カジシンエッセイ

第68回「びっくり味覚」

2010.07.01

こんなことを考えるきっかけになったのは、"辛くない食べるラー油"体験をしてからのこと。
今、品薄で、なかなか手に入りにくいヒット商品になっているそうですね。"ラー油"といったら、使うのはせいぜい餃子を食べるときに、酢醤油に垂らして使うくらいで、家庭で使ってもほとんど減ることがなかったから、食べるラー油と聞いても、あんまりぴんと来なかった。
あるイタリアンレストランに行ったときのこと。友人たちとの会食のとき面白半分で、買ったばかりの"食べるラー油"を取り出した。このときはまだ比較的に手に入りやすかったのである。
「食べられるラー油ってどんな味なんだ」という話になり、「何でも合うらしい。不思議な調味料だって」ということで、「じゃあ、このカルボナーラにかけてみよう」と誰かが言い出す。
「うへぇ。それは止めようよ」という声もあったが、結局スパゲティにドパッとかけて食す。
皆が、「うまい」と絶句した。
これは、新しい天体を発見した驚きなのだ。
開高健大先生が、未知の珍味を体験したとき、"新しい天体"と例えたが、まさにコペルニクス的転回を伴った新しい天体なのだ。

ラー油は、中華料理のものでしかないという先入観があり、スパゲティはイタリア料理的存在であるという先入観がある。
それは普通の思考では結びつかないものだ。
まさに、奇跡のめぐりあいだ。
ダダイズムのことを、"手術台でコウモリ傘とミシンが出会ったような"と誰かが評した。
そんな比喩を聞いたときはピンと来なかった。ところが、生クリームやチーズとラー油の出会いは、それに匹敵したのだった。
それから、食べもので、何と何を食べると相性が悪いと考えるのは、自分の心の中にある先入観のせいではないかと考えるようになった。
―あのときの驚きに似ているよな。
 まだ、若い頃、友人の結婚式の披露宴に出たときのこと。
 フランス料理のフルコースだった。
 そのときの一品。
 メロンの上に生ハムが乗っていた。
 今でこそ、どこでも見ることがある前菜だが、初めて見たときは衝撃だった。
 果物は果物として食べるべきだろう。ハムは、いくら生ハムといっても、ハムとして食べるべきだろう。
メロンの上に生ハムなんて、食べ方としては邪道だ。
 しかし、口に入れると、………うまい!
 それからメロンと生ハムは、私の中で何も不自然さのない組み合わせになった。
 アボカドの熟したものをワサビ醤油で食べさせられたときも、口に入れるまでにはかなりの勇気が必要だったが、もうOKだ。
 だから、この食べ方は変だよな、と思いつつも、固定観念を離れて食べてしまうことが最近は多くなったなあ。
「炒飯を茶漬けにして食べるとうまいですよ。どれだけでも食える」
 そんなことを腕のいい料理人さんに聞いた。
 炒飯といえば、それだけで料理として完成しているではないか。
 それなのになぜ、お茶をかけて食す必要があるのだろうか?そんなことをやっても無意味ではないか?
 だが、考えていても答えは得られない。
 某中華料理屋にいったとき。
 試した。
 もちろん、炒飯を注文し、小さなカップに烏龍茶をひたひたにかけて、店の人に見つからないように慌てて食べた。
(小心者なので。茶碗に炒飯を入れ、熱いお茶をくれ!と叫んで炒飯茶漬けを作る勇気はない。そんなことを堂々とやれる勇気があったら、今頃もっと大人物になってますよ。私)
すると……。
うまい。
ウーロン茶に炒飯の油っこさが溶け、茶漬けのさらさら感を保ったまま旨みが残っている。
つまり、炒飯の長所と茶漬けの長所が残った併せ技になったと言える。
東京から来た叔母を中華に連れて行ったときにこの話をした。
すると叔母は「また、そんな嘘バナシをして私を騙そうとする」(私が架空の法螺話ばかり書いている関係上、私の話はまったく信用できないと思いこんでいる)「じゃあ、私の目の前で茶漬けにして食ってごらん。そしたら信用する」と。
たまたま、炒飯に玉子スープがついてきた。
それをとりあえずかけて食べてみせる。
すると……茶漬けとはまた異なる新しい天体が開けたのである。
「こ・これは、また旨い」
今では、食べものをできるだけ予想外の組み合わせで食べることに、何の抵抗も感じなくなってしまった。
そして、これからの時間で、どれだけの新しい天体の快感に出会えるか楽しみでならない。
アイスクリームに味噌かけたり醤油かけたりガラムマサラかけたり、塩かけたりという話を聞いたりもするが、今や何も驚かない。
むしろ試してみたい気持ち満々なのですよ。

カテゴリー:食に夢中, 食に夢中

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