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Column - 2021.04.01

第197回 哀しきアムネジア

 最近は、どうも物忘れがひどくなった。人と話をしていて固有名詞が出てこない。俳優や歌手、政治家、ひいては歴史上の人物まで。口許まで出かかっているのだが、言おうとするとどうしても口に出せない。だから、仕方なく「あ・れ・だよ。あれ。あれ」と言ってしまう。場所なら「あそこだよ。だいぶ前に行ったとこ」俳優なら「あの人だよ。よく悪役もやる。あ・の・人」といった感じ。気心の知れた人だと、うまく会話の流れをつかんで「あ、カレーのうまいの食べたところだね。わかる、わかる」という具合に察してくれる。正解は出てこなくても、その場は何とかやり過ごせる。喉元に引っかかったままなのだが、ある瞬間にふっと声が聞こえることがある。そうだったんだ。なんで、こんな簡単なこと思い出せなかったんだろう、と自分が嫌になってしまう。
 固有名詞が思い出せないだけではない。日常生活でも、影響は確実に現れている。
 最近、本を読んでいて活字が読みづらくなった。字のまわりが滲んだように見えるのだ。「老眼鏡を使ってみたらいいと思う」と薦められ、かけるようになった。
 そのとおりだった。劇的に視界が明るくなった。仕事は事務でパソコンを使わず手書きでやっている。だから、仕事にも老眼鏡は効果を上げている。使い始めてよかった。薦めてくれたことに感謝している。
 だが、私はいつでも老眼鏡をかけるわけではない。映画を観に行くときや、テレビを見るときはメガネを使わなくて済む。
 そこで大変なことが起こる。テレビでニュースを見てから書斎へ戻る。そして本を取り出したときに問題は起こる。
 机の上に眼鏡がない。煙のように消えている、あれ、さっき本を読んでいたときは、たしかにここで使っていた。
 それが今はなくなっている。あわてて机のまわりを見る。
 ない。
 机の下も見る。ない。机の横の隙間も覗き込む。ない。ひょっとしたらテレビを観るときに無意識にはずしたとか。
 テレビの部屋に行き隅から隅までチェックするが、ない。消えてしまったのだろうか、とも思う。まるで魔法のように。「そんなときは、顔でも洗ったらいい。ふふ」
 そして、ふと洗面所の鏡の前に着いたときに、眼鏡のありかを知らされることになる。
 老眼鏡は、頭の髪の上にかけられたままになっていたのだ。いくら部屋の中を探しても、出てこないわけだ。
 へなへなと崩れ落ちてしまう。
 きっと、老眼鏡をテレビを観るとき頭にかけたのは、無意識だったのだろう。自分が悲しくなる。似たようなことは携帯電話でも起こる。帰り着いて携帯電話を取り出そうとしてないことに気づく。さんざん部屋中を探すが見つからない。もちろん、バッグの中も探す。出てこない。ひょっとしたら、出先に置き忘れてきたのだろうか?行った先やタクシー会社に電話するが見当たらないという返事が。途方に暮れる。「固定電話から携帯電話にかけてみたらいいよ」といわれる。
 そうだ。その手があったか。あわてて電話してみる。すると…電話の呼出音が鳴り響く。
 なんと電話は私が帰ってきて置いた帽子の下にあった。携帯電話を置いてその上に帽子を無意識にかぶせてしまったらしい。
 冗談にならないくらい物忘れはひどくなっている。健忘症という言い方がある。健やかな物忘れ病となるが、私のじゃない、私のは妄忘病くらいが正しいかな。昨年もそうだ。昼食を終え、仕事場に戻り午後の仕事を始めた。書き損じが出たのであわてて消しゴムで消す。大量の消しカスが出たので、机の上をきれいにするために消しカスを吹く。
 不思議だ。消しカスはそのままだ。首をひねる。「はめたままじゃないか」と言われる。
 なるほど。外出から帰ってからマスクを外さないままでいたのだ。消しゴムのカスが吹き飛ばせない理由がわかった。
 どれも、自分の物忘れが原因だ。
 しかし、いつもかろうじてのところで、大事なことをアドバイスしてくれることに感謝している。やはり持つべきは家族だな。
 その家族が今日は揃ってやってきた。ときには、単独ではなく家族全員で行動することも必要だろう。妻と娘は手分けをして掃除にいそしんでいる。二人が協力しあって作業しているのを見るのは気持ちがいい。母は、その様子をにこにこ笑いながら眺めている。頼まれていたものがやっと揃ったらしく、息子が遅れて到着した。「お待たせぇ。途中、道が混んでいてさぁ」
「さぁ、掃除も終わったし、全員揃ったから」と私はみんなに言った。ライターを探す。あれ?ライターを持ってきた筈なのに。ポケットに入っていない。どうしよう。「ライターなかったから、マッチを持ってきたんじゃないか」といつものように教えられる。その通りだ。小物を入れるバッグの中にマッチを入れてきたのだった。すんでのところでいつも父のアドバイスに教えられる。「始めようか。花を飾って、線香とロウソクに火をつけて」
 そこで、あれ?と思う。なぜ、父が教えてくれるんだ。不思議だ。
 今日は、父の一周忌で家族揃っての墓参りだったのではないか。
 どうも、最近は物忘れがひどくなったなぁ。自分のことながら、呆れるしかない。

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