カジシンエッセイ

第106回 サイン会、怖い!

2013.09.02

 普段は仕事はひとり部屋に籠って、ひたすら頭を捻り、一字一字陣痛こそないものの、唸りそうになりながら書いています。
 で、その間は誰とも会うことがないのです。自分の妄想というか、空想の中の人物に喋らせてカギカッコしているときに、思わず登場人物の科白を喋ってるくらいかなぁ。
 今日この頃、用件のやり取りは、メールか、あるいはファックスだけで、事足りるのですよね。だから、外線の電話で見知らぬナンバーのときは出ないことにしている私は、一日誰とも言葉を交わさないことがあったりするんですね。
 完全に“ヒッキー”に分類されるタイプだな。
 喋るのは昼飯どきに定食屋で注文する品を言うときくらいです。あとは黙したまま。
 だから職場の人間関係の悩みなぞは存在しません。しかし、昔はけっこう人との交際の仕方とか頭を悩ませていたから、今の方が気楽だろうなと思えるのです。
 十人の人がいたら、十のキャラクターが存在するわけですから、一人ずつどのように接したらいいのかを考えなけりゃいかんわけですよ。そして、付き合いやすい方は、ほんのひとつまみで、何を考えているかわからない方やら、気難しい方やらに出会うと途方に暮れていたものです。そんな苦労からは解放されているから、今の環境には感謝するべきかもしれませんね。
 そんなときに、ときどきとんでもない依頼があったりするわけです。
 たとえばサイン会。
 七月は、なんと三件のサイン会をやってしまいました。
 自分の本の営業活動なのだから、依頼があったらありがたく二つ返事で引き受けなければならないことは重々承知しております。
 理屈ではわかっているのですが、承諾の返事をした後に、だんだん心がおもーくなっていくのがわかるのです。
 かつて、専業作家になる以前は一日平均十人以上と会話をしていました。しかし、パーティなどの催しに出ると短時間で数十人と言葉を交わさなければならないことも。そのときどういう状況になったかというと、「人酔い」を起こしてました。パーティ会場を見回しただけで気持ち悪くなる。宴が始まって次々に話さねばならぬ相手の前に立ち、この人は誰?名前は何?どこのどんな人だった?と頭の中を必死でフル回転させなければならない。何か話題にしてはいけないタブーあったっけ。そんなことを考えて思い出せないうちに次の相手が目の前に立つ。違う相手と勘違いして話していて会話が噛み合ず、別れた後で気がついたことも一度や二度ではありません。ほとんど頭の中が真っ白でパーティ終了を迎えたものです。そのときの疲労感たるや半端なものではありません。
 ぼんやりと、その頃から自分なりに気がついている法則があります。それは「一日に十人以上の方と言葉を交わすと疲労する」ということです。
 一日に二会場でサイン会をやるという事態も七月には予定されていました。
 そんなに人が集まるわけないじゃないか!
 そんな脅えもあります。
 誰もいないサイン会場で頬杖をついて時間を潰している姿を想像してしまいました。何やってるんだ!誰も集まってないじゃないか、という視線で嘲笑っていく買い物客の視線。そこまで、想像が膨らみます。
 そして逆のパターンも考えてしまいます。
 サインしてもサインしても列がなかなか終わらない。しかも中には変なお客さんがいるのではないかという妄想。「梶尾さんの小説はちっとも面白くないですよ。今日は文句を言ってやろうと並びました!金返せ!」と、紙袋の中からアーミー・ナイフを取り出して……。なんて事態も想像します。脂汗が出てきます。
 他にも様々な妄想が拡散していき、サイン会の当日の予定時間前には立ち上がりたくもないほどの状態になるのです。加えて、腹が痛くなり何度もトイレに通いたくなる……。極度の緊張状態になります。
 ただ、数十年の間、サービス業に従事していたので、おかしくなくても作り笑いだけは出来るようになっています。それが唯一の武器ですが。
 先日は、何人のお客様にサインさせていただいたかなぁ。
 幸いなことに会が始まると、視野が狭くなって、ひたすら終わりまでがんばりました。この短時間で何ヶ月分の会話をしたことになるのかなあ、と。ミネラルウォーターが用意してあるわけもわかりました。喉がカラカラになるのです。サインしながらおいでいただいた方と話しているのですが、何を話したか、全く記憶していません。
 無事に会が終わって帰宅したら爆睡しました。全く夢も見ない。そう。数ヶ月にわたって話す会話量を一日でこなしたのですから臨界超過だったのかもしれません。
 今回は、一日に二カ所。それもあってか、今でも一人で仕事場で書いているときフラッシュのように、そのときの光景が見えたりするのです。何度やっても慣れないなあ。
 せめて、忙しいところ時間を作りサイン会に足を運んで頂いた方が喜んで頂けることを願うばかりです。

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