人の子が帰ってきたのが、そのときだった。「谷でキノコが光ってたよ。これ!何のキノコだろう。食えるかなぁ?」